今回はInDeepさんの2025年1月8日の記事を紹介します。
「レミングの群が街を駆け抜け続けるカルト国の日常に見える悪い輪廻」
レミングの群が街を駆け抜け続けるカルト国の日常に見える悪い輪廻 - In Deep
カルトが深化する日本
最近ちょっと記事の更新の間隔が開いているのですけれど、街中にどんどん増えていくマスクの群の光景を見ていますと、2020年にパンデミックが始まった頃に感じた不安がそのまま現実になっていることを感じる日々で、
「なんだか、もうね」
というような感覚で日々暮らしていたりします。
そして、どれだけ思い出しても、 2020年の時点で、日本あるいは各国の公衆衛生当局によって通達された数々の「対策」には実際には感染予防の実効的な意味合いがほとんどないことは当時で明らかでした。
それについて、2020年に「素晴らしいニューノーマルという名のカルト」という英国人精神分析医の文章を以下で取り上げています。
・ニューノーマルという名のカルト
In Deep 2020年10月26日
実効的な意味がないものを実際の行動や生活に当てはめる理念は、それは「カルト」であり、それ以外のなにものでもありません。
2020年に始まった以下のようなことを思い出していただきたいと思います。
この中に感染予防効果のある対策は「一切」ありませんでした。しかし実際に行われていた。
・飲食店のパーテーション
・子どもへの黙食の強制
・三密の回避(笑)
・社会的距離
・多くの店での入店の際の検温
・耳ぶら下げマスク(苦笑)
・あごマスク(苦笑)
他にもいくらでもありました。
「食べるときだけマスクを外して、またマスクをして食事をする」(笑)とか、普通の思考があれば、そんなアバンギャルドな発想は出てこないわけですが、それが実施されるのがカルトの世界です。
もちろん、マスク着用そのものがカルトなわけですが。
以下の記事では、「所属している組織がカルトかどうかを示す」10の兆候についての記事をご紹介しています。
・カルトを超えて
In Deep 2022年8月23日
その 10の中のひとつに次のような項目がありました。
懐疑論を抑圧する組織
承認された情報源を通じてのみ組織を研究することを許可されている場合は、おそらくカルトに属している。
カルトは批判的思考を悪しき伝染病と見なしており、それを抑圧するためにあらゆる努力が払われる。批判は禁止され、グループに反対する人々は迫害者と見なされ、「アンチ」、「背教者」、「抑圧者」などのラベルが付けられることがよくある。
これを読むだけで、「日本という社会集団そのものがカルトだった」ことが明確となります。
これらの「懐疑論の抑圧」は、2020年に始まった数々の対策と、そして、2021年に始まったワクチン接種の大キャンペーンの中で大々的に行われていたことを思い出されると思います。
「アンチ」なんていう概念は、今でも「反ワクチン」という言葉が存在するように、ずっとそれは続いています。
繰り返し書いていますように、その「すべて」に感染予防や感染拡大の阻止に対しての実際的な効果はまったくないわけです。
というか、どの対策も「マイナスに働いた」ことは、2020年から 2023年くらいまでの日本のコロナの感染拡大状況のグラフと接種回数の分布などを見れば一目瞭然ですが、過ぎたことはいいです。
しかし、現在、インフルエンザなどの風邪が大流行している中で、またそのカルトの芽が再度噴き出してきているわけです。
そして、おそらく国民がこんなに高い割合で現在でもマスクをしている国は日本だけではないかと思われます。
何が言いたいかというと、
「日本人は何度も何度もだまされていて、さらに反省もしていない」
という展開を私たちは、たった数年間の間に見ているわけです。
戦前の映画監督である伊丹万作さんの 1946年の寄稿文『戦争責任者の問題』という文章は、コロナの渦中よく取り上げることがありましたが、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という記事では、以下の部分を抜粋しています。
伊丹万作『戦争責任者の問題』(1946年8月)より
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはいないのである。
だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたものが必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
…「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
aozora.gr.jp
また、なぜ、こんなことになるのかという理由の他のひとつとしては、
「世間の常識によりかかって生きたほうが楽だから」
ということがあります。
これは太平洋戦争中の日本もそうでした。
作家の山本七平さんの『ある異常体験者の偏見』(1973年)には、「日本社会が、合理的ではない全体思考に流れてしまう」理由について以下のように記されていました。
『ある異常体験者の偏見』(1973年)より
そして、それが世の常識となる。するともうどうにもならない。動かすことも、ゆるがすこともできなくなる。
すると人びとはその不動の常識によりかかっていた方が楽だから、そこで思考を停止し、他に規定された判断をそのまま自分の判断とし、そしてその常識なるものに反対するものは自分の方から排除してしまう。ひどい時には村八分にしてしまう。従って事実を知っている者はみな沈黙する。
いったんそうなると、もういいも悪いもない。その常識という虚構の上に順次に虚構が積み重ねられていき、しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。
今の日本は、この文章の、
> しまいにはどんな誇大妄想狂も口にしないようなことを言っても、人びとは何の抵抗もなく受け入れてしまう。
という状態に突き進んでいるような気がします。
理由はいくつかありますが、ひとつは 2020年から続いたマインドコントロールがさらに深化することにより、催眠状態に陥っている日本国民の比率が高くなっていること(参考記事)、もうひとつは、
「考えることが面倒くさい」
という国民の比率が高くなっているように見えることもあります。
山本七平さんの言うように、そのほうが楽ですから。
そして人民寺院化した日本
先ほどリンクしました「カルトを超えて」という記事は、今から 47年前にガイアナで起きたカルト教団の集団自決についてのことから始まります。
それは人民寺院というカルトで、1978年11月に決行された集団自決で 918人が死亡するというアメリカ国民の集団死としては、史上最大の事象を起こした組織です。
人民寺院は、毎週末に繰り返し「集団自決の予行演習」をおこなっていたことが後でわかります。集団自決の本番の名称ついては「白い夜(White Night)」とされていました。
これについては、集団自決の渦中に人民寺院を取材していた米国の新聞記者の著作『ガイアナの虐殺』という本に詳しいです。
人民寺院の場合、予行演習が見事に実際の大量死に結びついたわけですが、日本はどうなんですかね。
そういえば、この事件のあった翌年に、日本のリザードというロックバンドが「ガイアナ」という曲をアルバムに発表していました。
高校生の頃に初めて聴いたと記憶していますが、年譜を見ますと、1979年とありますので、もう 46年の曲ですね。
以下のような歌詞でした。
ガイアナ(1979年) 歌詞
ガイアナの白い夜に気をつけろ
カミカゼ、ハラキリ、スウィサイド、ジェノサイド
レミングの群が街をかけぬけるぜ
信者達のわめき声がきこえるぜ
ヘイ、誰かがわめいているぜ
ガイアナ
あんたの背後にも、そうさ、ガイアナ
カミカゼ、ハラキリ、スウィサイド、ジェノサイド
夜中に一人裏街を歩く時
あんたの頭をかき乱すのは何?
ヘイ、誰かがわめいているぜ
ガイアナ
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いつの日か日本版の「白い夜」がやってくるような気がして仕方がありません。
口に白い布をつけたレミングの群はすでに街を駆け抜けていますから。