2014年7月4日金曜日

326「日高見9」2014,7,3

 次の目的地は先程の走湯神社の由緒にありました陣ヶ岡にある蜂神社です。
「この地は、約千二百年前、蝦夷を攻めた坂上田村麻呂の宿営地。803年、志波城を築く時に軍勢や人夫一万有余人もが宿営した。志波城が完成した時、その成功を感謝し戦勝を祈願して頂上に建立したのが、蜂神社の起源とされている。」 
「前九年の役の際に源頼義・頼家父子が陣営を敷いたとされる陣ヶ岡は、幾多の戦乱の拠点となったところです。ここには、頼義・頼家父子が勧請したとされる蜂神社や頼義が造らせた月の輪・日の輪の中島などの前九年の役に関係する史跡のほか、源頼朝による奥州藤原氏征伐の際、殺害された藤原泰衡の首をさらし首にする際、洗ったとされる清水があります。春は桜、ツツジ、夏はアジサイ、秋は紅葉が美しい詩情豊かな聖地です。」




 ここは散策して何も無し、という事で失礼しました。
 
 次の新山(にいやま)神社も紫波町にあります。
「奥羽山脈の東、紫波郡紫波町土館に、新山[にいやま]という霊山がある(標高五五〇㍍)。現在は山頂付近に新山ゴルフ場ができて聖域・霊山の感は望むべくもないが、しかし、山名として「新山」と呼ばれるのは、ここに新山寺および新山堂(のちの新山神社)があつたことによる。
 奥州藤原氏の時代、この両寺堂の信仰下に多くの坊舎があった。当地はかつての志和村で、ここには五〇〇戸の早池峯神社の崇敬者が記録されてもいた。新山寺は現存しないが、これは「近世の初頭になって盛岡城下に移転」したためである(佐藤正雄『紫波郡の神社史』岩手県神社庁紫波郡支部)。
 残る新山堂(新山権現)は、明治になって新山神社と改称、神仏習合の仏教色を廃し、そこから新たに神社としての単独祭祀がなされることになる。」            御祭神は稲倉魂命ですがその由緒によると
「大同二年(八〇七)三月十七日、征夷大将軍坂上田村麻呂が凶賊征伐の祈願として新山上平に勧請せり。その後康平五年(一〇六二)九月、源頼義・義家が安倍氏を征する時志和に陣し崇敬せりと伝えられる。」とあります。



 新山神社は早池峰神社と強い繋がりがありますが、ここも参拝だけであわ歌を響かせること無く失礼しました。

 最後の訪問先は宮沢賢治所縁の矢巾町にある南昌山です。南昌山神社は矢巾温泉から1キロほど先にありますが昨年の集中豪雨のために道が寸断されて全面通行止になっています。


 南昌山神社には下見の時に行きましたが土砂で道は崩れ、橋も流されて悲惨な状況でした。今回は神社参拝は諦めることにして、通行止の標識を越えて少し先にある、幣掛け(ぬさがけ)の滝に行きました。







 そこではあわ歌を響かせること無く、中山さんに以下のお言葉がありました。
「助けになるは大きなる身の力ぞ。
 この山へ、降りかかりたる事々、皆々、生まれ出でる為なり。
 東に向きたる水、止めるなよ。
 流して、出だして大きなる流れ、新たに作る。
 これより、3度流して変える。
 大いに動き成されよ。」 16時40分

 この災害は人災との事です。東への流れを止めることがないように。後これから3度流して変えるとあります。果たして如何成りますでしょうか。この山の事だけでなく今の世の中にもその事が相似して現れるような感じがします。
 南昌山の山容は端正な形をして、賢治は何度もこの山に登り、この山を好んでいたようです。賢治が病床で記した通称「雨ニモマケズ手帳」に「経埋ムベキ山」として南昌山も書かれています。賢治の絵の「日輪と山」にも南昌山に沈む太陽が描かれていますが、帰りの車からも夕暮れの山が綺麗に見えました。以前訪れた時の写真も紹介しておきます。


 これで今回の旅はお蔭様で、無事に全て終える事が出来ました。岩手から参加のKさんとお別れです。近くのお店でささやかなお別れ会ならぬ、茶話会を設けました。
 甘味に口をゆるめて和気藹々のひと時です。後は一路、仙台へ帰ります。


 仙台へ帰りの車中にも中山さんに色々なお言葉がありました。今回の旅を踏まえて、次回9月のあり様をお尋ねする中に頂いたものです。ここに関係するところのみ紹介してみたいと思います。

「伝えて参りた、この北の多くの事は、北にある印の星と繋ぎ行き、皆々一つと致して、 晴れて繋ぐ日はこれより。
 来る日、目指して参ろうぞ。」18時9分 

「正すは、大きなる今、ここの仕組みなるが、
 その元へ参るは、うつりし遙かなる光を、皆々様のものと成る時。」18時11分

「ついては、是より歩く道、大きな星はその時に、ひたすら下して参らるる。
定めは、九つ、九つの日に、しっかり、九人と手を繋ぎ、周りて下され。大きなる地を。」18時40分  

 これからの指針です。整理してみると以下の様です。
・北にある印の星を繋ぎ一つにする
・正すは今の仕組み
・その元へ行くのはうつる遙かな光が皆様のものと成る時
・これから歩く道、その時に大きな星は下される
・定めは9つ、9日に9人で手を繋いで大きなる地を周る

 9月9日に大和の白石で儀式は予定されています。それに向けてこの課題を果たす事が求められています。黒石寺では妙見は動きませんでした。その大元を訪ね正す事は既にありました。やはり北にある印の星を繋ぎ1つにするとは、北極星、北斗七星でしょうか。
 このブログの322日高見5で紹介した様にざっくりと以下の関連がありそうです。
北辰の辰=ヘビ=竜=艮の金神
北辰妙見菩薩=弁財天=瀬織津姫=アラハバキ
艮の金神=アラハバキ=宇賀神=宇宙根元神
 妙見を調べていて三体妙見に出逢いました。以下の記載があります。
「三体妙見というのは、北極星を3つに見立てる信仰で、おそらくはベガ・アルタイル・デネブの3つが極北に存在した頃の古い信仰に基づいていると思います。ベガが北極星落ちした1万3千年前に沈んだとされる与那国の海底遺跡にも三体妙見の巨石が屹立しています。その信仰が後に、オリオン座と習合して現在まで引き継がれてきているのではないかと思います。」
 北極星は1つで固定しているのでなく、変化しているようです。その事は先日、木内鶴彦さんとお話しした時にも伺っていましたので腑に落ちました。この3つ石は古代オリエント信仰の巨大三つ石に繋がります。

 北極星は北辰と言われ、その神の乗り物が北斗七星です。北辰妙見菩薩は剣を持った女神で、北を指す玄武の亀蛇はともに水に関係することから水の女神と結びつき、瀬尾律姫に繋がります。
 瀬織津姫は天照大神荒魂とされ、ホツマツタヱでは、天照大神(アマテル)のお后です。
 天照大神と瀬尾律姫の子が天忍穂耳(オシホミミ)です。しかし瀬尾律姫は記紀神話の世界では消されています。
 天忍穂耳については以下の記載があります。
「天忍穂耳尊。 タガ若宮。ツボ若宮。 斎名:オシヒト。 贈名:箱根神。
アマテルとセオリツ姫の子で、天地つ日月の皇子。 
フチオカ麓のオシホヰで生まれた、オシホミの御子(どん詰まりの御子・最終の御子)。
タカキネの娘のタクハタチチ姫を娶り、クシタマホノアカリとニニキネを生む。 
はじめ多賀ワカ宮に住み、病弱のため、オモイカネとシタテル姫が守役となる。オモイカネ・シタテル姫の亡き後は、タカキネが代の殿として国政を執る。そのためタカキネの子のヨロマロをヒタカミの守とする。 
その後、ヒタカミのケタ壺に都を遷し (タカの首)、アマテルより三種と共に天地つ日月を受ける。
フツヌシとタケミカヅチが左右に侍る。鹽土の翁 (塩竈の神) も大いに関係しているようだ。
箱根のヰツヲハシリの洞に隠れる。
オシホミミ亡き後は、タカキネがアマテルよりヒタカミを賜り、独立の国としての道を歩んでゆく。」

 詳しくは「ホツマツタエ 天の巻 11アヤ 皇太子オシホミミ、三種神器を授かる」を参考にして下さい。 http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya11.html
 更に以下の表記も気になります。
「富氏の伝承には、この世界が一夜にして氷の山になった。
大先祖のクナトノ大神はその難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え海沿いを歩いた。
そして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。
クナトノ大神は色々な知識を持ち鉄の採り方、布の織方、農耕の方法などを教えた。また途中の地である塩竈にて塩作りを教えています。
人々を導いて来たことを考えると猿田彦の性格と合致しますね。
出雲大社の御神体は釜であり、鉄にも関わりがあります。
出雲神族の大先祖は「クナト(岐神)」の大首長だが、もう一つの女首長に「アラハバキ」があり体勢側により抹殺されようとした時、クナトは地蔵にアラハバキは弁財天へと変身した。と伝承しています。
塩竈神社は岐神との関係が明らかですから、クナトとアラハバキが一対のものと考えられているので、元々はアラハバキの様な所謂蝦夷の時代または縄文時代に存在していた神の祠があったのだと想像がつきます。」
 
 土着神と言われる紫波彦神の関係も気になりますが、今後の展開を楽しみに9月9日に向けて準備を進めて行きたいと思います。