http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,0,149,html
ここはかつて東北粉石工場として土地改良剤の石灰石粉を製造する工場でした。宮沢賢治の晩年にあたりますが、彼は東北の気候風土の中で難儀する農家の困窮を救うために、昭和6年にこの工場で技師として活躍しました。しかし品物を鞄に詰め、重い荷物を抱えて東京に出張中に病に倒れてしまいます。賢治の有名な「雨ニモマケズ」はその病床にあった11月3日に彼の手帳に記されていたものでした。
賢治は明治29年8月27日(1896年)に生れ、昭和8年9月21日(1933年)に亡くなっています。彼の生誕の年1896年6月15日には三陸地震津波、最後の年1933年3月3日に三陸沖地震が発生して甚大な被害がおきています。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感じる、と賢治の弟の宮沢清八氏は話しておられます。
このミュージアムは石っこ賢ちゃんと呼ばれた宮沢賢治が見ていた、自然の不思議な秘密を、石を通して学び、賢治の足跡を辿れるところです。美しい石、不思議な石、めずらしい石、化石などが数百点展示されています。面白く、楽しく賢治の宇宙に遊びました。
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黒石(こくせき)寺は縁起については以下の様です。
「人皇45代、聖武天皇天平元年(729)、奈良法相宗(ほっそうしゅう)薬師寺五代行基和尚が東奥に行化(ぎょうげ)し、この地に至り渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山した。」
「嘉祥2年(849)、天台宗三世慈覚大師円仁が東大寺を出て錫(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興、四十八宇を造った。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。」
この地は蝦夷の栄えた地で、幾度となく大和朝廷との戦に見舞われたようです。そして最後の抵抗の地であり、寺も消失しています。そしてこの寺を坂上田村麻呂が再建しており、田村麻呂の崇敬心も深く、胆沢城に石手堰神社(通称黒石神社)を官寺として建てその神宮寺的な存在であったようです。
黒石寺の蘇民祭は特に有名です。蘇民祭信仰の内容は以下です。
「北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘を娶ろうと旅をしていたが日が暮れてしまった。武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め、粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り、子を為した蘇民将来の所に、再び武塔神が八人の王子と現れ、「かつての報いをしよう。お前の子孫がこの家にいるか。」と問うと「妻と娘がいます。」と答えた。すると、茅の茎で作った輪を(茅の輪)身に付けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻と娘以外の全てを滅ぼしてしまった。そして、自分の正体が須佐之男命(スサノウノミコト)であることを明かすと共に、「後の世に疫病あれば『我は蘇民将来の子孫である』と唱え、茅の輪を身に付ければ、無病息災が約束されるであろうと告げた」とされ、この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がっていたのではないかと考えられている。
武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。」
武塔神は須佐之男命、牛頭天、薬師如来は同じと言われます。
「蘇民祭はほぼ日本全国に分布しているが特に岩手県の場合、記録保存のために国指定無形民俗文化財となっている。黒石寺の場合は蘇民将来の護符を奪い合う形態をとっており、一千年以上の歴史を持つといわれ、祭日は旧正月七日から翌日早暁にかけて古式通りに行われる。」
黒石寺の事については以下の記事も参考になります。
http://www.emisi.com/material/13_2002.9/kokusekiji.htm
黒石寺の本尊は薬師如来ですが妙見宮には妙見菩薩像が祀られていて妙見信仰もあります。本堂の左手の階段を登り、丘に妙見堂があります。そこであわ歌を響かせました。
そこでのお言葉です。
「いや増す響きとこの光、この地に持ち来るが、生まれ出で来る方々ありや、無しや。
共々参る、新しき道は、この時なり。
留まり行くや。進みて参るや、定め成されよ。
うつりたり響きは、全てを暴きて正します。
この時、この光とひとつへ。(拍手)
ふつつかなりせば、この身は未だ、暫しの時を過ごし行く。(拍手)
さすれば、大きなる光を持ちて参るなり。(拍手)」 15時22分
新しき道へとの誘いに対して、答えはここに留まり動かぬ、という事です。「さすれば、更に大きな光を持って来る、」と言います。北斗妙見に係る大元が同意しないようです。
これは大きな課題と成りました。日を改めて、準備を整えてこの地を再訪することになりました。今年の9月9日の儀式には日高見の地を整えて迎える必要がありますので、その前になります。
終わって戻って来るとKさんが体調が悪いと言います。岩手に住んでいた賢治とも縁深い方ですがこの場のエネルギーの影響を受けたようです。気を送って症状が改善できました。
以前この黒石寺の妙見堂であわ歌を響かせた時がありました。それは2010年10月11日15:57で、その時のお言葉は以下の内容でした。
「訪ねて参り来たり。
このあわ歌の響き、持ちて届けたり。
この響きを聴きたるや。
この響き、これよりこの地、この宇宙に響き、満ち満ちて、全ては変わり行く時ぞ。
この響きと光と、ひとつに成られたれば、元に帰る。
その時に出でませ、参りませ、進み行きませ。
多くの皆々進みておるなり。参りませ。お待ち申す。
永きにわたり御苦労でした。ありがとう。 (拍手)」
この時も動きませんでした。
2012年7月9日に、同じく妙見信仰で、日本三大妙見の一つ、相馬妙見を祀る、福島県相馬市の相馬中村神社を訪れて、あわ歌を奏上した時がありました。その時は以下の様なお言葉でした。
「ずい、ずい、ずいの、ずいを通して行く輩を、しっかりと現して、ふるうなり。(拍手)かなう、かみう、かたう。(拍手)
是より光をここに降ろす。皆々参りて受けられよ。」
あわ歌奏上
「大勢の所縁の方々、集まりありがたき。これより申す事々にお答え下され。(拍手)
あわ歌の響きと、持ち来りたる光、大いなる皆様、受けたるや。(拍手)
ここにある者の一人答える。受けたり。(拍手)
是より参る道、新しきとなさるや。(拍手)
伝えられしは我等の道なり。これよりの新しきは、我等が無きと成るや。(拍手)
今より、新しきは皆々一つとなり、区別は無しぞ。遥かな元へ進み行き、光の中なり。(拍手)
光とは、今見たるものなるや。(拍手)
如何にも。これよりこの光、降り注ぐ。この時に光と共に参られませ。(拍手)
大いなる光と見たり。分かりたり。(拍手)
それぞれ皆々、ご自分の思いで、定めて参られよ。ありがとう。」
この時もまったく動きませんでした。中山さん始め我々もその場のエネルギーを受けて大変な具合になってしまいました。ここで巡りを終わりにして、中山さんも早々に引き揚げた次第でした。相馬妙見も日を改めて参るつもりでいましたが未だ果たせずにいます。
今回も又、黒石寺妙見堂でも同様の結果に成りました。改めて北斗妙見のあり様が問われることになりました。どういう事なのでしょうか。その大元はどこにいるのでしょうか。
最終的に9月6日からその大元と成る地を巡るあわ歌の旅をおこなう事に成りました。