2013年11月28日木曜日

256「霜月4」2013.11.28

 今回、奈良、京都の各所を巡りました。更に20冊程の書籍に目を通してみましたが、縄文から弥生、古墳、そして大和朝廷への歴史の中に、正史に現れていない多くの疑念が数々と湧いてきました。日本とは何なのかという素朴な疑問です。そこを明らかにすることがある意味、中山さんから頂いた「二つの宮を糺すこと」に繋がりそうです。
 
 日本の歴史は、三国志、魏志倭人伝で卑弥呼の現れるのは西暦3世紀でありそれ以前の記録はありません。後は8世紀に出来た古事記、日本書紀しかないのが実情で、多くの古文書は偽書扱いとされていて知る由がありません。しかし、探すと色々な情報があります。果たしてその真偽は解りませんが、避けて通れないところです。
 縄文時代から日本に住んでいた先住民族に弥生の渡来人が融け込み、持ち込んだ稲作や数々の技術が農耕や新たな文化をもたらしました。しかし物欲から、多くを支配しさらには戦争をもする様になったようです。弥生を構築したそれらの民はどこから来たのか。そして今の日本の原型はどこなのか私なりにまとめてみました。
 
 弥生時代の渡来人は相当な数で同時期に日本に来たと思われます。その多くは失われた10支族と言われる多くのユダヤ民族、中国の民が朝鮮半島を経て主には北九州から流入していたと思われます。
 丁度、紀元前722年北ユダヤ王国が滅亡します。イスラエル10部族が国家を失い、行方がわからなくなります。その60年後の紀元前660年に日本の皇室史が始まります。それは神武天皇即位紀元とされる年です。60年かけてアジア大陸を横断して来たのでしょう。しかし何故、日本を目指したのか、それは預言者イザヤの存在がありました。

「イスラエル北王国が滅亡することを預言したイザヤは、家族や大勢のイスラエルの民と共に国を脱出し、その後、日本列島を目指したと考えられます。そして 「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と名付けられたイザヤの子 が、救世主として誕生することが預言されたのです。この奇妙な名前は「急いで略奪し速やかに捕獲する者」を意味し、それは当時、北方で勢力を振るっていたアッシリアの大軍によってイスラエルが滅ぼされるという警告の象徴だったのです。一見乱暴なニュアンスを秘めた「略奪」という言葉ではありますが、これは単にイスラエル国家の崩壊だけでなく、失われた国家の復活を救世主が短期間で実現することを約束する意味も含められていたのです。それ故、救世主は「インマヌエル」とも呼ばれ、神が共におられるという象徴として、敵を速やかに滅ぼし、新天地に神の御国を造ることを目指したのです。そのイスラエルの救世主とスサノオのイメージを比較すると、その類似点が幾つも浮かびあがってきます。まず「略奪」と命名されたイザヤの子 と同様に、スサノオは「牛頭」として、「略奪」を意味するヘブライ語の「ゴズ」が名前として使われたことが挙げられます。」
 
 記紀神話においてイザナギはイザヤで、スサノウはイザヤの子インマヌエルと思われます。大和朝廷が出来る前にスサノウは日本に来て出雲を中心に治めていたのかもしれません。
 
「弥生時代の日本人像が、おぼろげながら見えてきました。アジア大陸や南方諸島をルーツに持つ原日本人の自然増加に加え、紀元前10世紀頃には西アジアからの来訪者が船で日本列島に渡り、その後も継続してイスラエルから渡来者が訪れ、これが紀元前7世紀以降、第1波目の人口増加のきっかけとなりました。実際に渡来したのは、ユダ王朝の王系を継続し、聖櫃を祀る使命を抱いていたイスラエルの南ユダ王国の民を中心とした集団であり、その数は、紀元3世紀までに20万人にも達したと考えられます。イスラエル人の存在なくして、弥生初期の人口増加を説明する術がありません。
 紀元3世紀の日本人像とは、原日本人からなる縄文人とイスラエル人からなる弥生人のミックスが主体であり、世界でも類をみない民族ルーツであると言えます。その日本人の姿が紀元3世紀から7世紀にかけて更に進化します。ちょうどその頃、 第2波となる渡来人が、今度は朝鮮半島を中心に日本に押し寄せてきたのです。その多くは日本書記を始め、多くの古文書に記載されている秦氏を中心とした大群衆です。秦氏のルーツはイスラエル南ユダ王国のユダ族であり、弥生初期の渡来人とは異なり、彼らの祖先はイスラエル国家を脱出した後、アジア大陸に留まり、長い年月を経て現地で同化したと考えられます。」
 
 古代日本文化とイスラエルの文化が酷似するのは偶然とは言えない理由がここから始まります。秦氏達の存在が大きな影響をもたらしたと言えます。

「やがて秦氏はイスラエル系中国人として、その優れた文化や経済力を背景に、アジア大陸において政治経済の黒幕として活躍しました。そして秦国が滅びた際には朝鮮半島に移住し、今度は辰韓の地においても大きな勢力となり、次第に朝鮮半島の文化に染まり、朝鮮語を語るようになりました。この秦氏が、他のイスラエル系部族らと渡来を開始したのが紀元3世紀以降です。その頃既に、日本の人口のおよそ6割がイスラエル系であると考えられ、更に150万人にもなる膨大な人数の渡来者が日本に渡り、最終的に奈良時代初期の日本の人口は450万人にまで増大します。
 こうしたことから、奈良時代初期の全人口に占める縄文系人の割合が13%程度にしかすぎない実態が見えてきます。これまで日本人のルーツは弥生人と縄文人の混血と言われてきましたが、実際には渡来系の血統が殆どを占めていたのです。また、紀元3世紀以降の渡来人の内、3分の1がユダ族、3分の1がその他イスラエル部族、残り3分の1が朝鮮半島の住民とするならば、日本人のルーツとはおよそ、縄文人系が1割強、ユダ族が3割強、他のイスラエル部族が3割強、そして朝鮮・中国系の渡来人が2割強と考えられます。
 つまり秦氏は長い時間をかけて渡来した種族であると言うことが言える。」
「秦氏の故郷は弓月国(今のキリギス国)であり、更に遡るとイスラエルからきた一族とも言われている。キリギスには「ヤマトウ」と言われる地名や、「テングゥ」と言う名の山があり、それぞれ大和、天狗*に繋がると言う説がある。
実は秦の始皇帝も同じ出目であり、始皇帝の父は呂不葦と言う名のユダヤ出身の人だったと言われている。紀元前に渡来した秦氏は邪馬台国の時代から大和王朝成立時に係わり、秦河勝の渡来の時代は、応仁天皇から聖徳太子の時代に大和朝廷に協力し、平安京への遷都などに貢献したと考えている。」
 
 秦の時代に渡来していた存在とし、秦始皇帝の命令で不老不死の霊薬を求め蓬莱山を目指して渡来したと言われる徐福がいます。紀元前3世紀後半で2度目には沢山の若者たち3000名を引き連れてきて日本に留まったといわれます。徐福伝説は全国各地にありますので大きな影響をもたらしたものと思います。そして彼らも秦氏であった可能性があります。
 
「秦氏の正体とは、基本的には中国や朝鮮の文化圏において育まれたユダ族を中心とするイスラエル人です。そして大陸における長年の寄留期間を経て中国文化を吸収し、現地人との混血も進みました。その後、秦の滅亡と共に迫害を避けて秦氏は朝鮮半島に移住し、日本へ渡来する直前まで朝鮮半島に寄留し、今度は漢流文化の影響を受けることとなりました。それが「魏志」において「辰漢人」と記載されている所以でもあります。つまり秦氏とは、中国や朝鮮の影響を多分に受けたアジア系のイスラエル人であり、漢民族や、韓民族ではないのです。
 神の選民であるイスラエルの血は、長い年月を経て大陸文化によって育まれ、元来の卓越したイスラエル文化に古代中国大陸の優れた文化がブレンドして更に磨きがかかり、その研ぎ澄まされたように繊細な美的感覚を誇る独特の文化は、秦氏によって日本に持ち込まれ、現在に続く日本文化の礎となったのです。
 無論、日本列島各地には、秦氏よりも前に渡来したイスラエル人が存在しており、剣山の高地性集落等を始めとして生活圏を確立していました。応神天皇らもその先発隊の流れの一部と考えられます。そしてエルサレム城の再建を合図として、秦氏をはじめ半島にいた人々も一斉に日本に渡ってきたのです。
 もはやイスラエル系渡来人の存在なくしては、秦氏の有様、功績、歴史に残る偉業の数々を含め、日本の古代史を説明することはできません。隋の使者が秦氏について「明らかにする能わざるなり」と結論を明らかにできなかったのも無理はないのです。何故なら、秦氏のルーツは、アジア大陸の遥か西方の中近東、イスラエルまで遡るからなのです。 
 三世紀末、遂に歴史が動きはじめます。都の再建築を夢見たイスラエル系の渡来人は、応神天皇をリーダーとして、新天地である東の島々に王が住まわれる都を造営するために民が決起するべきことを公言したのです。その号令と共に、各地に居住していたイスラエル系の人々は、ヘブライ語で「神の民」を意味する「ヤマト」政権の誕生を祝して、各地からこぞって貢物を持参し、今日の奈良界隈に居を構えた天皇を訪ねてきたことでしょう。無論このニュースは、大陸側でも特に朝鮮半島に在住する同胞に伝わり、中でも有力なユダ族を主体とする秦氏は、イスラエル系民族の移住を朝鮮半島から加速させる原動力となりました。応神天皇の時代に、大勢の秦氏が朝鮮半島から渡来してきたことは、日本書記等の古文書に記載されている通りです。
 ダビデ王の末裔である秦氏が、大陸より渡来してエルサレム神殿をモデルにした平安京を築き、ユダ族の血統が秦氏らの介入により皇室に継承され、さらに律法に基づいて神宝の管理をレビ族の出自である阿刀氏系の法曹(空海)が執り行なったと解釈してみてはどうでしょうか。それは正に、ユダ族の王が君臨し、その神殿と神宝をレビ族が祭ったイスラエル王国の復元と言えます。
秦氏の功績を辿ると、確かにそこにイスラエルの痕跡を見出すことができます。例えば、秦氏の氏神は大辟大明神ですが、景教ではダビデのことを「大闢」と書きます。「闢」の門構えを省略すると「大辟(オオサケ)」となるため、この名前はダビデ王を意味し、それが秦氏の氏神ではないかと考えられるのです。ところが、本来「大辟」は「オオサケ」ではなく「タイヘキ」と読むものです。しかも「大辟」は「重い刑罰」、すなわち「極刑」を意味します。どうして「極刑」にされた神、というような名前がつけられ、しかも読み方まで変えられてしまったのでしょうか。その理由は太秦に秘められていたのです。」