まず奥州33観音の由来、成立経緯を見てみると以下のようです。
「平安時代初期の延暦13年(794年)から貞観6年(864年)に生きた円仁(慈覚大師)によって、のちに「奥州古札所」とも呼ばれる三十三観音霊場が開基されたと言う。保安4年(1123年)には既に、この札所巡りが行われていたとされる。
一方、「名取の老女」として知られる「旭」が、平安時代後期の保安年間(1120年 - 1124年)に名取熊野三社(宮城県名取市)を勧請した際に、新たに三十三観音霊場を設定したと言われる(第1番から第3番までの札所は、名取熊野三山の南東に隣接して存在)。これ以降、この新たな札所の方が栄えたが、後に衰微した。
江戸時代中期の宝暦11年(1761年)、第30番札所である補陀寺(宮城県気仙沼市)の智膏和尚を初めとした7人の僧侶により再興され、現在へとつながる札所が定められた。」
「奥州三十三観音とは、観世音菩薩が三十三種の姿に化身し、衆生を救うという考えから、三十三の観音霊場が選定され、これらを総称したものです。
奥州三十三観音の成立の経緯は定かではありませんが、「名取老女」の伝説が関係しているといわれています。
「名取老女」の伝説とは、「昔、名取の巫女が熊野権現を深く信仰し、毎年紀州熊野に参詣していたが、年老いて参詣できなくなったので、付近に小さな熊野三社を建ててお参りしていた。その後、紀州熊野権現のお告げにより、旅の山伏が一葉の梛の葉を携え訪れたが、この葉には虫が喰ったような跡で『道遠し年もいつしか老いにけり 思いおこせよ我も忘れじ』という和歌が記してあった。その和歌を旅の山伏が老女に見せたところ感激し涙を流した。老女は保安年間(1120〜1124)に熊野三社を勧請し、その結果、熊野三社が創建された。」というものです。
この熊野三社の創建に対する感謝の印として名取の老女が三十三所の観音霊場を定めたといい伝えられています。」
「東北の北部(陸奥)は、大和朝廷成立時には中央権力の枠外で存在した。大和朝廷の成立以降も、暫くは平和な蝦夷(えみし)の里であり、土地の豪族の下で共同体を築いていた。
平安初期に中央の律令体制に組み込まれることになるが、鎌倉・江戸時代においてさえ中央権力と分断した歴史が存在した。
奥州33ケ所の観音霊場を調べると、13ケ所が坂上田村麻呂と何らかの関連を持っている。本尊については、一木彫の仏像が多く祀られている。黒石寺の本尊・薬師如来像は、胎内からの墨書銘から862年後の作と言われる。東北の殆どの仏像は平安初期以降のものが多い。」
奥州33観音ですが特別3観音を含めて36観音があります。そこにお祀りされている観音様は以下の5つです。
聖観世音菩薩像、十一面観世音菩薩像、千手観世音菩薩像、馬頭観世音菩薩像、如意輪観世音菩薩像。
車2台に分乗して出発しました。出発して直ぐに、参加者のTさんが朝から体調不良で、ひょっとしたら自宅のガスとエアコンを切り忘れたかもしれないと言うことです。万が一のことを案じて、急遽、私の車は自宅に回ることになり、もう1台は先に最初の目的地、第1番札所の観音堂のある熊野那智神社に向かってもらいました。心配は的中で、先ずは大惨事を免れることができて一安心です。
神社で合流して神社参拝です。ここは観音様と直接関係無いのですが、先ほどの由来にあった、名取老女が勧請し創建された神社で境内の少し離れたところに観音堂があるのです。
高館山の山頂にある熊野那智神社の本殿前の見晴台からの眺望は素晴らしいものでした。太陽がきらきら輝き太平洋に光を映し出す姿は天海を繋ぐ大いなる御柱です。巡りのスタートに天の恵みを頂けたことは幸いです。巡りで天と地を繋ぐ御柱が立てるか楽しみです。
直ぐに車で、十一面観世音菩薩をお祀りする観音堂に移動しました。ここは曹洞宗の紹楽寺の奥宮で、お寺は高舘山の麓にあります。着いて車を降りるや否や、皆さんが揃う前に、中山さんが観音堂でお言葉を下ろされました。私も途中からそのお言葉を聞いたのですが以下の内容でした。
「大信心、賜りましたるこの地、大いなる身、迎え、語らすは、いや増すこの地の天意(あい、愛)を晴らすなり。」
その後、皆さんであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「これより3月の間、我等が足を運びて廻り行く。
我、先争いて、よるでないそこに留まり、最後の勤めを致されよ。
きっと大きな光を持ちて参るなり。
騒がず、ただただその場を守り行かれませ。大きなる時、参りておるは招致なり。
おろろら、さんたり、さんさん、さんたる、らり~り、あり~。」8:30
これより3ヶ月とあります。33観音巡りは4月で終わりますが5月の内容は未定です。そこでも新たな内容の巡りが意図されていて必要なようです。
急な裏道を通って高館山を下りました。麓の紹楽寺前を通り、そこから5分程で第2番札所秀麓斎に到着です。曹洞宗のお寺で、聖観世音菩薩をお祀りしています。
ここは観音様が本堂にありますので、山腹の墓地の上にある東日本大震災慰霊の3,11観音像の前で海に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「尋ねるこの身がどこやら、どうなったやら、何も見えず、何も無し。さっぱり分からず、ここは何処。(拍手)
大きな光は届いたり。良く良く澄ましてこの声聞かれよ。目を開け、静まり、そこに居れ。これより届けるこの光、いやいや、いやう、え~え~え~え~え~え~。
ささ、参られ。手を繋ぎ、皆々共々参ろうぞ。大きなる地で待っておる。
さらさら、はらり、う~う~う~お~う~。」9:02
震災で犠牲になられた方々の霊が彷徨っているのでしょう。大きな浄化の光が届けられたようで、ありがたく、嬉しきことです。
次の第3番札所の金剛寺は既にないようで 車で5分程の川上生活センターという集会所のある場所の中に観音堂はありました。広場にぽつんと佇む観音堂は淋しくもあり、慈悲の世界の姿の現れとも思えます。ここには十一面観世音菩薩がお祀りされています。ここであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「来る日、目指すは多くの方々。ここにて永きが、相見える事無しに過ごし来た。本日、この時、一筋の光を見たり。嬉しきなり。大いなる遥けきへ参る。(拍手)
共々なり。皆々にその光発して、来る時を待たれませ。大いなり。響きなり。
さら、さら、さら、さらさんて、ゆよりる~。」9:30