今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最近の記事を紹介します。
884 2023.02.09 ~ 895 2023.02.22 (前日の続き)
仏教には「布施(ふせ)」という言葉があります。世と人のしあわせを祈って、自分の手や足や身体や時間やモノや財や真理のコトバなどを提供する行為が「布施」です。
インドの言葉では「ダーナ」といって、「檀家(だんか)」や「檀那(だんな)」という言葉は、この「ダーナ」がもとになっています。
「布施」をすると「徳を積む」ことになります。
「徳」は、インドの言葉では「グナ」といって、これは「現世において使用可能な心のエネルギー」のことだそうです。
つまり、「布施」をして「徳を積む」と、「心」のエネルギーが増加するということになります。
「心」には「想いを形の世界に表現する自動性」があるのですから、「徳」を積んで「心」のエネルギーが増大すると、「想い」が叶いやすくなり、また、はやく叶うようにもなります。
「心」をタクシーだとイメージしてみて下さい。
「心タクシー」に乗って、行き先を告げる(願い、希望、目標などの『想い』を心に定着させることのたとえ)と、「はい、分かりました。任せとき!」と、「心タクシー」さんは、その目的地に向かって発進し、その全知全能の性能を活用しながら進路を決定し、ついに目的地に到着してしまいます。
これが「心」の自動性で、目指す目的さえしっかり心さんに伝われば、タクシーの中でぐっすり眠っていても大丈夫なのです。
逆に、「心タクシー」さんに、一切お任せという気持ちになれず、イライラして時計ばかり見ていたり、運転手さんに「この道はダメだ、違う道を行って」だのと注文ばかりつけたりしていると、結局目的地にたどり着けなくなったり、ずいぶん到着が遅れてしまうということになります。
「徳」というのは、その「心タクシー」のガソリン、燃料のことで、「徳」を積むと心の燃料が増えるのです。燃料が増えると、ブルンブルン全速力で走ってくれ、一気に目標に達することが出来ます。
ですから、徳の高い人は、ゆったりと生きていて、何か人並み以上の努力をしているようには見えないのに、簡単に想いを遂げてしまうということがあるのです。まわりの人は、その人の「徳の高さ」が見えないものだから、「あの人はいい運勢をしているなあ」と羨ましがったりします。
それに対して、「不徳」の人は、「心」のエネルギーが不足しているので、その「想い」の目標地点に到達出来る前にガソリン切れになって、エンスト(エンジン・ストップ)してしまうのです。ですから、努力しても、努力してもなかなか「想い」が実現しません。
「布施(世と人のしあわせを祈って、自分の手や足や身体や時間やモノや財などを差し出す行為)」をすると、「徳を積む」ことになり、『こうしたいなあ、こうなりたいなあ、こうであればいいなあ』という「想い」がスムーズに実現するようになり、人生のアクセクやギクシャクが減ってゆくのです。
「布施」には、「布施」には、「財施(ざいせ)」、「身施(しんせ)」、「印施(せこう)」、「法施(ほっせ)」などがあります。
「財施」とは、世のため、人のために働いている人や団体や、貧しい人たちのためにお金やモノを提供する行為です。
「身施」とは、体を提供して、世のため人のために奉仕する行為です。被災地域に出かけていってするボランティア活動なんかもこれにあたりますね。
「印施」とは、人類の進化向上のために必要な真理の書などを印刷して配布する行為のことです。
「法施」とは、人類の進化向上に役立つ話、あるいはつらい人の心の傷を癒し、慰め、元気づけるような話をする人の行為がまず「法の施し」です。
また、そのような人の話を出来るだけ多くの人が聞けるように誘ったり、会場のセッティングや設営や運営などに協力したりする方々の行為も「法施」です。
全国各地の坐禅会のお世話役さんやスタッフの皆さんの協力は、「法施」にあたります。また、忙しい時間を割いて活動して下さったわけですから、それは「時間施」でもあり、「身施」でもありますね。また、会場を借りる費用が必要なら「財施」にもなりますね。
そして、いろんな布施行為のなかで「法施」が、一番「徳を積む」ことになるのだと、お経に書かれています。本当に有難いことで、皆さんにとっても、大きな「徳積み」が出来たのですから、とても喜ばしいことでもあるのです。
きっと、近いうちに、ご褒美の「しあわせハプニング」の訪れがあるので、楽しみに待っていて下さい。
坐禅会に参加してくださった皆さんはとても喜んで下さっているようなので、大変嬉しく思います。このような参加してくださった方々の喜びの想いも、坐禅会の開催に協力して下さった皆さんに回向(えこう,まわりまわって帰ってくること)されてくるので、ますます多くの「徳」が集まってきます。
なぜ、「法施」が、他の布施行為と比べて、大きく「徳」を積むことになるのかというと、「法施」は、施しを受けた当事者の喜びと感謝だけで終わるのではないからです。
真理の話を会場で聞いた方が、またその話を縁ある方に語り、あるいはその真理を実践し…、というように、喜びと感謝の連鎖反応が、どこまでも、いつまでも起きてゆくことになるからです。
ですから、「法施」をほどこした方は、未来に渡って、ずっとこれからも「徳」のフィードバック(回向)が続き、知らないうちに、自動的に「徳エネルギー」がチャージされ続けるということになるのです。
あなたがあっちの世界に行っても、まだ「徳のチャージ」が連綿と続いてゆくのですよ。なんと素晴らしいことでしょう。
ですから、「布施」に(特に「法施」に)心がける人の子孫は、あちらの世界にチャージされ続けている「徳エネルギーの場」に、ご先祖様をおまつりすることによってアクセス出来るようになり、地上世界で、そのご先祖の膨大な徳エネルギーも合わせて活用することが出来るようになるのです。
『積善(せきぜん)の家には必ず余慶(よけい)あり』(易経)という言葉がありますね。
(完)