頂上に向かう途中で中山さんに以下のお言葉がありました。
「北へと返れ、北へ戻れ 皆々はるけき夢歌い はー嬉しきへ。11:50」
宮澤遺跡であわ歌を響かせた後に頂いたお言葉は以下です。
「あー 続けき参る多くの方々、皆々この北の地を思い、この地が晴れ晴れ、大きく開かれるを望みております。
皆々様のその身の思いをしっかり定めて、光とひとつと成りゆきて、大きなる和を作る始めをいたしましょう。
はるけきの思いを共に。」
次は、加美町にある薬来神社です。こちらは、う、金、紫で北西の方向です。薬来山は秀麗な容姿で知られ、加美富士(神富士)、東小富士、姫山と呼ばれ、里宮の薬来神社から薬来山は正面に見えるのですが今回はお隠れになっています。御祭神は現葉々樹大神威 (アラハバキノオオカムイ)です。本殿前であわ歌を響かせました。
ここでのお言葉は以下です。
「来る時は迫りきたりて、皆々大きな動きとなりくる。
この北にしっかりと柱立ち、天地結びて発するは、大きなる力となりましょう。
どうぞ皆々様、共々にそれぞれの響きの渦をつくられてご用意くだされ。
うつし行きます光を。13:20」
4番目の目的地は仙台市の西にある定義山、定義如来西芳寺です。こちらは、え、土、金、です。運転手さん近道で山道を抜けようとしたのですが雪で通行止めです。引き返して些か遠回りで時間ロスです。大和町を通り過ぎて仙台に向かいましたが、右手に少し行くと農場の白石が有ります。
定義如来(じょうげ にょらい)と呼ばれるこの寺には、肥後守・平貞能(たいらのさだよし)が、壇ノ浦の戦い後に当地に隠れ住んだとされる平家落人伝説があります。貞能が安徳天皇と平氏一門の冥福を祈って阿弥陀如来を安置し、また改名して「定義」(さだよし)と名乗ったことからこの地を「定義」(じょうげ)と呼ばれるようになったようです。
天皇塚は貞能堂の裏にあります。安徳天皇の遺品を埋め、冥福を祈り、墓標として2本の欅が植えられました。やがて一本の木として結ばれ、連理の欅と呼ばれる様になり、縁結びの神木として広く知られ良縁を求める多くの人々が訪れます。
「大いなるこの宇宙の繋がりは、見事なり。その見事なるに手出しは無用。皆々、元へと思いを返し、共々嬉しきと成りゆかん。
この北の地は、豊かに晴れ晴れ、 成しゆく大きなる地、皆々様のその身を持ちて、返しゆかれませ。16;00」
歌っている間に参拝の方が何人も訪れます。私達の歌が終わるまで待っていて下さり、申し訳なく、ありがたい事でした。
定義は「三角あぶらげ」が有名です。バスでお店に乗り付けて全員が買って社内に持ち込んで味わいました。揚げたての三角あぶらげに七味唐辛子と醤油をかけて食べるのですがボリュウムがありなかなか美味しいのです。
定義は「三角あぶらげ」が有名です。バスでお店に乗り付けて全員が買って社内に持ち込んで味わいました。揚げたての三角あぶらげに七味唐辛子と醤油をかけて食べるのですがボリュウムがありなかなか美味しいのです。
時間はどんどん押して来ています。最期の目的地、七ヶ浜町の鼻節神社まではかなりの距離があります。日暮前に到着したいとの思いで高速道路を使ったのですが残念ながら完全に日が暮れてしましました。道が狭くてバスも鳥居近くで進めずギブアップです。鳥居から暗がりの参道を進み本殿前で18時丁度からあわ歌を歌い始めることが出来ました。
鼻節神社は東南方向で直ぐ太平洋です。お、火、赤です。この七ヶ浜半島は縄文遺跡が各所にあるかつて栄えた地です。神社の御祭神は猿田彦命ですがかなり古い神社です。
「社伝によれば、鹽竃神社と同じという神が神代に存し、御舟にて鼻節浜に上陸、孝安天皇の時代に「ほうが崎」に鎮座があり、舒明天皇2年(630年)に初めて圭田(祭祀用として天子から賜る田)43束を奉り神事を行ったという。その後光仁天皇の宝亀元年(770年)、ほうが崎は風が強く、度々社殿が破損したので現在の鎮座地である垂水山に移ったとされる。」
今日の最後の地です。皆さん疲れも見せず、あわ歌をしっかりと歌い上げて、夜空に五音は響きわたりました。お蔭様で全てを無事に終える事が出来ました。
ここでのお言葉は以下です。
「嬉しきことなり。皆々響き、大きく大きく開きたり。
見えざる皆々、共に響きたり。
光はうつりた、共々参ろう、進みて参ろう、嬉しきへ。
ありがとう ございます。 18:20」
時間に余裕があれば最後は天命舎で集う事ができたらと思ったのですがもう時間が有りません。仙台駅で解散して、有志は食事会をして明日の儀式に備えました。