アイリッシュハープのみつゆきさんの今年3度目の個人レッスン&コンサートが10月20に開催されました。今回も一段と素晴らしい会になりました。
今回は私も初めて個人レッスンを受けたのですが、アイリッシュハープの癒しの体感を実体験することが出来ました。ハープを肩にあてて揺する内に、直ぐに体が心地良くなり眠くなってきます。アイリッシュハープの音の響きと振動、リズムが身体に共鳴しているのでしょう。この感動は未体験の方は是非とも受けて体験されたら楽しいと思います。
毎回、言われますが、仙台の方々は感性が素晴らしい、関西にないもので、これは縄文スピリットそのものだと。その中にいつも浸かっている者には分かりにくいことですが、きっとそれは陸奥の風土が培う、我々にある血の繋がりであり、それだけでない遺伝子的情報なのでしょう。
個人レッスンには仙台テンメイが田んぼを使わせて頂いている木村農園のご家族4人が一緒に参加されました。私はその場にいませんでしたが小学1年生と2年生の可愛い姉妹とご両親のハーモニーは感動だったようです。木村さんはアイリッシュハープは病み付きになりそうと言っていました。みつゆきさんも木村家の感性、その完成度に感嘆していました。またこの体験を通して家族が一段と仲良くなったようで嬉しいことです。
夕方からのコンサートは2時間半近くの異例の会になりました。前半は椅子で聞き入りましたが、休憩をはさんで後半は皆さん横になって灯りを落としての癒しのコンサートです。それはそれは異質、平行宇宙に繋がる時間でした。
懇親会はいつものお店です。生体エネルギーの蔵ビールはみつゆきさんのお気に入りです。3杯程飲んで今度は生体エネルギー玄米酒やすらぎの滴のもっきりです。食事も美味しいと喜びの歓談の席は皆さん打ち解けて、和気藹々、楽しい世界です。
みつゆきさんの大ファンの盛岡から参加のKさんが「みつゆきさんの名前が南部藩の始祖の名前と同じですよ!」と言います。私も南部の始祖の名は知っていましたが、みつゆきさんと結びつけていませんでした。そうだ、同じ名前だ、これは繋がりがあるぞ、と思いました。
そんなインスピレーションを頂いて今回のブログを更に展開することになりました。
南部光行は北東北、青森岩手県等を長きにわたり治めた雄藩、南部藩の始祖です。私は南部八戸藩の八戸市出身ですので、少しその陸奥の地の歴史を前後も含めて追ってみます。
「南部光行は日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部郡などを与えられ、現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。
六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった。」
奥州合戦とは鎌倉政権と奥州藤原氏との一連の合戦をいい、平泉藤原氏の滅亡に大きな功を成して藤原氏の所領の地を源頼朝より拝領して治め、明治維新まで南部藩は約700年継続しています。しかし津軽藩とは深い確執があり以下のように記されています。
「戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、大浦為信のときに独立した。その際に南部氏重臣石川高信(盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたる)らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。 江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。」
そして南部藩の歴史では九戸政実の乱は特筆されるもので、家督相続に端を発した内乱は豊臣秀吉の奥州仕置きという事で収められました。やがて徳川幕府になってもお家騒動に端を発した事案がいろいろ有ります。
「寛文4年(1664年)、南部盛岡藩2代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟、七戸重信の本藩8万石と、中里数馬の八戸藩2万石に分割され、将軍の裁定により成立した藩であるため独立した藩とされ、翌寛文5年(1665年)、領地が配分され、治所は八戸城と定められた。立藩を機に直好は、南部直房と改名した。寛文8年(1668年)、41歳にて没する。
死因は病死であるとされているが、一説には「逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺」とも言われており、当時幕府からも調査が入った。 幕府の調査以降、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではない。独立した対等の立場」と表明している。」
「八戸藩の跡を長男の直政が継いだ。2代藩主南部直政は元禄元年(1688年)に、5代将軍徳川綱吉の側用人となり、辞任するまでの間、譜代大名なみの待遇を受けていた。元禄12年(1699年)死去、享年39。墓所は東京都港区の金地院にある。 死因に関して、八戸立藩を恨む盛岡藩南部家による毒殺説がある。完全に裏付ける史料はない。直政にも盛岡藩による暗殺の噂がある」
南部藩の所領はかつて坂上田村麻呂がアテルイを降伏させ、みちのくを平定する800年頃までは、蝦夷の地であり、さらに律令制度に組み込まれるまでにはかなりの年月を要しました。その後、
「平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長(蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの)、安倍氏が陸奥の北部(現在の岩手県・青森県)、奥六郡から下北半島、さらに十三湊[6]からの大陸交易に至る多大な権益に力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これに代わって平泉を本拠地とする奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび・・」と記されています。
平泉藤原氏は俘囚の流れをくむ東北の先住民系豪族の末裔です。それを滅ぼした源頼朝の配下の武将南部光行がその後を治めたわけです。先に触れた九戸の乱の九戸政実は南部氏の末裔ですが、風土が培ったまつろわぬ、蝦夷の魂が宿っていた、と高橋克彦氏は「東北の蝦夷の魂」の中で述べています。
南部藩は明治維新の戊辰戦争は奥羽越列藩同盟として明治政府と戦い敗戦します。しかしその時、秋田藩、津軽藩は新政府側として戦い論功行賞を受けています。
いずれにしても東北は中央から見れば、陸奥は辺境の地で、中央政権から蹂躙され続けた地です。古代から東北大震災に至る東北、蝦夷の精神、歴史を俯瞰するには高橋克彦氏の「東北の蝦夷の魂」(現代書館)は的確な視点を与えてくれる書で、一読をお勧めします。
しかし、お家大事の内紛、殺害が世の常という世界を垣間見ますが、一家を継続する事は並大抵のものでないと思います。現在に辿り着くまで計り知れない複雑な人間模様、権力闘争があった事は、その血を受け継ぎ因縁を継承しているのでしょう。
何ゆえに継続が必要なのか、何を成す為に集い、目的とするのか、今の激変の世の中は問われています。早くそのような世界から離れ新たな豊かな世界に変わりたいものです。
以前、神人さんから私の事で以下の様に言われたことがあります。
「家系は「力戦家系」で自分の家系を活かすことを善として、他者を活かすものでない。周りに悪意の人もいて分裂、分離の要因で戦った。
やらなければならないことは「家系を思い、先祖が苦しめた方々にお詫びをする」。
私ごときが詫びて済むことでないが頭を下げること。みな、霊が見て腹立てていたものも収まる。歯がゆい話だ。関与した者が詫びる事だが、それをすることは今のあり様を全否定することに繋がるので謝れない。良い悪いは無いが、祟る者がいた。こちらにしてもしかたがない。関与した者を納得させるために今の時代の者が詫びた方が都合が良い。それでまとまると。身代わりに謝る。後は支援する。その思いをさっしてほしい。これまで以上に支援してあげる。そういう霊団がいる。」
「因縁払いはする。必要なことしてもらっているがそれは使い走りでなく、役割としてあった。肩代わりの役目でそのことに感謝している。身代わりの役目は命まで係るものでない。周って因縁払いをする。顔を出して挨拶し、詫びに来て、解消していくことで霊縁が変わる。」
このことがある意味で私が今なされている事、やっている事なのかもしれません。それを経て共に新たな道を開く、目的を共にする縁者が仙台に集ってきているのでしょう。
光行とは、光りが陸奥に行く、みつゆきさんの魂にもその遺伝子情報がインプットされているのでしょう。次回は11月10日みつゆきさんの個人レッスン&コンサートが開催されます。ご縁の方々、是非集合ください。