2013年11月26日火曜日

254「霜月2」2013.11.23

 大神(おおみわ)神社は思いのほか沢山の参拝者で賑わっていました。巳の神杉を右手に見て参拝し、三輪山登拝口がある狭井神社にも参拝しました。今回はあまり時間が無いので早々に天理市の石上(いそのかみ)神宮に向かいました。


 石上神宮に付いて以下の記載があります。
「古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
 社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
 この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。」
 生憎の雨でしたが、拝殿には沢山の方々が集まり長寿講社秋期大祭が催行されていました。こちらも駆け足で参拝して鏡池を巡り失礼しました。
 
 翌日4日は早朝、鞍馬山に登り参拝しました。昨年も11月に参拝していますが些かのご縁を感じて、今年もお参りさせて頂きました。鞍馬寺金堂、義経堂、奥の院魔王殿と巡り貴船に下りました。清々しきエネルギーを満喫できました。丁度、霊宝殿では義経展が開催されていまので拝観しました。





次なる目的地は下賀茂神社です。出町柳駅から歩いてすぐです。正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と言います。由来など以下の記載があります。
「賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、玉依姫命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある。
京都の社寺では最も古い部類に入る。社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説がある。一説には、天平の頃に上賀茂神社から分置されたともされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。」


 下賀茂神社境内に入って直ぐに河合神社があります。女性を守る美麗の神様で沢山の女性の参拝者がいました。鴨長明ともご縁が深い処で、ここで禰宜をしていたとのことです。方丈庵が再建されていました。
  河合神社の祭神は玉依姫命(神武天皇の御母神)で以下の記載があります。

「糺の森の中、「瀬見の小川」の西側にあるのが玉依姫命を祀る摂社の河合神社。正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系統の神との意である という。
 境内に任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っている。八咫烏とは熊野の大神<素盞嗚尊(すさのおのみこと)>のお仕え。八咫烏の「八咫」は大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、天・地・人を顕すと言われている。天とは天神地祇のこと。地とは大地のことで自然環境を指す。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるということを示している。また、蹴鞠の祖神とされることから日本サッカー協会のシンボルとなっている。
 また、八咫烏(ヤタガラス)は、日向の高千穂の宮にいた神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は兄とともに東方に都を造ろうと瀬戸内海を渡り、難波から淀川を遡り大和へ向かうが、大和の豪族の迎撃にあい撤退。やむなく迂回して熊野から北上して大和へ向かう。このとき天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)の道案内により山中を行軍したと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、熊野の神々の使いとされる。」

 糺の森は素晴らしい原生林が残るところです。その原生林の中、参道を進みます。
「糺の森は下鴨神社の境内に広がる原生林である。かつて京都に平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの広さがあったが、応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少した。特に1470年(文明2年)6月14日に応仁の乱の兵火を被った糺の森は、このとき総面積の7割を焼失している。
 糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、森を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としている。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については諸説ある。「偽りを糺す」の意とするほか、賀茂川と高野川の合流点であることに起因して「只洲」とする説、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するという説などの各説がある。他に、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという意見もある。」
 本殿は賀茂建角身命の西殿、玉依媛命の東殿を参拝して御手洗池、御手洗社を巡りました。御手洗池は葵祭のヒロイン斎王代が池に手を浸し清める「斎王代禊ぎの儀」の場所です。葵祭は祭の起源と沿革は以下です。
「欽明天皇の567年、国内は風雨がはげしく五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命をおおせつかって、4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。819年(弘仁10)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になった。」
 次は松尾神社で、嵐山から程近いところです。この社も秦氏所縁の地です。以下の記載があります。
「当社の背後の松尾山(223m)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に磐座とされる巨石がある。5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。大山咋神(おおやまくいのかみ)については、『古事記』に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂されたころには有力な神とされていたことがわかる。大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。
 また秦一族は酒造技術に優れ(同社御由緒)、狂言「福の神」によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされて酒造関係者の信仰を集める。同社の神事には「福の神」が奉納される。平安遷都により、皇城鎮護の神として崇敬されるようになり、「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称された。」
 本殿は七五三の参拝者で賑わっていました。参拝後、裏手の霊亀の滝を巡り、境内に点在する「上古の庭、蓬莱の庭、曲水の庭」の松風苑三庭を拝観しました。裏山は先の台風の被害の爪痕がまだ残っていました。



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