2025年6月30日月曜日

3939「現実が変わらぬなら」2025.6.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月23日の記事を紹介します。


「現実が変わらぬなら」


今日は、「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な、渡辺和子さんの言葉をご紹介します。 

<転載開始> 転載元

女子学生たちと五十年以上接していて気がつくことは、この年頃の人たちの多くが、 

愛に必要なのは、すばらしい対象に出会うことだと考えていることです。

それも決して間違いではないのですが、

その対象が「すばらしさ」を失った時(病気やケガ、挫折)にも、 

果たして愛し続けることができるかどうか、 

ここに「愛の本質」が問われています。

・健康だった相手が病気になってしまった時も、

・前途を嘱望(しょくぼう)されていた相手が挫折にあった時にも、 

その人を愛し続けることができるかどうかは、

私たちが自分の中に、「愛する力」を養い育てているかどうかに、かかっているのです。

ふだんからピアノの練習もせずに、立派なピアノを見つけさえすれば、

上手に弾けると思ったり、

絵を描く練習もせずに、ひたすら美しい景色を探している人にも似て、 

ふだんから「愛する」練習をしないで、素敵な人との出会いを待っていては、

いけないのです。

愛する力を育てるためには、まず私たちが毎日の生活の中で 

「当たり前」と考えていることや、人、物を「有り難い」と、 

感謝の気持ちで受けとめることが大切です。

マイナスの価値しかないと思えることや、 

不幸、災難、苦しみにさえも意味を見出して、これまた「有り難い」と感謝できる時、

私たちは愛すべきものを随所(ずいしょ)に持ち、愛し難い人さえも、 

その人の存在そのものの価値を認める、愛深く幸せな人間になれるのです。

<転載終了>

何か素晴らしいものさえ手に入れれば、きっと自分は幸せになれる。

殆どの人がそう思っています。

これは安直で、自分では何もせず、おいしい果実だけを得ようとする、依存の心です。 

自分ではほとんど何もせず、何も変えようとせず、

お医者さまや、薬、ご祈祷、スピリチュアルリ-ダーに頼れば、幸せになれる。 

これも全く同じです。 

これは、生きていく姿勢そのものに直結しています。

・子供の成績が良ければ、愛する

・子供が不登校になったから、愛さない

・何か手に入れたら、感謝する

・何かしてもらったら、仲良くする 

・運が良くなったら、感謝する

・病気が治ったら、感謝する

全部が、

・自分の思い通りに人が動けば、愛する

・自分の思い通りに動かなければ、嫌う

・先に何かを得たら、何かする

・自分から、親切や優しさを出すと損をする

そのような意識です。

まるで、いつも「クレクレ」と言っている、地獄の亡者のようですね。

そこには、

・自分は礼儀正しく

・言葉きれいで、

・正義の側に立ち

・悪を糾弾しており

・自分は報われるべき存在で

・その権利がある

・大事にされて、あたりまえ

そのような心が底流にあります。

・自分自身が変わるのは怖い、めんどくさい

・他人に何とかして欲しい 

ですがこの地球は、そのようにできてはいません。

生老病死、四苦八苦。 

まさに思うようにならないのが、この世の中です。 

希望を持って結婚しても、就職しても、子育てをしても、 

「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。 

病気や不運に見舞われる時も、必ずあります。

「何か素晴らしいものさえ手に入れれば、自分は幸せになれる。」 

そのように、他に依存するように考えていた人たちは、

そこで挫折し、苦しみにとらわれることでしょう。 

家族が自分の思う通り動かなければ、自分の理想にそぐわなければ、

愛する家族に対する熱も冷め、

もしかしたら苦痛や憎しみの対象に変わるかもしれません。 

これらは、自分では何も動こうとせず、

自分自身の心を顧みようとしない人の特徴かもしれません。 

全ての出来事、自分に降りかかってくる出来事は、他人のせいではありません。 

他人がどうこうできることではありません。

全ての全てが、

私たちの心の中に、その種があったから、現象として目の前に起こっています。 

身近な方に降りかかってくる災難、苦難も 

(見ている私たちは、可愛そう、何とかしてあげたいと思うのは当たり前ですが・・) 

その出来事(実際は人生劇)も、その人自身の魂(本体)が許しているから、

計画して生まれて来たから起こっている出来事です。 

その経験を通して、魂の成長を図るために、神様とともに決めてきたことです。 

その方(身近な方)にも神様が付いていらっしゃいます。

縁の深いご先祖が守っていらっしゃいます。 

私たち生きている人間には、その深い深い、縁の流れ、神仕組みが見えません。 

ただ見守り、信じてあげる事だけです。

その方の生まれて来た目的が成就することを一緒に祈ってあげる事だけです。

渡辺和子さんは仰います。 

「こんなはずじゃなかった」と思うこと(不幸)が、次から次に出てきても、

そんな時にも、その状況の中、「咲く」努力をして欲しいのです。

どうしても咲けない時もあります。

雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。

その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。

次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。

いい出会いにするためには、自分が出会いを大切にして育てなければなりません。

思い通りにならないことを経験した時、心にポッカリ開いた穴から、 

これまで見えなかったものが見えてくることがあります。

希望には叶わないものもありますが、大切なのは心に希望を持ち続けること。

相手を信頼するのは98%にし、

あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておくこと。

「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練に感謝すること。

私たちは、神さまが置いて下さったこの場所で、 

たとえ辛く苦しくとも、幸せを見つけることが出来ます。

神さまは、「その場所で幸せを見つけるのですよ」と、

私たちを、今の場所に置いて下さいました。

辛い日々は、必ず笑える日につながっています。 

目の前の現実は変えられません。 

ですが、その起きている現象には、本当は「良い」も「悪い」もないのです。 

全てニュートラルの形で現象は起こっています。

そこに「良いこと」とか「悪いこと」と色を付けるのは、私たちの心の捉え方だけです。

そして実際は起きている現象全て、私たちの魂の成長のために、目の前に現れてくれています。  

私たちが、それに気付き感謝して受け入れた途端、

その現象は、もはや役割を終えたわけですから、 

目の前から消え、記憶のかなたに忘れ去られてしまうでしょう。 

私たちの人生はその事の繰り返しです。 

ですから、どんなことが目の前に起きても、心配せず、しっかり受け入れて、

感謝しニコニコ笑っていれば、それで良いのです。 

それがブッダが教えてくださった「般若心経」の真髄です。

ご縁のある方に届きますように。 

ご縁のある方に届きますように。


2025年6月29日日曜日

3938「縄文回帰」2025.6.29

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月21日の記事を紹介します。


「縄文回帰」


日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とは言えません。 

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。 

そこで説かれることは、

・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる

・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく

 人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切

など。 

これらは、私たち一般人の、今までの常識とは、

少し異なっていることかもしれません。

ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、

常識とされていた物のようです。

私がこのことを、はっきりと知ったのは、 

春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった、

葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。 

巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、

仲介することを、職業として行い始めたのは、

多分、日本では大和朝廷設立直前、

つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める直前の邪馬台国の時代、

卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。

それ以前の日本は平和で、神々と人々が直接繋がり、 

世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。 

約1万5千年続いたと言われています。 

大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、

争いもなく、所有の意識もなく、

上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、

それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。 

もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、

それは縄文時代に一般的だった

・物の見方、

・考え方、

・生き方 

そのものです。 

そして、それはムー時代の生き方でもありました。

私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を、

大切に守ってきた民族と言われています。

そして、その精神と伝統は今でも息づいています。

文明の大転換点である今、

西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、

行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。 

この終焉を迎えようとしている現在の文明では、

人々は、ずっと真実から遠ざけられ、

常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。 

常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする、

依存、執着の状態に置かれたのです。 

それは、彼らが軽蔑の意味で使うゴエム(奴隷)と言われる状態です。 

この時代、その仕組みを お手本に 

・大小様々な、依存・執着と

・それと一体となった支配

が、私たちを身近で取り巻いて来ました。 

この精神構造は宗教でもそうでした。 

イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。 

イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより

教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。 

それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、

まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、 

他者(教会)に対する、依存・執着状態に置き、 

自分たちを、その対極となる支配する立場に置いたのです。 

それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。 

本来は、イエスやブッダのように 

自立した自由闊達な魂の状態で、

神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心、

そして、生きている人々に対する、 

・お互いさま

・お陰さま

相手の個性、尊厳を大切に思う温かな心、優しい心であったはずでした。 

ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった、

人間の精神が、萎縮させられて来たのです。

「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。 

縄文回帰とは、

この、依存と執着、そして支配の構造から人間の精神を解放させ、

縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う、

大きな運動(ムーブメント)です。 

これは、ブッダグループが1,200年単位で、

人類に対するアプローチをしている中で、

現在、実際に行っているアプローチ方法です。 

このブログで何度もご紹介しています通り、

ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも

同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、

そして協力なさっているのでしょう。 

そして、その人類へのアプローチが目指すものは、

一人一人の人間の 本当の幸せです。

私たち人間はしっかりと自分の足で、

大地に立ち、 

例え、貧しくとも、例え、病にあっても、

清らかな心で、天を仰ぎ、神々に感謝し、

そして微笑む時、本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。


2025年6月28日土曜日

3937「執着を離れる」2025.6.28

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月20日の記事を紹介します。


「執着を離れる」


私たちは、この地球に来て、何度も生と死を繰り返してきました。

時には

・性別を変え

・国を変え

・貧富の状況を変え

・健康、病弱の状態を変え

・性格を変え 

生まれ変わりを繰り返してきました。 

生と死の間には扉があるために 

生まれる時に永遠に続く過去の記憶を一旦消してきます。

また逆に、死に際しては全ての執着を捨てない限りは、魂は次のステップへ進めません。 

この執着とは、私たちが生きていくうえで、悩み苦しみの一番大きな原因となるものです。 

・お金に対する執着

・物に対する執着

・今までの生活レベルに対する執着

・仕事に対する執着

・健康に対する執着 

そして家族に対する執着は大変大きなものです。

死の扉を開けようとするのを引き留めます。 

・愛する家族と別れたくない

・私が先に亡くなったら、この子は生きて行けるのだろうか? 

ですが、たとえ家族であろうと別個の魂です。

永遠の生において、全く別の道を歩んで来ました。 

また、それぞれが生まれる前に目的を計画し、神さまの許しを得て生まれてきました。

私たちが先に亡くなろうと、彼らは彼らの道を、神様とともに歩んでいきます。 

彼らにも目的があり、親との死別も織り込み済みだからです。 

私たちは死とともに、家族に対する、心配・執着を手放し

神様にゆだねなければなりません。 

縁があれば再び家族となるでしょうし、 

今回の生で学びが終わったなら、死を超えた後

バラバラになりそれぞれの道を歩むことでしょう。 

私たちが肉体を離れる時、家族への心配・執着を捨てなければなりません。 

そして最後の執着が、自分自身の肉体です。

生きている間、私たちには生存本能がありますので、生に執着します。

また、死の先に何があるか分からないために恐れます。 

ですが、それさえも、最後の最後手放さなければなりません。 

では、鈴木秀子さんの著書より、死を恐れる人のための言葉をご紹介します。 

少し非物質的なお話になりますので、興味のない方はスルーされてください。

鈴木秀子さんは、クリスチャンでシスターでもあります。

そして臨死体験者であり、神様との直接的な接触、

光体験(神さまとの直接的な邂逅)をされた方です。 

臨死体験をされた有名人も沢山いらっしゃいます。

・ビートたけしさん

・ドリフの加藤茶さん

・GACKTさん

など・・ 

また市川海老蔵さんなどは、NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、 

生まれる前の記憶、つまり中間世記憶があると番組で語っています。 

では、鈴木秀子さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 

臨死体験をした多くの人が、 

「あの世は至福の喜びに満ちた世界である」と言います。

それは死んだあとのことを心配するより、今生かされている自分を大切にして、

死を恐れるより素晴らしい世界に行くんだと、喜んで待ち望んでいるほうが、

よほど幸せに生きられる。

不安と恐れで今、この与えれらている命を汚染するというのは

無意味なことです。 

<引用終了>

鈴木秀子さんの臨死体験とは以下のような感じでした。

<引用開始> 引用元 


◆光との出会い◆

それは人格を持つ命そのものの光であり、

深い部分で、自分とつながり、 

交流している生きた光なのでした。

これが至福なのだ、 

完全に自由なのだ、

と私は感じていました。

この命そのものの光の主に、 

私はすべてを知りつくされ、

理解され、受けいれられ、

許され、完全に愛しぬかれている。

しかもその満たされた光の世界には、

時がないのです。

あっ、これが永遠なんだと私は思いました。  

この光が生命であること、

光の生命であることに、

多少なりとも疑いを抱く人は、一人もいない。

この光は単に人格を備えた生命であるばかりでなく、 

極めて明確な個性を持っている。

死へ接近している人に対して

この生命から発散される愛と恩情は、

ことばで到底説明しきれないものであり、 

彼らはこの光の生命に完全に包みこまれ、 

保護されていると感じとり、 

すっかりくつろぎ、 

この生命の存在を受け入れる。 

彼らは、この光に抗し難い磁力を感じ、

吸い寄せられるように引きつけられる。

◆「悟り」体験◆

稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、 

大宇宙のさまざまなものがすベて、

素晴らしい秩序の中にあって、 

それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、

そうして燃えている。   

それは閃きに似た強烈な感動でした。 

大宇宙との一体感を、

頭ではなく、からだ全体で、 

魂の深みで悟ったような感じでした。

<引用終了>

確かに鈴木秀子さんが仰るように、この臨死体験からは、 

「あの世は至福の喜びに満ちた世界である」と言えますね。

そうであれば、もう死など恐れる必要はなくなります。

そして今の生活に集中することができます。

「不平」「不満」「愚痴」「泣き言」「悪口」「文句」を言わない。

感謝と笑顔で日々生活する。

お互いさま、お陰さまの気持ちで、周りの人々と調和して過ごす。。。など

私たちが死んだ後、上記の臨死体験のような至福の世界に戻り、

そして再びまた戻ってきます。


命、魂は永遠ですから、死んだら全てが無くなる・・ 

と恐怖心を持つ必要もありません。

どうせ、行先は至福の世界ですから、私たちの永遠の生命体が、

肉体をまとっている一瞬の間は、 

あがいたり、もがいたりするかもしれないけれど、精一杯、生を全うしたいものですね。 

私たちの魂は永遠に存在するものであり、死ぬことは、魂が、元居た場所へ戻ることです。 

元居た場所とは、いつも神さまを、そば近くに感じることができる

至福の場所、つまり天国です。 

今、いっときだけ、魂を磨き、光り輝かせるために敢えて  自分から

苦労や、困難、悲しみ、苦しみの中に身を投じているだけです。 

何故なら、その中でこそ、私たちの魂は

本物の輝きを手に入れることができるからです。


2025年6月27日金曜日

3936「偽の黙示録が続いているのか」2025.6.27

今回はIn Deepさんの2025年6月18日の記事を紹介します。


「偽の黙示録が続いているのか:エゼキエル戦争のようで、実はそうでもないかもしれないイランとイスラエルの戦争」

偽の黙示録が続いているのか:エゼキエル戦争のようで、実はそうでもないかもしれないイランとイスラエルの戦争 - In Deep


午後過ぎに用事があって、出かけていました。

しばらく歩いていましたら、ふと、

となりましてですね。

「空よ……まだ 6月の中旬過ぎだぞ?」

と言ったところで、太陽放射が止まるわけでもなく(止まったらコワいですが)、トボトボ歩きながら、結局、途中でチューハイを飲んで一息ついている始末でしたが、私の住む漂流教室市では(どんな市だよ)ここのところ、連日、最高気温が 34℃だ 35℃だとなっておりまして。

ウェザーマップの杉江勇次さんによると、

「 6月中旬に梅雨前線が消滅した」とのことでした。

6月中旬に梅雨前線が消滅するのは、過去 10年のデータでは、「 1%の確率」という異常事態になっているようで、こうなると、「これは異常気象」といえるものなんですが、天気予報を見ましても、この後もずーっと「晴れ」です。真夏の気温が続くようです。

「このまま梅雨前線が復活しなかったら、どうすんだよ」

とも思いますが、しかし、どうにもならないですし。

渇水だとか、農業用水の不作とか、いろいろと問題は出てきそうですが、実に異常ではあります。私の住むあたりなども中東のような気象状況になっていますけれど、イランとイスラエルの話です。

 

21世紀の地球での最大の緊張状態

イランとイスラエルの現在の戦争について、最近の記事では、

「イラン側に不利に見える」

というようなことを書きました。

しかし、その後の展開を見ますと、もちろん、今後のことはわかりようもないですが、あくまで現時点では「イランが不利には見えてはいない」のですね。

現在、イスラエルは「イランの攻撃による自国の被害」について検閲をおこなっていて、一般的なメディア報道では、イラン側の被害について語られるところが多いですが、X などのソーシャルメディアでは、

「イスラエルは建国史上最大の攻撃被害に見舞われている」

ことがわかります。

イスラエルの防御の強みは「アイアンドーム」というスラエルが開発した防空システムで、「世界最強」と言われています。

しかし、この 2日間くらい、どうももあまり機能していないように見えるとしか言い様のないほど、イランのミサイルがイスラエルに着弾して、相当な被害を出しています。

イスラエル各地の被害とされる編集映像

ふと「アイアンドームって、迎撃ミサイルが枯渇したりすることはないのかなあ」と、X の AI である Grok に聞きましたら、以下のように答えていました。抜粋です。

アイアンドームに関する Grok の回答

2024年時点で、イスラエルは(アイアンドーム)10個中隊を運用中とされており、計画では15個中隊まで増強予定です。これに基づくと、即時運用可能なミサイル数は10個中隊で約600発(10中隊 × 60発)と推定されます。

イスラエルは数千発規模の迎撃ミサイルを備蓄している可能性が考えられますが、具体的な備蓄総数は非公開です。

アイアンドームは、同時に対処可能な目標に限りがあり、例えばハマスやヒズボラによる飽和攻撃(数百発以上のロケット弾を短時間で発射)を受けた場合、迎撃ミサイルの消費が急速に進み、備蓄が枯渇するリスクが指摘されています。

特に、ヒズボラが保有する15万発のミサイルに対抗する場合、アイアンドームの備蓄数が不足する可能性があると米当局者が懸念を表明しています。

全文は、こちらにあります。

迎撃ミサイル数は 10個中隊で約 600発使うとして、すでに戦争突入 5日目くらいですかね、になっていまして、毎回のイランからの攻撃に対処しているとすると、イスラエルのアイアンドームはすでに 3000発程度の迎撃ミサイルを使用した可能性があります。

今後も果てしなくイランからの攻撃が続く、あるいは、15万発のミサイルを所有しているとされるレバノンのヒズボラ(イランの支援を受けています)が、イランと同時に攻撃を仕掛けた場合、

「アイアンドームの迎撃ミサイルが枯渇する可能性が高い」

とも思われるのです。

まあ、ここでアメリカが攻撃に介入すれば、また別の話となりますが、まだアメリカが直接介入していないと見られる現時点では、あと数日から十数日、攻撃を受け続けた場合、イスラエルのミサイル防御網が破綻する可能性もそれなりにあると見られます。

「こんな誰でも計算できるような状況が存在して、なんで、イスラエルはイランに奇襲をかけたん?」

とも思いますが、イスラエルには何らかの勝算があるのでしょうかね。

ところで、ガザ戦争が始まった 2023年10月に、「今後の予測される最悪のシナリオ」という文章 (翻訳記事)を寄稿していたフィンランド・ヘルシンキ大学の経済学准教授であるトゥオマス・マリネン氏が、このイラン・イスラエル戦争について新たな投稿をしていました。

少しご紹介します。


欺瞞の時代

このトゥオマス・マリネン氏というのは、2023年10月の時に、以下のような最悪の展開を想定していました。

2023年10月10日時点のマリネン准教授の「最悪のシナリオ」

1. 紛争は地域戦争にまでエスカレートし、米国も直接関与することになる。

2. OPECは石油禁輸で対抗。

3. イランがホルムズ海峡を封鎖。

4. 原油価格は 1バレルあたり 300ドルに達する。

5. ヨーロッパは LNG 不足により本格的なエネルギー危機に陥る。

6. エネルギー価格の大幅な高騰はインフレを再活性化し、中央銀行もそれに応じて対応する。

7. 金融市場と世界の銀行セクターは崩壊する。

8. 米国は債務危機に見舞われ、連邦準備制度はさらなる金融市場救済策の制定を余儀なくされる。

9. オイルダラー貿易は崩壊する。

10. ハイパーインフレが発生する。

indeep.jp

「 1 」以外はどれも起きなかったわけですが、イランが直接関係している現在、「 3 」(ホルムズ海峡の閉鎖)あたりからの動きの可能性も出てきました。

今回のマリネン准教授のサブスタック記事をご紹介します。太字はこちらで施しています。

准教授は今回も大変に悪いシナリオを想定しています。

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欺瞞の時代

The Age of Deception

Tuomas Malinen 2025/06/17

トゥオマス・マリネン氏

ここ数日、イラン・イスラエル紛争について多くの情報を得ている。状況は非常に流動的で、プロパガンダが飛び交っている。今日は、この紛争の背景にある戦略的側面について少し考察したいと思う。

週末、イスラエルかイランのどちらかが勝利すれば戦争はすぐに終結すると主張するアナリストたちがいた。

こうした発言には、両国が 50年近くもこの紛争に備えてきたという理解が欠けていることが多い。私は中東の専門家とは言えないが、この地域の歴史についてはかなり文献を読んでいる。

エルサレムを一度訪れたこともあり、ユダヤ人とアラブ人の居住地域やイデオロギーの違いを十分に理解してもいるつもりだ。また、多くのユダヤ人とアラブ人が平和に暮らしたいと願っていることも知っている。

私は当然ながらどちらの側にも立っていないが、ガザにおけるイスラエル国防軍による大量虐殺行為は忌まわしいと感じている。

しかし、いつものように、これらの行為は私や私たちの分析や予測に影響を与えるものではない。事実は、少なくとも 3000年もの間、同じ土地をめぐって両陣営が争ってきたということだ。両陣営とも残虐行為を犯してきた。

とはいえ、私の当初の評価は正しかったと同時に間違っていたとも言えるだろう。先週、金曜日に私は次のように述べた。

> 私たちが問わなければならないのは、テヘラン政権は自国領土内で核爆発を起こすリスクを負う覚悟があるかどうかだ。

私はそうではないと信じたい。私の考えでは、これはイランの報復が限定的になることを意味している。

それは当然のことながら、イスラエルの空爆がどれだけ長く続き、どれほどの被害をもたらすか、そしてテヘランが実用可能な核兵器にどれだけ近づいているかに左右される。

もしイランがすでにその段階に達しているならば、イスラエルへの攻撃は壊滅的なものとなり、迅速に実行される可能性が高い。

イランは私が考えていた以上にイスラエルを激しく攻撃した。しかし、テヘランが核兵器にどれほど近づいているのか、そしてロシアとイランの間で署名された包括的戦略パートナーシップ条約がどれほど包括的なものなのかは、私たちには分からない。

余談だが、プーチン大統領の側近でロシアの哲学者でもあるアレクサンダー・ドゥーギン氏は、イランは攻撃直前にロシアとの軍事同盟を拒否しただろうと(伝えられるところによると)述べている。これは興味深いことだ。

彼によると、これはイランの有力者の一部が依然として西側諸国との合意を望んでいたためだとされている。例えば、イランの首席交渉官であるアリ・シャムハーニ氏は、わずか 2週間前に、制裁の即時解除と引き換えに、イランは核兵器を保有しないこと、濃縮ウランの備蓄をすべて廃棄すること、そして IAEA 査察官がすべての核施設に無制限にアクセスすることを許可することを約束する用意があると述べていた。

彼は現在亡くなっている。

これに関連して、トランプ大統領の動機に関する興味深い分析を 2つ読んだ(こちらとこちらを参照)。1つ目は、トランプ大統領がイランではなくイスラエルを罠にかけ、勝てない紛争に巻き込み、イスラエルの政治ドクトリンの再構築を迫り、米国政治システムにおけるイスラエルの影響力を低減させようとしたというものだ。

もう 1つは、イランの強硬な対応により、米国防総省はゼロサム計算をせざるを得なくなり、米国の資源が限られていることを認めざるを得なくなったというものだ。

戦争が長引けば、米国の資産はウクライナから確実に撤退するだろうが、これはトランプ大統領がこの紛争をどれだけ長く続けられるかについて、かなり厳しい期限を設定する可能性もある。

インド太平洋ドクトリン(台湾)が優勢になる可能性が高いことを忘れてはならない。これは、イスラエルへの「電源プラグ」をいつか抜く必要があることを示唆している。2つの説のうち、私は後者の方がより可能性が高いと考えている。

イランによるイスラエルへの攻撃に関する動画を 2本ご紹介する。

主流メディアとイスラエル政府が伝えているのは嘘だ。もちろんイランも被害を受けてはいるが、 「イランの攻撃による被害は最小限」という主張は信じないでほしい。

1本目は金曜日にテルアビブで、2本目は土曜日にハイファで撮影されたものだ。Grok (AI)はどちらも本物だと確認した。 (※ 動画はページでご確認ください)

最近、イスラエルと米国がアイアンドームに残せる弾薬はわずか 15~ 20日分しかないという信頼できる分析を読んだ。

報道によると、イラン革命防衛隊の将軍は、イランは現在のペースでイスラエルを 6ヶ月間攻撃し続けることができると述べていたという。もしそうだとしたら、計算上はイスラエルに不利だ。

さらに、私が目にした分析はすべて、イランがすでに保有する旧式(20~ 30年前の)ミサイルをすべて廃棄したという結論を示している。つまり、イランが最新鋭ミサイルでイスラエルに与えることができる被害のほんの一部しか、私たちが目にしていない可能性があるということだ。

これらを考慮すると、イランのインフラと指導部を狙った首切り攻撃が失敗した場合(今やその可能性は高いと思われる)、イスラエルにはどのような選択肢が残されているのだろうか。

それはたった 3つしかない。

1. 降伏し、中国とロシアに仲裁を求める。

2. 米国を紛争に直接巻き込むための必死の努力として、イラン付近の米軍基地で偽旗作戦を実行する。

3. イランに核攻撃を仕掛ける。

トランプ大統領が冷静さを保ち、戦争への介入を控えるならば、これらの選択肢が生まれるだろう。

最後に、イランにとっての影響力(同盟国)となり得るもう一つの要因として、パキスタンを挙げておきたい。

伝えられるところによると、パキスタンはイラン当局に対し、イスラエルがイランを核兵器で攻撃した場合、核兵器で報復する意向を確認したという。現時点では、これがイスラエルにとってどれほどの脅威となるのかを判断する能力はないが、調査を進めている。

個人的には、イスラエルとトランプ大統領が飲み込める以上のことをしようとしているのか、それとも次の展開の裏に何か驚くべきものが待ち受けているのか、考えずにはいられない。今週は興味深く、危険で、そして残念ながら命取りとなる週となるだろう。

________________________________________

ここまでです。

 

これはエゼキエル戦争なのか?

ガザ戦争が始まったときに、以下の記事を書いたことがあります。

・「2023年の911」なのか「偽の黙示録」なのか

 In Deep 2023年10月9日

この「黙示録」のひとつに、旧約聖書のエゼキエル書38章と39章に描かれている「エゼキエル戦争」があります。

簡単にいえば、以下のようなものです。

エゼキエル戦争は、旧約聖書のエゼキエル書38章と39章に預言されている、終末におけるイスラエルに対する攻撃と、それに続く神による介入と勝利を描いた戦いのこと。この戦いは「ゴグとマゴグの戦い」とも呼ばれる。

エゼキエル戦争は、ヨハネの黙示録に登場するハルマゲドンと関連付けて解釈されることもあるものですが、現在行われている戦争が、エゼキエル戦争ではないにしても、「近づいている」感じはします。

始まると、どのくらいの期間、どうなるかといいますと、旧約聖書のエゼキエル書には以下のようにあります。

エゼキエル書/ 39章 09節

イスラエルの町々に住む者は出て来て、もろもろの武器、すなわち盾と大盾、弓矢、棍棒、槍を火で燃やす。彼らはそれで七年間火を燃やし続ける。

と、「 7年間」というような年数が出てきます。そういうものへの始まりとなっているのかどうかはわかりませんが、いずれにしても、現在のイスラエルは過去最大の攻撃による荒廃を経験しており、アメリカなどが介入しない限り、厳しい状況は続くと見られます。

イラン国営テレビなどは、今日明日中に「非常に大きなことが起きる」というように述べていますが、それが何かはともかく、今後数日も大変に緊張した状態が続きそうです。

アメリカなどが絡んできた場合、さらに事態は大きなものとなる可能性もあります。

そして、何か間違いがあれば、これがエゼキエル戦争に突き進んでいくのかもしれません。時代的には適合しています。

今から約 100年ほど前に書かれた詩人イェイツの詩『第二の誕生』で、

「ベツレヘムで再臨しようとしているのはキリストではなく不気味な獣だ」

と示唆している時期がまさに今でもあるからです。


2025年6月26日木曜日

3935「陰徳と悪徳」2025.6.26

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月19日の記事を紹介します。


「陰徳と悪徳」


今日、春日大社宮司であった葉室頼昭さんの 

「神道 いきいきと生きる」より「陰徳を積む」というお話をご紹介します。

 <引用開始> 引用元

生物のいのちが続くというのは、 

・伝え、

・順応し、

・待つ。 

この三つで生物は進化を続け、いのちを伝えています。

この伝統を伝えるということ、

そしていろいろな厳しい環境に順応し、

去っていくのを耐えて待つことが必要なのです。

しかし人間はそれだけではありません。

人間が何のためにこの地球上に生まれたのかということが重要なのです。

人間は他の生物とはまったく違った目的で誕生したのだと思います。

つまりそれは神の世界を見て、 

こんなに素晴らしい美の世界だということを表現するために、

神様は人間というものを産み出されたのだと私は考えています。

それは人間だけが優れ、他の動物が下等というのではありません。

ただ人間は、この目的のために進化を続けているということです。

そして人間の場合、ただ進化しただけでは、いのちは伝わっていかないのです。

そこに「徳」というものが必要だと私は思っています。

とくに日本人はこの徳を積まないと、

いのちが子孫に伝わっていかない民族だと思うのです。 

しかも陰徳という徳です。

この陰徳を積んできた家が今続いているのであって、 

陰徳を積んでいない家は、

いのちというものが続いていないように見受けられるのです。

私は小さい頃よりおふくろから、

「陰徳、陰徳」と耳にたこが出来るくらい聞かされて育ちました。

友だちのために一生懸命にやって、友だちが何も感謝してくれないこともありました。

その話をすると、「それでいい。それが陰徳です。それが子供に伝わっていくから、

それはそれでいい。むしろ感謝されないほうがいい」と言われ、

わけもわからず、そんなものなのかなと聞いてきました。

その意味がいまこの年になってようやく分かってきたのです。

普通、人はこれだけ尽くし世話をしたのだから、

感謝してほしいと思うことがよくあります。

しかしそうすると、もうそれは陰徳ではなくなってしまうのです。

感謝や見返りをいっさい求めない。

人の喜ぶことをしていれば、それが一番いいのです。

そういうことの積み重ねが陰徳になり、

やがて子々孫々にまでその余徳が及んでいくのです。

この陰徳と関連して、大きな努力と小さな結果ということも大切なことです。

大きな努力をして小さな結果を望みなさい。

この逆をやって小さな努力で大きな結果ばかりをもらっていると、

いずれ滅びてしまいます。

例えば、百万円を儲けるために、

Aという努力をして百万円儲かるんだったら、

その何十倍も大きなBという努力をして、

そして百万円を得るようにしなさい。

そうしたら陰徳で栄える。こういうことなんですね。

それは努力のわりに儲けが少ない。

しかし、そうしたらその分、徳を積んで、続いていくのです。

この世の中というのは、栄えるというのではなく、

続くということが一番大切なことなのです。

会社がどんなに儲かっていても、潰れてしまっては元も子もありません。

何ごとも、いかにしたら続くか、ということを第一に考えるべきなのです。

<引用終了>

自分で積んだ徳は、何倍にもなって自分だけではなく、子供や、孫などの子孫、

そして時間をさかのぼって、先祖までにも良い影響を及ぼすといわれています。 

人の心は、 

・時間

・空間(距離)

・次元 

を全て包括するだけでなく

・見えている世界

・見えない世界

までをも内包する偉大な世界だからです。 

これとは逆の悪徳

これは自分さえよければ、他人はどうなろうと構わない

そういった

・今だけ

・金だけ

・自分だけ 

の心であり、 

俺が俺が・・・

私が私が・・・ 

と感謝や見返りを求め、自分だけが特別扱いされたい意識です。 

これは陰徳とは全く逆の方向性を持っていますから、 

自分や子供、孫、子孫、先祖に跳ね返ってくるものも、逆の効果を生み出します。 

明治までの日本人は自然体として、この陰徳の心が根付いていたそうです。 

ですが、文明開化と称し、西洋の物質文明、白か黒か?

大きいことは良いことだ、自然を征服して幸せを手に入れる・・ 

このような思想が入ってきました。 

この時代、江戸末期から明治にかけて

古くからの日本の神々は、日本人の精神に危機感を抱きました。 

ですので、この時期に沢山の神々の動きがありました。

天理教、金光教、黒住教、大本教、生長の家など、 

明治になって150年、日本は令和の時代を迎えました。 

陰徳の心を自然の心として持っていた日本人の精神は

もしかしたら、時代の潮流を変えられるかもしれません。 

今は隠れていても、私たちの身体には祖先のDNAが、しっかり組み込まれています。 

心を祓い清め

神々に連なる精神を復興していきたいものですね。 

そして生きとし生けるもの

皆が笑顔で幸せになりたいものですね。


2025年6月25日水曜日

3934「空海の優しさ」2025.6.25

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月18日の記事を紹介します。


「空海の優しさ」


人間は、この地球に魂の仲間たちと、劇を演じに来ているのだそうです。 

生と死を、何度も繰り返し、役割を変えながら、何度も何度も、地球に転生してきます。 

さらに、今の私たちの姿は、今演じている劇中での役割にしかすぎません。 

それが、私たちの全てではありません。 

別の劇が始まれば、一瞬にして

性格も、個性も、身体の状況(健康、病気、障害、容姿)、資産の状況も変わります。 

これは多重人格の人の姿を見てもわかります。 

人格が入れ替わった途端、 

・言葉

・体つき

・顔つき

・病気/健康、ケガの治癒

・障害

・興味の対象

・性格 

全てが一瞬で変わります。 

同じ身体であるにも関わらずです。 

ということは、自分の意識次第(考え方、物のとらえ方)で 

意識が変わることで、物理的な事項も含め

全てを一瞬で変えることができるということです。

以前記事にもしましたが、大竹しのぶさん 

あまりに全身全霊の演技派女優であるがゆえに、憑依型女優ともいわれています。

演じる時に、まさに、その人物になりきって演技するからです。 

ある日彼女が、少年の役をした日、整体に行ったそうです。 

その時、女性整体師さんに 

「股間に異物がある」と言われたそうです。 

つまり、完全に役になりきった故に、少年の身体になったのです。 

つまり、私たちは、意識(思い)を切り替えることで、

一瞬で別の人格になることができるのです。

人格が変われば、それに伴って、周りの環境も、がらっと変わります。 

今の性格、身体は私たちが演じている役割の姿、 

そして、それが永遠に続くものと思っています。 

昨日も、今日も、明日も、 

それが幸せな境遇なら、まだしも、もし、人を憎み不幸であるならば、

意識(思い)を変えることです。

自分は

・優しくて、

・思いやりがあり

・愛にあふれ

・健康で

・周りの方々に感謝しており

・お互い様

・おかげ様で

・助け合って生きている 

昔も今も、実はそんな人間だった。 

と意識(思い)を変えるだけで、役割を自分で変えるだけで 

その瞬間から、新たな人格を生きることができます。 

そして、心が、自然に現実を作っていってくれます。 

それは、まさに、神様が、私たち人間に、神様と同じ能力を

与えてくださったからです。 

ただ、その真実が隠され、秘密にされてきたので、 

多くの人が、自分の能力に、気づかなかっただけです。 

空海は、このように仰っています。

「即身成仏」についてです。

私たち人間は、その心次第で、生きているうちに 

極楽に住むことができるんだよ・・

この即身成仏について、 作家の佳川奈未さんの意訳をご紹介します。

高野山開創の伝説・空海と白い犬と黒い犬との出会い

<転載開始> 転載元 


人は着の身 着のまま

ありのままの自分でいても

愛と慈悲を差し出すことで 

即 仏になることができる

仏性は つねに 人の中にあるからこそ

探し回る必要もなく

遠くに求めに行くこともない

ただ

あなたが 

優しさがなんなのかを知っており

それを 目の前の人に 

そっと 差し出すならば

あなたが

人の痛みを知っており 

それを目の前の人を癒すものとして  

あたたかい言葉をかけるなら

それこそが

仏の姿の現れだからです

愛と慈悲 すなわち 仏性は 

頭で 理屈として 理解するときではなく

わが身をもって 実践するとき

花ひらきます

<転載終了>

やはり、空海自身も私たちの内には、神さま(仏性)がいらっしゃると仰っています。

具体的に空海が言った仏性とは、内なる大日如来のことです。

そして空海が仰るには、

・人の痛みを知っていること

・優しさがなんなのかを知っていること

だそうです。

すなわち、私たち自身が、その痛み、苦しみ、辛さの中に 

一回身をおいて経験してみなければ、本当に理解できない心です。 

私たちは、とかく人生の 

・悩み、

・苦しみ、

・辛さ 

などを、避けて通ろうと、もがき苦しみます。

ですが、その経験をするからこそ、人の痛みが理解でき、 

人の優しさも、感じることができるのですね。

皆さんもぜひ、空海の教えてくださった 

「幸せになる秘密」、

生きているうちに

「極楽に住む方法」を実践なさって見てください。 

目の前の方に、微笑みかけ、

優しさと慈しみの心を差し上げて下さいませ。

私たちは、どんな人も、

・誰に頼らずとも、

・神仏の奇跡や不思議に頼らずとも、

私たちの心は、もう神さまと繋がっています。

自立しています。

どうぞ、内なる神さまのこと、ちょっとだけ思い出してみてください。

幸せへと繋がりますから。

 

2025年6月24日火曜日

3933「運がいい人」2025.6.24

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月17日の記事を紹介します。


「運がいい人」


斎藤一人さんのお話です。 

「運がいい人になるには」というテーマです。 

<引用開始> 引用元

舛岡はなえさんの「斎藤一人 人生ぜんぶハッピーラッキー」の中から、

ひとつの面白いエピソードをご紹介します。

舛岡さんは、あるとき前から疑問に思っていたことを一人さんに尋ねます。 

それは、「すごくいい人で幸せだった人が、

あるときから、幸せでなくなるのはなぜですか?」ということです。 

一人さんは、「理由はひとつ、

でも、この話を信じてくれる人は、1万人に1人もいればいいほうなんだよね」

などと言って教えてくれます。 

なんだと思いますか? 

「いい人で幸せだった人が、幸せでなくなるのは、

自分が神様に愛されているって思っていないからなんだ。 

本当は、人はみな神様に愛されているのにね・・・」 

普通の人は、何か問題があると、

・あれが悪い、これが悪い、と悲観的になりがちです。

・お前が悪い、あいつが悪い、と誰かを責めてしまいます。

・自分は不幸だなぁ、運が悪いんだと思い込みます。 

でも、神様から愛されていると思っている人は、 

何か問題があっても、落ち込むほど悲観的にならないし、

誰かを責めることもまずありません。  

もちろん、その人にも何らかの問題は必ず起こります。 

ただ、それは神様からの試練だと受け止めるんですよね。 

それは、

・必ず乗り越えられるし、

・乗り越えれば必ずもっとよくなる。 

神様はそんな試練を与えてくれたんだって思うわけです。 

だって、神様から愛されているんですから・・・ 

神様が自分に嫌がらせをするわけがないんです。 

神様が自分を成長させてくれるために

試練を与えてくださったのだから、むしろ感謝します。 

さて、あなたも何かいま、問題をもっていますか? 

問題を持っていない人なんて普通いないと思います。

ただ、その問題を 

・悪いものだとネガティブに考えているか、

・その問題でよくなれるとポジティブに考えているか 

の違いがあると思います。 

繰り返しますが、「自分は神様から愛されている、

だからその与えられた問題を通して、もっとよくなれる」と考える人は、 

多少辛いことがあっても、自分は不幸だとか、運が悪いとは考えないんです。

むしろ、神様から愛されている自分は、

今もこれからもずっと運がいいんだと思っています。

あなたもぜひ、自分は神様から愛されていると感じられる、10000人に1人の人になって下さい。

次の言葉は一人さんが、舛岡はなえさんに教えた、運が良くなる言葉です。 

何か問題があったときは、この言葉を何度も唱えるといいそうです。 

「これでよくなる。だからよくなる。さらによくなる。」

たったこれだけです。試してみるといいですよ。 

<引用終了>

斎藤一人さんは、いつもわかりやすい言葉で真理を伝えてくれています。

私たちが、今この世に生まれてきている以上、

誰一人、神様の承諾なしに、生まれませんから、

皆が一人残らず神さまに愛され、祝福されています。 

「幸せになるんだよ」と送り出されました。 

天国にいる時、神様と一緒に考えた幸せとは 

・大きな家に住むことでも

・大金持ちになることでも

・美しい容姿になることでも

・病気一つしない健康な身体になることでも

ありませんでした。

かえって、その逆の苦しい環境に身を投じ 

・真の心の幸せ、

・美しい心

・人々との、優しさ、思いやりの交流 

を手に入れることかもしれません。  

なぜなら、 

艱難、苦難、孤独、逆境こそが

私たちの魂を磨き、輝かせてくれるからです。 

それらを通じ、「感謝の心」を芽生えさせた時、 

私たちは、真の意味で、神様に喜ばれ、

天の国に迎え入れられることでしょう。

無名戦士の詩より、ご紹介します。

 

大きな事を成し遂げるために、

力を与えてほしいと神に求めたのに

謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった


偉大なことができるように健康を求めたのに、

よりよきことをするようにと、病気をたまわった


幸せになろうと、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった


世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、

得意にならないようにと、失敗を授かった


求めたものはひとつとして、与えられなかったが、

願いはすべて聞きとどけられた


神の意にそわぬものであるにもかかわらず、

心の中の言いあらわせない祈りは、

すべてかなえられた


私はもっとも豊かに祝福されたのだ


2025年6月23日月曜日

3932「子供たちの巣立ち」2025.6.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月16日の記事を紹介します。


「子供たちの巣立ち」


私も含め、たいていの親は、何時まで経っても子供を心配します。

なまじ長く生きているがゆえに 

・ああしたほうが良い

・こうしなさい

と、何とか子供たちが失敗しないように、より楽な道を歩めるように、

心を隅々まで砕いていらっしゃる親御さんも多いことでしょう。 

つい心配で、色々な細かなアドバイスと言う名の、

余計なおせっかいをしてしまうかもしれません。

ですが、それは私たち親とは別の魂を持ち、

別の目的を持って地球に生まれた子供たちの魂の成長にとって、 

非常に大きな障害となってしまうかもしれません。

もしかしたら、子供の人生を台無しにしてしまうかもしれないほど

大きな過ちかもしれません。 

では、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の子供、

小学生の神様、トキ君のお話を基に書きたいと思います。

私のブログでずっと書いてきたことと同じことを話しています。

このお話は以前も載せたのですが、

この時期に必要と感じましたので、追記して再掲します。 

子供について書いていますが、

子供だけでなく、身近な人たちに対しても、同じことです。

※下記の文章の「子供」を、その身近な人の名前に置き換えてお読みください。

下の映像の中で、山幸彦が人間に伝えたいこととして、

子供の育て方について話をしています。

トキ君はこんなことを言っています。(一部補足)

私たち親は

・勝手に子供の先回りをして

・勝手に心配をして

・勝手に期待して

・勝手に親のエゴを押し付けてきました

きっと、そんな親に子供たちの魂(本体)は、どんなに悲しんでいることでしょう。

何故なら、地球への誕生をワクワクと目を輝かせて

期待に胸を膨らませて生まれてきた子供たちの人生ストーリーは、

・親のエゴやミエのため、

・親の思い通りの人間になるため

の人生とは全然違っているかもしれないからです。

子供たちの魂は、きっとこう言っていることでしょう。

お願いです。

神さまと約束してきた花をここで咲かせてもいいですか?

・子供たちは自分の力で生きていく力を、予め神様から頂いて生まれて来ている

・親が自分のエゴやミエで心配し、先走りし、レールを引いて教えてしまうと、

 自分で考えることができず、計画してきた経験もできず、

 魂の糧にもならい。

 考える力、感じる力が身に付かない

 教えれば教えるほど、これからの長い人生航路を渡っていく力がそがれてしまう

・自分で経験するからこそ、魂の糧となり、教訓を身に着けることができる

・そのために、生まれる前に、その経験(一見、誤りに見える道)を人生に計画してきた

・親は、子供を信じ、子供のやりたいことを、周りで愛を持って見守るだけ

・親は親で自分の人生を笑顔で楽しむこと

・親が自分勝手な考えで子供を誘導しなくとも

 計画してきた時期になれば、子供は気づき、行動を始める時が必ず来る

・親が先回りしてしまうと、それが出来なくなってしまう。弱い魂になってしまう。 

また別の動画では、「親の心配」についてこうも言っています。 

<以下抜粋>

心配は愛ではなく、心を縛ること、鎖につなぐこと

(トキ君にとっては、犬の首輪・鎖のように見える)

心配ばかりしていると、それが本当に現実化してしまう

なぜなら私たちの想いは、思い続ければ、叶ってしまうものだから。

だから心配することは「愛」ではない。

お金のこと、病気のこと。これを心配するのも「愛」ではない

・お金のことを心配し過ぎるから、お金が来ない

・病気などの心配し過ぎは、お金と逆でそれを引き寄せてしまう

・病気のことを心配すればするほど、仲間の病気を連れてやって来る

理屈ばかりを言い立て、怒ることは「愛」ではない

何時までも、昔のことを水に流さず、繰り返しネチネチ怒る人にも「愛」はない

「愛」とは相手を信じ切ること

人間は思ったことが、無意識に願いとなり、叶ってしまう

<抜粋終わり>

私たち親は、肉体を持っていますから、目に見える姿かたちに囚われ・・ 

子供たちの魂がどのような目的を持って生まれて来ているかを知りません。

私たちは、情を持っていますから、

なんとしてでも(どんな手を使ってでも)子供たちに幸せになって欲しくて

手を出し、口を出してしまいます。 

ですが、それは子供の魂にとっては恐ろしく有害です。 

・例え心配であっても、

・子供たちを信じ、

・あれこれ口を挟まず

・子供たちの自由に任せ 

そっと回りで見守ってあげるのが一番良いことかもしれません。 

これは子供だけでなく、周りの方に対しても同じです。 

・そのまま行ったら失敗する

・不幸になる 

そう思っても、もしかしたら、その魂は失敗から学ぶために、

その道を選んでいるのかもしれません。 

また、魂にとっては方向を変える時期と言うものが存在します。 

気運が満ちなければ、周りが何を言っても、通じません。反発を買うだけです。 

依存性を増すだけかもしれません。 

私たちができることは自分のことだけです。 

例え家族であっても、親しい友人であっても、情を持ってして、変えることはできません。

それであれば、私たちができることはただ一つ。 

私たち自身が、自分の心を洗い、

身近な周りの人々と、笑顔で助け合って生きていくことだけです。 

私たちが感謝の清らかな心に満たされて 

・例え生活は苦しくとも

・厳しい人間関係の中に置かれていようとも 

笑って過ごしていれば、神さまの道を進んでいくこととなり、 

その美しい波動は宇宙中に広がって

同じ心の人たちに囲まれて生きていることに気づくことでしょう。

私たち自身の心こそが、私たちの住む 

・見える世界

・見えない世界 

までも決定し、作り出しているからです。 

決して

・どこかの神様や

・自分には不思議な力があると自慢する人

が助けてくれるわけではありません。


2025年6月22日日曜日

3931「精神医学は悪しき状態に戻ってしまった」2025.6.22

今回はInDeepさんの2025年6月10日の記事を紹介します。


「精神医学は周り巡って、結局何世紀も前の悪しき状態に戻ってしまったことを知る」

 精神医学は周り巡って、結局何世紀も前の悪しき状態に戻ってしまったことを知る - In Deep


檻と薬

薬、特にメンタル系の薬について書かせていただくことは多いです。

特にベンゾジアゼピン系の抗不安剤とか、あと、何のために処方しているのか訳が分からない SSRI とかについてが多かったですかね。

数日前、医療系の(精神系の薬剤に批判的な)ウェブサイトで、「精神疾患の治療における3つの段階」というタイトルの記事を読みました。

20世紀になる前あたりまでの何世紀もの間、少なくとも西洋では、

> 何世紀にもわたって、狂人とされた人々は治療も理解もされず、隠蔽された。彼らは癒されるのではなく、隠蔽されたのだ。

という状態が続きましたが、1900年代になり、ジークムント・フロイトやカール・ユングなど多数の人々が登場し、「対話によるセラピー」が一時、隆盛を極めた時期があったのだそうです。

フロイトは、

> 狂気を束縛するのではなく、むしろ発露させたのだ。狂気は肉体の病ではなく、葛藤であり、内なる葛藤の反映であり、吟味し、探求し、理解できるものだと彼は主張した。

という立場でしたが、この対話によるセラピーが主流となった時代があったようです。

しかし、1980年代になると、また「精神医学」がカムバックします。「精神疾患の診断・統計マニュアル」というものが現れ、

「患者の人たちの症状をカテゴライズして、適切な薬物を処方するだけの医学」

に変わっていくのです。

それはその後も、どんどんと拡大し、合理化されていきます。

今では、どんな病気でも 10分程度で診断できて、薬は自動的に処方するような時代ですが、しかし、その記事で最も感銘を受けたのは、以下の下りでした。

> かつて椅子やベッドに縛り付けられていた彼らは、今では生涯にわたる処方薬に縛り付けられている。

そうなんですよ。確かに、今は鎖で縛られることも、檻に入れられることもありません(あるところにはあるのかもしれないですが)。

たとえば、ベンゾジアゼピン系の薬は「簡単にはやめられない」ことについて何度も書きましたが、実質的に、鎖で縛られているのと同じ状態となっているんです。

そして、メンタルの不調を訴える若い人たちは増えるばかりで、小さな子どもに対しても、ADHD 治療薬が処方されている。ADHD 治療薬は、大雑把にいえば、覚醒剤です。

こんな不健全な状態が良いわけはないのですが、それでも、何かが根本的に変化するという兆しは見えません。

ともかく、その記事をご紹介します。

なお、途中で多くの精神科医や心理学者の名前が出てきますが、知らない人は知らなかったですので、ここでは、全部、それぞれに注釈を入れています。

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精神疾患の治療における3つの段階:監禁、会話、薬物療法

The Three Ages of Treating Madness: Confinement, Conversation, Chemicals

Mad in America 2025/06/05


かつては収容所に入れられた

何世紀にもわたって、狂人とされた人々は治療も理解もされず、隠蔽された。彼らは癒されるのではなく、隠蔽されたのだ。

現代の精神科医の先駆者である精神科医たちは、治療ではなく支配のために監禁を監督した。鉄の鎖、拘束衣、瀉血、下剤、発作誘発といった残忍な方法が常套手段だった。

狂気は研究されるのではなく、抑制された。氷風呂、回転椅子、厳格な道徳的規律は、治癒ではなく意志の破壊を目的としていた。治療を装った規律だったのだ。

社会はこれらの人々(精神疾患の人々)を妨害者とみなした。理解するよりも沈黙させる方がましだった。目指したのは洞察ではなく秩序だった。拘束は強められ、体は衰弱し、精神は鈍くなった。すべては支配の名の下に。

作業療法や鎮静といった、いわゆる人道的な治療法でさえ、治癒というよりも服従を強制するためのものだった。狂気が謎のまま残されたのは、それが理解できないからではなく、誰も耳を傾けようとしなかったからだ。

 

そしてフロイトが登場した

ジークムント・フロイト (オーストリアの心理学者、精神科医 / 1856- 1939年)は、考えられないようなことを成し遂げた。狂気を束縛するのではなく、むしろ発露させたのだ。

狂気は肉体の病ではなく、葛藤であり、内なる葛藤の反映であり、吟味し、探求し、理解できるものだと彼は主張した。これは(その主張が)正しかったからではなく、拘束と罰に頼る統制方法に真っ向から挑んだからこそ、革新的な考えだったのだ。

フロイトは、苦しみには意味があり、症状は除去すべき欠陥ではなく、より深い心理的葛藤を反映していると提唱した。

狂気は初めて、沈黙を破るものではなく、解き明かすべきメッセージであると解釈された。フロイトは狂気を理解すべきものとして再定義し、人間の苦しみへの新たなアプローチを提示した。

 

聴くことの黄金時代

歴史上、トークセラピーが短期間で隆盛を極めた時期があった。フロイトは夢を深く掘り下げ、カール・ユング (スイスの精神科医・心理学者 / 1875 - 1961年)はアーキタイプ (元型)を解明し、カール・ロジャーズ (米国の臨床心理学者 / 1902 - 1987年)は無条件の肯定的評価を提唱した。

B・F・スキナー (米国の心理学者で行動分析学の創始者 / 1904 - 1990年)のような行動主義者は条件付けに焦点を当て、ヴァージニア・サティア (米国の心理療法家 / 1916年 - 1988年)は家族間のコミュニケーションの重要性を強調した。

アブラハム・マズロー (米国の心理学者 / 1908 - 1970年)は自己実現理論を提唱し、フリッツ・パールズ (ドイツ系ユダヤ人の精神科医 / 1893 - 1970年)はゲシュタルト療法を創始し、ジェイ・ヘイリー (米国の心理療法家 / 1923 - 2007年)は戦略的家族療法の先駆者となった。

それぞれが独自の視点を持ち込み、精神的苦痛への理解と治療法を再構築した。この変革期には、他にも多くの人々が貢献した。

理論が衝突し、視点がぶつかり合い、狂気は孤立から探求へと移行した。トークセラピーは自己反省の場を創出し、人々が苦しみに押しつぶされるのではなく、自らの苦しみを理解することを可能にした。

ここにおいて、人間の苦悩は、制御するものではなく、初めて探求すべきものとして捉えられたのである。

新たな声が台頭するにつれて、精神医学は脇に追いやられた。

傾聴し、探求し、理解することを選んだセラピストたちは、精神医学の権威に直接的に異議を唱えた。抑制や無視に頼るのではなく、対話こそが癒しの手段となった。

一時期、対話は監禁に取って代わり、人間の苦しみを理解し、対処するための、より思いやりのあるアプローチとなった。

しかし、この変化は長くは続かなかった。

 

苦しみの再パッケージ:精神医学の復活

20世紀半ばまでに、精神医学はアイデンティティの危機に直面した。精神病院時代は終わりを迎え、トークセラピーが盛んになっていた。

心理学者が話し合いを主導し、セラピストが治療を指導し、保険会社さえもが渋々ながら資金提供をしていた。かつて精神疾患の権威と同義であった精神医学は、診断よりも対話を重視する世界において、自らの存在意義を見出そうと苦闘した。

1980年、精神医学は DSM-III (精神疾患の診断・統計マニュアル)で精神的苦痛の再定義を行い、カムバックを果たした。これは単なるアップデートではなく、パラダイムシフトだった。

フロイトとその後継者たちが苦痛を意味のある闘争と捉えていたのに対し、精神医学はそれを症状、行動、そして何よりも障害のチェックリストとして再構築したのだ。

悲しみはもはや探求すべきものではなく、大うつ病性障害(MDD)となった。

落ち着きのなさはもはや波乱に満ちた幼少期や学校制度への不適応の副産物ではなく、注意欠陥・多動性障害(ADHD)となった。

人間の苦しみの混沌はカテゴリー分けされ、それぞれに適した薬理学的解決策が提示された。

それは効率性の勝利だった。

 

精神医学の新たな利益への道

DSM-III は単なる診断マニュアルではなく、 ビジネスモデルとなった。

精神医学は、苦痛を病状とみなすことで、保険業界と足並みを揃えた。対話療法は時間と費用がかかる一方、薬物療法は迅速かつ保険適用が可能だった。

保険会社が精神医学の新しい枠組みを受け入れたのは、メンタルヘルスを診断コードと処方箋という形で保険適用可能なものに簡素化したためだ。

かつて専門職としての無関係さに直面していた精神科医は、再び注目を集めるようになった。もはや精神病院の番人ではなく、彼らは神経化学の最高司祭として自らを位置づけ直した。

かつてロボトミー手術や電気ショック療法を擁護していた精神科医たちが、よりクリーンで受け入れやすい制御方法を見出したのだ。

 

精神医学の勝利:傾聴の終焉

乗っ取りは急速に進んだ。

対話セッションは縮小され、症状の管理に縮小された。精神分析は過去の遺物となり、疑似科学として退けられた。

かつてフロイトの最大のライバルであった行動主義者でさえ、脇に追いやられ、彼らの認知行動療法は薬物療法と併用される場合のみ容認された。人間の苦しみは、もはや探求すべきものではなく、沈黙させるべきものとなった。

精神医学は合理的だった。

処方箋で数週間で症状を鎮められるのに、なぜ何年もトラウマを解き明かす必要があるのか? と。

意味そのものが無意味だとみなされているのに、なぜ意味を探し求める必要があるのか? と。

かつてフロイトは苦しみを解読すべき謎と表現した。精神医学は、チェックリストと白衣を用いて、苦しみを是正すべき化学的不均衡として捉え直した。治療はもはや患者の物語ではなく、化学反応を調整することへと変わった。

保険会社は新しいモデルを受け入れた。セラピーには時間と労力、そして高額な費用をかけて耳を傾けてくれる専門家が必要だった。

薬は処方箋と 15分の診察だけで済むようになった。より迅速で安価になり、請求も容易になった。診断はコードに、処方箋は解決策に、そして患者ケアは取引へと変化した。保険がこの変化を後押ししたことで、精神医学は治癒ではなく効率性によって優位性を確立した。

市場は語り、利益は対話ではなく沈黙の中で繁栄するようになった。

 

処方薬が新しい檻になった

1990年代までに、精神医学は二度目の征服を果たした。

精神病院の壁は崩れ去ったが、その機能は存続した。かつて狂人は閉じ込められていたが、今では服従を強いられるほどの薬物治療が施されている。

かつて椅子やベッドに縛り付けられていた彼らは、今では生涯にわたる処方薬に縛り付けられている。支配は消滅したのではなく、より受け入れやすい形へと変化しただけなのだ。

しかし、患者はどうだろうか?

安堵感を得た人もいれば、落ち着きを取り戻し、これまでとは違う方法で活動できるようになった人もいただろう。また、つかの間の安らぎ、圧倒的な感情からの解放を経験した人もいただろう。

しかし、多くの人は、苦しみが治療されたのではなく、ただ鈍くなっただけだと気づいた。薬は問題を解決したのではなく、むしろ抑制ボタンを押していたのだ。感情的な痛みは麻痺したが、同時に、喜び、モチベーション、そして明晰さも麻痺した。

これらの薬剤が無気力、体重増加、興奮、思考力の低下を引き起こすと新たな処方薬が追加され、そこに、さらに新たな処方薬が追加される。

多剤併用療法 (複数の薬剤を併用する薬物療法)が新たな常態となり、それぞれが以前の薬剤の効果を打ち消すように設計された薬剤の微妙なバランスが保たれるようになった。

医師たちは抑制に頼る代わりに、精神安定剤、興奮剤、鎮痛剤、幻覚剤といった様々な薬剤を混ぜ合わせた薬に頼るようになっていった。新しい薬剤が登場するたびに治療はエスカレートし、当初は症状管理として始まったものが、調整と予期せぬ結果の終わりのないサイクルへと変化していった。

2000年代初頭までに、精神科薬の使用は急増した。アメリカ人の成人のほぼ 5人に 1人が 抗うつ薬を処方されていた。何百万人もの子どもたちが、一世代前には専門文献にも存在しなかった疾患 (ADHDのこと)と診断された。これは公衆衛生上の危機ではなく、精神科マーケティングの勝利だった。

 

感情の医療化:精神医学はいかにして人生を病気に変えたのか

この変化の結果は甚大なものだった。

感情はもはや経験ではなく、症状となった。内気さは障害となり、悲しみは病理となり、幼少期のエネルギーは医学的な問題とみなされた。人生の自然な激動は、一連の化学物質の欠乏として捉え直され、それぞれが是正を必要とした。

セラピストの役割も変化した。かつては人間の苦しみに意味を見出そうとしていた彼らは、症状の管理者へと成り下がり、標準化された手順とエビデンスに基づいたプロトコルを通して患者を導く役割を担うようになった。

探索的なアプローチは効率性へと変わり、時間、存在、好奇心は、結果の尺度とチェックリストに取って代わられた。セラピストはもはや患者の人生を理解することではなく、診断を管理することが求められるようになった。彼らの仕事は、傾聴や考察ではなく、調整と服従へと変わった。

精神医学の台頭がもたらした最大の犠牲の一つは、知的多様性の喪失だった。

かつて心理学は思想の戦場だった。フロイト派はユング派と論争し、実存主義者は行動主義者と衝突し、人文主義者はそれらすべてに挑んだ。

しかし、精神医学のモデルにはそのような議論の余地はなかった。中心となる理論家も、壮大な理論も、人間の経験に関する包括的な物語も存在せず、あるのは神経伝達物質、処方ガイドライン、そして保険コードだけだった。

一世紀前、フロイトは苦しみを精神病院から引き出し、対話へと移した。

彼は痛みを、聞く価値のあるメッセージとして捉えた。しかし、精神医学は権力への近道を掴んだ。対話よりも薬の方が早く、実存的危機よりも診断の方が明快だった。

意味は効率性のために脇に追いやられた。精神医学はただ戻ってきたのではなく、支配権を握った。今回はつないでおく鎖は不要だった。拘束衣は飲み込まれ、沈黙は受け入れられ、そして精神医学は勝利した。

臨床的な効率性によって、精神医学では、雑然とした会話は診断コードに、意味は分子に置き換えられた。かつては時間と共感と思考を必要としていたものが、今では処方箋を出すだけで済むようになった。

精神医学が魂を標準化しようとした試みは、決定的な空虚感を深めた。

精神医学が人間の苦悩を分類しようとすればするほど、人々は本質的な何かの不在を感じた。この反抗は過激派からではなく、ごく普通の人々から生まれている。現在、沈黙に疲弊した人々、そして存在の力を思い出すセラピストたちが、対話を取り戻しつつある。

沈黙を拒む声が高まっている。精神医学はもはや耳を傾けなくなったかもしれないが、世界はそうではない。闘いは再び始まった。力ではなく、対話によって。

もう一度話し合う時間が来ている。


2025年6月21日土曜日

3930「信仰心」2025.6.21

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月15日の記事を紹介します。


「信仰心」


信仰心を持たない人に神様の恩寵は、決して現れはしないでしょう。

神様やご先祖が助けてくださったことに対し

それを神様のおかげ、ご先祖様のおかげと信じ、感謝できない人、

そのような人に、神様の恩寵は現れはしないでしょう。

例え最初にそれが現れたとしても

もしそれを受け取った人がそれを単なる偶然とか、

自分がツイていただけなどと思っていたのでは

もう次から神様は手を差し伸べて下さらないでしょう。

逆にしっかりとした信仰心を持ち、神様やご先祖を信じている方々は

神様の恩寵に気づき、そしてそれに感謝することができるでしょう。

何故ならそのような時、私たちと神さま・ご先祖の間に共鳴が起こり

現象が起こりやすくなるからです。

竹之高地不動社で起きる様々な神さまの奇跡について書いた本に書いたのですが、

以前不動社で、埼玉県から大先達がいつもいらしてくださり「神降ろし」のご神事が行われる時期がありました。

そこで神様・お不動様が、直接様々な身体的なアドバイスや、

その症状に効く薬草などをアドバイスをしてくださっていたことがあります。

そこでやはり、アドバイスを受けた方のその後の人生にも

大きな枝分かれがあります。

神様の言ったことを信じ、感謝して受け取り

実行し続ける方には、非常に大きな効果が現れました。

一般的に直らないと言われる病が癒されたのです。

逆にそれを信じることなく、

一顧だにしない人にとっては、何の価値もありませんでした。

心身が癒されることもなかったのです。

「信じるものは救われる」

この言葉をこのような時にも使えるのかもしれません。

神様やご先祖を信じること。

その存在を信じ、その方々の活躍を信じるということ。

それは黄泉の国のことではありますが、

そういったことを信じて初めて信仰心が芽生えます。

神様やご先祖のことを信じていない人たちは

・全ての出来事は偶然

・死んだら全て終わり

・私たちは自分の力だけで生きている

・誰の世話にもなっていない

・見えない世界の力など借りてはいない

そう思っているのかもしれません。 

そのような人たちは神様や先祖にまで繋がった

深い深い絆を持っていないために、

精神的には根無し草のような生活を送るのかもしれません。

それは非常に孤独でそして傲慢な生き方です。

世界中で一番長く続き、ユートピアを実現していた

日本の縄文時代では、様々な場所で祭祀場の跡が見つかってます。

つまり彼らは、神様や亡くなった先祖の霊を信じ生きており、

自分たちと深く繋がり合って生きているのだということを実感して生きていました。

それが当たり前だったのです。

その結果世界にもまれな、一万四千年も続いたユートピアの世界

縄文時代、つまり神々の国をここ日本で形作ったのです。

生きてる私たちが神々やご先祖の人たち、

つまり黄泉の国の方々と断絶してしまっては、

正しく生きることができませんし、

その場限りの人生になってしまうことでしょう。

その人生は、神々の助けやご先祖の助けもなく、

孤独で生まれ生きて死んでいくだけです。

神々やご先祖の存在を信じ、敬い

その働きに感謝すること。

その信仰心は、

今まさに変わろうとしている地球を生きようとする者にとって、

一番重要なカギになってくると思われます。


2025年6月20日金曜日

3829「時代の転換点」2025.6.20

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月14日の記事を紹介します。


「時代の転換点」


私たち生きている人間は、この地球上で肉体を持って生活している時は、

自分の本体である、魂・霊とある種の切り離し状態であるために

物事の本質が見えず、何故それが起きているのか分からず、

また、実際は神様やご先祖がすぐそばで、

見守り、一緒に同じ体験をしてくださっていることに気づかず、

一人ぼっちで、その巨大な難題と向き合っていると錯覚しています。

・何か自分の身に起きた時、

・または愛する家族に何か起きた時

それが良いことであれ、悪いことであれ、

偶然に突発的にそれが起きたと勘違いします。

ですので、その偶然の出来事に対しては、

自分自身ではどうすることもできない事・・・

そう思いますので、

何とかしてその苦しみの経験を回避したくて、

・お金を払って、能力あると自慢する人に頼ったり

・神社仏閣に行って、神さま・仏様に頼み込んだり

そのような全てを他人任せにする傾向があります。

それも、肉体を持って生きている以上

感情に支配され、

更には、霊的な本質が見えないですから仕方のないことかもしれません。

ですが、そのような時代も変わろうとしています。

黄泉の国、神々の国の霊的な本質から離れ、

数千年の時を経て地球の物質文明は高度に発展してきましたが、

時は移り、人々の精神(心)が一番大切なことと

そう世の中の多くの人々が認識する世界に変わろうとしています。

このように人間の魂・霊・心が最重要となる世界では、

今まで隠されてきた霊的な真実も徐々に明らかにされ、

それを伝える人々が、今あちこちに現れ始めました。

それらは私たちと同じく、平凡に見える市民の中から現れています。

隠されてきた霊的な真実とは・・・

私たちが心に描くことが

この世界に現実として現れてくるということです。

私たちの心の中に

今身の回りで現れている現象と本質を同じくする 種があるということです。

また私たちの本体(魂)が望んだものしか現実化しません。

ですからこの世では一見、

・可愛そう

・苦しそう

・つらそう

に見える現実も、それを経験している魂・心(人)にとっては、必要な経験であり、

その経験を積むことで学び、魂の向上を図り、神さまへの道を歩んでいます。

それぞれの人のペースで歩んでいます。

その経験によって、魂は決して傷つきませんし、悲しんでもいません。

順調に計画したとおり、人間として生まれて来た目的・経験を積んでいるな・・

と思うだけです。

ですが、身近な周りにいる私達も感情がありますから

同じように悲しみ・苦しみ・涙を一緒に経験します。

それさえも計画してきた通りです。

霊的な真実から見れば、

そのような時、心配するのは当たり前のことですが、

・自分の感情に溺れることなく

・心配するあまり、相手の言動を縛ることなく

ただ側で見守り、その方の「生まれて来た目的」が成就(叶う)ことを祈ることだけです。

ありのままの状態や姿を受け入れ、愛の心を注ぐだけです。

心の中にある種が、自分の現実に現れてくるという真実からすれば、

私たちは、今までの地球のルールのように

偶然に物事が降りかかってくるのだから、他人に依存するしかない・・

という心から、、

これからは、自分自身の心の中から、自ら積極的に

・不純な物

・愛ではない物

を少しづつ除去していき、気づいた時に、一つ一つ改めていくこと。

そして心に

・醜いもの

・汚いもの

・心を貶める者

・嫉妬、ねたみを煽るもの

・欲望を煽るもの

・射幸心をあおるもの

などを近づけないこと。

今は情報過多の時代ですから、

テレビやインターネットを通じ

私たちの心は、「苦しみの種」になるものにさらされ続けています。

出来れば、

・真実であるもの

・善きもの

・美しいもの

に多く触れていたいものです。

そうすることで、美しいもの(真善美)が、醜いものを少しづつ駆逐し、

だんだんと、心が洗い清められ、

その結果、心を反映した現実が目の前に広がっていきます。 

それも、自らの意志と、決断、行動によってです。 

自らの足で大地に立つことです。

まさに、

他人依存の世界から、

自らの意志と行動で、幸せになる時代が来ようとしています。

是非、日々の暮らしの中で取り入れてみてください。

愛と感謝の心には

愛と感謝の世界、そして肉体亡き後も、同じ世界に向かうことでしょう。


2025年6月19日木曜日

3828「宇宙に遍満する神様の氣」2026.6.19

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月13日の記事を紹介します。


「宇宙に遍満する神様の氣」


今回の竹之高地不動社に現れる様々な神様の奇跡について書いた本の中に出てくるのですが龍や、自然の霊(妖精)、もしくは昔の日本の言い方からすると妖怪・化け物

それらに守られている人々も実際に居ます。

どうしてそのような存在に守ってもらえるのか?

ここではそれについて書いてみたいと思います。

古事記によれば宇宙で一番はじめに現れた神は、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。

ですが、すぐにお隠れになりました。

その後まもなく現れたのが

・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)

・神産巣日神(かみむすひのかみ)

やはり同じようにすぐに姿を隠してしまいました。

この3柱の神を造化三神(ぞうけさんしん)と呼びます。

姿を隠したということは、隠身になったということで、隠れ身になったということは、

宇宙中の全ての空間、そして全ての次元に広がり遍満したということです。

言い換えると、この宇宙すべての空間と、全ての次元、

私たちの住むこの3次元の世界、神々や黄泉の国と言われる4次元以上の世界、

全ての次元においても、

この道化三神は存在し、全てを把握して、コントロールしているということです。

この考え方は日本に古くからある八百万の神の概念と同じです。

日本人は自然現象をはじめ、

動物、植物、鉱物含め全ての中に神々を見出してきました。

それゆえに、全てのものを大切にし、敬ってきました。

周りの相手の人の心の中にさえ、神様を見出していました。

だからこそ相手を大切にし、敬う気持ちを、

私たち日本人は縄文の古くから持っていたのです。

このような考え方は持っていたのは、世界中見渡しても日本しかありません。

日本の縄文時代の遺跡の中には、武器というものが発見されることはありませんでした。

つまり その時代には争いというものがなかったのです。

さてこのどこにでも、どの次元にでも存在する尊い神様ですが

そこには神様の意識、精神がくまなくあるということですが、

ですが、それには濃淡があります。

神様の精神が一番多く分布しているのが人間です。

肉体として神様の精神・エネルギーを常に取り込んでいるのが

人間の細胞ひとつひとつになります。

細胞は渦を巻きながら神様の精神を取り込んでいます。

それゆえに人間は神さまに一番近い存在ともいえます。

また森や林など、自然の多いところには神様の精神・氣が多く分布しています。

ですからそのようなところには、

古くから妖精や 化け物、妖怪などのお話がたくさんあるわけです。

この世界には動物、植物人間以外にも、

目には見えないけれど、妖精や鬼など様々な生命体が存在しています。

それらは全て神様の精神・氣、エネルギーによって生かされています。

またその精神は、結集したり、分割したりします。

自然霊が集まって、より高度な意識体に成長したり一個の人間の精神が分割し、

生霊かしたり。

また深い深い悲しみの心を、無意識のうちに分離させてどこかに置いてきたりします。

その分離した精神が明るく優しく清らかなものでは良いのですが、

憎しみ悲しみなどの負の精神を置いてくることが大部分です。

それらは土地に執着し、地縛霊になったりして、他の生命体に悪影響を及ぼします。

また、そのような悪の精神が、多数結集(凝固まる)し、悪霊化、悪魔化したりします。

林や深い森に住んでる精霊たち、それにも神様の精神が宿っていますから

神様の精神の多いものほど進化し発達し、時には、その土地の神様になったりします。

(一度も人間として命を預かったことのない神様、眷属)

またそれぞれ精神・心がありますから好き嫌いもあります。

山や林に入った人間の心を

その妖精たちが好きになれば彼らのところについてきたりします。

そして彼らの願いを叶えようとします。

彼らを支えようとします。

まだ神様の精神自体が多くない場合、

彼らに神様的な良い悪いの判断はできませんから、

好きになった人間たちの望むものが良いことであれ悪いことであれ、

それを叶えようとしてしまいます。

今回本の中に書いた内容では

自然霊に常に守ってもらっているものがあります。

自然霊は目には見えません。

けれども やはり神様の精神の塊ですから 力は持っています。

※龍などもこの中に入ります。

これらの精神体が守ってくださるということは、

守られている人間がその者たちに好かれているか

もしくは深いご縁があるからに違いありません。

もしかしたらその方のご先祖たちと深いご縁があったのかもしれません。

そのご先祖たちが大変に心清らかな人で、好かれていたのかもしれません。

縁がなければ彼らが守るはずがないからです。

今回本に書いた例もやはり、

その方は非常に信仰心厚く、神様を信じ、感謝の心を持っている方です。

またご先祖の方々も深い信仰心を持っていた方だとおっしゃっていました。

ですからきっとそのような素養が

自然霊や妖精などに好かれる要因だったのかもしれません。

その人間が大きな危機に見舞われても、やはり守られていると違いが出てきます。

竹之高地不動社のある竹之高地地区は山あいの地域です。

昔からその裏手の山では神々がよく現れたようです。 

つまり、この地域には神々の氣が、相当濃い分布をしており、

様々な神々、妖精、自然霊などが住んでいるのでしょう。

心清らかな方であれば、そのような自然霊と、ご縁を結べるかもしれません。

ちなみに私は、その神さまのお山の天空農園で

畑を借りて、自然栽培の農業を少しやっています。

天空農園からの景色

2025年6月18日水曜日

3827「因果応報」2025.6.18

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月12日の記事を紹介します。


「因果応報」


21世紀に入ってから、ずっと日本は「一億総いじめ社会」などと言われ 

・不寛容な社会

・殺伐とした社会

・陰湿な社会 

が出現していました。 

それが、2011年の東日本大震災、そして「コロナウイルス」をきっかけとして、

この冷酷な心が、少しづつ溶け始めています。 

大きな犠牲のもと、神々がそう仕向けたのです。 

このいじめ社会の中では、自分以外の他人の言葉や、行動に寛容さが足りず、

すぐに歪んだ正義感を振りかざし、その雰囲気に付和雷同した人々とともに、 

相手をとことんまで、貶めて、再起不能にさせます。 

非難する側は必ず「正義」を振りかざします。

正義感を隠れ蓑に、他人を傷つけて、楽しむ心理があるのかもしれません。

今日は、人から悪口や、イヤミを言われた時どうすればよいか?

斎藤一人さんが非常に簡潔に、

優しい言葉で大切なことを仰っていますのでご紹介します。

<転載開始> 転載元 

人間関係の問題は、いろいろあるんですけれど、

「これだけ覚えておけばいいですよ」というものがあるんです。

これだけ覚えておけば、いろいろな問題があるなかの8割は大丈夫。

解決するんです。

この世の中には“嫌なヤツ”っているでしょう?

イヤミを言ったり、いばったりする

“嫌なヤツ”がどこに行ってもいるんですけれど、 

それをやめさせようとしちゃいけないんです。

「復讐するは我にあり」じゃないけれど、

復讐は人間がすることではないのです。

悪いことをした人には必ず、

神さま(自分自身の良心)によって、同じように悪い報いがくる。

だから、ことのなりゆきは、天の神さまにお任せするんです。

そして…ここが大事なところですよ、いいですか。

「やられたらやり返せ!」って、

その“嫌なヤツ”の悪口を言っていると、 

今度は言った人に、悪い報いがきてしまうんです。

自分の畑にピーマンをまいたからピーマンがなる。

自分の畑に、自分で麦をまけば、麦がなる。

そして、自分がまいたものを、自分が刈り取るんです。

隣の人が唐辛子をまいていても、唐辛子を収穫するのは隣の人であって、 

あなたではありません。

それと同じで、あなたがイヤミなことを言われた場合、

悪いことが起きるのは、あなたではありません。

あなたにイヤミなことを言った、その人間です。

つまり、放っておいても、勝手に相手は痛い目をみるようになっているのです。

それを、あなたがもし「イヤミを言われて嫌な想いをさせられたんだから、 

こっちも、あの人にイヤミをお返ししてやるんだ」という気持ちでいると、 

あなたから、“居心地のよくない”ムード(波動)が出てきます。

それではあなたに、

人も、運も、お金も、近寄ってきてくれません。

それどころか、自分が望まない、嫌なことを招き寄せてしまうんですよ。

だから、復讐しようとしちゃいけないのです。

復讐はあなたの仕事ではありません。

神さまの仕事です。

<転載終了>

よく人の悪口を言う人がいます。

また現在のようにネットが普及してくると、

SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。

もしかしたら、相手がいないところで、

自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。

そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。

ですが、それらの行為は、一人さんが仰るように、やめた方が良いかもしれません。

今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、 

同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。

やられたからやり返す。

そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。

やられ損にはなりたくない。

それらの心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。

私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、

その汚れた心と同じ現実が、自分の周りに現れてくることでしょう。

ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、 

それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。

もし目の前で言われたのなら、 

ニッコリ笑って「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、

離れたら、また元のように、ご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。

ブッダもこのような時、静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。

人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、 

一人さんの仰っる方法を実践するだけで、かなり楽に生きられるかもしれませんね。 

みなさんは、この言葉ご存知ですか? 

「断じて行えば、鬼神も之を避く」 

断固とした態度で行えば、鬼神でさえ、その勢いに気(け)おされて避けて行く。 

と言うことです。

私は、これを 

「ありがとう」の言葉を常に口にして、

感謝の心で生きている人のことだと思います。 

「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にする人に対して、 

どんな人が、

・蔑み(さげすみ)、

・陥れ(おとしいれ)

・危害を加え

・足を引っ張る 

ことができるでしょうか?

また、神々が破滅の運命にひきづりこもうとするでしょうか?

これから先に、何が起こるのか、誰もが不安ですが、 

感謝の気持ちでいる限り、どのような運命に置かれようと、必ず助けが来ることでしょう。

神々がなさることに安心して身をゆだね、 

身近な周りの方々と

笑顔と思いやり、お互い様の気持ちで生きていきたいものですね。


2025年6月17日火曜日

3826「AIは本当に人類社会の脅威となるのか?」2025.6.17

今回はIn Deepさんの2025年6月7日の記事を紹介します。


AIは本当に人類社会の脅威となるのか? それとも、AIへの幻想はAI自身の自滅的崩壊と共に、このまま消えていくのか?

https://indeep.jp/some-signs-of-ai-model-collapse-begin/


AI モデルの崩壊の兆しが現れている

現在よりさらに優れた AI が構築された場合、「必然的にすべての人類と生命は死滅する」 として、

「即時に、全世界で AI の開発を停止しなければならない」

と述べていた AI 専門家の記事を以下で書かせていただきました。

超強力なAIが構築された場合「人類全員と地球上のすべての生物がその後まもなく死滅する」と予測する超一流AI専門家の警告

In Deep 2025年5月28日

あるいは、人類の滅亡という大げさな話ではなくとも、「今後、人々の仕事は AI に取って替わられるだろう」とした論調は今でも数多くあります。

たとえば、アメリカの人工知能の企業および公益法人であるアンスロピック社の CEO は、インタビューで以下のように述べていました。

抜粋です。

記事「アンスロピックCEO:AIは今後5年間で初級職の50%を奪う可能性がある」より

アンスロピック社のCEO、ダリオ・アモデイ氏は、AIがホワイトカラーの仕事を壊滅させると確信しており、社会がこの現実を認めていないと警告している。

AI は、今後わずか 1~ 5年で、初級レベルの雇用の最大 50%を奪い、失業率を10~ 20%にまで急上昇させる可能性があると彼は述べている。2025年4月現在、米国の失業率は 4.2%だ。

PC MAG 2025/05/29

しかし、正直、私は、

「そんなことあるかなあ」

とも考えてもいました。

最近、米メディアが以下のタイトルの記事を投稿していました。

「 AI は人間に取って代わることはできないとテクノロジーリーダーの多くが認識し始めている。効率性と精度はむしろ悪化している」

 

さまざまな記事やインタビューを引用しているのですが、その中で興味深かったのが、

「 AI モデルの崩壊の兆候が現れ始めている」

というタイトルの記事でした。

まず、それをご紹介したいと思います。専門用語が多く、やや難しいところも多いですが、そのまま訳しています。

太字はこちらで施しています。

AIモデルの崩壊の兆候が彼ら自身から現れ始めている

Some signs of AI model collapse begin to reveal themselves

The Register 2025/05/27

予測:汎用 AI は悪化し始める可能性がある

私は AI をよく使うが、記事を書くためではない。検索に AI を使っている。検索に関しては、AI、特に Perplexity (パープレキシティ / AI チャットボット型の検索エンジン)は Google よりも優れている。

普通の検索は駄目になってしまった。Google が AI に夢中になれば、検索エンジンがまた良くなるかもしれないが、それは疑わしい。

しかし、ここ数ヶ月だけでも、AI を使った検索もどんどんお粗末になっていることに私は気づいた。

特に、市場シェア統計やその他のビジネス数値といったハードデータを検索すると、結果が不適切な情報源から来ることがよくあることに気づいたのだ。

アメリカ証券取引委員会(SEC)が上場企業に義務付けている年次事業財務報告書である 10-K の統計情報ではなく、事業報告書の要約を謳うサイトから得られる数値が出てくるのだ。

こうした情報はある程度実際の情報と似ているが、完全に正確とは言えない。10-K の結果だけが欲しいと指定すればうまくいく。ただ、財務結果だけを求めると、答えは…興味深いものになる。

これはパープレキシティだけの問題ではない。複数の主要な AI 検索ボットでまったく同じ項目での検索をしてみたが、どれも「疑わしい」結果しか返ってこなかった。

ガベージイン・ガベージアウト(「ゴミを入力するとゴミが出力される」というコンピュータ分野の言葉)の世界へようこそ。

AI 業界では、これは、正式には AI モデル崩壊と呼ばれている。AI モデル崩壊とは、自身の出力で学習した AI システムが、徐々に精度、多様性、信頼性を失っていく現象だ。

これは、モデル世代が進むにつれてエラーが蓄積され、歪んだデータ分布と「回復不可能な欠陥」につながることで発生する。

最終的な結果はどうなるだろうか? 2024年にネイチャー誌に掲載された論文では、「 AI モデルは自身の現実投影によって毒されてしまう」と述べられている。

モデル崩壊は、3つの異なる要因の結果だ。1つ目はエラーの蓄積だ。これは、各モデル世代が以前のバージョンの欠陥を継承・増幅し、出力が元のデータパターンから逸脱する現象だ。次に、テールデータの喪失だ。これは、まれなイベントがトレーニングデータから消去され、最終的には概念全体が曖昧になってしまう現象だ。

最後に、フィードバックループによって狭いパターンが強化され、繰り返しのテキストや偏った推奨が生成される。

私は、AI 企業 Aquant (エイクエント社)の次の表現が気に入っている。

「簡単に言えば、AI が自身の出力に基づいてトレーニングされると、結果が現実から遠ざかる可能性があるということだ」

AI の結果が悪化し始めていると感じているのは私だけではない。金融メディア大手のブルームバーグ・リサーチが最近実施した検索拡張生成 (RAG)に関する調査では、GPT-4o、Claude-3.5-Sonnet、Llama-3-8 B (すべて AI)など、主要な学習モデル11種が 5,000以上の有害なプロンプトを使用した結果、悪い結果を生み出すことが明らかになった。

ご存じない方のために説明すると、 RAG は大規模言語モデル (大量のデータと深層学習技術によって構築された言語モデル)が事前トレーニング済みの知識だけに頼るのではなく、データベース、ドキュメント、社内のライブデータストアなどの外部知識ストアから情報を取得できるようにする。

RAG はより良い結果をもたらすと普通は考えるだろう。実際、その通りだ。例えば、AI による幻覚を軽減する傾向がある。

しかし同時に、RAG 対応の大規模言語モデルが、顧客の個人情報を漏洩したり、誤解を招く市場分析を行ったり、偏った投資アドバイスを行ったりする可能性が高まるのだ。

ブルームバーグの CTO オフィスで AI 戦略・研究部門の責任者を務めるアマンダ・ステント氏は、次のように説明している。

「顧客サポートエージェントや質問応答システムといった AI アプリケーションにおいて RAG が広く利用されていることを考えると、この直感に反する発見は広範囲にわたる影響を及ぼす。平均的なインターネットユーザーは、RAG ベースのシステムを日常的に利用している。AI の実践者は、RAG を責任を持って使用する方法について慎重に考える必要がある」

聞こえはいいが、「責任ある AI ユーザー」というのは矛盾している。 AI がより良い仕事にもっと時間を費やすよう促すというくだらない主張はさておき、AI ユーザーは嘘の結果を含む偽の文章を書いているというのが真実だ。

子どもの高校のレポートから偽の科学研究文書、そして悪名高いシカゴ・サンタイムズの夏のおすすめ特集(実際には存在しない近刊小説が掲載されていた)まで、実に多岐にわたる。

これらすべては、AIが 無価値になる日を早めるだけだ。

例えば、偽小説の一つである「ミン・ジン・リーの近刊小説『 Nightshade Market 』のあらすじは?」と ChatGPT に尋ねたところ、ChatGPT は自信満々にこう答えた。

「ミン・ジン・リーの近刊小説『 Nightshade Market 』のあらすじについては、公開されている情報はありません。小説自体は発表されていますが、ストーリーの詳細は明らかにされていません」

もう一度、そして感情を込めて、ガベージイン・ガベージアウト。

一部の研究者は、合成データと人間が生成した新鮮なコンテンツを混ぜることで、崩壊を緩和できると主張している。

なんとも素敵なアイデアだが、その人間が生成したコンテンツは一体どこから来るのだろうか?

制作に真剣な努力と研究を要する良質なコンテンツと、AI が生み出した安っぽいコンテンツのどちらかを選ばなければならないとしたら、ほとんどの人がどうするかは分かっている。

ジョン・スタインベック(20世紀の米国の作家)の『真珠』の読書感想文で落第点を取りたい子どもなど、そうはいない。企業は業務効率化に熱心だと言いながら、実際には利益を増やすために従業員を解雇したいと思っているだけだ。

私たちは、モデルの崩壊が深刻化し、AI の回答が非常に悪く、脳死状態の CEO でも無視できなくなるまで、AI にますます投資していくのだろう。

(AI モデルの崩壊まで)どれくらいかかるだろうか? 

すでに起こりつつあるように思うが、今のところそれを予測しているのは私だけのようだ。

とはいえ、OpenAI のリーダーであり応援団長でもあるサム・アルトマン氏が 2024年2月に「 OpenAI は現在、1日に約 1000億語を生成している」とツイートしたことを信じるなら、そしてそれらの単語の多くが最終的にオンラインに公開されると仮定すれば、(AI モデルの崩壊までは)そう長くはかからないだろう。

________________________________________

 

ここまでです。

専門用語が多いですので、わかりにくい部分はありますが、つまり、

「それほど遠くない未来に AI モデルは崩壊する」

と確信していることが述べられています。

AI が完全に無価値になるということですね。

他の記事では、AI の「大雑把さ」が示された文章もあります。

メディア記事より

先週末、私は今度の休暇の飛行機とホテルの予約の詳細を記したメールを 6通ほど Google NotebookLM に入力し、旅程表を作成するように依頼した。作成された文書は、出発日が実際の日付より 24時間後と記載されていることに気付くまでは、非常に読みやすかったのだが、これは悲惨な事態になる可能性があった。

Martin Peers

また、AI が「幻覚を起こしている」ことにより、収集する理論やデータが「まともではなくなっている」ことを、マシュー・マーヴァク博士という方が、ロシア RT で述べていました。抜粋です。

記事「AI の幻覚」より

AI は今やフェイクニュース、フェイクデータ、フェイクサイエンス、そして容赦ない虚偽の寄せ集めに圧倒され、確立された論理、事実、そして常識を腐敗した認知の泥沼へと変貌させている。

しかし、AI の幻覚とは一体何なのだろうか?

AI 幻覚は、生成 AI モデルが、高い確信度で虚偽、無意味、または捏造された情報を生成する際に発生する。

人間のエラーとは異なり、これらの誤りは、AI モデルが確立された事実を統合するのではなく、もっともらしいパターンを予測することで応答を生成する方法に起因する。

AIは、バイアス、エラー、矛盾に満ちた膨大なデータセットから学習する。これらのデータで長期間学習を続けると、神話、古い事実、あるいは矛盾する情報源が生成される可能性がある。

…今や AI はパイロットのコックピットや原子力発電所から、生物兵器研究所や広大な化学施設に至るまで、重要かつ時間的制約のある業務にますます組み込まれるようになっているため、これは必然的に現実世界に影響を与えるだろう。

そして、このような極めてリスクの高い環境で、欠陥のある AI の入力に基づいて運命を左右する決定を下すことを想像してみてほしい。

RT / Dr. Mathew Maavak

つまり、こういう「幻覚」と「フェイク」まみれになってきている AI が、原子力発電所や生物兵器研究所など、

「何か間違いがあると大変なことになる施設にも導入されている」

ことが問題だということです。

原子力発電所が誤作動などを起こすと厄介ですし、生物兵器研究所から致命的な病原体が漏出するというのも困りますが、今の状況だと、起こっても不思議ではないのかもしれません。

 

意識と見識の均一化

AI モデルが崩壊する頃には、社会的にさまざまな混乱が起きるのかもしれないですが(最近、各国で大規模な停電が起きているような事態を含む)、それ以前に、AI の登場によって、

「人間のほうがあまり考えなくなってきている」

こともあります。

特に子どもや若い人たちでは、「思考を AI に丸投げしている」人も結構いるのかもしれません。

たとえば、先ほどの記事に「読書感想文」というようなものが出てきていましたが、試しにヘミングウェイの『老人と海』について、

「老人と海 読書感想文」

と検索すると、一発で Google の AI が以下のように回答しました。

老人と海」を読んで、人間の尊厳と自然への畏敬の念、そして諦めない精神について深く考えさせられました。老漁師サンティアゴの、巨大なメカジキとの闘いは、単なる魚との闘いではなく、人生の試練との闘いとして捉えることができます。 Google AI

 

その他にも「感想文に入れるべきポイント」も数多く指南してくれていました。

夏休みの読書感想文などで、「全員同じ読書感想文」となったりすると、話としては面白いですが、いろいろと深刻ですね。

この『老人と海』は、小学生のときだったか中学生のときだったか、夏休みか冬休みの課題図書として、「自由感想文」というものを提出したことがあります。

以前、ブログかメルマガで書いたこともありますが…あ、7年前のメルマガ 19号にありました。

おおむね、以下のような感じで書きました。主人公の老漁師が船の上で、ナマでウナギを食べて、「まずい」とか呟いていたシーンに反応したのでした。

オカ氏の小学生時代の感想文より

ウナギは蒲焼きで食べたほうがいいと思います。材料や道具の問題もあるので、一概にこの老人を責めるつもりはないですが、ウナギをナマで塩で食べるというのは、ちょっといただけないです。しかし、ぼく自身はまだウナギの蒲焼きというものを食べたことがないので、たくさんウナギの蒲焼きを食べられる大人になりたいです。

 

その後も延々とウナギやサバの塩焼きなどの話を書き、先生から「ダメだな、これは」と言われました。

まあしかし、子どもというのは、このように自由でいいんだと思います。

AI は、読書感想文でウナギには言及しないはずです。

何の話だかわからなくなってきていますが、AI の問題は実際には人間の問題でもあり、以前、「問題は AI の人間化ではなく、均質化された意識に基づく人間の機械化」という記事を書いたことがありますが、子どもたちの意識も見識も何もかもみんな同じになることがこわいです。

それでも、世の AI 賞賛はまだ続いていくのだと思いますけれど。


2025年6月16日月曜日

3825「黄泉の国と縁の深い日本」2025.6.16

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年06月11日の記事を紹介します。


「黄泉の国と縁の深い日本」


執筆中の本に関しまして、沢山の方から応援や 

購入希望を頂き、大変ありがたく思っております。 

私の方の執筆と最終校正は終わり、

現在竹之高地不動社と、一部の体験者の方々のチェック中です。

また進展がありましたら、ご報告いたします。

竹之高地不動社では、現在進行形で、様々な神様方の動きも起きていますので、

解禁できるものから書いていこうと思います。


さて今日のテーマです。

自然豊かな日本列島は、神々が何億年もかけて作り上げてきました。 

氷河期の終わりとともに大陸から切り離され、4大プレートの交わる地で、山や谷ができ、 

浄化された水が豊富で、平和な国が形成されました。 

そこでは、物質的なモノよりも、神々や自然を敬う精神性が重要視されてきました。 

つまり、物質よりも霊、魂、精神が大切であるという

霊主体従の考え方が、深く刻み込まれてきました。

 まさに神々が計画した通りです。 

それゆえに、物質文明が頂点を極め、物質や、お金至上主義の悪徳の世界が終わりをつげ、 

新たな精神文明が花開こうとする今、

日本人の「心を大切にする」文明が、活躍する時代となりました。 

この時のために、神々が日本列島を作ったと言っても過言ではないかもしれません。 

それでは今日は珍しい切り口で、神の国と、人間の世界について書きたいと思います。

春日大社の元宮司、神道の最上階(浄階)まで行かれた

葉室頼昭さんのお言葉を基にご紹介します。

日本神道では、神さまや先祖の皆さんがいらっしゃる国を、「黄泉の国」(よみのくに)

そして私たちが肉体を持って生きているこの世界を「現世」(うつしよ)

と呼びます。

日本では縄文の昔から人々は

この宇宙は、循環とバランスの上に成り立っていると知っていました。

それは神様がビッグバンを起こしてから150億年もの年月をかけて作り上げた世界です。

循環ですから

西洋式の考えの、除去、消し去る、取り去る という考え方ではありません。

私たちの魂も、神々や先祖のいらっしゃる黄泉の国から出てきて

肉体をまとい、一時の間、物質界つまり「うつしよ」で暮らしています。

松江市東出雲町にある、現世と黄泉の国の境目「黄泉比良坂」

そして 死とともに、先祖の居る世界、神々の世界。つまり黄泉の国に戻ります。

私たちは誰でも、黄泉の国から、この世界に生まれてきました。

その世界は神の世界ですから

誰でもが、清らかな美しい世界から、この世に生まれたことになります。

つまり、

・意地悪をする人も

・心温かな人も

・聖人のような清らかな人も

・罪を犯す罪人も

全ての人が 黄泉の国から来ました。

つまり、どんな人でも 本来の心根は

清く、美しく、思いやりに富んだ、心の持ち主であるということです。

心の中に恨み、つらみ、憎しみを持ち、地獄のような囚われの世界に居る人は、

現世には、まだ生まれ変わって来れないということです。

これは裏返してみれば、自分にとって、どんな悪人でも、それはその人の本質ではなく、

何らかの目的を持って、その役割を演じているだけ・・と言うことになります。

その目的とは

私たちの魂を 研ぎ石のように研いで(苦しみ、悲しみ、悔しさ、恐れ、不安

魂を輝させるという以外にありません。

その人たちの現世での裏に隠された

・神のような心

・温かな思いやりに満ちた心

を知るのは、お互いが、再び黄泉の国に帰ってからのことになるでしょう。

日本は諸外国と異なり、非常に黄泉の国に近い国です。

その証拠を昔話の中に見ることができます。

では、葉室頼昭さんのお話を基にご紹介します。

浦島太郎は、助けた亀の背中に乗って竜宮城で歓待を受けます。

そこは見たこともないような美しく綺麗なところで、

天井も床も、まばゆく光り輝き、何処からともなく、良い香りが漂い、

美しい音楽まで響いています。

太郎は時を忘れ、楽しく過ごします。

(玉手箱を開けたら 300年の時が過ぎていました)

この竜宮城とは、私たちが元来た所、つまり黄泉の国のことです。

神々が住み、先祖の皆さんが住んでいます。

その美しい世界は、

・時間もなく

・悩み、苦しみ、心配事さえありません。

幸せそのものの世界です。

そして私たちが生まれた時、無垢の魂は、そのような美しい世界から来たため

心に罪・穢れのシミ一つありません。

赤ちゃんの無垢の笑顔はそれを表しています。

ですが、私たちは、成長するにつれ、大人になるにつれ、その美しき心を忘れ

・病気

・悩み

・苦しみ

・心配事

ばかりの世界に、いつの間にか生きるようになってしまいます。

それは、私たちの心に潜んでいた、いえ、いつの間にか神様の氣を包み隠してしまう

自我(自分さえ良ければ良い)の心が、真実の神の世界を見えなくしてしまったからです。

※これを祓うのが神道では、祓い。清め となります。

もちろん、私たちの魂は、その自我による苦しみさえも見越したうえで

この世「うつしよ」に生まれて来ました。

何故なら、その苦しみが、私たちの心を強くすることを知っていたからです。

私たちの心は、

・食べる物にも困らない、

・悩みなど一つもない

・いつも楽しいころばかりの生活

からは磨かれることがありません。

今、私たちが経験している

・悲しみ

・苦しみ

・悔しさ

は全て 苦しいことではあるけれど、心を輝かせるために一時だけ、経験していることです。

浦島太郎は、玉手箱をもらって、再びこの世、つまり「うつしよ」に戻ってきました。

これは、黄泉の国と、現世を、私たちの魂は循環(行き来)していることを象徴しています。


自然と同じく、私たちの魂も 循環を繰り返します。

決して西洋の思想のように

悪だからと、切り取られ、捨てられ、消滅されることもありません。

自分の生活に邪魔だからと、除去されることもありません。

大祓祝詞が示す通り、例え悪であっても、全てを、黄泉の国を通過させ、

美しき清らかなエネルギーに変えて戻されます。

この大いなる安心感。循環の心、正邪を超えて全てを包み込む心を、私たちの祖先は持っていました。

私たちは神々の作ったこの宇宙の仕組み、循環とバランスの上で、

永遠の魂の向上を目指している最中です。

みんな、同じ道を歩む仲間です。

人も、動物も、植物も。そして自然現象でさえも。

積もった雪が、春になって消えたと言うけれど・・

決して消えてなくなったわけではありません。

水になり、地面に吸われ地下水となり、川の水となり、海に注ぎ

再び雨や雪となって戻ってきます。

私たちの心、魂も同じです。

肉体は脱いでも黄泉の国(神々の国、先祖の国)に戻り、姿、形を変えて再び戻ってきます。