黒石寺妙見堂に祀られている妙見菩薩の解説は以下です。
「妙見尊星王や北辰菩薩ともいい北極星を神格化しその本地仏。童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、笏や剣を持つ。
脇侍は北斗七星を示す北斗菩薩。道教・陰陽道の影響が強く、武運長久、国家安隠、五穀豊穣の尊神であるが、物事の真相を見極める霊力があるとされることから眼病平癒の霊力を持つといわれる。平氏、源氏の妙見信仰には篤いものがあった。」
「北辰と言えば北辰妙見で、天御中主尊に繋がり、北極星(北辰)を神格化したもので、仏教でいう北辰菩薩、妙見、天王とみなす信仰です。この「天王」が牛頭天王(=素戔嗚尊)とされるから、妙見社に素戔嗚尊が祀られることも多い。」
さらに妙見信仰と黒石寺の事については以下サイトの記事が参考に成ります。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html
妙見信仰について以下の記載を紹介しておきます。
「妙見信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。
道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされた。
この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。
この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。
※鎮宅霊符神
鎮宅霊符の“霊符”とは一種の護符で、ご利益の種類に応じて多くの霊符があるという。わが国でいう“お札”“お守り”の原点ともいえる。
鎮宅霊符とは72種の霊符を一枚にまとめたもので、文字通り家宅を治め家人の安全を護る護符であり、これを家の四方に配すれば邪霊排除、いわゆる魔除けに効果があるとされた。
その霊符が時代とともに次第にご利益の範囲を弘め、例えば漢の頃、貧しくて病難災厄が続いていたある一家に、ある日二人の童子が訪れて鎮宅霊符を授け、
「これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう」
と告げた。奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通り天子が訪れてくるまでに富み栄えた。その家を訪れた天子は、その話を聞き、この霊符の霊験あらたかなことに驚き、自らも信奉し且つ天下に弘めさせた、との伝承があるように、数ある霊符のなかで最も強力な力を持つ霊符として広く信仰されたという。
※北辰妙見菩薩(妙見菩薩)
仏教にいう“菩薩”とは、“悟りを求める人”あるいは“悟りを得た人”の意で、仏に次ぐ地位にある尊格だが、妙見菩薩は菩薩を称するもののインド由来のそれと異なり、仏教パルテノンでは、弁財天や毘沙門天などと同じく“天部”に属する。一般の菩薩に比べて格が低いということだが、その分、身近な尊格として親しみやすかったのかもしれない。
妙見とは“妙なる視力”、事の善悪や真理をよく見通すという意で、七仏所説神呪経(5・6世紀頃中国で成立した偽経)には、
『吾は北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん』
と現世利益の功徳を讃えている。
わが国では密教や修験道で重要視され、これを勧請しての国家鎮護・除災招福の祈願が密教僧あるいは修験僧によって盛んにおこなわれたという。特に日蓮宗では「日蓮が宗門隆盛を祈っているとき、天から大きな明星が降りてきた」とか「日蓮が伊勢の常明寺に滞在しているとき、北辰妙見菩薩が姿を顕した」といった伝承から、宗祖・日蓮との関わりが深く、妙見菩薩を祀る星祭りが盛大におこなわれたという。
また俗信では、眼病平癒に験ある仏として巷間に浸透している。
※天御中主神
アメノミナカヌシとは、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神である。ただ、この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もなく、古社のなかでこの神を祭神とする社はなく、この神の後裔を名乗る氏族もないという不思議な神で、重要な神でありながら中心から身を引いた神といえる。
しかし鎌倉以降、特に江戸時代になって記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれる。
この神が鎮宅霊符神と習合したのは、両者ともに宇宙を創生した最高神とされることが大きな要因であろうが、この神について、記紀神話に何らの記載もないことから、後世の神格形成に際して自由度が高かったことからともいえ、それはキリスト教におけるマリア信仰と同じである。
※妙見信仰の現在
江戸時代までの妙見信仰は、仏教の北辰妙見信仰と道教の鎮宅霊符信仰、そして神道の天御中主信仰などが入り交じった複雑なものであった。しかし現世利益を求める庶民からすると、そこに祀られている神仏の神格・由来など関係ないことで、ただありがたい神仏として祈ることと引き換えに、求めるご利益さえ与えてもらえば良しとしたのが実態で、それは現在にも引き継がれた庶民の信仰である。
いま鎮宅霊符神を表に出している社寺は少なく、ミョウケンボサツを主尊とする寺院とアメノミナカヌシを主祭神とする神社に別れている。これは明治初年の神仏分離によって、鎮宅霊符神が邪神として排除されたためである。」
違う切り口で参考になりますので、以下のものも紹介しておきます
「天智天皇や持統天皇が大和朝廷を確立しようとした頃、アラハバキ神や瀬織津姫などの縄文神を封殺しようとしたのと同時に、古来からの縄文人やスサノオ、ニギハヤヒ、出雲族を抹殺しようとし、また、いわゆるスキタイ(騎馬民族)系など源氏系統の人々を関東以北まで追い払っていきました。
後に大和朝廷と闘うアテルイたち蝦夷(エミシ)や、源頼朝などの関東武士(武士のルーツはアテルイです)たちにも妙見信仰がありました。
幕末の戊辰戦争で敗れた旧幕府軍である新撰組の土方歳三や榎本武揚たちも、開陽丸に北斗七星の旗を掲げていました。
新撰組が甲斐甲府城に憧れたのも関係があります。
空海、修験道、武士…これらに密接に関わる北辰妙見信仰とは、とてもとても簡潔に説明することは不可能どころか、未だ様々な方が研究されており、何冊も本が書けるテーマですが、そこはオイラ、妙見研究家ではありませんので、バサッと結論を言います。
北辰の辰=ヘビ=竜=艮の金神
北辰妙見菩薩=弁財天=瀬織津姫=アラハバキ
艮の金神=アラハバキ=宇賀神=宇宙根元神
実にシンプルじゃないですか!
元々、北極星・北斗七星信仰とは、宇宙根元神信仰なのですから、渡来人政権である大和朝廷にまつろわない縄文の系譜や、その人々と調和していたユダヤ、スキタイ系統の人々は、名前は変われど同じ神を信仰していたことになるのですね。
いや、神と言うと誤解が生じる可能性がありますので、真理・法則と言いかえることができます。
それを縄文アミニズムとも言います。
人は宇宙根元神の分御霊(わけみたま)でありますので、私=神。
また、神は万物に偏在しますので、山にも草木にも、動物にも等しく神を見出すことが出来る訳ですね。
つまり、私はあなたであり、あなたは私であり、私はウリ坊であり、ウリ坊はあなたでもあると。」(縄文アラハバキが世界を変える)
「北斗七星を象った七曜紋は妙見菩薩の象徴とされ、妙見信仰の霊場では七曜紋や九曜紋の星紋が多く用いられています。
また、七曜紋の七つの星は「日・月・火・水・木・金・土」を表し、「日輪・月輪・光明輪・増長・依怙衆・地蔵・金剛手の七菩薩」を意味するといわれています。」
「九曜紋は七曜に「羅ご(ラゴ)・計都(ケツ)」の二星を加えたもので、土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。」
神社などで神紋、家紋が七曜紋や九曜紋は妙見信仰と考えて間違いありません。伊達政宗も細川家から九曜紋を頂いていたようです。
日高見の旅から大分脇道にそれましたが次の目的地は新幹線水沢江刺駅近くの出羽神社・アテルイ顕彰碑です。
2013年11月30日に出羽神社を訪れました。その時に以下のお言葉を頂きました。
「きっと、きっと成し遂げられませ。
皆々様のこの響きと光りでこの地を元へ還し行き、再び大きなる地と為さりませ。(拍手)
お~、承りた。共々に光を配りて、変え行かん。(拍手)
この地にありし大きなる思い発し行く時、伺いたし。(拍手)
是より、北の力を得て渦作り、その時を知らせ行く。
ここに花咲くその時を待ちて構えて下されませ。(拍手)
嬉しきなり。」
この言葉にある様に、ここに花咲くその時を待ちて構えて下されませ、に応じて今回の旅は企画されました。ですからの最大の懸案の訪問先でした。
花の咲くころという事で、桜の咲く5月連休明け頃の予定でしたが、諸事情で今回に延期されていました。果たして花が咲いている事との指定に応えられないと危惧していました。しかし、それは杞憂でした。
境内の整備も進んでいて、倒木が片づけられ綺麗になっています。神社脇を通ってアテルイ顕彰碑の方に進むと、木々に綺麗な白い花が咲き乱れているではありませんか。何の花かと皆さんで問い合いましたところ、どうやらツルアジサイの様です。この様にツルアジサイが群生しているところは珍しいようで、将にこの時に巡り、参ることが願われていたようです。
アテルイ顕彰碑で北の方向を向いて、あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「更なる響きを(拍手)
(あ、い、う、え、お、あ。)
今ここに揃いたるは、見事に果てたる大きな御魂を讃え、これよりの新しきは、
その古き時へと、かえさんと致すものなり。
再びの、大きなる地を見るべく、方々、皆々様、集いて、変え行きましょうぞ。
古き事々、諸々は、一切無しと致して参ろう。
生まれ出で来る、嬉しきへ、共に参らん。(拍手)
だい、だい、だんぶる、すべるは皆々、うんだり。ひむう、ふるい。」16時14分
どうやら、目的は達せられたようです。最期の言葉の意味は解りません。古のこの地での言葉の様です。