今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2022年3月28日の記事を紹介します。
https://ameblo.jp/riyanmichaki/
「世界「日本」最終戦争量子意識「ひとつ」へ
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。
ズバリ、日本のみならず世の中の緊迫状態が日を追うごとにエスカレートしていますね。
早速、インタビューに入らせていただきます。
――澤野さん、久しぶりのインタビューですがよろしくお願いいたします。毎回同じことを言っているようにも思えてしまいますが、世界が大変な状況になっていますね。
そうですね。前回のインタビューでもお話ししましたように、この「年度末」というのが
ひとつの大きな区切りとなるでしょう。もうすでにとんでもない年度末になってしまっていますけどね。この「年度末」というものと「末法の世」が同時進行しているのですよ。
――「雛形」としての日本を表しているように見えます。
日本は「かがみ」(蛇身)の機能を持っていますよね。それはつまり一般的には「雛形」として知られているでしょう。厳密に言えば雛形ではなく「かがみ」ですから、多次元世界と三次元世界の中間に位置していて、両者を次元変換させて結び、そして均衡させる働きをしています。「かがみ」の中に生きているとついここが雛形に思えてしまうのですよ。
この「かがみ」の反対側にもうひとつ多次元世界があるのです。今まではこの「均衡」までしか理解は及びませんでしたけれども、最近になってそれは多次元と三次元の均衡をもたらすということだけでは表現が足りないことがわかってきました。
――表現が足りない?とは?
その「均衡」の意味といいますか、その中身ですね。多次元世界と三次元世界の「どちらか」ではなくて、その両者が同時に存在し、さらに両者が重なり合っている状態。このことを私はこれまで「均衡」としか表現できなかった。でも今はそれが「もつれ」だったということがわかってきた。
――それは「量子のもつれ」と同じことですよね?
そうです。本来の「人」というのは想念の領域、つまり多次元領域と、物理的、肉体的、物質的な領域、つまり三次元世界とが「一致」することが望ましいって思われてきましたよね。
でもそのさらにもう一歩先があることがわかってきました。思いの部分と、言動の部分が「もつれ」ること。これによって「人」というものが大分完成形に近づく。
これは「右脳」と「左脳」についても同様に言えることでもありました。よく「あなたは右脳派ですかそれとも左脳派ですか?」とか話題になりますよね。多くの人は右脳が弱いと言われ、だからみんな右脳を開発しようとしたり強化しようと頑張ってきましたよね。
――幼児教育の世界などでは右脳開発は特に注目されています。
でも「もつれ」のことを考慮していくと、右脳だけを強化すること、または左脳だけを強化することが必ずしも良い結果を生まないということがわかってきます。
ここで「もつれ」を導入すると、つまり、「右脳的思考であり左脳的思考でもある」という
「もつれ」の状態があるのだということを多くの人が見落としています。
右脳と左脳がきちんと「もつれ」ることによって、たとえば、壮大無辺なイマジネーションや漠然と複雑な概念を、毀損なく精緻に物質(言語、文章、映像、絵)化させることができるようになります。
これは芸術分野においては一番重要な能力ではないでしょうか?
ですから多次元世界でいくら壮大なビジョンが見えようと、それを正確に写し取るだけの
基礎学力、言語能力、デッサン力等のいわゆる「基本」を身につけていなければせっかくのそのビジョンも三次元世界に物質化させ人々に見せ示すことはできないわけですよ。
――それはたとえば霊能力などにも同様のことが言えるような気がしますが。
そうそう、もちろんそう。なんだかものすごいビジョンが見えてしまったとしても、それが何を意味し、その場がどういう場所で、歴史的にどのような意味があったのか、という基礎部分がなければ、せっかくのそのビジョンを解釈し、第三者に伝えることができないでしょ。
つまり「もつれ」ていない霊能者は、霊能力が無いことと等しいということね。
「う~ん、見えてるんだけどなんだかわかんない!」じゃカッコ悪いでしょ。
でもね、ビジョンや直観というものは往々にしてその者の基礎の具合に応じたものしか降ろされないわけですよ。ですから己が見たビジョンを過信しちゃいけないのです。
そのビジョンは今現在・現時点での己の基礎量や人間力に見合ったレベルなのだということ。だから常に謙虚でいることが大切になってくる。
「今見えているもの、今ひらめいたこと、今わかっていることというのは、全体のうちのホンのわずかであり、まだ私はほとんど何も知ってなどいないのだ」と常に冷静に自覚していく習慣をもつことが大切だと思います。このような姿勢を「無知の知」というわけですね。
――何か発見したり、ひらめいたりしたら人はつい小躍りして何か自分が覚醒でもしたかのような錯覚に陥ってしまいますよね。
そう。その状態が人にとってもっとも危険な状態です。だから自分が何かを「知った」と思ったらそれは常にトラップなのだということに気づけるようになりたいものです。
そしてこの「無知の知」もじつは「量子意識」なのですよ。「己の無知を知ることこそが最大の全知」であるということですよね。それは「無知」と「全知」という真逆の概念が重なり合いながら同時に「もつれ」ているということです。
つまり「無知の知」とは「無知であり全知でもある」という「量子意識」そのものだったのです。ということは、二元論意識の中に生きている人は「無知の知」を認識することも解釈し理解することもできないのです。
――だから「無知の知」は難解なのですね。迂闊に近づいたりしたら火傷を負うどころでは済まさず炙り出されてしまう。
たったの4文字なのにね。「無知の知」は紀元前400年ですから今から2400年も昔にソクラテスによって提唱された哲学思想ですけれども、2022年の現在であってもこの「無知の知」はほとんど理解されていないし、実践もされていませんよね。
それはなぜなのだろうか?ってずっと考えていたのですよ。それはつまりソクラテスは2400年前にすでに意識が量子化していたということ。でも一般の人たちの意識は当時から現在までずっと二元論のままなのですから実践や理解どころか、能動的に「認識しよう」とするカテゴリーの範疇にすら入っていなかったのだということです。
――つまり「無知の知」の意味を頑張って考えたけれども意味を解釈することができなかったのではなくて――、
そう。「無知の知」という概念の存在すら認識されていなかったということ。
つまり、理解に至るまでにまずその最初の「存在の認識」という巨大な壁が立ちはだかっていたのだけど、人々はそこにそんな壁があることすら認識できなかった。
――それだけソクラテスの思想は桁違いだったということですね。
ホントそう思いますよ。明らかに冠絶していた。この「無知の知」とはつまり、「宇宙に対して常に謙虚であれ」ということです。
大宇宙に対して己の如何に小さきかなを自覚せよということね。
でも、講演会でもお話ししましたけれども、最小のクォークと最大の宇宙は一本のリボンの両端をひとひねりしてホッチキスで留めた裏と表なのね。つまり、宇宙に対して謙虚であるということは、己自身に対して謙虚であるということとイコールなわけじゃん。
これが錬金術の最奥義「As Above, So Below」(上の如く、下も然り)の本質ということになるわけです。
己自身の進化成長に制限を設けないことを「謙虚」というならば、それはフラクタルに
「宇宙の進化成長に制限を設けない」ことと直結して「もつれ」ることとなりますよね。
つまり「無知の知」の「量子意識」を常に謙虚に実践することによって己と宇宙が「もつれ」て同時に進化と成長がもたらされるのだということね。
そしてこのことを本来の正常な「アップデート」って言うわけ。
――己の未熟さや無知さを自覚することによって謙虚さが生まれ、その謙虚さが心の器を拡大しそこにさらに叡智が注がれる。普通なら何かを知ったら舞い上がって自分は特別な存在だと思ってしまいますよね。
ということはその逆をやってしまうとどうなってしまうか?ですよ。「無知の知」の逆ですよ。つまり「私はまだ何も知らないのだということを知らない」ということでしょ。
すなわち「私はもうすべてを知ってしまった」ということですよね。
このような意識になってしまうとどうなってしまいますか?
「宇宙の進化成長に制限がかかる」ということになりますよね。
ならばそれと同時に「己自身の進化成長に制限がかかる」ということ。
このような状態のことを「アップデート妨害」って表現します。
また、心の器とは諸問題に対する精神の耐性の度合いのことですから、謙虚さがなく心の器も小さい場合は、何かを知ったと思った途端に耐え切れずに大声でそれを吹聴してしまう。
だから「マスクをしましょう」ってなっているのにね。
――うわあ、それはちょっとマズい状態ですね。
最近、次のような発言をよく見かけませんか?「私は真実を知ってしまった」「私は真実を知って覚醒しました」「早くみんなも気づいて!」この一瞬素晴らしくも思える言葉を何の躊躇もなく、つまり、宇宙に対する謙虚さを微塵も意識することなどないまま無自覚に発言する人々のその心の筐底(きょうてい)には、まさかと思うような危険な姿勢が秘されているのだということね。
「私は知って覚醒しました」と思った瞬間に、その人は己と宇宙の進化と成長、つまりアップデートを拒絶するのみならず、他者までをも巻き込み、己と宇宙の進化と成長を妨害するためのプログラムbotとして機能してしまっているということなのですよ。
――これはじつに由々しき事態でありますね。
それはつまり己への「過信」であり「傲慢」であり宇宙に対する宣戦布告であり、己の存在の否定へと直結してしまうのです。
――ホンのわずかな意識の立ち位置と姿勢の違いによって一瞬で逆方向に行ってしまうのですね。
己の謙虚さに立脚する「アップデート」と、己の傲慢さに立脚する「グレート・リセット」は相反するものです。多くの人は、本心では「アップデート」を望みながらも、気づかぬ間に「グレート・リセット」を推進するグループに加担してしまっているのです。このことに「気づかなきゃ」いけないわけですよ。
でもみんなそんなことが「気づき」だとは考えたこともないでしょう。ならば、今あなたが思った「私は気づいた!」というその“素晴らしい直観”は、じつは操作されたものである可能性がきわめて高いということになります。
「知った」とか「気づいた」とかは決してゴールじゃない。それは次の段階への「入り口」に過ぎないのだということ。その入り口を見出すことなくそこがゴールだと規定するということは、己と宇宙の進化と成長を止めてしまうということになります。
この小さな「知った」「気づいた」を繰り返して積み重ねていくにはやはり「無知の知」という謙虚さが必要なのだということね。
つまり、己がアタマで考えていることと、実際にやっている言動が乖離し、真逆にまで到達してしまっているのだということ。ということは、あなたは多次元世界と三次元世界が「もつれ」ていないということになります。
いや、それどころか、頼まれてもいないのに他者の人生に介入し、せっせと「もつれ」を遮断するために奔走してしまっている可能性があります。
――「ありがた迷惑」「余計なお世話」と簡単に言ってしまえばそうなのでしょけど、己への「過信」であり「傲慢」であり宇宙に対する宣戦布告であり、己の存在の否定に直結までしてしまうと一大事ですね。
「あなたも私のように覚醒するべき」と他者の人生に介入するということはこれ、弥生の侵略思想と「ムラ意識」の基盤となるメンタリティです。彼らは表向きは「縄文大好き」と言いますが、「もつれ」ていないわけですから、実際の行動は「弥生」そのものとなってしまっているのです。
――思っていることとやっていることが正反対になってしまう。本人が望まないことを良かれと思って自分都合に勝手に解釈しやってしまうストーカー行為、親方思いの主倒しともいえます。縄文を装った弥生メンタルそのものですね。
王侯貴族が生まれたり、さらに国同士が戦争をするというのは、すべて「農耕」に起因しているのですよ。多くの人は「農耕」を優しい平和の象徴のように思わされています。
でもバビロンで始まった農耕によって、人類は、狩猟採集のための能動的な行動意識を去勢され、定住させられ、大地主と労働者に分けられ、雇用関係が生まれ、上下関係や主従関係が生まれ、土地に境界線を引き、貧富の格差が生まれ、いがみ合い、争いが始まりそれが大きな戦争へとなっていったわけです。
これ、つまり縄文時代に「もつれ」て「ひとつ」だった人類が、その「もつれ」を切断され解消させられ「ひとり」にされたということです。つまり、突き詰めていけば「農耕」とは「侵略」のことなのです。
――今の日本では純粋な「縄文意識」「縄文スピリット」というものはほとんど見受けられない状況ではないですか?
日本のスピリチュアルが世界のスピリチュアルの投影元ですから、それはもう大昔から
この列島の精神世界は制御されてきました。絶対に本物の縄文スピリットが萌芽したり
胎動したりすることのないよう、細心の注意が払われて封印されてきました。
――「縄文スピリット」の本質とはどういうことですか?
「0」と「1」が「もつれ」て「ひとつ」を形成していることです。ここでいう「ひとつ」とはミックスされて混ぜられた状態のことではありません。
「0」は「0」であり、「1」は「1」でありながら、「0」であり「1」でもあるというまったく未知の状態のところから得られる「解釈」の状態が「ひとつ」になってるってことなのね。
これが私が捉えている「ひとつ」の本源的な意味です。それは迂闊に発する「ワンネス」や「二元性の統合」とは桁が違います。
そしてこの「0」と「1」の「もつれ」は量子力学分野だけのことではなく、私たちの「意識」そのものが量子化することも意味しています。
――ものすごいシビアで繊細なのですね。
めちゃくちゃシビアで繊細よ。よく「二元性の統合」っていうと、「善も悪も無いってことですよね?」って言われるのですがそうじゃないのですよ。
「善も悪も無い」ってことにしちゃうとそれは逃避に使われてしまう。未知なる事象に対しての己の判断を放棄するための方便として使われちゃう。
「善」であり「悪」でもあるっていうことなのです。つまり「人間万事塞翁が馬」というと
わかりやすいですよね。その時「悪」と感じられたものであっても、長い目、長いスパンで観察した場合において、「あの時は最悪と感じたあのことも今思えばあれのお陰で今があるんだな」ってなる。
つまり、「悪」は悪としてあり、「善」は善としてちゃんとある。しかしその両者を解釈する己の意識がそれらを「もつれ」させてるでしょ。これが「ひとつ」ということなのですよ。