「三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。
盛岡藩は領内を33の「通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、宮古通、野田通の3つの通から成っていた。これらを三閉伊通と総称したことから、三閉伊(通)一揆と呼ばれる。
1 弘化三閉伊一揆
天保7年(1836年)から翌年にかけて盛岡藩領北上川流域の各地で打ち壊しを伴う激しい一揆が続いた。藩は横沢兵庫を家老に抜擢して財政改革に乗り出す。商工鉱業の振興で増収を図る一方、天保14年(1843年)から五年間は一戸1貫800文の御用金を徴収する代わり他の御用金は課さないとした。ところが弘化4年(1847年)にこれに反して新たに御用金を課した。しかも、林業、鉱業、漁業、塩業などに豊かな三閉伊通に偏った賦課であったため、同年11月17日に野田通の各村から一揆が始まった。
一揆勢は20日には500余人となって大芦(田野畑村)に、さらに南下し乙茂、小本などを経て21日に小堀内(宮古市)まで進み、18日に田老村を出発した組と合流、一揆勢は千人を超えた。23日には二升石村(岩泉町)からスタートして野田通で仲間を集めた勢力とも合流。
一揆の頭取(最高指導者)は閉伊郡浜岩泉村切牛(田野畑村)の百姓で佐々木弥五兵衛。70歳近い高齢だが、肝が座り体も頑健で、小本の祖父(おど)と呼ばれた。既に天保の藩政改革の前から十数年にわたり領内を歩き村々のリーダー格の家に泊まっては一揆を説いて回ったという。三閉伊の人々が蜂起し合流したのは、弥五兵衛の事前調整による組織化のためだ。弥五兵衛はときに集団を先回りして村々に参加を呼びかけたと言われ、周到で計画的な行動力があった。
11月24日一揆勢は役人の阻止を突破し宮古通代官所のある宮古町に押し入る。ここで酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ち壊している。恨みのない隣家には手を出すななどと叫んで回る声があったとされ、統制がとれていたことを示すと思われる。若狭屋は門村(岩泉町)の山師佐藤儀助の出店で、嘉永の一揆は佐藤儀助にも押しかけているので、若狭屋に対する「恨み」とは鉱山事業に関わるトラブルのようだ。
27日に大槌通山田町に入った一揆勢は1万人を超える。29日代官所のある大槌町では1万6千に増加。大槌を出て南下した一揆勢は和山峠越え、笛吹峠越え、仙人峠越えの三手に分かれ、遠野町に向かう。遠野を目ざしたのは南部氏一門の南部弥六郎を通じて要求実現を図ろうとしたものである。一揆勢は仙台藩領への逃散を標榜していたのを遠野に進路変更したともされるが、弥五兵衛ら指導者はまず遠野南部氏に訴え、ダメなら仙台藩主に訴え、さらに失敗したら幕府に直訴するとの三段構えだったともされている。
一揆勢は12月4日までに遠野町の早瀬河原に集結。ここでは5千人ほど減って1万1千人。みぞれ降る寒さに遠野町が食事を供出したという。12月3日に盛岡から派遣された南部土佐の説得を拒否、弥五兵衛は4日、南部弥六郎の家老新田小十郎に25ヶ条の願書を提出。願書は、安家村(岩泉町)の農民俊作が書いた。願書の中心は三閉伊通の御用金約8千4百両の免除など。
意外にも南部土佐は御用金免除など12ヶ条は即座に受諾したため、5日に一揆勢は解散。
一揆勢が「横沢という沢の人を喰らう悪狼」と呼んだ藩家老横沢兵庫は免職され、藩主南部利済(としただ)も隠居せざるを得なかった。
2 弘化三閉伊一揆のその後
弥五兵衛は解散直後の年の暮れから、早くも再決起に向けて村々を回って、一戸一文のカンパを募っていたという。弥五兵衛は藩の回答どおり実行されるか不安をもっていたといわれ、兼ねての三段階戦略からすれば次の段階に進んで要求実現を考えていたようである。
弘化5年(1848年)1月に果たして盛岡藩は約束を反古にする姿勢を示す。弥五兵衛は三閉伊に加えて遠野や北上川流域にもオルグ活動を広げ、藩により二子通の上根子村(花巻市)で逮捕され同年(嘉永元年に改元)6月15日盛岡で獄死する。斬首とも伝えられる。
してみると南部土佐の即決回答が、本藩に受け入れられなかったのか、或いは最初から騙して解散させた後に指導者をおびき出す作戦だったのかも知れない。
同じ嘉永元年(1848年)6月南部利義(としとも)が藩主となるが隠居した利済が実権を放さず、長男利義を一年で退位させ次男の利剛(としひさ)を藩主にするなど、院政を継続し、弘化一揆の領民の声を無視して御用金賦課を押しつけた。
安家村の俊作は嘉永元年10月に逮捕され、盛岡で投獄の後嘉永3年に北郡田名部通の牛滝(青森県下北郡佐井村)に流罪。
3 嘉永三閉伊一揆
嘉永5年(1852年)三閉伊の百姓たちが仙台藩領に逃散する動きが始まる。同6年には盛岡藩が新たな御用金を村々に賦課。同年3月から4月に野田通や大槌通の村人が蜂起しかけたが、頭取である袰綿(ほろわた)村(岩泉町)の忠兵衛の急死で中断。5月19日野田通田野畑村の人々が決起。仙台領に手間取り(出稼ぎ)に行くとして参加者を募りながら進行した。
一揆勢はまず北に向かい野田の鉄山役所を打ち壊した後、内陸寄りに南下、26日に上田通の門村の佐藤儀助宅に押しかけ闘争資金5百両を貰い受ける。藩による鉄山事業関連の課役が領民の負担であったことを思わせる。
一揆勢は東進し、袰綿、岩泉、乙茂、小本と海岸部に出て南に転じる。小本村に入った28日には三千から四千に増加。29日には宮古町で佐藤儀助の出店だった商人刈谷勝兵衛宅を打ち壊す。6月2日に宮古を出る頃は1万人を数える。3日に大槌町に押し寄せたが、大槌通代官所の役人は全員逃走したという。
嘉永6年6月5日一揆勢は仙台藩境に近い釜石村に到着。大槌通の参加者を含めて総勢2万5千人。6日に指導者は参加者の約半分を帰村させ、約半数の勢力で越境し気仙郡唐丹村(釜石市唐丹町)に入る。
嘉永三閉伊一揆の中心的指導者は田野畑村の畠山太助とされる。しかし大集団をひとり太助だけが統率できたはずがなく、一揆勢は見事な指揮系統を整えていた。参加者は各村の頭取たちによる合議による作戦で、組織的に行動した。頭取集団は「小○」の大幟を掲げて、大旗本組、本陣組と呼ばれた。この指導部の周囲を、若者集団が警護に当たった。一揆勢は出身の村ごとにまとまり、それぞれの旗の下に進んだ。指揮命令が通りやすく、また不審者が紛れ込まないようにしたとされる。
参加者は叺(かます)(藁筵の袋)を背負って参加し、法螺貝の合図で出発したので、一揆のことを「貝吹き」や「叺背負い(かますしょい)」と呼んだ。
仙台藩領に入った一揆勢は、大綱三ヶ条なる仙台藩主宛願書と盛岡藩の政策の改善を求める四十九ヶ条の訴状を提出する。三ヶ条とは、藩主に南部利義を復帰させること、三閉伊を仙台藩領とすること、あるいは天領にすること。このように百姓が藩主を否定する要求を公然と掲げたのは一揆史上画期的なことである。
四十九ヶ条の訴状は、貢租納入方法の改善、御用金賦課への反対、金上侍制度の否定、など。
これを受けて唐丹村で両藩の交渉が行われ、盛岡藩は一揆勢の引渡を求め仙台藩は拒否。仙台藩としては、かつて天保8年に盛岡藩領からの越訴の百姓たちを引き渡した際に、盛岡藩が約束を破って頭取を処刑したことがあったためとされる。
おりしも嘉永6年6月のペリー来航で諸藩は警備兵の派遣を命ぜられ、仙台藩も千五百を派兵することになり仲介交渉どころではなくなる。一揆勢も大人数が留まる余力はなく、45人の代表を残して、三千人は帰村する。(仙台藩領に逃散した人数は当初一万数千から順次縮小していたことになる。)四十五人衆は畠山太助、栗林村(釜石市)の三浦命助などを含め、村々から代表を選んだ。一揆参加者は25日、三閉伊通惣百姓中の名で太助や命助らと契約を結び、もし代表者たちが命を落とせば年に十両づつ十年間遺族の養育費を渡す、などを約した。
7月になると盛岡藩も譲歩姿勢を示すが、実際には遠野の役銭取立所を再建し、南部弥六郎を要職から排除し、利済の院政下で領民負担増を進めようとしたため、三閉伊通の百姓は素早く行動し、7月8日遠野役銭取立所を打ち壊す。10日には仙台領の四十五人衆が故郷の各村に決起を呼びかける。12日に大槌通から250人が仙台領に逃散、18日には野田通で決起、宮古通と合わせ3千5百人が宮古に迫った。
盛岡藩は遂に発砲に踏み切り、一揆勢に死傷者を生じる。8月にかけて農民の不満は雫石通、五戸通、三戸通、沼宮内通、福岡通、田名部通にも及ぶ。
仙台藩も黙っておれなくなり、四十五人衆を気仙郡盛町に移し、さらに9月には仙台城下に移した。亡命指導部と南部領内の各村を断ち切ることで、南部の騒動を煽っているとの批判を避けようとしたと思われる。一方で仙台藩は幕府に報告する旨を盛岡藩に通告。動揺した盛岡藩は9月21日一揆勢の要求の多くを受諾。10月4日には負担増政策を進める石原汀と田鎖茂左衛門を罷免。翌日南部弥六郎を藩大老に復帰。さらに10月9日には一揆勢の残りの要求も受け入れた。
南部弥六郎は四十五人衆の身柄を引き取るため仙台城下に赴き、帰村を促すが、四十五人衆はさらに粘り、上納金は直納とすること、三閉伊の百姓の借金返済を30年の年賦とすること、一揆参加者を逮捕しないことなどを求める。南部弥六郎はほとんどを認め、一切咎めをしないとの安堵状を手渡す。30年年賦こそ認められなかったが、返済を督促しないよう貸し主に触れを出すと約束したので、一揆勢の全面勝利と言える。
そして南部弥六郎は約束を守った。一揆参加者に何の処罰もせず、俊作らも釈放され帰村。
他方で盛岡藩は藩役人二百数十名を処分。南部土佐、石原、田鎖のか、休職中の家老横沢兵庫なども含まれた。南部利済は幕府によって江戸下屋敷謹慎を命じられた。」
参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年