2025年12月31日水曜日

4123「私たちが元居た所」2025.12.31

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月21日の記事を紹介します。


「私たちが元居た所」


今日は、皆さん忘れてはいますが、私たちが生まれる前に居た世界 

そして亡くなった後に、帰る世界のことを書きたいと思います。 

日本人は、世界の他の国々とは異なり、

縄文の昔から、死後の世界(神々の世界=黄泉の国)と、

私たち生きている者の世界が、密接にかかわり合い、 

コミュニケーションを取りながら生活してきました。 

能の幽玄の世界がそれを表し、また柳田国男の遠野物語などは、現代の日本人に、

その心を取り戻して欲しく、いえ、取り戻さねば国が亡びると・・書かれたものです。 

また、皆さんの中には

もう先に神々の国である黄泉の国に帰られたお子さんや、ご家族が居るかもしれません。

または、ご本人が、もうすぐ帰ろうとしている方もいるかもしれません。 

今日のお話は、その世界が、どんなに神々に近い場所であったか。

全てと繋がった感覚を持って、生きていたか。 

そこは決して暗く冷たく、孤独な世界ではありません。 

・時間、空間の制約のない世界

・愛と思いやりの世界

・光の世界

・調和の世界であったか。 

なぜ、そんな素晴らしい世界から、この苦しみだらけのように見える地球に来たのか。 

ここ地球で、何を得たかったのか。

考えてみる、思い出してみる、良い材料になるかもしれません。 

1981年4月27日 オートバイ事故で、

臨死体験をしている最中の高木善之さんの体験談です。

大手術している所や、家族が嘆き悲しんでいる姿を空中から眺め、 

そして意思疎通が出来ないことを悟った後の出来事です。

<引用開始>

行かなきゃあ でも行きたくない でも行かなきゃあ  

そんな思いで手足をバタバタと動かしてもがいているような感覚。

今、僕はあの病室で死んだのだ。 

この思いは、強烈だった。

死ぬって、こんなことだったのか。

激しいショックだった。

しかし、やがてその事実を受け入れた。

事実は、受け入れざるを得ない。

そして嵐が静まった。 

穏やかになった。

もう何もしなくていいんだ もう全てが終わったんだ

そう思うと、不思議と気持ちが楽になった。

苦しみが去り、私はなめらかに上昇し始めた。 

今までの、もがきや、もつれがなくなり、ス―ッとのぼっていく。  

私の人生は 今 終わった。

したかったこともたくさんある。

でも、出来なかったこともたくさんある。

家族はどうなるんだろうか?

仲間達はどうなるんだろうか?

もっと優しくしておけばよかった。

もっと仲良くしておけばよかった。

ごめんね ・・・  でも 仕方がない。 

もう苦しむこともジタバタすることもない。

あれこれ考えることもない。

何もかもが終わったのだ。 

今、私は死んだのだ。

さよなら みんな さよなら

ありがとう みんな ありがとう

■宇宙へと■

地球が・・・

苦しみが無くなり、なめらかに上昇し始めた。

次第に高度が増し、目の前の風景が遠くなる。

河原の両岸が寄ってきて狭まり小さくなる。

山々も集まってきて小さくなり・・・ 

やがて、四国が見えて小さくなる。

日本が小さくなり、そして、ついに目の前に地球が現れる。

これが、地球なんだ。

これが僕が生きた地球なんだ!

強烈な衝撃! 強烈な映像!

その美しさ! その大きさ!

その厳粛さ! その圧倒的な迫力!

その偉大さ~その美しさに感動!!!

幸せ 満足 充足 至福 の感覚。

突然、激しいショックを感じた。 

それは、思い出した衝撃。 

長い間悩み続けた問いを思い出した衝撃。

誰もが必ず考え、そして、答えが見つからず 

やがて、あきらめてしまう 問い。

自分とは何か 

どこから来たのか 

そして、どこへ行くのか ゛

■光の中へ■

今、目の前に巨大な地球。

本物の地球~三次元の地球! 

立体の地球が圧倒的な迫力で語りかけてくる。

それを見たとたん、激しい衝撃。

生きている。

地球は生きていたんだ。 

魂が揺すぶられる。

感動の涙がこみあげてくる。

今、自分が変わりつつあることがはっきり分かる。

自分が、地球と宇宙とつながっていくような感覚。

ついに分かった。

一生問い続けた 問い。

自分とは何か どこから来たのか そしてどこへ行くのか  

その答えをついに見つけたのだ。  

感動的な答え。 

それは、光。 

すべては ひとつ。 

命は光であり、光の世界から来て、光の世界に帰る。

すべての生命は、一つにつながっている。

ああ、分かった・・・ 

これが分かればすべて分かる。

何のために生まれてきたのかも分かる。 

どのように生きればいいのかも分かる。 

なぜ、こんな簡単な事が、分からなかったのでろう。

すべては一つ。

すべてはつながっているのだ。 

すべての 謎 が解けた。 

すべて 分かった。

もう 何もいらない。

安心 安らぎ 満足 本望 もう 何もいらない。

安心して いくことができる。

安心して 帰ることができる。 

もう 何も いらない。

もう 何も いらない。

暗黒の宇宙の中で、地球だけが美しく輝いている。

周りがゆっくりと明るくなり、音響が湧き上がってくる。

光は、次第に輝きを増し、ハ-モニ-は強まってくる。 

やがて、激しい眩しさに何も見えなくなり、轟音に包まれて、何も聞こえなくなる。

ああ、今から光の世界に帰るのだ。 

自分の周りの強烈な光が、四方八方に飛び散っていく。

光の世界に入って行く・・・

■光の世界■

ここには、何もない。

物質的なものは、何もない。 

しかし ここにはすべてがある。

過去 現在 未来 のすべてがある。

未来永劫がある。 

永遠がある。 

めくるめく~光の波。

無数の映像~無数のフラッシュ。  

自分の過去現在未来のフラッシュ。

自分の未来。

再生-地球環境-平和運動-そして死

<引用終了>

高木さんは、その後生還します。

そしてパナソニックの研究員を辞め、「地球と調和する小さい社会」を目指す

ネットワーク『地球村』(NGO)を作り、ずっと活動されています。

今、生きている私たちは、このような「光の世界」から来たことを忘れ、

日々の生活に忙殺されています。

そして、日々起きる色々な出来事に、一喜一憂して生活しています。

この世界から、地球に生まれる時に、神さまと約束してきたことや、

地球でやりたかったことなど、すっかり忘れています。

それは私たちがここでの生活によって、より深く学べるように、

自ら記憶を一旦消去して来ているために、仕方のないことです。

ですがその代りに、目的遂行のために、様々な出来事が、

身の回りにベストなタイミングで、起こるようにしてあります。

様々な人との出会いがセッティングされており、

その出会いにより、沢山の感情を味わえるようになされています。

喜びも悲しみも、愛情も憎しみも、家族や、友人、同僚などが、その役割を担います。

そして私たちは、予定した寿命が尽きると、予定していた死因により、

元の光の世界に戻って行きます。

私たちは、この「光の世界」から、ここにやって来ました。

すべては一つ、すべては繋がっている世界からやってきました。

それはここ地球でしか味わえない、様々な感情を味わうこと。

魂を向上させること。

人を助けるためです。

あなたは、あと何年したら、そこに戻りますか?

この地球で、沢山の経験をしましたか?

沢山の感情を、味わいましたか?

人に優しくしましたか?

人を憎みましたか?

笑顔を人に向けましたか?

人を愛しましたか?

感謝することは、できましたか?

お陰さまの気持ちで生きてきましたか? 

決して、恨み、つらみ、憎しみの心に囚われたまま

肉体を脱ぐことがありませんように・・・ 

肉体を脱いだ後の世界は 心の世界そのままです。

心の内が、自分を取り巻く世界、現実になります。 

この物質次元に生きていた時よりも、明確にそれが現れてきます。 

どうか皆さんが、内に居らっしゃる神さまに気付き、本来の美しき心を思い出し、 

お幸せになれますように。


2025年12月30日火曜日

4122「心を受け取る」20025.12.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月20日の記事を紹介します。


「心を受け取る」


誰かが何かをプレゼントくださった時、もしそれが、自分の嫌いなものだったら

「なんでこんなもの」と嫌な顔するのか?

それとも、相手の方の心をおもんばかり、その人が プレゼントを選ぶ時

・私の笑顔を想像して、選んでくれた物であるから

・私の喜ぶ顔が見たいと思ってくださったから

と物ではなく、相手の方の、その心を受け取って、

笑顔で喜んで、それを受け取るのか? 

あなたはどちらですか?

その時は嫌な顔をしなくとも、相手がいなくなった途端、

ゴミ箱行き・・なんてことはありませんか?

今日は、このことに関して、ブッダのお話をします。

ブッダが亡くなる直接的な原因は「毒キノコ」でした。

<引用開始> 引用元

翌日のこと、仏陀はアーナンダと数名の弟子を連れて、鍛冶職人のチュンダの家に向かった。

仏陀たちは、作法に従って、席についた。食卓には、地方の村にしては豪勢な食事が並んでいた。

食事も終わろうとしていた時、チュンダが言った。

「最後になりますが、とても珍しいキノコのスープを用意いたしました。是非、お召し上がりください」

食卓にそのスープが並べられた。

すると仏陀が

「このスープは、修行者には食べられない。如来しか食べてはいけないものだ。すべて私の前におきなさい」

といったのだ。そして、仏陀一人でアーナンダら修行者に出されたスープを食べてしまったのだった。

その仏陀の姿を見て、修行僧たちは心の中で

(世尊にしては珍しい。いったいどういうことだ)

(世尊はどうされたのだ。あまりにもいやしいではないか・・・)などと思っていた。 

仏陀は、そうした修行僧の心の中を見抜いてはいたが、何も答えず

「残ったスープは、家の隅に穴を掘って埋めてしまうこと。決して、誰も食べてはならない」

とチュンダにきつく命じたのだった。

チュンダの家で、食事を済ませ、一通りの教えを説いた仏陀は、

「他の長者の接待は断るように。すぐに旅に出る。クシナガラを目指そう」

とアーナンダに告げた。 

仏陀たちは、果樹園で修行をしていたの残りの修行僧たちと合流し、旅へと出たのだった。

その途中、仏陀に異変が起きた。激しい腹痛と嘔吐が襲ったのだ。

仏陀は、歩くことができなくなり、木の傍らに身体を横たえた。

「しばらく一人にしてくれ」

仏陀はそういうと、静かに眠り始めた。

その様子を見て、アーナンダたちは一安心し、仏陀のそばを離れたのであった。

しばらくして、不気味な笑い声が響いた。しかし、その声は仏陀にしか聞こえないものだった。

「うわははは。仏陀よ、約束の3カ月が来た。お前ももう終わりだ」

注:マーラーとは悪魔のこと

「マーラか。そろそろ現れるころだと思っていた。約束のことは覚えている。

だからこそ、あの毒キノコのスープを私が引き受けたのだ」

「わははは。バカなヤツだ。わざわざ自分から死を選ぶとは。

あんなものは、弟子に食わせればよかったのだ」

「マーラよ、お前は勘違いをしている。毒キノコのスープはきっかけにしか過ぎない。

あのスープを私が口にしなくても、私には別のことで死が訪れよう。 

それがわかっていて、なぜあのスープを避ける必要があろうか?。

肉体の死へのきっかけを先に延ばせば、さらに苦しみは増大するであろう。 

ましてや、毒キノコのスープとわかっていて、弟子に飲ませる者がいようか?。

マーラよ、お前は何が欲しいのだ?。

私の死が欲しいのであろう?。ならば、静かに待つがよい」 

「ふん、死にかけのくせにエラそうなことを言うな!。

ふっふっふ、しかし、チュンダも罪な奴よ。仏陀を殺した者になるのだからな。 

毒キノコのスープを飲ませ、ブッダを殺した犯人はチュンダだ。

あの者は、多くの人々から罵られ、そしられ、叩かれてひどい目にあうだろう。 

それもお前があのスープを飲んだからだ。

お前が飲まなければ、チュンダも罪を犯さずに済んだものを。

チュンダは、これで地獄行きだな。最も苦しい地獄行きだ。

お前がそうしたのだ、仏陀。お前のおかげで、チュンダは苦しむことになるのだ。

わはははは」

「黙れマーラよ。口を慎むがよい。

チュンダは、地獄に行かぬ。むしろ天界へ生まれ変わるであろう。

仏陀に最後の接待をした者して、大きな功徳を得たのだ。チュンダには罪はない。 

毒キノコのスープが食卓に出たのは、すべて自然の導きであり、真理なのだ」

「くっそ!、あーいえばこー言いやがる。

死にそうでフラフラのくせして、偉そうなこというな!」

「マーラよ。そんな悪態しかつけないとは、見苦しいものだ。哀れなものだ、マーラよ。

私の肉体の死は間もなく汝のものだ。それまで静かに待つがいい」 

そういうと、仏陀の顔色がにわかに戻ったようだった。仏陀は起き上がった。

従者のアーナンダは、

「世尊のこの体調不良は、チュンダのキノコのスープが原因ではありませんか。 

もしそうならば・・・」と仏陀に尋ねた。

「アーナンダよ。私は、もう食事はしない。

水のみを口にする。したがって、チュンダの食事は如来が取った最後の食事である。 

如来の最初に食事を供養した者と如来に最後に食事を供養した者は、同等の功徳を得る。

よいか、誰も決してチュンダを責めてはならぬ。

チュンダには私から話をしよう」と仏陀は、力強く答えたのであった。

仏陀が病で倒れた、と聞いたチュンダは、「もしや・・・」と思っていた。

もしかしたら、あのキノコのスープにあたったのではないかと思い、

どうしていいのかわからず、家の中に閉じこもってしまっていた。 

仏陀の体調が悪いのは、チュンダのせいではないか、という噂もそろそろ出始めていたのだ。

アーナンダは、チュンダの家に行き、

仏陀が快方に向かっているから来るようにと告げた。

チュンダは、大いに喜び、仏陀の元へと向かった。

仏陀は、木にもたれながら、チュンダに優しく話をした。

「チュンダよ、汝の接待は大変良いものであった。気に病むではない。

しかし、キノコには、毒のあるものがある。有毒か無毒かは、専門家にしかわからない。

今後は、山で取ったキノコの料理は控えるがいいであろう。

今まで誰も死者が出なかったのは、たまたま運が良かっただけのことである。

キノコを食べたいのならば、市場で買ってきたほうがよい。 

よいか、チュンダ。汝には罪はない。

私は汝の接待を受けなくても、寿命がやってくるのだ。 

汝の接待を受けなかった場合、おそらくは毒蛇にかまれていたことであろう。 

死というものはそういうものである。 

それが来るときは、山に逃げても海に潜っても、

どこへ逃げ隠れしても、逃れることはできないのだよ。 

だからこそ、今を大切に生きることが必要なのだ。 

チュンダよ、汝、罪を犯さず、善行をし、布施の心を忘れず勤めなさい」

チュンダは、涙を流して喜んだのであった。 

<引用終了> 

ブッダは既に完全なる悟りを開き、宇宙の真理を把握していましたので、 

鍛冶職人のチュンダの接待のキノコスープが、

毒であることは十分にわかっていました。

ですが、ブッダは敢えてそれを拒まず、 

ブッダ達を喜ばせたい、笑顔になっていただきたいというチェンダの心を受け取り、 

お飲みになりました。 

そして亡くなりました。

ですが、決してチェンダを責めることなく、逆に栄誉を与えたのです。

とかく私たちは目に見えるものしか把握できないために物を見て、

・自分に必要の無い物

・嫌いな物

であれば、決して贈ってくださった、その人の心を見ることなく、

嫌な顔したり、すぐに捨てたりと邪見に扱うかもしれません。

私たちは心が織りなす世界に生きています。 

見える世界も、その後ろに控える、広大な見えない世界も、

全ては、私たちのこの小さな体の「心の中」にあります。 

心こそが、全ての世界を包括するものです。 

私たちの起きている全ての現実は、実は私たちの心が決めています。 

心が変われば、全ての世界が変わります。

私たちの心が、温かな思いやりや愛で満たされていれば、

全世界が、そのような暖かな世界に一瞬で変わることでしょう。 

誰かの悪口ばかりを言い回り、憎しみや疑心暗鬼、嫉妬の心でいれば、

全世界が、自分を責め立てる修羅の世界に変わることでしょう。 

どんな時も、相手の方の心を推し量り、大切にしたいものですね。 

物質である物は、そのずっとずっと後からついてきます。 

イエスの黄金律ではこう言っています。

「自分のして欲しいことを、相手の方にして差し上げなさい」 

皆さんが、ご自分の心の中にいらっしゃる神さまに気づき、

お幸せになりますように。


2025年12月29日月曜日

4121「死を選んでも良いですか?」2025.12.29

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月19日の記事を紹介します。


「死を選んでも良いですか?」


今日はショッキングな題名ですが、 

小林正観さんの「投げかけ」とは・・からご紹介します。

いま、自ら命を絶ちたいとお考えの方に向けたメッセージです。 

<転載開始> 

 

それまで一度も会ったことのない人から、こんな質問を受けることがありました。 

毎日が楽しくありません。

死んでしまいたいのですが、自殺してもかまわないでしょうか?

初めて会った方なので、その人がどういう人生を歩んできたのか、

私はまったく知りません。

その人の精神に関して、私がとやかく述べる立場にはありませんし、

そんな資格もありません。

そいういう質問をされたときの、私の答えは必ず同じものでした。

「生死に関して私がとやかく述べる立場ではありませんが、

一つだけ質問があります。 

あなたは今まで『投げかけ』をしてきましたか?」

その問いに返ってくる答えは、必ず決まっていました。

「『投げかけ』って何ですか」

周りの人に喜ばれるように自分が生きてきたならば、

同じように周りの人が、自分を喜ばせてくれるような状況で、

その人は生きているはずなのです。

しかし「投げかけ」をしてこないから 

・何も楽しいことが起きず、

・楽しい状況ではなくて 

生きているわけです。

「死んじゃいたい」というのは、

「楽しいことが何もない」ということを言っているのです。

人間は、喜ばれるとうれしい、という本能を神様からいただきました。

喜ばれるように生きれば生きるほど、自分の中に喜びが湧いてきます。

喜ばれたその瞬間に、自分の喜びが得られるのですから、

十分に対価をいただいているわけですが、 

その喜ばれるという状況を投げかけた結果として、 

さらにその数年後、自分も喜ばれる状況に囲まれることになります。

つまりダブルで喜びがいただけるのです。

「喜ばれるとうれしい」+「同じ状況に自分が囲まれる」 

ということです。

温かさに囲まれたい人は、温かさをたくさん投げかければいいのです。

やさしさに包まれたいのであれば、やさしさをたくさん投げかければいいのです。

不機嫌に囲まれたいのであれば、どんどん不機嫌を投げかければいいのです。

嫌みや皮肉の言葉に囲まれたいのであれば、

嫌みや皮肉をたくさん投げかければよいのです。

宇宙の法則はとても単純で簡単です。

とてもわかりやすい仕組みになっています。 

<転載終了> 

日々の暮らしの中で周りの人から

・ひがみや

・嫉妬

・悪口、陰口

・根も葉もない悪い噂

・一面だけを見た、「悪い人」のレッテル張り 

様々な

・嫌なこと、

・胸の苦しくなること、

・憂鬱になること

・悲しいこと

をされることもあります。

ですが、そのような人たちも、

あえて、その悪役を引き受けて、生まれてくださいました。 

正観さんは、そのことを次のように説明しています。 

<引用開始>

人生で出会う全ての人100%が

「あなたはえらい。好きなようにやりなさい」とか 

「あなたは全て正しい」と言ったとしたら、どんな人もいい気になり、

うぬぼれて傲慢になり、自分を見失い、ダメな人間になるでしょう。

逆に、出会う人全て100%が

「あんたは駄目だ」

「それじゃあいけない」

「間違っている」

「何とかしろ」と言い続けたとしましょう。

言われたほうは委縮し、自信を失い、やる気も失って

やはり駄目になることでしょう。

では、最も確実に人を成長、向上させるのは…。

そうです。

温かい言葉や環境50%、

冷たい言葉や環境50%、

それが最も人間を向上させる。

ですから、人生は常に、

温かい側の人50%、

冷たい側の人50%です。

そのように自分で設計し、

それぞれの人にお願いし、

居てもらったのです。 

<引用終了>

嫌な上司や、同僚、友人、言うことを聞かない家族は、どこの世界にもいます。 

ですが、それにいちいちへこんでしまい、根に持って、自分の心に、毒をため込み 

憎しみの心や、仕返しの心を醸成してしまっては、元も子もありません。 

せっかく、魂を輝かせるために、悪役をお願いしてきたのに・・・ 

ですが、そのような人たちの行動を止める方法もあります。 

正確に言えば、

役割の「目的を完成させてしまう」ということです。 

彼らの目的とは、私たちの前に立ちはだかり、

まるで砥石(とぎいし)のように、私たちの魂を磨き、輝かせることです。 

そして、魂の輝きとは、 

私たちの心が「感謝の心」になったとき、輝きだします。 

悪役の方々の一面だけを見て、憎み、恨むのではなく、 

どこか良いところを見つける努力をすることです。 

鬼心ではなく、仏心だけを見つめることです。 

そして、その部分だけを、クローズアップして、 

そこに感謝すること、「ありがとう」の言葉をかけることです。 

その時、私たちの魂は、輝きだすと同時に、悪役をしてくださった皆さんも 

「喜ばれるとうれしい」という、本能を持っていますから

魂が共鳴して、嬉しくなるのです。

暖かな気持ちになるのです。 

そうなった時、その悪役のお役目は終わります。 

目的であった魂が輝き始めたからです。

その後は、悪役という役割を終え、その方々も、美しき心に満たされ、 

味方に変わってくれることでしょう。

感謝の心、言い換えれば、神さまの心には、 

このように強い力があります。 

是非、みなさんも経験なさってみてくださいね。


2025年12月28日日曜日

4120「青空ひろば」2025.12.28

 今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の記事を紹介します。


1602 2025.11.12 ~ 1613 2025.11.27

<黒住宗忠公の紹介>

・宗忠公は、日本的霊性復興の始めの人でした。それで、子の年、子の月、子の日、子の刻にお生まれになりました。

(註)

「子(ね)」は「十二支の始め(日本的霊性復活の始め)。

「音(ね)」は「<はじめに言葉あり>の言葉、世初音(ヨハネ)」。

「根(ね)」は「日本的霊性根ざしの始め」

宗忠公の四柱推命の命式(めいしき)は、陽のかけらもない全陰でした、これは易の坤(こん)の卦にあたります。生まれつきの性格は、とても暗い方であったのですね。

宗忠公は、一年で最も夜が長い、陰気が一番強い「冬至の日」に生まれました。

そして、結核を患い、死に直面した時、「冬至の日」に日の出の太陽を拝んで、太陽神霊が腹に宿り、「天命直授(てんめい じきじゅ)」されて、天から新たな命(いのち)を授かりました。

それ以来、性格が変わり、穏やかで明るい、よく笑う人になりました。人が慕って集まるようになり、それらの人の病が治ったり、元気になったり、運命が改善するようになりました。

あかつきはまだはるかなり高野山 かすかに照らす法(のり)の灯火(ともしび) 弘法大師

月は入り日はまだ出でぬあけぼのに われこそ道のしるべなりけれ

日蓮上人

むかし尊き人のみ歌にかんじ奉り、予が今の心をよめる

月は入り 日の今いづるあけぼのに 我こそみちのはじめ成りけれ

黒住宗忠公


<宗忠公の年譜>

1780年、備前国(岡山)の今村宮の禰宜(ねぎ)の家に生まれる。

今村宮のご祭神:天照大神,春日大神,八幡大神

19歳、「生きながら神とならん」という大志を抱く

(この年、天理教祖 中山ミキ生る)

24歳、伊勢参宮(当時、往復滞在で1ヶ月ほど要した)

33歳、父母、相次いで死去。

34歳、11月頃より臥床。次第に病が重くなり、死に瀕する。

35歳、11月11日(冬至の日)に天命直授(てんめいじきじゅ)され病気全快。

(この年、金光教祖 川手文治郎生まる)

36歳、講釈とまじない(ヒーリング)による布教開始

45歳、伊勢参宮

46歳、一千日参籠(おこもり)開始

49歳、一千日参籠満願

51歳、百社参り開始

52歳、伊勢参宮

54歳、伊勢参宮

56歳、伊勢参宮

66歳、伊勢参宮  

伊勢の神官に「神前で何を願って祈っておられるのですか」という質問に対して、「私はほかに祈ることはありません。ただ天照大神さまの御開運を祈っています」と答えた。

70歳、病臥

71歳、死去


<宗忠公、天命直授前後のいきさつ>

○ 心の切り替え

(34歳)1月19日 両親の死去で傷心の末、病(肺結核)となり、医師も匙(さじ)を投げ、占いの結果も「必死」と出て、覚悟を決めて死を待った。

「自分は死んだら神となって、世の病に苦しむ人たちを救いたい」と心に誓った。

その時、ふと気付いた事。「自分は父母の死を悲しんで<陰気>になったために大病となったのだから、心さえ<陽気>になれば病は治るはずだ。せめて残る息のある間だけでも、そのように心を養うのが孝行である」と思い定め、有り難いこと、面白いこと、楽しいことに心を向けて、心を養うと、不思議なことには、その時を境にして病が次第に軽くなった。

○ 肺結核 癒される

(34歳)3月19日 入浴して日拝(にっぱい)したいと言い出した(妻はとめる)。

入浴を終えて縁側に這い出でて太陽を拝むと、太陽の陽気が肺腑に照り徹るように感じ、肺の病いが癒えたと実感した。

○ 天命直授

(35歳)11月11日(冬至の日の朝)、日拝すると、太陽の陽気が全身に浸透して満ち渡り、身に迫ってくる一団の温かい玉(魂、太陽神霊)をしっかり胸におさめ、まるごと呑み込んで腹に収まったと思うと、なんとも喩えようのない、さわやかな、よい気分になった。「笛を吹き、糸を調べ、金をたたき、鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」ほどの楽しさで、身心とみに快活となった。「天地生々(てんちせいせい)の霊機(いきもの)>を自得したと表現しておられる。 


<宗忠公の講釈の一例(現代語意訳)>          

「私の講釈は、何かの書物に基づいて説くということはなく、説くたびに<天命のままに説く>のですから、東と言ったかと思えば西と言い、

有ると言ったかと思うと無しと説いたりします。

ですから聞き様がとても大切なのです。学問がある人は、その学問を捨て、世に知られた智者、徳者であろうとも、持ち前の定規を捨て、一切、我を離れ(アタマの判断をしばらく止めて)、ただ一心に聴聞(ちょうもん、素直に、全身を耳にして聞くこと)されなければ、少しも聞こえません(宗忠公の波動を全身心に取り込んで自らの振動とすることが出来ない)。

およそ、天地の間に、万物を生み生かし養育される、その根源は、皆、天照大神(太陽神霊、日神)さまなのです。この日神さまこそ万物の親神(万物は日神さまによって生み出された日子)で、そこから放たれる御陽気が天地にみちわたり、一切万物が、その光明と温暖につつまれて生々養育されて息む時がないのです。まことにありがたいことではありませんか。

おのおのの全身に暖気があるのは、日神さまより授かっている『心』が備わっているゆえなのです(人の心と日神の心は結ばれて一つ)。

『心』は『こごる(凝る)』という語源で、日神さまの御陽気が凝結って『心』となったのです。

我欲や捻じ曲がった思いで『心』の純粋な陽気を覆って陰気にしてしまわなければ、あなたがたの『心』は、日神さまの『心』と一体なのです(そうすれば、「陽気暮らし」が開けてきて,「あいよかけよ」の「日の寄進」への道が伸びてくる)。

『心』が主人(原因)で、形(現象)は家来なのです。悟れば『心』が身を使い、迷えば身が『心』を使います。

どんなつらいことが形の世界(結果の世界)に現れても、そんな形の事は打ち忘れて、『心』だけは日神さまのおぼしめしにお任せして、見ること、聞くことをおろそかにせず、一々味わってありがたさをかみ締め、昼夜、ありがたいこと、嬉しいことに『心』を寄せる。そうすると日神さまの御陽気が次第次第に貯えられてくるので、その日神さまから賜った御陽気をしっかり下腹に収め、天地と共に気を養い、面白く、楽しく、『心』がたるむことがないように(陽気の充電切れにならないように)生きてゆくと、活き活き伸び伸びした、しあわせな人生が送れるようになるのです。

活き活き生きるが日神さまの道、面白く楽しく生きてほしいと願っておられるのが日神さまの御心なのです(イノチの本来性)。

そのように生きられるようになれば、アタマであれこれ思量分別しなくても、人生の歩み方の教えは天より降り、私たちが進むべき道は自然と天より示されます(充ち満ちてあふるるものが道となり これを歩めと伸びてゆくなり)。

日神さまと一心同体に生きてゆくという誠を取り外してはいけません。

天の任せなさい。我欲を離れなさい。命の内側からフツフツとあふれ出してくる日神さまの御陽気に従って道を歩みなさい。

古の聖人方の『心』には形がありません(無心)。今の私たちの『心』にも、本来、形はありません。

『心』のみとなって形(現象)を忘れる時は、今も神代、神代今日。

 世の中のことは『心』ほどづつのことなのです。

『心』が神になれば即ち神です。

この左京(宗忠公の本名、宗忠は名乗り)が瀬踏みをしましょう。皆々私についておいでなさい。


スウェーデンボルグ(1688-1772)によると、天界の中央に不動の「太陽神霊」が存在しており、その太陽から光(智慧)と熱(愛)が地上世界に注がれているのです。

人(万物)はそのおかげでイノチを得ています。これを神道では「日足し(ひたし)」と呼んでいます。「ひたし」とは、養育することです。私たちがイノチを存続して成長してゆけるのは、太陽神霊の養いによるのです。

人にはその「太陽神霊」から注がれる智慧の光と愛の熱量を受け入れる器である「天の御蔭(あめのみかげ)」と「日の御蔭(ひのみかげ)」という器が、生まれつき備わっています。「御蔭」は「倉庫」という意味です。

「天の御蔭」は太陽神霊から届くメッセージを貯え、「日の御蔭」は太陽神霊から届く生命エネルギーを貯えます。

また、最高天界の神殿は簡素な木造なのだそうです。下のレベルの天界ほど、神殿は荘厳な石造だったとスウェーデンボルグは報告しています。これは、下の天界ではまだ他と張り合う気持ちがまだ残っているので、その心境が投影されてそのようになるのでしょう。

伊勢神宮は、一見素朴な木造で、これは最高天界の神殿を地上界に映し(移し)たものだと思います。

また、天界の住人は顔を常に霊界の太陽に向けており(これが神道の「面白(おもしろ)」=顔が太陽光を受けて著しく輝いている様子)、地獄界の住人は顔を常に霊界の太陽から背けているのだそうです。

そして、天界の住人も旅行するのですが、どの方向に向って進んでも、常に面前に太陽があるのだから、天界の住人の歩みは常に太陽に向う歩みとなるのですね。これが神道の「日向(ひむか)」ですね。

地獄界の住民の歩みは天界の逆で、常に霊界の太陽に背を向けて進むことになって、ますます暗い世界に向かってしまうのです。


<宗忠公のまじない法(ヒーリング)>

① 下腹に陽気を収める。 

「何事も天命にお任せ、とかく下腹に御心をしずめ、すなわち雷復の卦の如くに陽気自然と発し候ようになされ候えば、開運なされずと申候事御座なく候」

② 患部に手を当てる。

③ 陽気を吹きかける。

「有るものは皆吹き払え 大空の無きこそ元の住家(すみか)なりけれ」と称える。

④ 遠隔にいる人のために祈れば「幸魂(さきみたま)」が往って働く。

⑤ 言葉の力。形は死に物、心こそがイキモノ。形のことはとにもかくにも、心にオミキ(お神酒,お三キ)を供えることを忘れないように。

(註)「お三キ」とは、

有がたキ また面白キ 嬉しキと みキ(三つの「き」、御神酒)をそのふ(供ふ)ぞ信(まこと)成りけれ

⑥ 「笑い」修行。これで肺病の人が快癒した。

⑦ 「ありがたし」を繰り返し称える行 岡山藩の高禄の家来の癩病(ライ病)がこの行で快癒した。

<宗忠公の教え まとめ>

・人は天照大神の「御心」を分与されている→人の「心」と天照大神の「心」は今もひとつに結ばれている。

・各人の「心」の本来性は「陽気・生々・創造」である。

・人の「腹立ち」、「物思い・煩い」が「心」を覆い「陰気」にする。

・「陰気」は生命力の減退させ、おっくうになり、身心の病や不幸な出来事を引き寄せる。

・「心を養う」ことが大切。養う方法は、

a.無心を養う(坐禅、お経・祝詞、寺社参拝)

b.今・ココを、丁寧に味わう

c.「ミキ(有難き・面白き・嬉しき)」をお供えする。

d.「難有りが有難し」とすぐ切り換える。

(完)


1601 2025.11.11

<人生が暗闇の時の心得>

・日の出前の夜闇が一番暗いことを知っておこう。絶望しないで…。

・日は必ず昇る(それが「天の循環の理」)という明るい希望を捨てないように。

呪文「一陽来復(いちよう らいふく)、きっとよくなる。ドンドンよくなる」

・日の出が始まったと、先走りしてとび出してはいけない。「陽気」が定まるまで、じっくり準備し、計画を練っておくこと(反復練習)。

・あせって暴走しがちな時期になった。脱線したと気付いたら、早めに撤退してもとの位置に復帰すること。

・気を降下させる。下腹部と足で呼吸するとイメージする。

・日の出を拝み、太陽を腹に収めるとイメージする。

・「坤(大地)」のオオクニヌシ様,「震(雷)」の天神(またはスサノヲ)様,「陽(日)」のアマテラス様の三社参りをする。


1599 2025.11.09 ~ 1600 2025.11.10

Q.「鎮魂祭」ではどんな神事が行われているのですか?

A.

(1)宇気槽の儀(うきふねのぎ):宇気槽という名の箱に女官が乗って、桙(ほこ)で宇気槽の底を10回突く(「猿女(さるめ)の鎮魂」)。

(2)魂振の儀(たまふりのぎ):天皇の衣装を左右に10回振る。

<応用1>箱の中に自ら(元気を回復させたい人)の写真を収め、

(1)「鎮魂の数歌」を称えながら、箱を10回突く(その人の魂を活性化させる行事)。

(2)「鎮魂の数歌」を称えながら、箱を10回揺する(その人の元気を揺り起こす行事)。

<鎮魂の数歌>

一二三四(ひふみよ) 五六七八(いむなや) 九十(ここのたり) 百千萬(ももちよろうず) 

(意味):日踏みよ 嫌むなや 個々の足り 百霊(力)結集

<「鎮魂祭」の 応用2>

(1)日の出の太陽を拝み、太陽神霊を腹に収めるとイメージする。

(2)「一陽来復(いちよう らいふく)」と称える(黙称する)。

(註)百日行うとおかげがあると、古来伝えられています。(完)


1598 2025.11.08 

Q.「鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)」とは、どういうお祀りですか?

A.

冬至の頃に、弱りきった天皇さまの体内の太陽神霊を復活させるために宮中で行われる祭りです。石上神宮(奈良県)、彌彦神社(新潟県)、物部神社(島根県)でも同様の神事が行われています。


2025年12月27日土曜日

4119「お陰さまの心」2025.12.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月18日の記事を紹介します。


「お陰さまの心」


今日のテーマはお陰さまの心です。 

本当に、本当に大切なことです。 

人間の一生の、幸、不幸を左右するほどの力があります。 

この「お陰さま」の心は、日本人固有の意識のようで、

英語に正しく翻訳することができないのだそうです。 

敢えて言うなら

・Luckily 「ラッキーなことに」

・Fortunately 「幸運なことに」

しかないそうです。 

でも、私たちがこの言葉を使う時、そんな薄っぺらい意味では使っていません。 

もっと、温かで、敬虔な、見えない物、神さま、先祖、周りの方がたに

深い感謝の気持ちを含んでいます。 

ここで、上所重助さんの詩をご紹介します。  

<引用開始> 引用元

夏が来ると「冬がいい」と言う

冬が来ると「夏がいい」と言う

太ると「痩せたい」と言い

痩せると「太りたい」と言う

忙しいと「暇になりたい」と言い

暇になると「忙しい方がいい」と言う

自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い

自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる

所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満の明け暮れ

隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか

静かに考えてみるがよい

一体自分とは何なのか

親のおかげ

先生のおかげ

世間様のおかげの固まりが自分ではないか

つまらぬ自我妄執を捨てて

得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて

「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい 

<引用終了> 

神社にて御祈願をする時、ふと迷うことがあります。 

・開運福寿 

にしようか? 

・厄災難除 

にするか? 

皆さんなら、どちらにしますか? 

・ちょっとぐらい災難に見舞われても、

 ツキがどんどん入ってくる人生が良いか?

・大きな幸運が来なくとも、平凡な日々でも

 平穏無事で暮らせる人生が良いか? 

私は、何もなくとも、平穏無事な方を選びました。

病気や事故。

経験したことのある方ならお分かりなように、健康だった時、

何気なく過ごしていた毎日が、どれだけ幸せだったか、 

気づく人もいることでしょう。

また、どれだけ私たちの肉体が、

沢山の細胞やその他の調和・バランスの上に、

維持されていたのかに気づく人もいるでしょう。

何かが少し欠けただけで、不調になっただけで、 

肉体の健康を維持することができなくなります。

全ての細胞たちが、自分の役割を全うし、調和して働いているが故に、 

私たちは、何気ない日々を送ることができるのです。

その調和を維持しているのは誰ですか?

その設計図を書いたのは誰ですか?  

ダーウィンですか?

勝手に肉体が動いているから、そうなっているのですか?

違います。

全ては神さまが設計し、そしてそれを一瞬一瞬、維持してくださっているからです。

病気で入院などすると、それに気付くことができます。 

そして、そこには感謝しかありません。

そういう意味では病気も、事故も、意味のあることです。

それを、私たちが生まれる前に、人生のシナリオの中に、

組み込んでくるのも分かります。

そういった「お陰さまの力」を何も知らず、気付かず、 

おのれ一人の力で生きているという、傲慢なまま人生を終えて、

何の価値があるでしょうか。

宇宙の仕組み、神さまの存在、

お互いさまで、生きていることに気づくこと。

助け合うこと、互いを尊重すること、

傲慢にならないこと。

全ての全てに、真心をこめて、優しく接すること。。

このこと以上に、私たちが生まれてきた意味において、

大切なことは無いのかもしれません。


2025年12月26日金曜日

4118「神さまと繋がる人」2025.12.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月17日の記事を紹介します。


「神さまと繋がる人」


毎日ブログを書いていますが、 

主に

・悩んでいる方、

・苦しんでいる方、

・泣いている方 

向けの記事が多いです。 

記事を通じ、苦しんでいらっしゃる方々が、

ご自分の内に居らっしゃる神さまとの結びつきを強化し、

本当のお幸せになってくれることを願って書いています。 

人に頼るのではなく、それは、一番の大本、つまり内なる神さまと繋がることが

一番効果的で、かつ永続性があると思うからです。 

根本のことですから。 

私たち存在する者は、目に見えるもの、見えないもの、

これら全てが、元は源の神さまから発生しています。 

ですから、生まれる前の記憶(中間世記憶)がある子どもたちが言うように、 

私たちが生まれてきた目的の一つに、魂の進化、

と言うのが、必ずあげられているのです。 

魂の進化とは、要するに、最終的に源の神さまと一体化すると言うことです。 

私たちが出て来た魂の大本へ戻ると言うことです。 

これをチベットやヒマラヤの聖者の方々は、「キリストのヨーガ」と呼んでいます。 

ですから、自分の中の神さまを信じると言うことは、

その目的のための大きな一歩となります。

またもう一つ重要視しているのが・・・ 

ブッダとその僧団(サンガ)達の時空を越えた壮大な計画を、 

ブッダを信じる小さき者として、ハチドリのひとしずくかもしれませんが、 

何か協力できることはないかと思っているからです。

2,500年前にブッダが生まれ、人類の精神性は目覚ましく進歩しましたが、

どうもブッダのグループは、生まれ変わりの最小公倍数である1.200年ごとに集まり、

同時に地球に転生し、それぞれ別の切り口で人類を教化していらっしゃるようなのです。 

ブッダの生きた時代は、八正道を方法論にした自力、

つまり自灯明・法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)でした。 

この意味は人や神様に頼らず、自力で人生を切り開いて行くこと。 

ブッダの教えてくれた法を頼りにすること。

これはブッダが亡くなる直前、

従者アーナンダが人間、ブッダに縋りつく姿を見ての最後の教えでした。

ブッダや、神に頼らず、今まで長い年月掛けた「教え」そのもの。

「法」そのものを頼りに進め!! と言う事です。

そして、それから1200年後の空海の時代、

ブッダを中心に再び集まったブッダ僧団の方法論は、 

今度は宇宙の根本法則である大日如来(神さま)の存在を人々に教えることでした。

そして、それから1200年。丁度今の時代です。

それは、空海時代のように、偉大なる存在を自分の外に見つけることでなく、 

また再びブッダの時代と同じく、自力でありながらも、偉大なる(神のような

絶対的な宇宙の根本法則である神さまの)存在を、

自分の内に見い出しなさいという、ブッダ、そして空海。

2つの時代の融合し、発展させたものではないかということです。 

これが2500年の時の流れの中で、人間の魂を進化させるための、

ブッダ達グループの壮大な計画ではないかと思うからです。 

「神さまを信じる人は幸せになれる」と良く言われています。

神さまを信じる・・と言っても、何か宗教組織、団体に入信し、

厳粛で宗教的な生活を送らなくても良いと思うのです。

ただ、神仏に対して、敬虔に敬う信仰心を持つだけでも大丈夫です。

この宇宙は見えている世界だけでなく、その何万倍もの見えない世界があり、

成り立っていると言われています。 

現に人間の見える光の波長も、ほんの小さな範囲でしかありません。

動物や昆虫は、もっと広い範囲を見ています。

音も同じです。

人間は小さな可聴範囲の音しか聞こえません。

私たちが認識している世界よりも、はるか巨大な世界が存在し、

それら全てと私たちは繋がっています。

もし神さまの存在を信じていなければ、生きて行く上で遭遇する色んな出来事 例えば

・生まれる

・人との出会い・別れ

・結婚、子供、家族・不仲・登校拒否・いじめ

・就職、会社でのいじめ、嫌がらせ、パワハラ、セクハラ

・ケガ・病気・事故

・貧乏な時期、裕福な時期

・幸せな時期、苦汁をなめる時期

・ケンカする時、仲良くする時

・怒る、イライラするキッカケ、タイミング

・死ぬ時

などが全て偶然に発生しており、これらに全部自分一人の力や知恵だけで

対処しなければならない・・ 

そういった非常に困難で、孤独な立場に置かれます。

その結果、未来に対する不安でいっぱいとなり、うつ状態となってしまいます。

そして、そうならないために、それを打ち消すために、

常に何かに追われるように必死に努力し、 

・人より上の立場に立とう、

・お金を儲けよう、

・損することは絶対にしない、

それを家族にも強制する・・ 

など非常に精神的に不安定で殺伐としており、生きていても楽しくもないし、

追い込まれた、あせりの状態に置かれてしまいます。

これが年間自殺者10万人を超えると言われる日本の現実です。

15~39歳の死因で、自殺がガンや事故などを上回り、

死因の1位となっている現実を生みだしています。

さてここで、小林正観さんの

「なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?」からご紹介します。

<引用開始> 引用元 

「正観さんのお話を聞いて、

1週間ぐらいは調子がいいんですが、すぐ忘れてしまいます。

ずっと忘れないようにするには、どうしたらいいでしょうか」 

という質問がよくあるのですが、忘れないためには、どうすればいいか。 

それは《実践をし続ける》ことなのですね。 

「いい話だったなあー」で終わってしまうと、3日後ぐらいには忘れていますけど、 

毎日、「ありがとう」を言い続けたり、トイレ掃除をし続けたりすることで、

目の前にいろいろな奇跡や、思いがけない嬉しい現象が起きてきます。 

自分も元気になるし、仕事も人間関係もスムーズに流れ出しますので、

実践するのが楽しくなるのですね。 

話の内容を忘れないためには「忘れないぞ」と気合を入れるのではなく、

実践をし続けることですね。 

すると、面白い現象があまりに頻繁に出てくるので、

引き続きやりたくてしょうがなくなります。 

私の中には「やらなければならない」というのはまったくなくて、 

「ありがとう」を言うのも、トイレ掃除をするのも全部損得勘定ですから。 

損得勘定でやると続くのです。 

どんなに下心があって、野心があったとしても、 

実際にそれをやった人を《実践者》と言います。 

例えば、電車に乗っていて、おばあさんが乗ってきた。 

ある男は、おばあさんに席を譲ってあげたいと思った。 

自分の中では、人によく思われたいとか、評価されたいとかはまったくないけれど、 

人の目が気になって、席を譲ると恥ずかしい気がして譲らなかった。 

それに対して、もう一人の男は、おばあさんが乗ってきたとき、

目の前にきれいな女の人がいたので、この女性によく思われたいと思って、

邪心と野心の塊で席を譲ったとしましょう。 

さて、邪心の塊で席を譲った男と、すごく美しい心で席を立てなかった男と、

どちらを神さまが喜んでいるだろうか。 

多分、席を立った男のほうに、

微笑(ほほえ)みかけているのではないかと思うのです。 

動機はどうであれ、席を譲った瞬間に、

宇宙に一つ《喜ばれること》が生まれたのですから。 

邪心や下心が全く無い人というのは、

神の領域ですから、肉体を与えらえてはいません。 

人間としては卒業してしまっている。 

肉体を持っているということは、

人間としての様々な体験をまだしたいということですから、 

損得勘定でやっていくことは、とても自然なことだと思います。 

100%美しい心でやっていこうと、考えなくてもいいですから 

「究極の損得勘定ができる人、究極の欲深い人になってください」と伝えています。 

宇宙構造を40年研究してきて、損得勘定でないものは、どうもないようです。 

どのような分野でも、人に喜ばれるような生き方というのは、

すべて自分にとっての損得勘定で言えば“得”になっています。 

人に喜ばれることをして、自分が圧倒的に損だ、ということはないのです。 

さらに言えば、みんながいやがってしたくないようなことは、

一単位あたりの“得”の密度が高いみたいです。 

トイレ掃除は、その最たるものです。 

そういうことを実践している人が何かを始めようとすると、

あっという間に支援がきます。 

それは、その人が望みを実現させようとか、目標に到達しようとがんばっているわけではなくて、ただ毎日“徳”を積んでいるだけなのです。 

まさに、人徳の“徳”とは、損得の“得”なのです。 

心の中で、どんなに善きことを考えていたとしても、

それが実行に移されなかったら、それはないのと同じ。 

「ありがとう」という感謝の言葉も、「笑顔」も、「気くばり」も、

「優しい言葉」も、「席をゆずること」も、

心で思っているだけなら、ただの絵に描いたモチにすぎない。 

どんなに強烈に願おうと、深く想おうと、それは同じこと。 

たとえば、喫茶店で注文するとき、

どんなに強く心の中で「紅茶が飲みたい」と願ったとしても、 

「コーヒーください」とひとこと言ったらコーヒーが出てくる。 

神さまも同じで、心の中がどうであれ、

現象として現れた「言葉」なり「行動」を評価するという。

よき実践者をめざしたい。 

<引用終了>

神さまを信じるとは、宗教組織に入ることではありません。

ただ私達の心の中に居らっしゃる神さまを信じるだけです。

神様の存在を信じて、考えたり行動すると、 

正観さんの仰るように、精神が安定するだけでなく、 自然界からの応援が得られて、 

活き活きとした人生を送れます。

そして家族も幸せになることが出来るのではないかと思います。

また神さまを信じれる人は、中間世の記憶を持って生まれて来た子供たちが言うように、

私たちは生まれる前に、神さまと一緒に、どのような人生を送るか計画を立て、

・人の役に立つため

・魂の進化をするため 

にこの地球に生まれて来たことを、信じることができるでしょう。

私たちは神さまと共に、生まれる前に、

生きている間に起こる全ての出来事を決めてきました。

ですから、何が起ころうと、神さまの名のもとに、絶対に大丈夫なようにできています。

私たちが人生において選択する全てのことは、私たちが、そのどちらを選ぼうと、 

結果的に生まれる前に決めて来た通りを、選択するようになっています。

ですから、どちらを選ぼうと、どちらに転んでも大丈夫なようにできています。

これほどの救いの事実があるでしょうか?

この真実は神さまを信じる方が得ることのできる、大きな安心と、

生きて行くための躍動感、優しさ、愛のエネルギー源となります。

私たちは、自分の期待していた状況と、現実が異なってくれば、

「あぁ、もうだめだ」

「あの時、あんな選択をしなければよかった」

そう思いがちですが、神さまは、その苦労の先(後に)に、私たちを生かしてくれる道を

既に準備してくださっていたのです。

皆様が内に居らっしゃる神さまと繋がり、お幸せになられますように。


2025年12月25日木曜日

4117「一面しか見ない私達」2025.12.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月16日の記事を紹介します。


「一面しか見ない私達」


以前書いた記事ですが、大きな自戒も込めて、加筆して掲載します。

もう読んだよ、と言う方は、どうぞスルーなさってください。 

私たちはよく、 

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

・いじめ

・差別

・誹謗中傷

・人格の否定 

などを日常的な光景として目にします。

そして、自分でも、してしまいがちです。 

きっと、それは、そうする人たちが、

相手の方の、瞬間の一面しか見ていないから・・・・

なのかもしれません。

また 

・自分の欲望や、

・愛されたい、

・注目されたい、

・一目置かれたいという

・自尊心を満足させるために、

身勝手なフィルター越しに、相手の方を見ているからかもしれません。 

私たちは、

・人から嫌なことをされたり、

・人の身勝手な言動を見たりすると、

どうしても、心の中に「もやもや」が発生し、 

・怒りの感情や

・仕返ししなくては

・ギャフンと言わせなくては

・正義を通さなければ 

と思いがちです。 

その結果、大切な大切な自分の心が 

・イライラして

・冷静さを失い

・曇ってしまいます。 

嫉妬の心もそうですね。 

・何時も明るく、楽しそうに輝いている人や

・沢山の友人に囲まれている人 

などを見ると嫉妬の心が芽生え、「貶めてやろう」そんな風に思う方もいるようです。 

ですが、それは、相手の方の、ほんの一面、一瞬の姿、形、行動を切り取って 

自分で勝手に解釈し、想像し、妄想し、勝手に嫉妬したり、

勝手に憤りを感じているだけではないでしょうか? 

もしかしたら、その人には、私たちには見えていなくても、

沢山の物語や、理由があって、今の言動を、たまたま

してしまっただけなのかもしれません。 

私は、もうずっとずっと以前から、心に決めていることがあります。

それは、次のようなことです。

人と、会う時、その人の後ろに、その人を愛し育ててくれた 

・ご両親や、

・その人のご家族  

・おじいちゃん、

・おばあちゃん、

・旦那さま、

・奥様、

・子どもたち

・その人の親しい友人たちの姿を、

思い浮かべるようにしよう。

なぜなら、そのような沢山の人達の愛に包まれて、今のその人があるのだから。

どうしてこんなことを思ったかというと、 

もうずいぶん前ですが、社会人になったばかりの頃、 

コンピュータープログラマーとしてうまくいき、得意の絶頂にあった時、 

会社の同僚が自殺してしまったことがありました。 

私はそれ程、親しくはなかったのですが、

私が見ていたのは、彼の単なる会社人間としての顔だけでした。

そして仕事ができるとか、できないとか。

そんな表面的な価値観でしか彼を見ていませんでした。 

彼が亡くなり、お葬式に参列した時、もの凄い衝撃を受けたのです。

多くの友人たちが参列する中、若い息子を無くしたお父さん、お母さんが、 

涙をこらえ、参列者にお礼を述べていられました。

でも、本当に最後の出棺の時、堰を切ったような慟哭があがりました。

それは、ご家族の悲しみの叫びでした。

親より先に亡くなるって、こう言う事なんですね。

私が今まで見ていたのは、会社人間としての彼のほんの一面だけでした。

でも彼にはこんなにも多くの友人たちと、そして愛いっぱいに育ててくださった

ご両親がいたんです。

してしまっただけなのかもしれません。 

得意の絶頂だった私は、仕事が出来るとか、できないとか、優秀か、優秀でないか、

そんな表面ばかり見て人を判断していました。 

でも、もしかしたら、その方は 

・親孝行の息子さんかもしれません。

・おじいちゃん、おばあちゃんの背中で、愛情いっぱいに育てられた人かもしれません。

・子供の頃に病気をして、お母さんが寝ずに看病して下さったかもしれません。

・思春期の頃には、淡い恋をしていた少女だったかもしれません。

もしかしたら、その人は 

・ご家庭では、良きお父さん、お母さんかもしれません。

・お休みの日には、子供たちと一所懸命、遊んであげている人かもしれません。

そして、仕事の要領が悪かったのは、たまたま、その分野の仕事が、

苦手だっただけかもしれません。

ただ、ちょっとおっちょこちょいだけだったかもしれません。

私達は、どうしても、目に見えている一面だけで、人を判断しがちです。

そして現代のような、 

・経済至上主義、

・極端な合理主義、

・成果主義の世間 

では、なおさら人をその一面だけで判断しがちです。

見えている一面だけで、全人格を判断しがちです。 

一瞬だけの態度が気にくわないからと、いじめてしまうかもしれません。 

何か心配事があって、上の空で、返事をしなかっただけかもしれません。

ですが、目の前の人にも、沢山の歴史がありました。

苦悩や涙のドラマがありました。

その人を愛する人達が、周りに沢山いたのです。

その人の一面だけを勝手に切り取って、その人の全人格を否定するとは、

そういったご両親や友人達の、愛や真心までも否定することです。

その方の内に居らっしゃる神様も否定することです。

そう気付きました。

天狗の鼻は折られました。

目の前にいる人を、一面だけで、判断してはいけない。

そう、その時 決心しました。 

自戒を込めて・・・・・ 

あなたが気軽な気持ちで、または自分の欲望に負けて、 

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

・いじめ

・差別

・誹謗中傷

・人格の否定 

しようとする人には、 

・お父さん、お母さんはいませんか?

・おじいちゃん、おばあちゃんはいませんでしたか?

・お子さんはいませんか?

・友人はいませんか? 

その人には、生まれてから、この方、

いったい、どんなドラマがあったのか想像できますか? 

特に、

・自分の嫌いな方

・自分を嫌っている方

のお顔を、思い浮かべ想像してみることをお勧めします。


2025年12月24日水曜日

4116「神々が望むもの」2025.12.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月15日の記事を紹介します。


「神々が望むもの」


私たちは、肉体が自分自身だと思っていますが、 

しかし本体である魂は、同時に多次元に住んでいます。 

多次元とは、肉体の無い世界、物質世界を包括している

非物質の世界(黄泉の国)でも、同時に存在しているということです。

就寝してしまえば、意識は肉体の縛りから離れ、

非物質の世界にフォーカスを移すことができますから、 

黄泉の国と言うよりも、非物質世界を自由に行き来しています。 

目覚めると、再び物質次元にフォーカスされますから、その間の記憶はありません。 

記憶とは、ステート・スペシフィック・メモリー。 

つまり「状態特有の記憶」だからです。

(心身が同じ状態になった時に思い出される記憶) 

私たちは、どの次元に意識をフォーカスさせるかによって、繋がる次元が異なります。

高い波動(意識)状態であれば、神々の世界に繋がるでしょう。

また意識の状態によっては、僧、源信の『往生要集(おうじょうようしゅう)』の描いたような、地獄霊たちの世界や、修羅の世界に繋がることでしょう。 

・人を憎んだり、恨んだり

・嫉妬したり

・悪口、告げ口、揚げ足をとったり 

そのような心でいては、生きていても死後も、心と同じ世界、

醜い世界に繋がることでしょう。 

私たち人間は生きている間は、見えない世界はわからないために、

自分と繋がっている世界が、唯一で、かつ真実なものとみなしてしまいます。

ですが、一人一人の波動が異なるように、繋がる世界も千差万別です。 

私たちが繋がる世界、つまり私たちの波動を決めるのは、私たちの心の状態です。 

心を澄ませ、日本固有の素晴らしい文化、DNAに刻み込まれた性質である、

共生と感謝の心を取り戻せれば、きっと、高い波動領域にフォ-カスすることができることでしょう。 

この美しい日本の文化を作り上げるために、神々は何億年もの歳月をかけました。 

最初のビッグバンから数えれば150億年かかりました。 

私たち日本人は、生まれながらにして、

縄文の先祖たちから受け継いだ、この素晴らしきものを持っています。 

ブッダが2,500年前に悟った時、一番最初に気づいた宇宙の法則は。

縁起の法則であったそうです。 

この縁起の法則こそ、私たち日本人が、

縄文の昔から、既に持っていた心(共生と感謝の心)なのでした。

宇宙にちらばる生命体は、地球にあこがれ、転生を望みます。

地球転生が約束された魂は、日本への転生を熱望します。

まさに、日本人のDNAの奥底に、この神々に直結する美しい心があるからです。

私たちは、何度も何度も転生を繰り返し、

外国に生まれもし、そして今はこの日本に生まれました。 

ですので私たちだけが偉いわけではありません。 

私たち日本人は、ずっと何万年も

みんなで仲良く、助け合い生きてきました。 

共生してきたのは、 

・人間同士だけではなく

・自然

・黄泉の国に帰った人

・そして神々でした

こんな民族が地球上にいるでしょうか? 

3万年前の氷河期、この時今よりは海面は100mの下にありました。

このため、日本は大陸と陸続き、色んな民族が混ざり合いました。 

そして、2万年前、地球の温暖化が始まると

氷が解け、海面が100mも上昇し、日本は大陸から分断されました。 

その結果、島国となり、大陸で頻繁に起こった侵略戦争などは無縁のものとなりました。

平和な時代が1万年以上続きました。 

また、日本は4つのプレートが交わる地域にあります。

(神々が、世界の中に日本と言う文化を作り上げるために、あえてそうしたからです)  

・北米プレート

・ユーラシアプレート

・太平洋プレート

・フィリピン海プレート 

そのため、その沈み込む圧力で沢山の山脈ができました。 

その結果、川が出来、清浄な水が豊富な国になりました。 

また緯度の関係で、日本には美しい四季が生まれました。 

・自然の緑の美しさ

・秋の虫の音色 

私たち日本人は、これらを愛でる心が生まれました。 

外国には無い物です。

(単なる雑音に聞こえるそうです)

(自然や動物は、共生ではなく、支配するものとされました) 

まさに、多くの転生の中で、日本人に生まれることは

当たり前ではなく、有り得ないほど、ありがたいことです。

今、ここ日本に誕生させていただいたことに感謝いたします。

そんな神々に、私たち人間が恩返しできることはないでしょうか? 

神々は、何を喜ばれるでしょうか? 

・お酒でしょうか?

・卵でしょうか?

・お金でしょうか?

それは、私たちの自分自身の波長によって

繋がる神さまも様々ですから様々あるかもしれません。 

ですが、神々の中の神様、大神様はどうでしょうか? 

地球創世の神、国常立大神は何に喜ばれるでしょうか? 

きっと神さまが望むことは、私たち人間たちが 

・素直な心で

・互いを思いやり、助けいあい、

・お互いさま、お陰さまの気持ちで 

仲良く笑顔で暮らしていく  

そんなことではないかと思うのです。 

それこそが、神々が私たち人間に、一番望んでいらっしゃる心ではないかと思うのです。

そして、その心こそが、神々のエネルギーの源泉であり、

神さまと人間たちが、共に幸せになる道だと思うのです。 

・神さまから一方的に何かを頂いたり、

・不思議な現象を見せて頂き、好奇心を満たしたり、

・それを自慢し、人に羨ましがられたり、尊敬されたいと言う欲を満たしたり

・私は神さまと繋がっている特別な人と、周りの人を支配しようとしたり 

神さまは決して、そのようなことを良しとなさる方とは思えないのです。 

神社に行くと必ず、神殿の中に鏡が置いてあります。 

鏡は、私たち自身の ありのままの姿を映し出すものです。

神道の本質は「鏡」にあるとも言われています。 

神社の社殿の鏡は、参拝する人自身の姿を映し出すとともに、

その人の自分の中にある神さま、 

つまり、自分の本質、本当の姿を思い出し、自覚する場所でもあるからです。 

鏡に映るのは、自分の中に居らっしゃる神さまの姿です。 

この鏡の前に座り、敬虔な気持ちで手を合わせ、祈る時、神さまと私たちは繋がります。

そして、神さまの前に素直になった心そのもので、自分の周りに居てくれた人たち、

家族、友人、同僚、そんな人たちに、

感謝と、祈りにも似た気持ちで接することができれば、

神々は喜び、今度はそこで、その場において、

私たちと神々のエネルギー交換がなされることでしょう。  

その時、私たちはきっと気付くはずです。  

・私が好きな人も

・私が嫌いな人も 

・私を好きな人も

・私を嫌いな人も

みんな、みんな大切な人だったと。 

かけがえのない人だったと。

溢れる感謝の気持ちと共に。

私たちは、人の 嫉妬、やっかみ、悪意には鈍感でも構いません。

ですが、人の優しさ、温かさ、思いやり、愛情には敏感でありたいものです。 

なぜなら、そこには、心の中には、神さまがいらっしゃるからです。

その心のことを 神さまと呼びます。 

あなたの繋がる世界は、どんな世界ですか? 

今のあなたの心は、どんな色をしていますか?


2025年12月23日火曜日

4115「青空ひろば」2025.12.23

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1597 2025.11.06 

Q.仏教でいう「空」とはどういうものなんでしょう?

A.

ぜひ「空」の体験をなさってください。一番簡単な方法は、坐禅しながら聞こえてくる「音」に注目します。「これ何ぞ?、これ何ぞ?」と音を奥へ奥へと探ってゆきます。そしてたどり着いたそのモノは、音ではありませんが、それナシでは、音が存在できない「白いキャンバス」のような存在です。その「白いキャンバス」があればこそ、音という色や形が存在できますし、もしあなたが、「音」とあわせて、その「音」を載せている「白いキャンバス」の「無音」も同時に聞くことができれば、これまでの平板的な音とはまったくちがった、立体的な「妙音」が聞こえてきて感動されるはずです。

それが芭蕉さんの「蛙とびこむ水の音」なのです。また、その「空」の白いキャンバスは、すべての存在(岩も、蝉も)のベースとなっている共通なものですから「岩にしみいる蝉の声」なのです。


1596 2025.11.04

Q.小乗仏教と大乗仏教の違いを教えてください。

A.

「小乗仏教」では、この世は苦しみの世で、罪けがれた誤りの世なのだとしています。 

ですから、一日でもはやく悟りを開いて、この苦悩の世界に対する執着心をなくして、この世界から脱出しなさいと教えます。

「灰身滅智(けしんめっち)」といって、この身は汚らわしい肉体なので、はやく燃やして灰にしたほうがいいんだ、この頭が生み出す考えは、すべて錯覚と妄想なので、頭なんてはやく切り捨てたほうがいいんだとします。

そして、今生(こんじょう)が地上生活の最後で、もう二度と地上に戻ってくる必要がなくなったという「アラカンの悟り」が最高の悟りで、悟りがそこまでいたらない人は、あと何回か地上に戻ってこなければならない。その戻らねばならない回数の多少が、小乗仏教の悟りの段階となっているのです。

そして、「小乗」とは、「小さな乗物」のことです。自分だけが乗れる車です。少しでもはやく地上世界を脱出したいものですから、障害物に邪魔されてもクルクル避けて進み、すばやく脱出出来るようにと、「小さな乗物」に乗車するわけです。定員一名のミニカーですから、家族や眷属は脱出の邪魔になります。ですから、小乗仏教は出家主義なのです。

大乗仏教の悟りは、「ひとついのちの自覚」です。すべての人や動植物や山や川(「万類」と呼んでおきましょう)が、実はみんな「私」だったんだと悟るのです。

そして、大乗仏教の学び(修行)とは、その「ひとついのちの悟り」を、地上に現実化してゆく過程のことです。この世に一人でも、万類がひとつでも苦悩したり、正常でない状態になっていたら、「私」は、まだ本当の「ひとついのちの悟り」を得ていないのです。

ですから、地上の万類がしあわせになるまで、私は何度でも地上世界に戻ってきて、私の車にすべての人を収容して平和と融合の世界へと運びます、という誓いを立てるのです。そんな誓いを立てた方が「大乗菩薩(ぼさつ)」です。万類を全員収容して運ぶのですから、「大きな乗物」でなければなりませんね。だから「大乗」なのです。

以下は、宮沢賢治さんの言葉です。この文章に大乗仏教のエッセンスが詰まっています(「農民芸術概論綱要」より)。

○ 世界がぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

○ 新たな時代は世界が「一の意識になり、生物となる」方向にある。


1595 2025.11.03

<自らの心の状態を見事に分析された方に対して>

A.

とてもよく心理状態の分析をしておられて感心しました。その分析力は貴重な財産です。これからもしっかり育てていって下さい。きっと「いい人生道の教師」になられると思います。

ただひとつだけ、お忘れのなっていることがあります。

それは、人間は無力で、無知で、自らの願いを叶えるだけの力も、智慧も持たないということです。だからこそ、神や仏さまに、最後はお任せするしかない存在なのです。

努力は必要で、あれこれ工夫して、神に願いがどうすれば届くのか実験してください。しかし、やるだけやったら、もう最後は願いが叶う、叶わないも含めて、神さまに「まる投げ」すればいいのです。叶っても、叶わなくても、それは神さまの愛の表れ、きっとあなたにとって、それが「最善・最高」の結果なのだと信じることです。 

そう信じて、決してイライラしたりしないし、困ったとか思わないし、神を恨んだりしない、平安な心境になれたとき、あなたが望んでいたこと以上の、もっともっといいビッグサプライズプレゼントをきっと神さまが下さいます。


1594 2025.10.30

Q.すべての人やモノや自然が、懐かしくて、懐かしくて、愛しくてたまらなくなってきたのですが?

A.

「いのちの一体性」が分かってこられたのですね。素晴らしい「悟りの芽生え」をお持ちです。その「悟りの芽」を大切に育てて下さい。それを「聖胎長養(せいたい ちょうよう→お腹に宿した悟りの胎児を大切に大きく育てること)」と言います。

私が今飼っているイヌは、ボストンテリア10歳のメス、名前は「モン」です。鼻ぺチャのブサカワいいイヌです(16歳で天国に旅立ちました)。

散歩していると、よく人が寄ってきて可愛がってくれます。不思議なことには、うちのモンは、ヤンキーのお兄さんやお姉さんにとても人気があるのです。うちのイヌを可愛がってくれている場面の彼ら、彼女らの無邪気な笑顔は本当に美しいなあと思います。ツッパリの囲いなんて本当はないんだなあ、ワザワザ無理な努力をして「幻想のツッパリ囲い」を作っているのだなあと、しみじみ思います。

私も、そしてあなたも、「モン」のように、無邪気にふるまっていながら、なぜか人の「自我のツッパリ囲い」を自然にほどいてしまう人(ほどけ様)になりたいですね。


1593 2025.10.29 

Q.「私はイエスの生まれ変わりだ」と主張する人がいるのですが?

A.

私が皆さんに繰り返し説いているのは、実は「あなた」が釈迦だったのですよ、イエスキリストも実は「あなた」だったんですよということです。

いのちはひとつなのだから、過去の、現在の、未来の、すべての人が実は「あなた」なのです。

それが分かれば、特定の人が釈迦やイエスだといって崇拝したり、特別視したりするのはおかしいということがお分かりになるはずです。 

それに、そんなイエスキリストの生まれ変わりだと主張する方に、「本当はあなたはユダだったんではないですか?」と尋ねてごらんになって、その人がそれを否定して怒るようだと、その人はきっとニセキリストです。「いのちはひとつ」なのですから、イエスであるその人は同時にユダでもあるはずなのです。そんな「私のなかにユダがいる」ということも認め、受け入れ、愛し、抱擁してゆくようになれたのが「本当のイエスさま」なのです。


2025年12月22日月曜日

4114「自分のしたことが自分に帰る」2025.12.22

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月14日の記事を紹介します。


「自分のしたことが自分に帰る」


どんなに人格ができた人でも、時々は、人の言動に我慢できなかったり。

たまたま虫の居所が悪く、イライラしたり、

他人に対して、キツイ言葉を吐くこともあるものです。

人間はどんな聖人君子でも、肉体に付随して

「感情」を持っているのですから、それは仕方ありません。

それは、自分だけでなく、他人も同じです。

自分では覚えのないことに、理不尽に怒りをぶつけられたり、

立場を利用した幼稚な

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

玉石混合の、この地球を選んで生まれて来たのですから

本当は、覚悟のうえで、私たちは誕生してきました。

ですが、

・他人から理不尽な仕打ちや、

・他人の身勝手な態度

に対して、いちいち腹を立てたり、仕返ししようとしたり、しない方がよいようです。

仕返しではなく、人それぞれの生き方、そこから醸し出される波動・・

それらが、宇宙に広がって、必ず同じ波動が同調して

自分自身に同じ現象が返ってくるからです。

宇宙の法則です。

このことを、「復讐するは我にあり」と言います。

我とは、自分のことではなく、神様のことです。

復讐は、神さまの仕事です。

自分ではジャッジしたり、手を下すな!と言うことです。

それでは今日は、小林正観さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元

ある女性(40歳くらいの会社員)から聞いた話です。

その人には、23~24歳の後輩のOLが3人ほどいました。

春と秋には、会社の人たちとバーベキューをしにいくのが恒例になっていました。

そんなとき、いつものその3人のOLは、焼いているときは遠くでおしゃべりをし、

食べる段になると、最前列まで来て食べる。

そして片づけのころになると「用事があるので失礼します」と言って帰っていく…。

何の手伝いもしたことがない、というのです。

その女性は、「今まで、精神的なことをいろいろ学んできた結果、

イライラしたり、腹を立てることも少なくなってきました。

でも、あの3人に対しては、どうしてもイライラと腹が立つのです。

どのように解決したらいいでしょう」

と言いました。

自分が、バーベキューを手伝いたくないのなら、やらなくていいのです。

やりたければやればいいし、やりたくなければ、やらなければいい。

その結果が自分に返ってきます。

それが「自己完結」です。

要領よく立ち回っているその3人のOLは3人とも、

それぞれの人生で「自己完結」するはず。 

ですから、自分の持っている価値観と他の人

(この場合は、3人のOL)のそれが違っても、論評する必要はありません。

必ずその3人には、その生き方に見合った結果が返ってきます。

必ず自己完結するのです。

逆に、自分が他人に対して腹を立てながらいやいややっていれば、

それも「自己完結」するし、笑顔でやっていても「自己完結」します。

「頭にくるからやらない」といいうのでもいいのです。

ただ、それに対しての「自己完結」も必ずやってくる、

ということを覚えておいてください。

この話をした結果、その40歳の女性は 

「気持ちがすっきりし、他の人のことが気にならなくなりました」と言いました。

それ以降は、その3人のOLが要領よく立ち回っていても、

笑顔で過ごせるようになったそうです。

<引用終了>

人の悪口を言う人がいます。 

また嫉妬の心や、悔しさから人の陰口を吹聴する人もいます。

また現在のようにネットが普及してくると、

SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。

もしかしたら、相手がいないところで、

自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。

そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。

ですが、それらの行為は、やめた方が良いかもしれません。

今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、

同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。

やられたからやり返す。

そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。 

やられ損にはなりたくない。

ですが、その心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。

私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、

その汚れた心と同じ現実が、自分の周りに現れてくることでしょう。 

また生きている間だけでなく、死後も、その世界に住まうことになるでしょう。

ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、

それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。

もし目の前で言われたのなら、ニッコリ笑って 

「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、

離れたら、また元のように、ご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。

ブッダもこのような時、 

静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。

人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、

仕返しや、反論など考えず、その後のことは神様にお任せして、

自分自身の波動を、同調させないで、いつも感謝の心でいたいものですね。 

かなり楽に、そして幸せに生きられるかもしれませんね。

分裂する地球。
私たちは、今の自分の心の波動(状態)に従った世界に移行します。


2025年12月21日日曜日

4113「何か問題でも?」2025.12.21

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月12日の記事を紹介します。


「何か問題でも?」


私たちが今世、肉体をまとい、

物質的な地球に生まれて来たのには意味があります。

魂を進化させる。 

これは全ての生命体や、その他の被造物が同じ目的を持っています。 

自分では何もせず、神々に頼り、願い、すがって叶うものではありません。 

かえって、その「依存の心」は、魂を弱らせ、 

神々から離れてしまう方向性を持っています。  

また、

・お金のために人を陥れたり

・地位に固執したり

・プライド高く人を見下したり

・嫉妬心から人の足を引っ張ったり 

つまり、心を汚して、真っ黒くしていては

魂は重く、未来は今の心と同じく、黒く汚いものになることでしょう。 

良きことも、悪しきことも、自分のしたことと同じことが、

倍になって、自分に帰ってきます。 

派手さも無く、地味なことなのですが、

自分の心をピュアで綺麗に保つこと。 

周りの方々に、愛と思いやりを持って接すること。 

これこそが、魂の美しさを保ち、

肉体を脱いだ後も、真っすぐに神々の所へ行くための王道です。

ピュアな美しい心でいるには日々の 

・思い

・考え

・言葉

・行動 

を良く制御する必要があります。

一朝一夕にはできませんが、失敗したら反省し、また軌道を戻す。。 

その繰り返しで、いつの間にか意識せずともに、心の中の罪や穢れが 払われて、

人々や神々に愛される 美しい心となります。  

それでは今日も 

・神々に愛される美しい心を保つために・・

・そして本当の幸せをつかむために・・

・心の中の神々と直接対話できるように・・・ 

書きたいと思います。

ご自分の心が整理されていないゆえに、自分自らが、悩みや苦しみ、不幸をかき集め 

幸せになりたいのに、無意識のうちに、それを拒否して、

あえて、自ら進んで、不幸な人生を送ってしまう・・

そんな方向けの記事です。 

幸せになりたいのに、自分の心の何が原因でなれないのか? 

そんな方向けのお話です。 

過去に書いたこともありますが、加筆して掲載します。 

もう読んだよって方は、スルーなさってください。 

小林正観さんのお話です。

テーマは「で、何が問題なの?」です。 

正観さんはブッダの説いた真理を、

今の言葉で、解り易く、そして実行しやすく説いて下さいます。

<引用開始>

あるところで、一泊二日の泊まり込みの旅行がありました。

数十人の人が泊まり込み、夜を徹してしゃべり、翌朝も一緒に朝食を食べました。

朝食の時、隣にご夫婦が座っていました。

私の顔を見るなり、その奥さんが話しかけてきました。

「質問してよろしいですか」「どうぞ」

「実は私の子供なんですが…」というふうに話をし始めました。

私は、そこで両手でバツを作りながら、にっと笑って「ブー」と言いました。

実は、その前夜に数十人でお茶会をやったときに、

何十人もの人から同じような質問を受けていたのです。

その質問とは 

「自分以外の人間を、自分の思いどおりにするには、どうすればよいか」 

というものでした。

質問している人は、それぞれ全部、状況が違います。

自分の思いどおりにしたいその対象は、 

・子供であったり、

・親であったり、

・夫であったり、

・妻であったり、

・職場の同僚であったり 

はするのですが、

結局は、自分を取り巻いている人間関係のなかで、気に入らない人を

「自分の思いどおりにしたい」というのが悩み相談のほとんどでした。

それを昨夜のうちに何回も何回もくり返し言っていたのです。

「また、自分以外のことの質問なんですね、 

実は…自分の質問のようにご本人は思っているでしょうけど、

結局は自分の思いどおりにしたいということですよね」と言いました。

一分ほどこの方が黙っていました。

また口を開きました。

「職場にですねえ…私にすごくつらく当たる上司がいるんです」。

私はまた笑ってしまって、手でバツを作って「ブー」と言いました。

私は、次のような話を続けたのです。

「もしかすると、日常生活ではほとんど笑顔がない状態で、そのように行く先々で、 

家庭の中で、職場で、あるいは友人の中で、いつもいつも『これが問題だ、問題だ』と 

言い続けてきたのではありませんか。

もし、私があなたの上司であったならば、あなたの顔を見たら、 

『これが問題だ、これが問題だ』と言っている

あなたに対して、自分に近づいてこないように、

より厳しく、より冷たい言葉を投げかけるのではないでしょうか。

『私のそばに寄ってくるな』という意志や、作用が明らかに働くと思います。

『問題だ、問題だ』というふうに、

問題をわざわざ、熊手で集めてくるのをやめにしませんか」と言いました。

「こんな楽しいことがあってね、

こんな嬉しいことがあってね、

こんな幸せなことが実はあったのよね、

こんなおもしろい話に出会ったのよね、

つい最近読んだ本がものすごくおもしろい本だった」

そういうように笑顔で話す人がいたら、その人の周りには人が集まると思います。

その人の口から出てくる言葉が

・嬉しい

・楽しい

・幸せ

・愛してる

・大好き

・ありがとう

・ついてる

(この七つを、「七福神」ならぬ「祝福神」と名づけました)。

そういう喜びの言葉、幸せな言葉というものが外に出てきたら、

それを喜ぶ人たちがたくさんいます。

「問題だ、問題だ」と問題点を探し出すよりも、 

受け容れることで、自分が楽になるのです。

そして、受け容れることでさらに、

そこに喜びを感じ、幸せを感じ、さらに感謝を感じることができたならば、 

その一つひとつの言葉に人々は癒されて、明るい気持ちになり、

その人の周りに皆さんが寄ってきます。

そして、周りの人みんなが笑顔になり、笑顔の集団が出き上がります。

<引用終了>

よくよく悩み事を分析して見ると、ほとんどが

・自分以外の人間を、自分の思いどおりにするにはどうすればよいか? 

・自分が思っているように、自分が気にいるように、相手に行動してもらうにはどうしたらよいか?

などのようですね。

ですがブッダが般若心経で伝えてくれたように、周りに起きて来る現象を

全て肯定して受け入れてしまう、そのほうが良いかもしれません。

悩みが悩みで無くなりますから。 

人が

・自分の思い通りに行動しない、

・時間を守らない

・ずうずうしい

・自分の価値観にそぐわないことをしている、、 

そんなことで、イライラするのはやめましょう。

スーパーの障害者用駐車場に、我が物顔で駐車しようとする人に

腹を立てるのはやめましょう(笑) 

人には人の心があります。

それに従った住む世界があります。 

私たちは、他人の心を推し量ることはできません。 

私たちが集中しなければならないこと、それは、他人のことではありません。 

まさに私たち自身の 心の在り方だけだからです。 

自分の心がイライラしたり

乱されるものからは離れましょう。心に入れないようにしましょう。 

悪い情報を、ムリにかき集め、毒を周りにまき散らすよりも、

明るく楽しい情報を周りに笑顔で発信していたほうが、

どんなに幸せになれることでしょうか?

きっと、ご自分でも驚くほど、運命が好転していくことと思います。


2025年12月20日土曜日

4112「二億パーセント大丈夫」2025.12.20

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月11日の記事を紹介します。


「二億パーセント大丈夫」


今まさに、 

・どんな逆境に置かれていようと

・どんな辛い病気であろうと、

・貧困の淵にあろうと 

そんなことはお構いなしに、周りの環境は、どんどん変化しています。

・悪く見える方向にも

・良く見える方向にも 

一瞬たりとも、同じ状態であるものは、 

この世に存在しません。 

その状態の変化、環境の変化、 

それらが何によって方向付けされるかといえば、

全て、私たちの心です。

あなたの心は、清らかに洗われていますか?

それとも、どす黒い憎しみに覆われていますか? 

今の心の状態に従って、少しづつ、運命は動いていきます。変化していきます。

中間世記憶、つまり生まれる前の記憶を持つ

子供たちが、話してくれた通り、私たちの今の人生を、魂のレベルから見た時、

・どんな辛い環境の中であろうと

・病気であろうと、

・貧困の中にあろうと、

・孤独の中であろうと

全ては、私たちが生まれる前に、計画して来た通りの状態であり、

そして、それは神さまの承認を得て、生まれて来たのだそうです。

今日は、以前掲載したこともあったのですが、

非常な逆境の中で生きる、一人の女性のお話です。

これも、やはり魂の醍醐味を味わうため。 

魂の成長のための、あえて選んで生まれて来た苦難であると分かります。 

母を救った娘の言葉

・知的障碍のある長男の誕生、

・夫の死、

・そしてご自身の大病。

度重なる試練に見舞われ、悲しみのどん底に沈んだ岸田ひろ実さん。

今日は車いす生活になり、絶望を感じていた岸田さんを救った、

娘さんの言葉をご紹介します。

<転載開始> 転載元

ある日、娘が車椅子を押して、私を街に買い物に連れ出してくれたんです。

目的の店はすぐ目の前なのに、車椅子では遠回りしないと行けないというようなことが、

いかに多いかを、この時の外出で初めて実感しました。

それともう一つは、人の目線ですね。

どこに行っても

「うわぁ、かわいそう」といった目で見られてしまう……。

「車椅子で何とかなると言ったって、 

何ともならないじゃない」

という感情がワッと込み上げて、一所懸命に頑張ってきたものが

音を立てて崩れるようでした。

それが本当に辛くて、レストランに入った時、「もう無理」と思って

初めて娘の前で泣きました。

「こんな状態で生きていくなんて無理だし、

母親として、してあげられることは何もない。 

お願いだから、私が死んでも許して」って。

――娘さんは何と?

「泣いているだろうな、死なないでって言われるんやろうな」

と思ってふと見たら、普通にパスタを食べていました。

そして

「知ってる、知ってる。死にたいんやったらいいよ。一緒に死んであげてもいいよ」

と言ったんです。

続けて

「でも、逆を考えて。

もし私が車椅子になったら、ママは私のことが嫌いになる?面倒くさいと思う?」

と聞きました。

「思わないよ」

「それと一緒。

旅行に行きたかったら行けばいいし、歩けないなら私が手伝ってあげる。  

二億パーセント大丈夫だから私の言うことを信じて、もう少しだけ頑張ってみようか」

と言ってくれたんです。

私の生き方や考え方が大きく変わったのはそれからです。

<転載終了>

「逆境は真実への第一歩」と言われています。

自分が経験したことのない痛みや苦しみは、本当に理解してあげることはできません。

・親が離婚した子供の悲しみは、親の離婚を経験した人にしかわからない

・子供を亡くした親の悲しみは、子供を亡くした親にしかわからない

・多重債務や倒産、破産、一家離散の苦しみは、それを経験した人にしかわからない

・過ちを犯してしまった人の苦しみは、同じ過ちを犯してしまった人でないと、わからない

同じように

「その苦しみや悲しみから救ってもらった時の 

『人の情けのありがたさ』も、苦しみや悲しみから救ってもらった人にしかわからない」

子供でも大人でも、救いや指導を必要としているのは、

今まさに、苦しみや悲しみを伴う逆境の中にいる人達。

逆境を突き抜けたところに、自分にしかできない、生きる道がある のかもしれません。

今まさに、自分は逆境の中にある、そう感じている方、

そんな人こそ

「同じような過ちや逆境の中で、 

同じような苦しみや悲しみを背負っている人たちに声をかけ、 

手を差し伸べる人」なのかもしれません。

そのために、天が試練を与えてくれてるのかもしれません。

その中にこそ、私たちが、この世界に生まれて来た目的が、あるのかもしれないですね。

もう一度、この試練を生きる糧に変えた母と娘の、 

本物の笑顔の写真を見てください。

もしかしたら、もしかしたら、

私たちの、その目の前の試練は、

とてつもなく大きな神様からのギフトなのかもしれません。


2025年12月19日金曜日

4111「泥を肥やしに咲く花」2025.12.19

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月09日の記事を紹介します。


「泥を肥やしに咲く花」


今日は西尾市にある浄名寺の副住職 松原紗蓮さんのお話をご紹介します。

親と子は時に離れ離れに暮らさなければならないことがあります。

まして自分が捨てられたと感じた時に、

子供はどんな気持ちになることでしょうか?

<引用開始> 引用元

私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。

幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、

親代わりの庵主様や、世間様の「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

同級生からはその逆に、お寺の子であることや、

実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが

「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、

泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。

張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。

役所に、ある書類を提出する際、

庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、

母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。

自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。

一体何を信じて生きてきたのだろう?

事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。

そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、

・髪の毛を金色に染めて、

・耳にピアスの穴を開け、

・あらゆるものに歯向かい、

・強がって見せることでした。

暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。

14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、

私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。

私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、

そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は

訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られてばかりでした。

ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、

読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。

例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。

私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。 

それは親心を越えた、仏様の心というものでした。

また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、

内から輝けるようになりなさい」と言われました。

人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、 

本当の生き方ができるようになるのだというのです。

私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない

簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。

ではその分、一体何に時間を使っていたか。

そう考えた時に、 

庵主様はすべての時間を

「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。

私の思いの至らなかった陰の部分では、

どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、 

御仏の光に照らされ、 

初めて親のお陰、世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。 

修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、

本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は

「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。

ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、

かえって反発を生むだけだった。

いまおまえが分かるということは、

おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」

とお話しになりました。

庵主様には1つの願心があり、

私がグレ始めた14歳の時に、

10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。

そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、

自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、 

どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。

庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、

私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。

23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。

後にある方から

「美しい蓮(はす)の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。 

人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、

その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」

と教わりました。

振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、

私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、

市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。

けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。

人一倍光るようになるよ、この子たちは――。 

私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。 

<引用終了>

紗蓮さんを変えたきっかけの言葉は、「少欲知足」だったそうです。

少欲にして足るを知る。 

なかなか実践することは難しいことですね。

私たちは、この物質文明、お金至上主義の真っ只中に生きており、 

お金が全て、そして便利さの恩恵にあずかっています。

お金や、その便利さ・快適さを得ることが人生の目的になり、

それが本来の人間らしい生き方を見失わせる原因になっているのかもしれません。

紗蓮さんは、育ての親の無償の愛に気付いた時、立ち直れました。

振り返って私達はどうでしょうか?

自分の都合のよい時だけ、子供に愛情を与え、

子供が自分の意に添わなければ、

「フン」と言って子供をないがしろにしてはいないでしょうか?

この庵主様のように、何があっても「平素のように生きよ」と、 

他人(や子供)の態度に一喜一憂せずに、

平素のように「慈悲」の愛を注ぎ続けたいものですね。

そうすれば、この庵主様と紗蓮さんの関係のように、

周りに愛の灯を広げて行くことが出来るかもしれません。