2020年10月28日水曜日

2154「三閉伊一揆1」2020年10月28日

 10月25日に神人さんと巡る陸奥縄文ツアーで田野畑村民俗資料館を訪れました。今までの巡りの訪問先とは若干毛色が異なるのですが、この地のリアス式海岸の北山崎の自然の造形美とは異質ですが、陸奥縄文の御霊の脈々と生き続けている一つの証として是非とも神人さん始め、全国各地から参集した有意の方々に触れて頂きたいとの思いで企画しました。
 2年半前にも訪れていましたが、改めてこの地で起きた三閉伊一揆のことを纏めて紹介します。

 田野畑村営の民俗資料館の簡単な紹介は以下の様にあります。
「田野畑村民俗資料館 
   国内最大級と言われる三閉伊一揆についての資料を中心に収蔵する全国でも珍しい資料館です。また村内の遺跡から出土した縄文時代の土偶なども展示しています。館内にはかつての建築様式である柾板葺きの民家を再現し、天井には一揆の辿った道と三陸の海岸線を組み合わせたモニュメントを設置しています。」

 この建物は1990年に竣工していて設計は早稲田大学理工学部穂積信夫氏が担当し、 東北建築賞受賞を受賞しています。
「村の歴史資料である農村一揆を題材に、周囲の山並 みに呼応した曲線的に隆起する鉄骨屋根と、館内を蛇行する木製格子の展示設置をデザインしている。そこには展示品と共に建築の要素を展示対象の従たる一部 にしようという意図があり、館内にはそれ以外の、いわば建築的な間仕切り壁は一切姿を現さないのが特徴である。」


 設計をした穂積信夫氏の思いが以下の様に記されています。
「この建物は博物館というよりも、一揆の人々や、先祖の人々の気持と出合う、ふれあいの場なのだ。歴史上の人物のお話ではなく、一緒に語らいながら歩くような気持である。林の木々をすりぬけるように小柱が立ち、歩く道も上下する。どこにいてもいつも一緒で、前に進む人も後から続く人も常に見えがくれしている。
 厳しい環境の中から立ち上がって一揆の人々にも、農作業という日常の生活があった。鉄山でふいごやかなて、この前にたたずむ姿もあった。そして目的を完遂。そのおかげで戻ってきた平穏な毎日のたたずまい。ひいおじいさんが使ったような船の舵やおばあさんの糸車には、ありし日のおもかげがただよっている。この地が伝承してきた栗の柾葺きの屋根の下では、いろりを囲んでわらじの作り方が学べるかもしれない。
 天井を見上げれば、そこには一揆の人々がたどった道すじが輝いている。まるで田野畑の夜空にかかる銀河のように、今の人々の平和な暮らしを、じっと見守っているのである。」

https://www.vill.tanohata.iwate.jp/kankou/see/minzoku-shiryoukan.html

 博物館には村から出土した遮光器土偶や人面付き石製品なども陳列されています。


 日常品についても以下の様に記されています。
「生活の道具には、それを使っていた人の物語がまつわっている。道具そのものを展示するのではない。道具をめぐる人々の面影を慈しみ、その時どきの生活の様子を偲ぶきっかけをつくる為にここにあるのである。
 ひいじさんが使った様に船の舵や、おばあさんの糸車には、ありし日の面影が漂っている。道具を介して昔の人と今の人が交流する。はるか遠い縄文の時代から・・・・」

 博物館の前には一揆を指揮した中心人物の佐々木与五郎衛と畠山太助の像があります。


 三閉伊一揆の特徴は以下です。
<民衆が総結集>
 弘化の一揆は1万2千人(三閉伊地域人口の20%)、嘉永の一揆には1万6千人(27%)が参加。嘉永の一揆は江戸時代でもっとも傑出した一揆といわれている。
 参加者は肝入(きもいり)、老名(おとな)などの村役を中心に農業者の百姓はもとより、牛方、漁民、鉄山・製塩で働く人、職人、山伏や僧侶まで、まさに「諸業の民」の参加でした。
<近代への扉を開けた要求>
 藩主の交替、領地・領民の変更という要求は、藩政そのものを否定するという、他に例のない政治的なものでした。
<指導者の人間性>
 一揆の指導者たちは、優れた知性、思想性、人間性を示す言葉を残しています。
「百姓は天下の民」と説き、16,17年間にわたって一揆を組織した弥五郎衛
「衆民の為死ぬる事は元より覚悟の事」と嘉永の一揆を勝利させた太助
「人間は三千年に一度咲くウドンゲの花」と家族に書き残した命助
「関の声は百姓の唄にて候」と役人を撃退した忠太郎
「其の文体すべて麗しく下部の手際に非ず」と驚嘆させた俊作
「南部の家滅ぶるは近きにあり」と喝破した二つの一揆を指導した喜蔵
「おれの命は二度命だ」と勇猛果敢にたたかった倉冶
「俺の元結の切れないうちは安心してついて来い」と、葬式一揆を行って本隊に合流した与之助