今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から、最近の記事を紹介します。
651 2022.04.25~654 2022.04.28
古事記には、イザナギ・イザナミの国生み神話が説かれています。
イザナギ・イザナミは、「人」です。天界から地上界に派遣された「最初の人」です。
その「人」が国土を生み、次のアマテラスやスサノヲなどの神々を生んでゆかれたというのが、他の国には類をみない日本民族特有の神観だと思います。
つまり、「人」が神を生み出したわけです。どうしてそんなことが可能なんでしょう。
「いのち」は「意の霊(ち)」のことです。
「意」のエネルギーが集まって定着したところに「いのち」が発生します。その「いのち」の性質は、集まった「意」の傾向性に従います。
たとえば、「トイレの神様」などと言いますね。
これはどういうことかというと、ある人がトイレに感謝して、誠意をこめてお掃除していると、その感謝の掃除の繰り返しによって、「善き意念」がトイレにどんどん定着してゆき、やがて「いのち」が宿って、「善き意念」を持って働きはじめるのです。
そうなった時、トイレに神が宿った、「トイレの神様」がいらっしゃるということになるのです。
そうなると、そのトイレに入るだけで、なぜかホッと安らげて、癒やされる、なぜか元気が回復するということが起こるのです。
このように、人は「神さま」をさえ生み出すことが出来ます。
たとえば、あなたがとても大切にして、愛情を込めて丁寧に扱い、手入れを怠らない品物があったとします。そうすると、その品物にはついに「いのち」が宿ります。
その品物に注いだあなたの意念は「善き波動」でしたから、当然その品物は「善き波動」を放つものになってくるはずです。
そうすると、その品物は、あなたを常にサポートしてくれる「お守り」となるのです。
イチロー選手は、自分のバットやグラブなどの用具をとても大切にして、丁寧に手入れされていたそうですね。それで、バットやグラブがイチロー選手の守り神になってくれていたわけでしょう。
物品ばかりではなく、あなたが住まっておられる家や部屋や職場や、職場の同僚でさえ!も、あなたが丁寧に思いやりの意念をこめて関わってゆかれれば、そのモノやヒトにあなたの「善き意念」が宿って神となり、あなたの味方となり、困った時に必ずサポートしてくれるようになります。
650 2022.04.24
すべては自分が引き寄せている。
今の自分の成長に必要だから、やって来た課題なのだ。
だから、人や環境のせいにしないで、精一杯取り組んでゆこう。
来る大飛躍の時のために。
646 2022.04.20~649 2022.04.23
<極楽浄土の光景1>
○ 極楽浄土には、地獄・餓鬼・畜生の心境の者はいない。また、極楽浄土から、地球世界に戻って来ると、もう二度と地獄・餓鬼・畜生の世界に逆戻りすることはない。
(註)極楽浄土は、終のすみかではなく、魂の安らぎを得て回復し、学んで成長するための学校です。この学校でしっかり勉強して、菩薩としての誓いを立てて、再び地上世界に戻ってくるのです。
○ この世界に住む者の体は常に金色に輝いている。
(註)これは、身体の波動が細やかになって、光の波動領域に近づくからです。私は坐禅していると、体から(特に顔から)光が放たれているような感じになることがあります。これを「光顔」といいます。たしか、この言葉は『無量寿経』にあったと思います。
○ この世界では、どの人の身心も平等に光り輝いていて、美醜の差が一切ない。
(註)これは個性がなくなるという意味ではなく、個性を持ったままで、それぞれがそれぞれの色彩で光り輝いて美しいという、平等の世界が実現しているという意味ですね。
『阿弥陀経』には、極楽浄土の光景として、池に蓮の花が咲いていて、「青い色の花は青く輝いており、黄色い色の花は黄色で輝いており、赤い色の花は赤く輝いており、白い色の花は白く輝いている」と書かれています。
<極楽浄土の光景2>
○ この世界では、自分や人や人類がたどって来た限りない過去をことごとく知ること が出来る。
(註)「自他一体」に近づくとそうなります。
○ この世界では、あらゆる世界の仏とその浄土を見渡すことができる。
この世界では、あらゆる世界の仏たちが語る言葉を聞き取ることができる。
この世界では、あらゆる世界のすべての人々の思いを読み取ることができる。
(註)個我の囲いがとれて「生き通し」に近づくとそうなります。
○ この世界では、飛行自在で、あらゆる世界の仏さまを、一瞬のうちに訪問し供養す ることができる。
(註)現在私たちが住む世界より、時間空間や質量(慣性)の束縛が軽くなっているのです。だから想いの実現が早くなります。
<極楽浄土の光景3>
○ この世界では、かならず正定聚(必ず進化の最終ゴールに到達出来る人たちの仲間)の位に入ることが出来る。
(註)過去から未来に到る人類のたどり道がすべて見通せるので、当然そうなりますね。
○ 私(阿弥陀仏)の慈悲の光明は、あらゆる世界をくまなく照らし、やさしく包み込む。また、私(阿弥陀仏)の寿命は限りがない。
(註)阿弥陀仏は、あなたが未来にたどり着く未来形の自分だと思えばいいのです。 阿弥陀仏の別名は、無量光仏、無量寿仏です。
○ どんな人であっても、私の名を称えてすがるのであれば(「南無阿弥陀仏」と称えること)、必ず私の国に救いとろう。そのように出来ないならば私は決して仏にならない。
(註)この誓いが念仏行の有効性の根拠となっています。現に阿弥陀仏となっておられるのですから、この誓いは成就して、<「南無阿弥陀仏」と称えれば、必ず私の国(極楽浄土)に救いとってあげよう>というシステムは完成しているということになりますね。
<極楽浄土の光景4>
○ 極楽浄土に生まれた人は、自在に説法する能力が生じる。また、金剛力士のような 頑健な身体を得る。
○ 極楽浄土の阿弥陀仏が放つ光明は、やさしく肌をつつみ、その微妙な光の感覚は、 眼のみではなく、肌に触覚としても感じられる。
(註)確かに、極楽浄土の光の感覚は、現在の地球での感覚と違います。眼で見るのでなく、全身で、皮膚感覚(触覚)で見る感じなのです。もっと量感を持った「光」です。
また、この未来の世界で聞く音は、現在の地上世界で聞く音と違います。これも全身で、皮膚感覚で聞く音で、現在の世界で聞く音はこの世界で聞く音に比べると平板的な音です。この世界の音は、もっと立体的で、奥深くて、無音パートをベースにした音なので、だからとても味わい深い音になっているのだと思います。芭蕉さんの『古池や飛び込む水の音』や『さや岩にしみ蝉の声』の「声や音」は、この極楽浄土での音の深く微妙な味わいを詠んでおられるのです。
645 2022.04.19
思い切ってジャンプしなければ、
自分の背中に翼が生えていたことに、
気づかぬまま一生が終わってしまう。
644 2022.04.18
ドアが開けば、入ればいいけれど、無理矢理こじ開けて、入ってはいけない。
空席があれば、座ればいいけれど、人を押しのけて、座ってはいけない。
心静かに時を待つこと。時は味方です。
638 2022.04.11 ~643 2022.04.17
法然上人の「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を現代語して紹介します。この有難い文章の「南無阿弥陀仏」、「念仏」を「坐禅」と読み替えると、私たちが目指している坐禅、「他力の坐禅」、「リーダーシップではなく、メンバーシップの坐禅」となります。
(一枚起請文現代訳)法然上人が、亡くなられる直前の八十歳の時、弟子の源智の要請によって、書き起こされた、文字数にしてわずか二百数十字、わずか一枚の用紙に書き綴られた作品。念仏行の正しいあり方を、後の世の弟子達のために書き残されたもの。
(一枚起請文現代訳)インドから始まって、中国の唐や日本の高僧たちが、実践して来られた念仏は、アミダ仏のお姿を克明に観想(イメージ)する念仏(仏の相を観念する)であったが、私が君たちに教えている「念仏」はそうではない。
また、経典や論書をしっかり学んで納得した上で称えなければ効果はないという「念仏」でもない。
ただ、極楽浄土に往生(往って生まれる)するためには、『南無阿弥陀仏』と繰り返し称えればいいのだという教えを信じて、ひたすら称えること以外には、なにものも(集中力も、頭のよさも、お金も、地位も身分も、仏壇も、仏具も・・・)一切不要なのだ。
(一枚起請文現代訳)『三心四修』という心構えと行のあり方が、往生のためには必要である、その要件が揃わない念仏では決して極楽浄土に往生出来ないなどとうるさく言って、経典・論書を学んだことがない俗世の信者たちを惑わせている僧もいるようであるが、そんな要件は『南無阿弥陀仏』をひたすら称えて往生するぞと決心して実践している行の中に自然とこもってくることなのだから、あげつらう必要はまったくないのだ。
(一枚起請文現代訳)この、ひたすら『南無阿弥陀仏』を称えるという一行のほかに、往生のためには、これが必要だ、実はこれも必要なのだと、世俗の信者たちを惑わせる者がいたら、その者は、苦悩の世界に沈んで抜け出せないでいるすべての人を、「念仏」を称えるだけで、一人残らず救い出し、極楽浄土に往生させたいという、釈迦や阿弥陀仏の慈悲の心に背いている罪人なのだ。
また、『南無阿弥陀仏』とさえ称えてくれたならば、そのコトバを船として、その念仏者を浄土まで運ぶという誓い(本願)を立てて、その極楽浄土への航路を完成させて下さった阿弥陀如来のご苦労を無にし、妨害する行為なのだ。
(一枚起請文現代訳)念仏を信じ実践しようと思う人は、たとえあなたが釈迦一代の教えをことごとく学んだエリート秀才だとしても、そんな大量の知識はことごとく打ち捨てて、文字も読めず、仏教の「ぶ」の字も分からない「愚鈍の身」に立ち返って、尼や入道などの無智な仲間と一緒になってひたすら念仏を称えなさい。決してお念仏仲間の前で知識をひけらかしたり、リーダーがましい振る舞いをしてはいけない。
(一枚起請文現代訳)以上のことを証明するために、両手の手のひらの印を押しておくことにする。
浄土宗の心の置き所と行の正しいあり方は、この一紙の文章に究められている。私(源空=法然上人)が信じているところはすべて、この一紙の文章にめられていて、これ以外に私が秘密に保持していて、少数の弟子にだけ伝授するといった教えはまったく存在しない。
私が地上世界を去った後、弟子達が誤った方向に進んでゆかないようにするために、私が信じているところをここに記しておく。
建暦二年正月二十三日 源空花押