2016年3月18日金曜日

589「観音7」2016.3.17

 石巻市内は5年前の東日本大震災の被害を受けていますが、かなり片付き、すっきりしましたが、まだまだそこかしこは復興半ばでの様子です。市内を抜け第8番札所、牧山観音のある牧山に上りました。



牧山観音についても以下の記載を一部割愛して紹介します。

「この都市の繁栄の歴史については、東北地方第一の大河“「北上川」の河口”という地勢を無視しては語れません。江戸時代以前の北上川のメインルートは、岩手県から南下して宮城県に入ってしばらくすると、桃生郡を大きく迂回して石巻へ向かわず大きく左折して三陸の荒海へと注ぎ出るものでした。
 厳密に言えばかつての登米(とめ)から桃生(ものう)あたりの平野部は、栗原(くりはら)方面から流れてくる迫川(はさまがわ)などで入り乱れ湿地帯の様相を呈していたようで、大雨が降ろうものならば一気に湖が出来あがるようなありさまだったと思われます。
 現在のようにある程度この河口はどこそこの川であると言えるようになったのは、やはり独眼竜伊達政宗の功績なのです。領土拡大路線の野心を捨て去った後の政宗は、自領内の経済力を高めるべく、新田開拓と奥州米の流通に力を注ぎました。その結果領土を拡大せずとも62万石の領国で100万石以上の米を生み出すにまで至ったわけですが、その際に必ず乗り越えなければならなかったのが流路の入り乱れるそれらの大河の制御でした。
 政宗は、関ヶ原の負け大将「毛利輝元(もうりてるもと)」の家臣「川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)」が浪人の身に甘んじているのを、これ幸いとばかりに伊達の家臣として召抱えました。このあたり、政宗の人物眼は素晴らしいものであったと驚かされます。
 天下の趨勢が定まってからの仙台藩は、職を失った武闘派の再就職先として荒れ地開拓を奨励していたようです。未開の荒れ地を開拓すれば、それが自領になるというのですから誰しもが必死で開拓したことでしょう。そのような中で孫兵衛が携わったのはどちらかと言えば公共事業的な河川流路の大改修でした。孫兵衛は眠れる才能をフルに発揮し、現代にまで残るような河川の流路形態の基礎を築きあげました。このとき、大河北上川の河口港は石巻と定まりました。この河口港は、政宗の一大経済政策である“買米”を生きたものにするための最重要拠点となり、結局は北上川ばかりか、貞山運河などの利用によって、もうひとつの大河阿武隈川(あぶくまがわ)とを連絡させ、仙台藩のみならず隣接藩の収穫物をも大都市“江戸”に出荷するネットワークが機能し始めていたのです。
 ところで、このイシノマキという地名にはいろいろ想像させられます。
 『日本書紀』に仁徳天皇55年に蝦夷(えみし)が叛いたという記事があります。その際天皇は上毛野田道将軍を遣わして討たせようとしたのですが、逆に反撃にあい田道は「伊峙の水門(いじのみなと)」で戦死してしまいます。石巻はその伊峙の水門の推定地の一つとなっております。
 前述のとおり、石巻は北上川の河口であるのと同時に、迫川の河口でもありました。迫川の上流には栗原郡――現栗原市――があるわけですが、そのあたりにはかつて大和朝廷前線基地である伊治(いじ・これはり・これはる)城がありました。この伊治城を何と読むのかは識者の間でも諸説あるようです。有力なのはコレハルあるいはコレハリで、それがクリハラの語源――あるいはその逆でクリハラが語源――と考えられておりますが、付近に伊豆沼(いずぬま)という湖沼があることから、イジ――伊豆から派生――も未だ十分に有力なのです。
 さて、川の河口の名称は上流の地名にあやかることが多いと言いますし、迫川も上流部において伊治川――伊豆川――と呼ばれていたようでもあるので、つまり石巻にあるその河口も伊治の水門と呼ばれたのでしょう。
 石巻の「イシ」の語源はそのあたりで間違いないのでしょうが、それでは「マキ」は一体何に由来するのでしょう。
このエリアで奥州三観音の一つがあるとされる「牧山(まぎやま)」は、一説には「魔鬼山」であるとも言われております。そもそもmakiyamaと呼ばずmagiyamaと濁っているところに、ヤマト言葉以前からのなんらかの意味があったと考えるべきでしょう。
 もちろんそれは当地の訛りと言えば訛りなのですが、それが標準語に変質させられることもなく、あくまでkiではなくgiと濁った状態がそのまま維持されているところになにか強いこだわりのようなものを感じざるを得ません。
『石巻市史』には、この牧山にある「梅溪寺」の縁起として次のように書いてあります。
――引用――
 市の東部海抜二五〇米の牧山頂眺望絶佳、幽邃の地にあり、延略(ママ)の昔坂上田村麿が夷賊征服後東奥鎮護のため、陣中護持の聖観音を祀った霊場にして、山中に田村麿将軍一
 千年供養塔がある。観音は奥州三観音の一といわれ、三十三礼所巡礼第八番に、たのめただ湊の船に法のみち大悲のみたねここにまき山。弘仁七年、聖観音を本尊として、天台宗梅谷寺を建立、魔鬼山を牧山と改称した。~以下省略~
 つまり、牧山は弘仁七年以前やはり魔鬼山と呼ばれていたようです。ここに出てくる「延鎮」とはおそらく田村麻呂の崇敬が厚かった京都清水寺の開祖と言われる法相の高僧「延鎮」のことと思われるので、天台の高僧というのは誤りでしょう。
 それはともかく、賊首の妻「魔鬼女」が気になります。この地はこの魔鬼女を供養する霊地だというのです。おそらくマギと呼ばれる一族がこの地にはいたのでしょう。そして例によって夷賊につけられる鬼の称号をここでも当て字されているようです。それにしても魔鬼とはなんともおどろおどろしい漢字を当てはめたものです。
 石巻の地名由来はもしかしたら「伊治の魔鬼」から始まっているのではないでしょうか。」
 http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/23593999.html

 第8番札所梅渓寺は曹洞宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。神社奥の輪塔を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「旅立ち行かれよ。古きを捨て、軽きと成られて舞い上がり、大空駆けて遥かなる道へ。
 おれ~、ら~・・。(拍手)あ~。」10:02

多くの御魂が過去を思い、怨念を捨て軽くなり浄化、昇天して行ったようです。ありがたき、嬉しきことです。