2016年3月19日土曜日

590「観音8」2016.3.18

 奥州3観音の最後は涌谷町の箟岳にある第9番札所箟峯寺の箟岳観音です。天台宗のお寺で十一面観世音菩薩が祀られています。縁起などは以下の紹介があります。

「宝亀元年(770)、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創と伝えられ坂上田村麻呂がこの地に堂宇を創建したといわれています。古くは霧岳山正福寺と称していましたが、嘉祥2年(849)に円仁が中興、無夷山箟峯寺と改め、以後天台宗に属するようになりました。殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の崇敬を受けていました。往時は21坊をもつ大寺でしたが時代の推移、また二度の火災により衰えていましたが、二代藩主伊達忠宗によって再興されました。」

 次に興味深い記述は、奥州3観音の祀られた処の地形的な意味です。以下、その部分を転載、紹介します。
「地学団体研究会仙台支部編『新版 仙台の地学(東北教育図書株式会社)』に掲載された長谷弘太郎さん作製の「縄文時代早期の海岸線」の図を見る限り、牡鹿半島はまるっきり島であったようで、いわば北上山地と牡鹿半島を分断する入り江が後の北上川河口――追波湾(おっぱわん)――であると言ってもよさそうです。また、この図を見ていると北上川――日高見川――の流路、及び迫川――伊治川――や江合川――荒雄川――が入り乱れる現在の宮城県北部の広大な湿地帯は、縄文時代早期にはどうやら広大な“入り江”つまり“海”であったと言ってよさそうです。
 遠田郡涌谷町の篦岳(ののだけ)は、そんな入り江に突き出た岬の突端であったと言ってよく、この丘陵の頂上からはほぼ360度なんの障害もなく平野部を見渡せます。
 なるほどこの広大な平野と当地を代表する大河を管掌するには絶好の拠点であったのかもしれません。
 初夏など少し湿度の高い時期に、急激に気温が下がってくると北上川から湯気のような霧が立ちこめてまいります。かつて私がこの地を初めて訪れたときまさにそのような季節で、北上川に沿って立ち昇る雲海があたかも“白龍の通り道”といった趣きで、それとは裏腹に澄み切った夕焼けの空と北上山地の山容とのコントラストはまさに山紫水明と呼ぶにふさわしい光景となっておりました。
 奥州三観音の一つ、篦岳(ののだけ)観音はそのような地に祀られたのです。
 蝦夷の巣窟を「無夷山」と名付けたところには痛々しさすら感じますが、町史はこの記述にあるアンバランスな建築物について次のように語ります。
「元禄の堂宇は「随地勢之高低、柱長短不均」とあるが、これは田村麻呂将軍が賊赤頭高丸と悪路王を誅し、首は京に送り胴を岡の上に埋めたが、その際死者の屍体も埋めて塚を築きその上に観音堂を建てたといわれ、その塚の高低にしたがって建てたので柱の長さが皆違っているのだといわれている。嘉永年間再建の時、地均しをして建てようとしたところ怪我人が続出して、やむ得ずもとの形にして建てたと伝えられている。」
 おそらく屍の塚の上に観音堂を建てたのは事実でしょう。奥州三観音にはなんらかの封印の術が施されているようにも見受けられます。

 かつて、地図を見ていて思わずはっとさせられたことがありました。 奥州三観音の各々の位置関係は、かなり見事な正三角形を成しております。偶然かもしれませんが、各々の角度もかなり正確に60度です。それは考え過ぎだとしても、篦岳の観音堂下の塚の高低は、それなりの怨霊化の力関係の強弱に基づいていたとは考えられそうです。だとすれば“地均しをする”ということは、“その上下関係を無視する”ということに他ならないでしょうから、それは確かに不遜な許されない行為だったことでしょう。
 ところで、この篦岳観音はよほどこの地で大切にされていたのだなあと思わせられることがあります。天正15年(1587)という戦国時代の真っただ中にあって、本来摩擦が絶えなかったであろう隣接する当地の2大勢力葛西氏と大崎氏が、なんと仲良く折半で堂宇再建の寄進をしていたことが具体的な記録として残っているのです。
 葛西氏も大崎氏も本来鎌倉武士であり、奥州藤原氏滅亡の上に繁栄をみた大名です。奥州三観音に祀られている観音様は、本来このエリアの先住民族を供養するものであったことは間違いありませんから、葛西氏、大崎氏共、その部分についての多少の後ろめたさという共通の感情は代々継承していたのではないでしょうか。」
 http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23699138.html

 以上奥州3観音と言われる富山、牧山、箆寺はこの地の要所であり、蝦夷達の聖地でもり、坂上に代表される大和朝廷の権力により抹殺、占領され怨霊を封印されたところです。ですから一際、3観音として観音菩薩におすがりしたのでしょう。
 本堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~。ありがとうございます。これよりも、共々、共に参り行きます。
 響きてありますこの身の中の大きなる鈴の音と成りて、隅々へ伝わりました。
 光を大きく成し行きて、皆々様方、伺い知りて、共に旅立ちましょう。」11:34