2014年7月1日火曜日

323「日高見6」2014,6,30

 縄文の樺山遺跡はとても皆さんお気に入りのところです。これまでも四季を通じて何度も中山さんと訪れていますが、いつも丘の住居跡のところで、眺望を楽しんでのんびりくつろいでいました。しかし、今回は何故か下の方の遺跡が散在するところに初めて案内しました。

 雨の降る中に、小さな立石と周りに石が張り巡らされたストーンサークルがある遺跡であわ歌を響かせました。そこで以下のお言葉がありました。 
「大事なること、これより申す。
 新しきへ向かう皆様、古きを探して、真を知るは、大きな身としっかり繋げ、その身が出るは是より、100と20日。
 その間、我等も整えるなり。
 今、ここにては祈りをなされ。先ほどの申しよ、も、その一つ。
 う、むる、ふる、ふり。」17時  
 あいうえお三回
「お~、お~、お~、む~(拍手しながら)
 た、た、た、た~、あ~。」17時8分 





 今まで樺山遺跡の丘で響かせた時のお言葉と全く違う内容です。やはりここは大きな意味がある場所でした。
「新しきへ向かう皆様、古きを探して、真を知るは、大きな身としっかり繋げ、その身が出るは是より、100と20日。」
 6月7日から120 日後は10月5日です。その時まで整えてお待ちくださるようです。我々も古きを探して、真を知る為に大きな存在に繋がり行く準備が必要です。9月9日の儀式に向けて、妙見の大元を訪ね、動かし、9日の儀式をしっかり行う予定でいます。その後にこの地に再度訪れる事になりました。

 次の目的地は北上市にある多岐神社です。御祭神は稲倉魂命(いなくらたまのみこと、うかのみたまのみこと)です。
「『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
 伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。同母の兄に大年神(オオトシ)がいる。」




 この多岐神社については先の黒石寺のところで紹介した以下のサイトに詳しく書かれています。 
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30180959.html

 妙見山黒石寺はそもそも東光山薬師寺と言われていました。この多岐(たき)神社は元々は滝から由来していたようで、神社の後ろに東光水という滝があります。共に東光という言葉が強い繋がりを感じます。
 この多岐宮神社には新山宮も合祀されており、そこに瀬織津姫が祀られています。新山宮とは遠野の早池峰神社の事で、元々新山宮と言われていたのが、明治の神仏分離によって早池峰神社に改称されています。その早池峰神社の御祭神は瀬尾律姫です。どうやら多岐宮・多岐大明神は新山宮で瀬織津姫の様です。



 多岐神社の由来は以下です。
「(北上市)指定文化財 正一位 多岐大明神
 抑[そもそも]、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
 稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下(を)擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、巌窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて六月中場の炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
 このとき八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に到りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百余打討られ北方へと逃げされり。
 将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
 其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化神に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに……瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。
 ときに、延暦二十一癸未年八月の事なり。
 後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が屡々有りたれば村民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を祈誓護持し参りし仲光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか、云々。此の由、都に聞こえければ、関白藤原頼通、帝に奏上成りたれば、帝此れを嘉みし、三井兼平を勅使として御遣わしになられたり。
 依つて御堂三間四面を再建され、境内二丁四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
 御堂再建を祝つて三井兼平
  都にて聞きしに満さる多岐の宮
     峯の古木に照らす月影
と詠みたり。
 時に長元八年四月、後一条天皇の御宇なり。
 文政七年に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われてきたのだが破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近隣の寄附により建立したのが現存の神社にして、彫刻の精巧さは稀少の物とされている。」

 更に「北上・多岐神社(新山宮)妙見信仰の残照」に以下の記載があります。
「多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
 朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。」

 多岐神社には集落を縫う細い道を進み最後の民家を過ぎると畑の先に赤い鳥居が見えます。日暮近くで雨の中、神社の奥の新山宮、東光水の滝の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉は以下です。
「助くるは、この光と共に参り行く事なり。
 受け取りたれば、直ちに発して、参られませ。
 古きは無しなり。生まれ出る光なり。
 ほお~、今一度送る。お~。」17時49分      




 中山さんはどうしてここを見つけたの、と尋ねられましたので、私は、東光水の滝に引き寄せられましたと答えました。滝の奥の山の方に、「何かがある」と中山さんはおっしゃいます。時間があれば行きたいと言う感じでした。しかし直ぐ18時で日が暮れますのでそれはまた次回にと宿に向かいました。

 大沢温泉に19時前に着いて、最高の温泉に入って長い1日の疲れを癒し、懇親会も楽しいものでした。私は恒例になった1次会でお休みでした。