2014年7月3日木曜日

325「日高見8」2014,7,2

 賢治記念館では殊の外時間がかかってしまいました。昼食前に訪れる予定の熊野神社に車を急がせます。
 佐比内川を見下ろす新山という小山の頂上に熊野神社はあります。車がようやく通れる狭い道を駆け上り神社に到着しました。遠野街道の要所にあり、かつて佐比内館があったところで、神社は坂上田村麻呂が延暦20年に創建したとあります。御祭神は伊弉諾命、伊弉冉命です。


 神社に到着すると中山さんは本殿の左側奥の方に足早に、何かに引き寄せられるように進んでいきます。林の中に縄で四方囲って結界が成されています。その中には石が置かれています。元々の御神体のあった場所なのかもしれません。
「ここだね」と中山さんが言います。神社の本殿からこの結界の成された処まで、たった今草刈りがされたような感じで綺麗になっています。山に登る道で軽トラとすれ違ったのですが、きっと部落の氏子さんが草刈りをした帰りだったのでしょう。
 私たちが巨大ソフトクリームを頂き、賢治記念館でのんびり過ごして予定の時間より大幅に遅れたのですが、全ては丁度良かったようです。まるで我々の参拝を知って、その時刻に草刈りをして下さり、待っていて下さったようです。



 結界の中にあわ歌聖歌隊が入って響かせました。その時のお言葉です。
「生まれ出ずれよ、大きなる元なる力、生み出だし、新しきへと参り行け。
 いざ、いざ、今なり。」13時21分



 この熊野神社について以下の記載があります。
「紫波郡紫波町佐比内・熊野神社の元宮は「新山大権現堂」と呼ばれ、この「大権現」は「お熊様」という親称によって語られていた。その元宮の祭祀地は「新山」という小山だが、それは新山大権現が鎮座するゆえの山名であろう。しかし、この山名について、熊野神社由緒は新山ではなく「大峰の丘」と書いていた。地図帳をあらためて見てみると、新山(大峰の丘)のすぐ北には「妙法山」という山名がある。
 妙法山という山名で想起されるのは、熊野・那智の最高峰・妙法山(七五〇㍍)である(富士山が視認できる最西端の山でもある)。由緒はよく語らないが、佐比内の「大峰の丘」は、吉野・大峰─熊野修験と関わる「大峰」を遷したものではなかったか。
 佐比内の「大峰」が奈良・吉野の大峰修験による勧請地名であるとして、陸奥国の小さな大峰に熊野神がまつられることを不自然でなく了解するには、少し掘り下げて考えてみる必要があるかもしれない。
 佐比内の「お熊様」が熊野の古信仰に関わっているとして、それが「新山大権現」といわれるのは、おそらくは、紀州熊野に対する「新山(真山)」という意をもっていたからなのだろう。佐藤正雄『紫波郡の神社史』(岩手県神社庁紫波郡支部)は、「新山」の解釈について、次のように述べている。
 そもそも、「新山」というのは、遠方の山岳に鎮守する神を便宜の地に勧請した新社のことであり、いわば遙拝所的な性格をもつものであった。
 新山を現在は「ニイヤマ」と訓読しているが、元は「シンザン」と音読し、早池峰神社の前身である大出の新山宮の里宮であつた。そして同時に早池峰山の遙拝所であつた(因みに今尚村内の古老は早池峯神社を「おシンザン」と呼んでいるが、これは即ち早池峯神社が以前は「新山宮」と呼ばれていたことによる)。」

 どうやらこの地は、早池峰山の遥拝所で、早池峰神社の古称の新山宮から山の名を頂き、瀬尾律姫並びに熊野、大峰の信仰の中心であったようです。今回の旅では北斗妙見の存在が大きな鍵になり、その大元を動かす課題が与えられていますが瀬尾律姫の存在も避けて通れないのではないかと思えます。

 兎に角終わって早々に昼食会場へ急ぎました。昼食は御当地名物のひっつみ定食です。今日は10時の豪華なおやつもありましたので遅めの昼食で丁度良かったようです。

 午後の最初の訪問地は紫波町の志賀理和気(しがりわけ)神社です。
境内入口に南面の桜があり、古人の悲恋の物語として有名です。この地で二人は出逢い、相思相愛となり、爛漫の春を夢見て桜の木を植えたのです。しかし君が都に戻りいずれ再会を夢に見ていた娘ですが、残念ながら果たせませんでした。桜の花が見事に咲いたのですが、花が全て南を向いていたそうです。残された娘が都に戻った君を思う心がそうさせたのでしょう。




 赤石という霊石も有名です。北上川で見つけられたもので、この石で水波が紫になったことから紫波の地名が付いたという事です。
この神社は「延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。」
 しかし志賀理和気と言う名の人、あるいは神を祀っていたところに大和が新たな神を祀ったとも言われています。それは「斯波加里(しわかり)の郷」は「志波神(しわかみ)の郷」であり、志波姫・志波彦神の神が祀れていたところに合祀したとのことです。
この地ではあわ歌を響かせること無く次の目的地に向かいました。

 志賀理和気神社から程近い紫波城跡の北側の麓に走湯(そうとう)神社があります。
 走湯神社は源頼朝により勧請されていますが、神社の事は吾妻鏡にも記載されています。由緒は以下のようです。
「源頼朝が平泉の藤原泰衡を討つために大軍を引きつれて奥州にきました。文治5年9月4日に蜂の森(陣ヶ岡)に着き、それから9月11日まで1週間宿営している間に、いろいろのできごとがありましたが、9月11日頼朝が高水寺に参拝した時のことが次のように書かれています。
「高水寺というお寺の守り神として走湯権現を祭った。その脇に小さな社があり大道祖と呼ばれていた。これは奥州藤原氏初代の清衡が祭ったものである。この社の後ろに大きな槻の木があった。頼朝はその木の下に立ち走湯権現に奉納する意味で鏑矢を2本放った。その後厨川の柵へ向かったが夕方になる前にはそこへ着いた。」 




 境内は隣地の開発造成で寂しい感じです。けやきの巨木があり、境内各所に境内社や石塔が配置されています。北側に巨石がありそこから北に眺望が開けます。今日の最終目的地の南昌山も綺麗に見えます。その巨石の上であわ歌を響かせました。
「発しなされませ。
 この大きなる岩より、この地に迎えて、只今の光を、大きく広げて、発し行かれて、新たなる地へ向かわれませ。
 お解かりなされたるや。直ちに。」15時10分