2023年1月31日火曜日

2958「ヒマワリのような人」2023.1.31

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月25日の記事を紹介します。


「ヒマワリのような人」


人の悩みごとのほとんどが、自分自身の悩みでなく、他人が自分の思い通りに動いてくれないが、どうしたらよいのか?

そんな類の悩みがほとんどなのだそうです。

ブッダはそんな悩みごとを相談された時は、お答えにはならず、静かに瞑想に入ってしまわれたそうです。

私たちは、他人を思い通り動かすことはできません。

他人の人生の宿題を代わって差し上げることはできません。

なのに、そのことで、沢山の悩みを抱えている人が多いのです。 

憎しみを抱き、自分の心と体を傷つけている人が多いのです。 

では、小林正観さんのお話を紹介します。

<引用開始> 引用元


相談される人に重要なことですが、

すべての相談者の悩みに同化して浸り込んでいったら、多分大変だと思います。 

私は、年間3万人ほどの人とお会いしますから、どんなに大変な悩みを抱えている人が現れても、淡々と「で、何が問題なんですか?」と言えないと、ノイローゼになってしまうでしょう。

皆さんも、人から相談を受けることがあると思いますが、ひとつ覚えておいていただきたいことがあります。 

仏教には、大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)があります。 

大乗仏教というのは、大きな乗り物を意味し、困っている人、苦しんでいる人を救済して、

たくさんの人を乗せて彼岸へ行きましょう、という考え方です。

一方、小乗仏教は、小さな乗り物ということですから、自分が悟ればそれでよし、と考えます。 

タイ、ビルマ、インドは、小乗仏教の国で、もともと釈迦は小乗仏教的な考えをしたと思われますが、釈迦が死んで500~600年経つと、大乗仏教といううねりが起き、それが中国に伝わり、のちに日本に伝わって、日本は大乗仏教国になりました。 

大乗仏教の広く救うという考えが浸透した結果、私たちは目の前に問題を抱えた人がいたり、辛そうな人が現れると「解決してあげなくっちゃ」と思い込むようになってしまったようです。

こうした傾向は、人生相談を受けるとき、確かによく表れていて、相談者の98%が自分以外のことで悩んでいます。

自分がこういう状態で困っている、というのは100人に2人ぐらいで、あとは「夫がこうだ」「妻がこうだ」「子どもがこうだ」という、自分の外側にいる人の悩みや苦しみや社会の矛盾を、あっちこっちからクマ手でかき集めているように思います。 

その人たちのことを心配する結果、ご本人はまったく笑顔ではありません。 

基本的なことを言いますと、私たちができるのは、まず、自分が笑顔になること、自分が太陽になることです。 

その向こうにいる人の悩みは、自分のことではないのですから、解決できなくて当たり前です。 

「私たちにそんな力はない」と思い切ったところから、ものすごく楽な人生が始まります。 

しかし、自分が太陽ではないのに、「周りを明るくしてあげなくちゃ」という人が大半です。

まず、自分が明るく幸せな人になりましょう。

それが、私の言う“実践”です。 

 


この提案は、小乗仏教でとどまりなさい、ということではありません。

小乗仏教的な考え方で、明るく素敵に生きている人は、長い目で見ると、結果として周りにいい影響を与える可能性があるということです。

私は、小乗仏教的に生きています。

だから、ものすごく楽に生きています。 

自分は何も背負っていないし、世の中を変えようとも思っていません。

ただ《実践的に生きる》ようになっただけです。  

あなたが、笑顔の素敵な《太陽さん》になって、ひたすら幸せな光を投げかけていけば、周りの氷は自然に溶けていくでしょう。 

そいう溶かし方を取り入れることにしませんか。

<引用終了>

 

話は変わりますが、 「対向車のライトがまぶしくて、歩行者に気づかなかった」 

小雨の降る夕暮れ時、そんなヒヤリとした体験をしたことはありませんか? 

そんな時は、ラッキーなことにご先祖のどなたかが助けてくださったのかもしれません。 

生きている私たちと神さまの間に立って、中継ぎをしてくださっているのがご先祖なのだそうです。 

私も何度も身近で見てきました。  

こんな深刻なヒヤリの時はきっとご先祖様が守ってくださることでしょう。 

ご先祖も生きて肉体が亡くなった後は、天界で神様への道を進むのだそうです。

時には少し道を踏み外してしまう方もいらっしゃるようです。 

また私たち生きている子孫が、先祖の方々を思うたび、ご先祖の足元が照らされ、神様への道を誤ることなく進めるのだそうです。

  

亡くなったご先祖が幸せで、神様の光に満たされていれば、それに呼応して、私たち子孫も幸せになれます。 

きっと私たちが いざと言う時に守ってくださる力も強いことでしょう。

これは縄文からの日本人の心・考え方です。 

ご先祖を普段から敬い 大切にしている人は、ご先祖に神様のパワーが宿っているために、

私たち生きている子孫のピンチの時に助けることができます。 

逆に、ご先祖が苦しみの中や、囚われ領域にいる場合、私たちを助けることなどできません。

自分が精一杯で余裕がないからです。 

同じように私たちが周りの人を助けるには、私たちの心が感謝で満たされ、安定していなければできません。 

ブッダが行動で示されているように、他人の問題に手を突っ込み、口出しするよりも、まずは自分の心を愛や感謝で満たすこと。

自分が、自分のことに集中し、いつも笑顔で感謝の気持ちで過ごしていれば、その明るく太陽のような神様の光が自然と周りを照らしてくれることでしょう。 

他人を自分の価値観で、思いで、どうこうして差し上げたいというのは、もしかしたら少し不遜なのかもしれません。

彼らには彼らの道があり、彼らの時があります。 

そのために今の道を歩んでいるからです。

 

2023年1月30日月曜日

2957「フラクタルな世界」2023.1.30

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月24日の記事を紹介します。


「フラクタルな世界」


レインボーチルドレンのそうた君によれば、地球意識がこの地球を宇宙神から任された時、

地球創造のためのマニュアルを渡されるのだそうです。 

宇宙神がこの宇宙を創成する際に、宇宙をフラクタル(相似象)に作っていますから、 

もちろんこの地球もフラクタル。 

フラクタルとは?

大雑把に言うと、「同じような図形が繰り返し現れる図形」のこと。

例えば、雲や山脈、海岸線など、同じような形が繰り返されているなど・・ 

そして全部が相互に繋がっています。

・人体と宇宙の星々

・人体臓器と宇宙

・人体組織と、DNAで繋がったある特定の祖先

そしてそれは人体だけでなく地政学でも同じです。


ですから地球上のどこかで起きている事件も実際には、その事象が私たちの心に映った時点で、私たちの身近でも、形を変えども本質的には同じ現象が起こっています。 

現在、多くの人々の不安の種は

・モノの値段の大幅な上昇

・コロナの蔓延や、ウクライナのことかもしれません。

それと本質を同じくする出来事が私たちの身近でも必ず起きているはずです。 

・友人知人同士のいさかい

・正義を遵守している私達と、自由気ままで勝手にふるまう人々

・他人の都合を考えず、自分の主義主張だけを押し通す人々

・相手より有利な立場に立ちたいと、人を蹴落としてもお金や権力に走る人々

まさに私たちの身近に起きていること、心の中の風景の拡大版がこの世界のどこかで起きています。 

そして更に突き詰めれば、私たちの心の中に在ることが、私たちの身近で起こり、

そして世界でも起こります。 

全ては繋がっており、スタートは、常に私たち自身の心です。

現在、地球が枝分かれしてしまうような最終的な局面において、どちらへ進むかを決定しているのは、私たちの心に潜む「かすかな憎しみの心」の存在があるかどうかのようです。 

 

憎しみを抱いていてはけっして神様の光は差し込んで来ません。

つまり、憎しみの鎧をまとったままでは本来私たちが持っている心の中の神様の光が現れません。

この結果、私たちに神様の恩寵が届くことはなく幸せにはなれません。 

憎しみの鎧をまず、脱ぐことが必要です。 

私たちは、様々な経験をするために、自ら希望して地球に生まれてきました。 

自らが希望する人生を送れるように、両親を決め、将来で会う方々と配役を打ち合わせ、

神さまの承諾のもと生まれてきました。 

勝手に親が生んだわけでは決してありません。

悩みや、苦しみ、心の中のトゲは誰にでもあることです。 

ブッダにさえ、強力な敵役がいて、いつも悩ませてきました。

悩みや苦しみを通じ、私たちは考え、いろんな行動を起こします。

時には、悲しみ、苦しみの涙を流し、人知れず布団の中でのたうち回るかもしれません。 

ですが、そのような心を削るような経験があるからこそ、私たちは、魂を輝かすことができるようになっています。 

何の悩みの無い、平々凡々の生活からは魂の向上は望めません。 

私たちに、悩みや苦しみをもたらす者、状態

それらは、確実に、私たち本人に対し、まっすぐに向かってきています。

どこかの他人のとばっちりを、たまたま受けているわけではありません。 

その人たち(私たちに、悩みや苦しみをもたらす)でさえ、本来は、心の中に神々の光を宿し、歓喜の魂を持つ人たちです。 

神々に許されて、生を受け、私たちに対し、そのような役割、つまり、悩み苦しみをもたらす存在としての役を負って生まれてくださいました。 

 

その役割を通じ、お互いが約束してきた目的が達成されたなら、 

彼らも、その役割から解放されて本来の神々しい性格に戻れることでしょう。

悪そのものである魂は、神さまから転生を許されていないからです。  

心にまとった鎧を脱ごう。

どんどんどん、そげ落とし、最後に残ったものが、本当の私達の心

もう身を守ろうとする必要もない

自分を高く見せつける必要もない

自分の弱みを見せても構わない

自分に足らない所は人に頼れば良い

寂しさを紛らわすために、無理して友達ごっこをする必要もない

会いたくない人とは会わなければ良い。

誰かの行為に文句を言う必要はない、そっと離れればよい

気分が悪いからと、嫌みを言う必要もない。

昔の恨み事など、もうすっかり忘れよう。

楽しかったことだけを思えておこう、

笑顔だけを覚えておこう。

要らない虚飾を全て落としてしまった私達の心は、 

ピュアで希望に満ち、生まれたての赤ちゃんのように光り輝いているに違いない。

何故なら私たちは、そういった場所から地球にやって来たのだから。 

ただ忘れているだけ。

魂はしっかりと覚えている。

この不自由な「忍耐の星」と言われる地球に適合しようと、知らず知らずに身に付けた鎧たち。

もう脱いでも良い頃かもしれない。

2万6千年も続いた、このカリユガの時代は終わろうとしているのだから。

時代の大きなうねりが、心の鎧を脱ぐのを強力に後押ししてくれている。

ブラフマー、ビシュヌ、シヴァ、それぞれが象徴する、創造、維持、破壊

ブラフマーが活躍するにはシヴァの破壊が必要である、

でもそれは夜明けが近い証拠。

私たちの心は巨大で、宇宙さえも、その中に内包している。 

だからこの世界でどのような破壊が起ころうと、それを乗り越えることはたやすいこと。

地球で宇宙劇を一所懸命演じている最中は解らないけれど、この劇の脚本を書き、演出し、出演しているのは私たち自身。

希望こそが、闇を照らす一筋の光。

どんな闇夜であっても、希望だけはなくさないでいよう。

全ては 大丈夫。

ラストOKなストーリを、自分で書いて生まれて来たのだから。 

 

出口王仁三郎が予言をした通り、 

2010年からの30年、人間の精神性に関する立替え・立直しの時が始まっています。

神々による「人間の精神性の復活」のための破壊(建て替え)は既に終わりました。

今は、人々の「心の復活」 による立て直しの時期です。 

神々の計画通り、私たち人間の心が持つ偉大な力に、気付く人たちが増えてきました。

私たちの幸せは、

・他の人によってもたらされるものではなく、

・不思議な力によって外からもたらされるものではなく、

・何かの物によってもたらされるものではなく、 

私たち自身の心の在り方を変えること、

自分の心によってのみ、得ることができるのだと、気付く人たちが増えてきました。 

それには何か特別な力を必要としません。

誰かに依存し、頼る必要もありません。 

お金も必要ありません。 

ただ私たちの内側に居らっしゃる、神さまの声に耳をすませるだけです。 

心の中の真心を信じるだけです。 

皆様が内なる神さまに気づき、お幸せになられますように。

  

謹んでお勧めしたいブログです。 

ノアさんのブログ  

「ありがとう」の言葉の力を使い、私が思うに、神様の相当近くまで行かれています。 

私たち一般の人の同じ立場で、

・いかにしてそこまで魂を輝かせることができたのか?

・日常の生活の中で何に気をつけていらっしゃるのか? 

きっと幸せになるための参考になると思います。



2023年1月29日日曜日

2956「諦めないで、理不尽な時」2023.1.29

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月23日の記事を紹介します。


「諦めないで、理不尽な時」


今日は「理不尽」のお話です。

もしかしたら、そんな時は、大きな大きなチャンスが訪れの時かもしれません。

特に、心が清められ、準備ができた人に起こりやすいことです。


皆さんの中には、今現在、回りから、ひどい仕打ちを受けたり、理不尽なことをされていらっしゃる方は居られませんか? 

また運命に翻弄されている方もおられるかもしれません。 

そう言う時と言うのは、集中して、厄介なこと、嫌なことが続くものです。

もしかしたら、そういう時期は、「リセット」の時期かもしれません。

一旦、今までの人生の方向性について立ち止まり、向きを変えるための思索の時間(考えをめぐらす時間)を持つために、神さまから強制的にリセットがかかっているのかも知れません。 

そのことに気づいて欲しくて「理不尽の炎」の中に投げ込まれているのでしょう。

自分の今まで持っていた価値観の大転換を図るため強制的なリセットです。

こういう時、その(理不尽に見えて)起きて来る沢山の現象は、自分ではどうしようも無い事、つまり、人間側の問題ではなく、「神様の領域」のことです。 

ですので、その事に対して不平、不満、愚痴、ねたみ、そねみ、うらみ、後悔、嫉妬

などしないことにこしたことはありません。 

ですが、生きている本人にとっては、あまりに辛く、神様に「どうにかして」と思うかもしれませんね。 

人間ですもの・・・

そういう時は、もう言霊で乗り切るしかありません。

ただひたすら、最強の言霊、「ありがとう」を言い続ける・・ 

そうすると不思議と、朝に苦しかった理不尽なことが、夕方には解決しています。 

全く気にならなくなるのです。

こういう時期は、誰にも訪れるものです。 

そして、しばらくは続くものです。

また翌日には、次の別な理不尽なことが起きてきます。

その繰り返し。

私も経験がありますので良く分かります。


そんな最中に読んだ小林正観さんの本の一節をご紹介します。

<引用開始>

「理不尽」とは、神様から見込まれたということ。

そして「自分が成長しているという証明」。

「理不尽」とは、こちらの側に落ち度がないのに、一方的にひどいことを言われた、されたこと。

「だんだんと理不尽度が増していき、それでも文句を言わずにいると、神様は「合格」と判を押してくれるのだそうです。

理不尽度10で文句を言わずにいると、理不尽度20の現象が起き、だんだんと増していって、最後は理不尽度100%の現象が起こります。」

五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を言っているあいだは理不尽なことは起こりません。

(まだ、神さまに、成長の時期ではないと思われているからです)

最後の理不尽度100%の現象の時も五戒を言わずに受け入れていくと、神様から合格の判をいただけて、人生がラクに楽しくなってくるのだそうです。

理不尽度の高い現象が起きたときは、大きなステップアップが約束されているらしいのです。 

ですので、その時に

・文句や愚痴を言わないこと、

・戦わないこと、

・争わないことが 

大切らしいのです。

<引用終了>

 

そう正観さんは仰っています。

正観さんの言う神さまに見込まれた人というのは、きっと五戒(不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句)を思わない、言わない人という意味です。

ですので、多くの人が「神さまに見込まれた人」になります。 

私の周りにも五戒を守っている人は沢山いらっしゃいます。

そして皆さん、お幸せです。

さて理不尽なことが起きると、その人にどのような事が起きるのでしょうか?

まず、一番大きな事は、

・自分の力ではどうする事も出来ないという

「あきらめ」(諦観-あきらめ、悟って超然とすること。)

・その結果、鼻っ柱の強かった人のお鼻はポキンと折られます。

・目に見えない大いなる何かの存在を、意識するようになります。

これだけでも大きな魂の成長。

意味があることです。

時に人は、自分自身の力を過信し、

・人に迷惑をかけないように生きていきたい

・人の役に立つ人間になりたい

と思います。

ですが、病気をしたり、挫折の苦しみを味わうと、 

「助け合い」

「お互い様」

こそが本来の人間の生きる道ではないのかと思えてくるのです。

誰一人として、他人の世話なしに生きることはできません。

農家の方が作った野菜を、運送業者の方々が運んで下さり、お店の人が販売してくれる。

それらを頂き、それらの生命を頂いて、私たちは生きていくことが出来ます。

他の人の世話にならずに、誰一人生きていけません。

 

ですので、「人に迷惑をかけないように生きていきたい。」というのは、少し傲慢な考え方かもしれませんね。

この染みついた考え方を矯正する為に、今世では病気になったり事故に会ったりと、色々な苦しい事象が自分のタイムラインに埋め込まれることでしょう。

理不尽な出来事。

自分ではどうしようもない、大きな辛く悲しい出来事にも、きっとそんな意味があるのかもしれません。

何故なら神様は無駄なことは一切なさいませんし、常に私達の真の幸せを考えて下さっているのですから。

外にあるもの、見えるものは、すべて自分の心の世界を映し出す鏡。

人は理不尽な体験をすると、他人を責めたり、周囲の環境に不満を抱いたりしがち。

でもそれらは皆、私達の心の反映にすぎず、不満の矛先を他人や環境に向けることは

見当違いかもしれません。

きっとそんな時は、自分の心を顧みる丁度良い時が訪れたのですね。

神様に感謝する時です。

その後に、大きな大きなギフトが用意されているからです。

たったひとつのたからもの


2023年1月28日土曜日

2955「私は生きると決めた」2023.1.28

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月21日の記事を紹介します。


「私は生きると決めた」


・レインボーチルドレンの子供たち、

・高度に進化した星から直接転生してきた子供たち、

・中間世記憶(天国や神様の記憶)を持つ子供たち、

・そして宇宙存在、バシャールなどの言うことに、

一つの共通点があります。 

それは、この世の中の出来事には、良いも悪いもない 

全ては、自分の計画した通りの出来事が起きてるだけ、

自分自身で、OKを出した出来事しか起こらない・・ と言うことです。 

つまり、 

・重い心身の病気の運命を持って生まれてくる子供も

・陰湿な意地悪をする友人も

・極端な場合、殺されるような人生も

全ては計画通りの出来事、全ての目的は、その経験をしてみたかったから、

その経験を通じ、魂を磨きたかったから・・ 

なのだそうです。

返って、「悪いこと」とみなされるようなことを担ってくれる人、そのような役を引き受けてくれる人こそ、魂的には、本当は偉大で、光り輝く存在のようです。  

さて、そのような大前提のもと 

今日は、シスター鈴木秀子さんの「死にゆく者からの言葉」よりご紹介します。

この中に、障害を持ったお子さんのお話があります。

<転載開始> 転載元 



一人の女性が泣いているのが目につきました。

私はそのとき、壇上にいて、「命の大切さ」という市民大学の講演を行っていました。

その女性は、身なりも顔立ちも派手な印象でした。

しかし、だれ一人として泣いてなどいないなか、彼女はハンカチひとつ使おうとせず、

涙をあとからあとからこぼしつづけています。

そして私の顔をジーッと見つめたまま、身動きもせず、話に聞き入っています。

前から三番目に座っている彼女の姿は、否が応でも目に入ってきます。

「きっと思い当たることもあるのだろう」私は、そう思いながらも講演をつづけました。

(中略)

今日の話を聞けてほんとうによかった、と彼女はつづけました。

そして涙がこぼれたわけを、こう語りました。

「実を申しますと、私の体のなかは洞窟も同じなのです。

これまで八回、大手術をしました。

子宮ガンから始まり、胃ガン、腸ガン・・・・・、

転移して次々と大手術を繰り返したのです。

こんなカラッポの体でね、どうして生きているのか

お医者様からも不思議でたまらないと言われています。

ともかく体のなかには何もないんですから。

ではなぜ、私がこうして元気で生きていられるかと申しますと、 

実は私には精神障害の息子がいるからなんです」

彼女は、その子が生まれてまもなく夫と離婚したのです。

寝たきりのその息子は現在二十歳ですが、幼児程度の会話しかできません。

彼女を必要としている息子のため、彼女は一度目の手術以来、医師にも周囲からも見放されながらも、手術しては生き返り、また次の手術をしては生き返り、ついには働けるまでになりました。

 

「勤めを終えて家に帰りますとね、息子は布団のなかからじっと私を見つめ、子供のように顔をほころばせて、それは嬉しそうに手足をバタバタさせて喜ぶんです。

私も元気とはいうものの、大手術を重ねましたから、お天気が悪かったり、重いものを持ったりすると体が動かなくなることもあります。

でも息子の、ほんとうに喜びを満面にした顔をみると、一日の苦労が吹っ飛ぶんです。

これまで死ぬほどの重病にとりつかれましたけど、

『この子を残しては死ねない』この一心で生きつづけてきました。

そして、『あの子が家で待っている、私を待っている。 

私が生きていなければ、あの子は生きていかれないんだ』って、それだけしか考えませんでした。

病気のことを考えている暇なんかなかったんです。

そして絶対に生きる。病気がどんなであろうと、お医者様が死ぬと言おうと、私は『生きる』と決めたんです。

子供が生きている限り、私は生きるんだって。

これが、病気になっても、病気とは関係なく生きつづけられる原因なんです」

いつでもニコニコと迎えてくれる子供の顔を見るたび彼女は、 

「生きていてほんとうによかった」と思うのだと言います。

   

そして、「お話を聞いていて、幸・不幸というものは、

世間一般に考えられているようなことではないんじゃないかと改めて思いました。

このような息子を持つ、ボロボロの体の私でも、こうして幸せを感じることができるんですから」

私は講演のなかで、幸・不幸というものは

客観的にはかり知ることはできないのだ、

また、苦しみの極みを積極的に受けとめ、生きぬくとき、苦しみは、

生きる深いよろこびをもたらしてくれる、と話したのでした。

私の知人の家では、五人の子供に恵まれたものの、五番目の息子は身体障害者でした。

しかも、知能の遅れもともなっています。 

世間的にみればさぞかし大変であろうと思われがちなのですが、真一君というその子のおかげで、家族中が大変な仲良しでした。 

というのも彼らは、「ただいま」の次に必ず、「真ちゃんどうしてる?」と声をかけ、そしてその部屋に入るなり、「今日ね、こんないい話があったんだよ」と報告するのを日課としていたのでした。

ちょうど花束を持って帰るように、家族の一人ひとりが、いい話を必ず一個ずつ持ち寄ったのです。

その子は残念ながら、それらの話を十分には理解できません。

しかしわからないながらもニコニコと、まるですべてを理解しているかのようにほほえんで聞いていました。

そのためその子の父親も母親もきょうだいたちも、今日はあの子に何を話そうかと、

まるで花を摘むようにいい話を探さずにはいられないのです。

そうすると厭なことに気を取られなくなり、長年のうちにそれぞれが、日常の平凡なことのなかから、毎日毎日宝物を探すようにいい話を探す習慣を身につけていきました。

家族中がその子を喜ばすことで結束し、仲のよい暮らしの中からいいものを見いだす目が育てられてきたのです。

「あの子はわが家の宝物。宝の花をひきつける存在です」

それは知人の自信にあふれる声でした。

中年の女性は、自分の家もまさにそういうことであったのだと語りました。

「私の息子もほんとうに、そのお子さんのような存在です。

そのお子さんが宝の花をひきつけるのなら、息子は命を湧きあがらせてくれる存在なのです。

ですから本来ならばとっくになくなっているはずの私の命も、 

息子の喜ぶ顔を思い出すたびに、私の中で生命が湧きあがってくるのです」

息子は、生まれてすぐ、三年生きられればいいだろうと宣告されたのでした。

それがその年の一月十五日に二十歳を迎えることができました。

 

「その日、お赤飯を炊きましてね、ささやかでしたけど祝ってあげたんです。

そうしましたら息子が、私の顔をじっと見つめて、『お母さん、ありがとう』 って言ってくれたんです。

息子はただ、祝ってくれてありがとうっていうつもりだったんでしょうけど、私にはまるで、自分を成人まで育ててくれて、ほんとうにありがとうって言っていたように聞こえてなりませんでした」

彼女はしみじみつぶやきました。

「お礼を言うのは自分の方です。

本来なら死んでいるはずの自分を、あの子は無垢な笑顔を向けてくれることによって、

生命を湧きあがらせてくれます。

ほんとうにありがたいことです」

彼女は最後にしみじみとそう言いました。

その女性から便りが届いたのは、それからしばらくしてからのことでした。

あの息子さんが、亡くなったという知らせでした。 

しかし、文面には、「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされております。

あの子の笑顔が、しあわせに生きてゆくようにと呼びかけているのです」と書かれてありました。

私たちは、辛いこととか、いやなことが何ひとつなく、物事が自分の思い通りにいきさえすれば幸福であると考えがちです。

しかしもっと深い幸福があると思うのです。

辛いことや思い通りにいかないこと、そういった状況のなかにこそ、見る目がある人にとっては、通常ではみられない幸せというものが存在しているのではないかという気がします。

こういう話を聞く時や、医学的には考えられないのに、重い病状にもかかわらず元気で明るく生きている人達に接する時に、私は、ムスターカスの次の言葉を思い出します。

「もし悲しみがその人自身のものとして受け入れられ、

その人の存在の中核で感じとられるならば、

そのとき苦しみは他の人間や、

すべての生きるものへの情けへと成長する。

苦しみによって心が開かれ、

悲しみの中から

陽気さと歓喜の新しい感情が起こってくる」

<転載終了>

深い深い愛ですね。

一般の人から見たら一見不幸に見える状態であっても、その環境から磨かれる魂の輝きは、

計り知れないものがあります。

皆さんには、お子様はいらっしゃいますか?

いない方は、ご両親はご健在ですか?

私たち親は自分に子供が生まれた時、生まれたこの子が、幸せに生きられますように、

そう願いました。

 

そしてきっと、自分が先に天国に帰るときも、残されたこの子が、幸せに生きられますように、そう願うのだと思います。

親と子、深い愛の絆で結ばれていますね。

そして、そして、あなたの嫌いな誰かさんにも、このように思ってくださって親御さんが必ずいるはずです。

皆さんも、例え苦悩の中にあろうと、その中に神さまの光を見つけることができますように。


2023年1月27日金曜日

2954「解放」することの大切さ」2023.1.27

 今回は木の花ファミリーのジイジからのメッセージ「ジイジのブログ」の2023年1月20日の記事を紹介します。

『散骨式~自然に還すセレモニー』より ~「解放」することの大切さ」

ジイジのブログ (jiiji-konohanafamily.org)


木の花ファミリーを基盤として様々な社会貢献活動を行うNPO法人ぐりーんぐらすでは、毎年大晦日に、その年に亡くなった縁ある方々のご遺骨を人の手で丁寧に砕く粉骨式を行っています。そして年が明けると、『散骨式〜自然に還すセレモニー』を開催し、粉骨されて小さな粒子となったご遺骨を、富士山麓の自然の中へとお還しします。

『散骨式〜自然に還すセレモニー』にて 斎主による散骨式祝詞の奏上散骨を希望する一人ひとりの手に、粉状になった遺骨を渡していきます参加者は、思い思いの場所に遺骨を撒き、自然へ還します

2023年は、6人の方々のご遺骨を散骨しました。まるで春先のように暖かく澄み渡った空の下、生前には互いに見ず知らずの存在であった方々の遺骨を共に自然へお還しし、歌と舞の奉納が行われた後、ジイジは以下のように挨拶をしました。

ナイジェリアの研修生から送られた民族衣装で挨拶をするジイジ

 


________________________________________

今日は、いつもながら天候に恵まれ、とても良い散骨式を執り行うことができました。

昨年、私たちとご縁のある6人の方が旅立たれ、今日はその方々のご遺骨を散骨させて頂きました。6人の方の中には、生前に私たちと関係の近かった方もいれば、遠かった方もいらっしゃいます。普通であればお互いに他人同士であった方々のご遺骨を、みんなで一緒に、自然へとお還ししました。この散骨式については、意味深いところがあり、そのことについて少しお話をさせて頂きます。

私たちの暮らす地球上には、命というものが溢れています。人間も、その中の一部です。命は必ず死を迎えますから、私たちもいずれ死を迎える時が来ます。しかし、命には、突然に死だけが訪れるわけではありません。死の前に、生まれるということがあるから、死を迎えることになるのです。

私たちは生まれると、その生まれた場所で頂いた縁を紡いでいきます。まず最初に、親を頂きます。いろんな事情の親を頂くわけですね。この世界に生まれてくる時に、差別ではないかというくらい、それぞれに個性的な縁を頂いて、いろいろな人生を歩み出します。しかしそれは、人間世界の話です。その前に、そもそも生命とはどういうものなのか、ということを考えてみたいと思います。

『太陽の導き』の奉納

今日、この散骨式で、『太陽の導き』という歌を、舞と共に披露させて頂きました。私たちはそもそも何ものなのかというと、太陽から来るエネルギーが転換して、私たちの命になっています。そして、地球上に地水火風空という自然の現象が寄り添い、命の循環が生まれます。その循環の中で、動物も、植物も、目には見えない微生物までもが育まれており、私たち人間も、その循環の中にあって生かされているはずなのです。

なぜこのような話をするのかというと、人間以外のものは、その循環の中で、自分の与えられた立場、そして自分の与えられた生き方の枠を守って生きています。現在もそうです。時代は21世紀になり、人間の社会ではどんどん進化・発展して豊かになることを追求していますが、人間以外の生き物は、地球上で何も変わらず生きているということです。そこで今、そういった命の原点を考えると、今の人間たちが地球上でしていることは何なのでしょうか。

去年、戦争が始まりましたね。あの戦争は仕掛けた側が悪いのかというと、それは私たち人間が創った社会の中で起きたわけです。その社会の一員である日本の現状はどうですか。日本は平和だと言いますが、現実にはたくさんの格差があり、学校に行けない子供や、引きこもりになって自殺する人たちまでいます。小中学校の先生の中にも、精神的な病気が原因で休暇を取る人が1万5千人を超えたそうです。学校だけでもうつ病の人がそれだけいるということは、うつ病になる予備軍は日本中にもっといるのです。これが豊かな国である日本の現状です。日本だけではありません。アメリカでは、つい3日ほど前に、6歳の男の子が口論をして先生をピストルで撃ったというニュースがありました。それが、人々が求めてきた豊かさの結果です。今の時代は、歪み乱れた世界が究極を迎えていると思うのです。現代の地球上に、そういった問題ごとを見付けることは、難しいことではなくなっています。

そこで改めて、この散骨式の意味について考えたいと思います。私たちがこの世界に生を受けたのは、お父さんとお母さんがいたからですが、その始まりには、何もありませんでした。その何もなかった存在がどこから来たのかということを、考えてみましょう。

まず、形として現れた。その時に、何かしらの定めを、既にそこで頂いているわけです。そして自然の仕組みの中で、太陽のエネルギーを頂き、地水火風空の循環の中で食べ物を頂いて、成長していきます。成長するとは、そのエネルギーを体に取り込むということです。そして取り込むだけでなく、排泄もします。排泄したものはどこへ行くのでしょう。それも自然に還っていきます。それを繰り返しながら成長し、やがて寿命を迎え、死に至ります。この循環から外れて生きることは、誰もできません。太陽が要らないとか、空気が要らないとか、水が要らないとか、そんな人はいないでしょう?大地のお世話になっていない人はいないでしょう?しかし、人間たちは、そのことを忘れてしまっているのが現状です。

今の時代を生きる人々は、お金をたくさん稼ぎ、好きなものを食べ、好きなことを何でもやれるのが豊かさであり、成功者であるとしていますが、それがいっぱいに広がっている世界は、自然から離れた世界です。大都会でこそそういった豊かさを享受できることになっていますが、生命としての原点を考えたら、それは本来の在り方とは真逆の世界です。このような価値観が人々に求められるようになったのは、産業革命以降のたった260年ほどのことですが、その僅かな期間の人間の行いによって、地球温暖化や様々な問題が起きています。すべて私たちがやったことです。それが何を意味するのかというと、人間は他の生き物とは違う行動をするようになった ——— つまり、「自分が」「自分の」と、自分というものを特定し、その自分に執着するようになったのです。

自分とは、一人ひとり個性的で、とても大切なものです。しかし、この自分という個性を自分のためだけに、或いは自分の身内のためだけに使うようになった結果、それが大きくなって、自分の国のためだけに、と、戦争にもなっていくのです。これが今の世の中を混乱させている根本原因であり、このまま進めば、いずれ人類を滅亡に導くかもしれません。

今日散骨させて頂いた遺骨に対しても、その人が生きている間はもちろんのこと、亡くなって骨になってからも、これが私のお父さんだ、お母さんだ、私の大切な人だ、と骨を見ます。そしてそれを、お墓や骨壺のように特定の器の中に閉じ込めます。それは、死というものを固定しているからです。固定したイメージを作り、器の中に閉じ込めているから、死は避けるもの、恐ろしいものだと思っている。それは絶対に通過するものであるはずなのに、そのような概念を作って閉じ込めている。しかし、お墓を持つとか、仏壇を持つという風習は、歴史的にはそんなに古い話ではないのです。

人間以外の命はすべて、自然の循環の中へ還っていきます。それは、自然から頂いた肉体的生命を循環の中で紡いでゆき、終わりを迎えたらまたお還しする、ということです。私たち人間も、同じです。では、魂はどこへ行くのでしょうか。それは、一人ひとりの心の位置に相応しい場所へ行きます。ですから、一律にどこへ行くということは言えません。しかし明らかに、魂の精神性は高い位置と低い位置があります。それはどのような違いがあるのかというと、日頃自分のことだけを考えている人は、自我の枠の中に心の位置があるわけです。自分のことばかりで枠が狭いですから、それだけ毎日枠の狭い命を表現していることになります。

枠が狭いと、循環から外れます。そうでしょう?すべてが繋がり、支え合って循環している中で、自分のことばかりになっているのですから。循環の中にいれば、それは流れの中にいるということですから、物事がスムーズに流れて順調に進みます。しかし、「自分だけ」という考えで一生懸命生きていると、一生懸命の分だけさらに流れが悪くなり、滞るのです。それは、自分にとって都合の良いご利益を求めてどこかへ拝んでも、良くなるものではありません。

この大いなる循環とはどのくらいのスケールなのかと言ったら、私たちは今、地球の循環の中に在ります。地球の循環と言いますが、実は地球が運営されているのは、太陽系があるから運営されています。太陽系が運営されるのは、銀河があるから運営されています。銀河が運営されるのは、銀河群があるからです。さらに、人間にはまだ分からない、銀河群よりさらに大きな宇宙の仕組みが、全体を運営しているのです。

その大いなる循環の中で、今日散骨した皆さんの遺骨も自然に還り、いずれ草木に吸われ、生き物に吸われ、炭素循環、窒素循環、いろいろな循環の中で、空気や土に還っていきます。そのように心を大きく広げていくと、今月のお給料がどれだけだったとか、自分の欲しいものが手に入ったとかいうことは、微々たることです。そんなことよりも、もっと大切な枠によってこの世界は動いているのです。

人間は社会を築き、それぞれにいろいろな人生をもらっていますが、それは修行ですね。何の修行かと言うと、自分の枠を取り払うために生きているということです。なぜなら、もともと「自分」という枠はなく、他のものが存在するから、その循環の中で生かされているのです。それなのに、人間はいつしか自らの枠を所有し、そこから離れられないようになっています。これが現代の、本当にどこを切っても問題だらけという社会を創っている一番の原因ですが、現代の人々の中で能力が高いとされる人ほど、そのことがわからないのです。

いずれ、このことを理解しないと社会が行き詰まる時代を迎えます。2012年12月21日に、私たちの世界は25800年ぶりの銀河の冬至を迎え、昨年2022年12月22日の冬至を以って10年が経ちました。それは、人間たちが自我を膨らませることにとても熱心だった時代が終焉を迎え、次の時代が始まったということです。ですから、2012年12月21日以降、地球上での人間の振る舞いはうまくいかないようになりました。そこからさらに10年が経ったわけですから、さらにそれが明快になり、今、2023年を迎えているわけです。

今日は、普通であれば互いにご縁のなかった方々を、一緒に散骨して自然へお還ししました。自然に還すということは、何もなくなってしまうわけではないのですよ。自然という、ひとつの命の循環の中に還すのですから、今まで別々だったものが、ひとつに還るのです。つまり、まったく縁のなかったものたちが、本来の自分自身となってひとつになっていくのです。

太陽が自分自身だという人はいますか?太陽があるから自分がいるのでしょう?土もそうです。空気もそうです。空気が無かったら生きていけないでしょう?そのように考えたら、この世界は自分自身です。この世界が自分自身であるならば、自分はそこで何をするのかと言うと、生きて、この世界をひとつにするためのお返しをするのです。この世界が健全になるために。

今日は6人の方々の散骨をさせて頂きました。いずれ私たちが旅立つ時も、やはりひとつのところへ還るでしょう。私たちがこのような散骨式を行うのは、世界はひとつであり、みんなが助け合ってこの世界が成り立っていることを、理解しているからです。

今、人間たちはそのことを忘れてしまいました。自分の自我を表現し過ぎて、自我を叶えることが良いことだと錯覚してしまっているのです。しかし、生きることは、自我を手放すために生きているのです。それは、今までも、今も、そしてこれからも、ずっとそうです。自我を手放した状態で生きることは、世界に貢献します。そこで、「自分」という狭い枠に貢献しても、欲深い心が育つだけなのです。

そこで今朝、今年のテーマが降りてきました。それは「解放」です。何から解放されるのかと言うと、一番かわいくて、一番捨てられずに大事にしている「自分」からです。それから解放することが、自分を楽にさせます。そして、価値あるものにします。その自分は、欲深い心で争ってばかりいるこの世の中を良いものにしていきます。

地球はひとつです。ひとつの地球の中で、なぜいがみ合わなければならないのですか。みんな太陽の子どもですよ。みんな大地の子どもですよ。それなのに、どうして争うのですか。人間は今、自然の循環の中の弱肉強食とは違う、互いを貶め、つながりを断ち切ることで、自らの価値を落としているのです。

たったこれだけの規模の散骨式ですが、それは人類にとってとても大きな意味を持っています。特定の墓や骨壺に閉じ込めず、亡くなった人を解放してあげることが、魂にとってどれほど大切なことか。私たちはもっと大きな循環の中にいずれ還っていくのだということを、認識してください。

私たちは一人ひとり個性を与えられていますが、それを自我の枠の中で自分のためだけに使ってはいけません。この世界に命をもらったということは、生きて、この世界を健全にする役割をもらったということです。そしていつか役割を終えたら、「ありがとうございました」と言って、物理的なものはすべてお還しする。そうすると地上に未練がなくなりますから、魂は軽くなって上へ昇っていきます。いろんなものを抱え、未練を残せば残すほど、魂は重くなってなかなか上へ上がれないのです。これが生命の道理です。

来年もまた、こういった散骨式でご縁のある方々を送ることになるかと思いますが、この活動を世の中に広げていくことが、世の中を良くすることにつながっていくのです。

今日はとても良い日で、太陽がこのように暖かい陽を注いでくれているのも、「これをやりなさい」と恵まれたのだと思います。どうか、そういった大切な輪を広げていきましょう。本日は、ご縁のあった皆さまと散骨式を無事に執り行えたことを本当に感謝いたします。

ありがとうございました。


2023年1月26日木曜日

2953「天に帰ろうとしている方へ」2023.1.26

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月21日の記事を紹介します。


「天に帰ろうとしている方へ」


今まさに天に帰られようとしていらっしゃる方々にも、 

普段このブログで言っている、「感謝」や「ありがとう」が通用するのか?  

綺麗事では無いのか? について書きたいと思います。


アメリカの著名な心理学者、

レイモンド・ムーディー博士が臨死体験者150人の証言をもとに、 

「臨死状態に陥るとどんな感覚になるのか」をまとめあげたものがあります。 

それによると、蘇生にいたるまで計14の過程があると言います。

私達は過去、何百回も死を経験し生まれ変わっていますが、

今生きている間は、それらの記憶が封印されていますから、 

あちらでの生活や、その移行過程(生まれる、死ぬ)の記憶はありません。

ですので、この臨死体験者の経験が何か役立つかもしれません。

臨死体験者は、臨死状態から生還にいたるまでまで次の14の過程を踏むのだと言います。

1、自分の死の宣告が聞こえる

2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる

3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も

4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる

5、魂が肉体から離脱し、外部から自分の身体を観察する

6、懸命に自らの苦境を他人に訴えるが、誰にも聞こえない

7、時間の感覚がなくなる

8、視覚や聴覚が非常に敏感になる

9、強烈な孤独感に襲われる

10、周囲に様々な“人”が現れる

11、「光の存在」と出会う

12、自分の一生が走馬灯のように映し出される

13、先に進むことを遮られる

14、蘇生する

臨死ではなく、実際に向こうから戻らない場合には、上記の13と14が無いことになります。

 

また肉体が死を迎える時、脳から大量のドーパミン(快感物質)が

分泌されることが解っていますので、痛みはありません。

これから、元の世界に戻ろうとされる方は、

意識の中で光が見えたら、そちらの方向へ進んで下さい。

瞬間的に亡くなるのではなく、 

一般的には、肺の機能が低下し、血中酸素濃度が減り、

脳の機能停止が起こると言われています。

ですので、私達一般人が「死ぬ時って痛いんじゃない?」という心配は要りません。

肉体が機能停止した時、光が現れるので、そちらに入って行く・・ 

と言う事さえ間違わなければ大丈夫らしいです。

どうか元の世界に、帰られる皆さん、安心して下さい。

遅い早いの違いはあれ、みんなが通る道です。

また私達は、もうすでに、何百回も輪廻を繰り返していますので、生と死は怖いものではありません。

さて、これで死と言う境界を通過する際の心配は無くなりました。

 

後は、死ぬ瞬間まで どう生きるか?  

と言う事が問題となります。

瀬戸内寂聴さんは、死ぬ瞬間に付いてこう仰っています。

どんな辛い病気をしても、死ぬ瞬間まで、努力して下さい。

人の命は、そうするに値するものなのですから。

何に努力するのでしょうか?  

寂聴さんは、私達の知っている「努力」と少し違った意味でこの言葉を使っています。

それは、この世に生まれてくる時に自分で決心したことを、やり遂げることです。

それは、もしかしたら、ブッダが2500年前に説いた般若心経の真髄のことかもしれませんね。

 

この般若心経はブッダが一番後世に伝えたかったことなのだそうです。 

日本には三蔵法師を介してもたらされました。

そしてこの般若心経の真髄こそが、

日々の生活の中での「ありがとう」、「感謝の心」なのでした。

・全ての人、

・動物、

・植物、

・自然現象に

感謝すること、ありがとうと言うこと。

そして感謝の真心を込めて日々を過ごすこと。。

 

私たちには、元の世界に帰るまで、時間はあまり残されていないかもしれません。

健康な人でさえ、明日、帰らなくてはならないかもしれません。

どうか後悔せぬように、最後の一息を吐き終わるまで、感謝の日々をお過ごしください。

この最後の意識状態こそが、次の生へと大きく影響すると言われているからです。

 


 

2023年1月25日水曜日

2952「優しさは真実(正義)に勝る」2023.1.25

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月20日の記事を紹介します。


「優しさは真実(正義)に勝る」


私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。 

また逆に、 

・自分は正しい

・自分の言う通りに動け・・ 

と、無意識のうちにマウンティングしてしまい、自分勝手な正義感を振り回し、 

・人を批判し

・糾弾し

・追い詰め 

または、感情を外には出さなくとも、心モヤモヤしたり。 

そして、

・自分勝手な価値観に沿って、家族を含め、他人を動かそうとします。 

そして、人がそれに従わないと 

・猛烈に批判を浴びせ

・憎み

・足を引っ張り

・仕返しをしようとします

または第三者に告げ口し、自分は正しい、相手は間違っているという

お墨付きを得て、モヤモヤを解消させようとしたりします。 


また、心弱い私たちは、 

何が正しいか、分ってはいても,なかなか一歩踏み出せないでいます。

生きている間は、ずっとその葛藤かもしれません。

でも諦めないでください。

みんながそうなんです。 

そこが出発点なんです。

ブッダがこう仰いました。

・嘘をつけないような人になっては いけない

・優しさは真実に勝る

ブッダの仰りたかったことは、 

相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、

真実(正義)よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。 

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、 

いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。

そして、酒を飲んだり、戒律を破る。

その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。

そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。

人を追い詰めることはなさいませんでした。

ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。

  

次に良寛さんのエピソードをご紹介します。 

良寛さんの甥に、馬之助という放蕩息子がいました。

良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛さんに説教を依頼します。

良寛さんは故郷の由之の家に出向き、馬之助の前に座らせられましたが、

酒を飲んでばかりで、いつまでたっても説教しませんでした。

 

とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとしました。

そのとき馬之助の母は馬之助に、

良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけました。

馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始めますが、それでも良寛さんは黙ったまま。

と、そのとき馬之助は、自分の首に何かが、落ちてくるのを感じました。

見上げると、そこには目に一杯涙をためた良寛さんの顔がありました。

それをきっかけに、たったこれだけの出来事をきっかけに 

馬之助の放蕩は、すっかりやんだということです。

良寛さんは、馬之助の心の

・苦しさや

・悲しさや

・それを放蕩で紛らわさずをえない苛立ち

をただじっと見ていました。

煩悩だと知りつつも、煩悩に引きずり回されるのが

私たち心弱い人間です。

人間の悲しさ、苦しみは、いつでもそこから生まれてきます。

悲しみを持った人に、自分勝手な価値観を押し付けたり、くどくどと説教したり、

良寛さんは、そのような事はしませんでした。

ただ馬之助とともに、じっと悲しみ続けるだけでした。

馬之助の父親の由之や母親は、息子の表面的な損得や、世間体から心配したかもしれません。

ですが、馬之助の心と、じっと一緒にいてあげたのは、良寛さんでした。

 

人は弱いものです。

いくら正しい道を示されても、

「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、なかなかそう簡単に行きません。

でも本当はそうしたいのです。心では分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、 

結局あきらめてしまい、また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。

正しい道を示されても何の役にも立ちません。 

ですが、良寛さんのように 

心を理解し、心に寄り添い、

「今のままでも、良いんだよ」と、見守ってくださる人がそばに居れば、 

私たちは徐々に、光の方向に進んでいけるかもしれません。 

心弱い私たちは、煩悩で、あちこち頭をぶつけながら、人に迷惑かけながら、お世話になりながら、だんだんと、あちこち角が取れて、おかげ様の心が芽生えてくるでしょう。 

そして、

・おかげ様

・お互い様 

の感謝の心が芽生えた時、

その辛く、苦しい経験をしたがゆえに、 

同じような苦しみ、悲しみの中にある人の

心の内を理解して、良寛さんのように寄り添えるのかもしれませんね。

 

2023年1月24日火曜日

2951「苦しい時こそ予祝」2023.1.24

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月19日の記事を紹介します。


「苦しい時こそ予祝」


今私たちが置かれている状況は、全ての全て、過去の私たちの心の状態が生み出したものです。 

ですので普段から、まわりやTVなどから接する情報も、できるだけ 

・清らかなもの

・優しく温かなもの

・思いやりのあるもの

・人に勇気を出させるもの

などにして、好奇心をくすぐる目的で、下品な物や面白おかしくデフォルメされた・・・ 

・ゴシップ

・人をだましたり

・嫉妬したり

・恨んだり

・貶めたり

・陰口を言ったり聞いたり 

そのような物を見たり聞いたりして、心に入れないようにしたいものです。 


何故なら、心に在るものが、何時か現実化されるからです。 

無意識に心に入れたものが、現実化してしまう可能性が高いからです。 

もし今の現実を変えたいならば、幸せになりたいのなら、心癒される環境に身を置きたいのなら、人や周りを変えようとするのではなく、自分の心をきれいに洗濯をしてみることをお勧めします。 

そのためには、感謝の気持ちが大切です。 

思ったこと、心の中のことが現実化するとは、私たちが神さまと同じように作られたからです。 

神々と同じ、創造する力を私たちは与えられているからです。 

さて、ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』で有名な故渡辺和子さんは、 

36歳の若さでノートルダム清心女子大学の学長となりましたが、若さゆえに沢山の苦労をなさいました。

<引用開始> 引用元 

 

思いがけず学長という立場につけていただきまして、やはり苦労がございました。

私はいわゆる「くれない族」というものになりました。

・お辞儀をしてくれない。

・あいさつをしてくれない。

・こんなに苦労しているのに労ってくれない。

そういう「くれない族」。

私は「もっと人様に仕える仕事をさせていただくために入ったのに」

と私を修道院に推薦してくださったアメリカ人の神父様のところにまいりまして、

縷々(るる)不平不満を述べました。

すると神父様は、「あなたが変わらなければ、どこへ行っても何をしても同じだよ」

とおっしゃいました。

目からうろこが落ちました。

他人が変わることばかり求め、幸せを他人まかせにしていた自分に気づかされました。

私が変わらなければと思い、私の方からあいさつをする人間に変わる決心をいたしました。

そうすると、周りの方が変わってくださったんですね。

明るくなりました。

それまでは、環境さえ変われば、みんなさえ私を理解してくれれば、と思っていました。

神父様の一言で、大切なのは人に頼ることじゃないんだ、と気づきました。

「環境が悪い」「人が悪い」ではなくて、悪い環境ならよくしよう。

よくするためにはまず私が一番先に変わらなければいけない。

発想の転換と申しましょうか、

そういう気持ちになりました。

私は傷つきやすいところがございますけれども、そのおかげで、人様にこういうことをしたら、この言葉を申し上げたら傷つくんじゃないかということがわかる人間になったと思います。

弱さ、傷つきやすさを逆手にとって、相手の気持ちがわかる人間になる。

だから傷つくことのありがたさを忘れてはいけないのです。

時間の使い方は命の使い方。

この世の中に無駄なものは一つもございません。

嫌なことや傷つけられたことさえも私たちは、いいことに変えられるのです。

<引用終了>

 

渡辺さんは学長として、働き盛りだった五十歳の時、うつ病となり、死を考えた経験があるのだそうです。

そして、周りの方々、取り巻く神々に助けられ、克服しました。

渡辺さんの醸し出す、静謐の中の深い優しさは、そんなところから来ているのかもしれません。

ご自分で苦しみを味わったからこそ、同じように苦しむ人々の心の内が分かり、そして、寄りそい、温かな言葉をかけられるのでしょう。

そう考えたら、ご本人の仰るように、病気さえも無駄ではなかったことになります

返って神々の恩寵となったのです。

神様のやり方は、何時も同じです。

神様は私たちの「願ったもの」ではなく、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。

それは必ずしも私たちが欲しくないものかもしれません。

でも、全てが肉体ではなく、魂の成長にとって必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることができれば、人の魂は、どんなに光り輝くことでしょう。

周りの人たちの心を照らし出すことができるでしょう。

お腹が空いた時のひもじさが分かるから、素朴な美味しさを感じることができます。

私たち生きている人間は物事の表面しか見ることができません。

その、ほんの一面だけを見て

・良い、悪い

・幸、不幸。

を判断することはできません。

 

有頂天になったり、落ち込むことには意味がありません。

どんな人も、必ず、時が経って振り返れば、究極的には、肉体が亡くなって天に返る時には、

今の状況に至るためにはその出来事が必要なことであった、そう気付くことでしょう。

神さまは、幸運を与える前に、必ず、まず、不幸に見える出来事をくださいます。

そして、その出来事に、不平や不満、愚痴を言わず、やり過ごすことができた時、

幸運がやってきます。

それは、必ずセットになっています。

更に、神さまのなさり方が理解できたのなら、きっと前半部分の不幸に見える出来事がやって来た時、感謝の気持ちで受け取ることができるでしょう。

また、もっと確実にする方法があります。

それは日本人が古来からやってきた方法、予祝(よしゅく)です。

 

祝福をあらかじめ予定するのです。

いわば前祝い。

先に喜び、先に祝うことで、次に来るであろう、喜びの現実を引き寄せる

これは、日本人が古来からやっていた夢の叶え方だそうです。

お酒を飲みながら、お米がたわわに実ることを想像し、仲間とワイワイ先に喜んでしまう、前祝い。

それが夢の引き寄せであり、お花見の由来だったのだそうです。 

何故なら心がワクワク楽しいことで満たされていたら、例え今は不幸でも、 必ずそれと同じ波長のことが現実化されるからです。

どのような現実が、起ころうと、私たちの運命は、全て結果オーライになるように組まれています。

そうであれば、常に感謝の気持ち笑顔で生きて行きたいものですね。 

 



 

2023年1月23日月曜日

2950「悪魔も神様」2023.1.23

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月18日の記事を紹介します。


「悪魔も神様」


今、過去にないほどのスピードで世の中が変化しており、私たちの一番大切な、精神的な環境も大変化をしています。 

不安の中で生活なさっている方も多いようです。 

ですが、この大激動期にこそ、私たちの心の持ちようが試され、磨かれています。 

ですので、今日も大切な心のお話を書きたいと思います。 

今日は「悪魔も神様です」と言うお話です。

私たちの宇宙では、善ばかりの世界というものはありません。

善も悪も、同時に存在を許され、様々な模様を紡いでいます。 

宇宙神がそれを許しているからです。

確か神様の意識のまま生まれて来たトキ君ファミリーも、オニ(鬼)の魂の宿ったネコと暮らしていますし、悪魔とお会話のお話もされていました。

そして悪魔は、ニコニコした顔をして近づいてくる・・

神さまの場合は、そうではないと、新春の動画でお話していました。

以前 「星の子供たち」の記事で書きましたが、戦争が好きな神さまや、ウランの神さま。

そして悪魔も神さまであるというお話です。

いろんな神さまがいるのですね。

以下、正観さんのお話。

引用元の文章に、少し加筆してご紹介します。

<引用開始> 引用元

 

いわゆる神さまという 神さまは存在するけれど、悪魔という神さまも、実は存在しているんです。

悪魔も神さまなんです。

そして いわゆる神さまより悪魔のほうが すごいかもしれない。

いやすごいんです。 

緻密で悪魔と解らないようにしながら、人々が幸せになることを阻む働きを、これでもかと智慧をめぐらし策を凝らしながら人々を貶めていくんです。

神さまのような崇高な 演出をし信用させ、言うことを聞きながら言うことを聞かせる。 

その技術に卓越している 決して悪魔の顔を表には出さない。

神さまのような悪魔。

だからこそ悪魔の真骨頂。

悪魔の策略のひとつは、

・人は一所懸命頑張れば高みに行ける。 

・努力しなさい

・競い合いなさい 

・そうして名誉や名声、財力を持てば最高の幸福になれる

・素晴らしい才能を使い、自分に鞭打ち励めば高みに行ける

そう言って 地球上の人間たちは現在の文明を作ってきました。

それは紛れもなく悪魔という神の力です。

それを人間たちは 見破ることができないで、悪魔に魅入られ使われる存在(人間)たちに、

使われてきた。利用されてきた。

それが実態。

 

正観さんは このようにして悪魔の存在を遺言として残されました。

私たちは その悪魔が作った価値観や社会の中で、どの方向へ行けば良いのかと、あたふたしている現状です。

・病気のこと 

・子どものこと 

・経済のこと

・夫婦のこと

・仕事のこと

・将来のこと

あまりに不透明で 心休まる暇がないですね。

<引用終了>

現在では、この「悪魔に魅入られ使われる存在(人間)」という多くの人々が実際に存在しているようです。

でも、その存在も、ここ数年だんだんと、人々の目の前に明らかにされつつあります。

いかに彼らが私たち人類を、支配してきたのか、どのような計画を遂行してきたのか。

でも私たち日本人にとって、努力せよ。

とは悪魔のささやきであると言うのは、今まで抱えてきた価値観の大逆転ですね。

幼いころから、家庭でも、学校でも

・努力しなさい

・良い学校に行きなさい

・大きな会社に入りなさい

・より多くの収入を得なさい

など意識に刷り込みされてきたからです。

ですが、その根底に

・現状に満足していない

・不満がある

・文句がある

という心があるということで、その環境を準備してくださった宇宙や神さまに、不満や文句を口にしていることと、同じことになるからです。

では、現状に満足することなく、常に上を目指し、努力し続けることは、どうして悪魔のささやきなのでしょうか?

上記のとおり

・神さまに対して宣戦布告しているということ

・常に心の中に渇望感(のどが何時も乾いているような飢餓感)が起こる

・もっともっと、という果てしない欲望と同じです

・そして人と比較し、嫉妬したり、蔑む心が生じます。

ですが、全ての努力を正観さんは否定しているわけではありません。

こう仰っています。

努力はしてもいいんです。

 

でも、渇望感から努力をしている人は気をつけたほうがいい。

これは悪魔さんのなせる業(わざ)。

求めて、渇望感があって、足りない、足りないもっと、もっとという「希望、夢、努力」。

これは気をつけてください。

悪魔さんがもっと、もっと・・・まだまだまだ・・・・

これでは、いつまでたっても満たされることはないんですね。

仮に一千万円貯めたら幸せになれる。

そう思って一千万円貯めたら、1億円持っている人が沢山いるのに気づきます。

1億貯める。頑張って、頑張って10億貯めたら忙しくて過労死。

じゃあ努力はしてはいけないんですか? と聞きたくなりますね。

努力はしてもいいのか?

努力はしてもいいんです。

努力は渇望感じゃなくて、心から幸せがあふれている状態。

そんな満ち足りた状態で努力をするというのはいいんです。

楽しくて、おもしろくて、自分が好きなことを、ちょっと、ちょっとと上乗せして努力する。

それはいいんです。そんな人の努力は幸せです。

常に「もっと、もっと」「人を蹴落としてでも」と心を濁らせて行う努力はやめた方が良いようですね。

それよりも現状、与えられた環境に感謝して、ひたすら今目の前のことを、心をこめて行っていけば幸せになれるようです。

 

そういえば悪魔のささやきで、私たちがお尻を叩かれるように言われ続けた

・もっと努力せよ

・上を目指せ

・一所懸命に働け

・お金を稼げ

・お金が無ければ、悲惨な人生になるぞ

と言うのは確かに常に不安にさせられ、恐怖からの思考・行動になってしまいますね。

「悪魔に魅入られ使われる存在(人間)」は、このように人々を不安に陥れた上で、努力を強制します。

人々に心休まる時はありません。

日々が将来に対する不安との闘いです。

どれほど、このことで心を病んでしまった人が増えてしまったことか?

どれほど、多くの人が「今だけ、金だけ、自分だけ」の、さもしい心になってしまったことか?

私たちは本来、 

・地球に経験を楽しむため、

・魂を純化させて進歩させるためにやってきました。

それは、人々が、 

・お互いを尊重し、

・助け合って、

・笑いあって生きて行く道のはずでした。

悪魔の神さまは、あまりにも巧妙でした。

私たちは長い間、騙されてきました。

でも、少数ですが気付いていた人たちもいました。

気付いた人の中から、立ち上がって下さった人達がいました。 

いま日本には、数多くの神様の魂が生まれて来ています。

お陰で今、地球に来た本当の目的を、思い出す人達が徐々に増えてきました。

私たちの内には、どなたの中にも神さまがいらっしゃいます。

神さまは、何時も傍に居り、私たちに必要なものや、必要な人をジャストのタイミングで用意してくださっています。

全ては私たちの魂にとって良かれとの思いからです。

私たちは、神さまに感謝し、今の環境に感謝して、目の前の些細なことにも、愛と真心をこめて接していきたいものです。 

その生き方は、自然界全ての生命と同じ生き方です。

それが、本当の意味での幸せにつながる道だと思います。

 




2023年1月22日日曜日

2949「地球を救う大和心」2023.1.22

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月17日の記事を紹介します。


「地球を救う大和心」


今 日本を中心に、神様の魂を持った子供たちや、宇宙から直接地球に転生してきた子供たちが、沢山生まれていると言われています。

宇宙人の魂は死ぬと地球の天国にはいかず、そのまま故郷の星の肉体に戻るそうで、

その時間は、地球時間でたった8時間ほど。まさに寝て起きたようなものだとか。

麻で有名な縄文研究所の中山康直さんは、中学生時代、池で溺れ13分間意識不明に陥ったそうですが、その短い時間、プレアデス星団アルシオーネに転生し、1万年生き、麻を研究し、その死後再び、地球の中学生の体に戻ったそうです。

そのプレアデスでの1万年の人生が、地球ではたった13分間。 

神さまが見える子供たちのお兄さんの方は、宇宙から直接、地球に転生した魂ですが、小学生ながら、その知能ははるかに高くマルチユニバース(並行宇宙)の知識までありました。

また科学技術のはるかに進んだ宇宙人にとって、神様は、友達のような存在とのこと。 

レインボーチルドレンの小学生のそうた君も同じことを言っていました。

彼ら知的生命体にとっては、神さまや魂などは決してスピ的な話ではなく科学そのもの。 

その科学の力で、魂そのものを見て、話しもします。(リーディング)

バシャールのように、科学的な知識で人間の肉体をサーチして、その過去を見たり、未来を見たりします。 

決してそれは迷信的なスピのお話ではありません。

更に、天国や地獄と言った世界の知識も持っています。

この地球文明よりもはるかに進んだ科学的な知識を持つ宇宙人たち。

その彼らが憧れる星が、広い宇宙に2つだけあるそうです。 

その1つが地球。

そしてその地球の中でもとりわけ日本なのだそうです。 

それは日本が神々によって作られた特殊な国であり、更にはありがとうと言う言霊があるからなのだそうです。

美しい心が残っているからなのだとか。

 


さて今日の本題です。 

今この時こそ、今まで私たちが、密かに胸の内で期待して、多少不安ながらも待ち焦がれていた、その時そのものなのですが、日々の暮らしの中においては、なかなか 

・「何か、起きているな」と・・感じはしても

・「最近身の回りが、騒々しいな」と・・感じはしても 

今この時が、その時まっただ中であるとは認識出来ないかもしれません。 

世界的にも、そして数百年規模の歴史の波の中においても、大変化の時代に突入しています。

今日の続きが、また同じ明日ではありません。 

今年の末までには、今起きているその大きな変化の意味を多くの人が気づくことでしょう。

もう後戻りはできません。

停滞もできません。 

大きな変化の時には、今まで持っていた価値観を、私たち自身が変える必要があります。 

「予行演習をさせられた日本」の記事でも書きましたが、既にこの時のために、そしてショックを和らげるために、前もって沢山の方々が強制的に価値観を変えました。 

・神戸、東北の大震災

・九州の地震 

強制的ではありますが、そして涙と大きな痛みを伴いましたが、その時を境に、ご自身の中の価値観が大きく変わられたことと思います。 

大正時代の日本を見たアインシュタインの感嘆の言葉や、ブッダの予言に在る通り、

世界的な大きな大きな変化、世界中が涙も涸れ果てるほどのいさかいの後、世界の希望は、

日本人の心にある大和心(やまとごころ)に託されています。 

私達平凡な一般人には、 

・世界の果てまで行き、平和のために戦争に参加したり

・貧困にあえぐ多くの人々を救う 

そんな大きな力はないかもしれません。 

ですが、私たち自身の心を整えることはできます。 

心を整えることで、身近な周りを幸せにすることができます。

ひいては地域や国、世界を幸せにすることができるかもしれません。 

全ては、私たちの心ひとつから始まります。

  

では、言葉遊びではなく、綺麗な言葉を並び立てて終わるのではなく、実際に実践・行動できるように「私たちの心の何」が、大和心なのか?

書きたいと思います。

 今この時こそ、私たち日本人の心が試されているからです。

どうしたらその心を取り戻せるのか? 

大和心は、江戸時代の本居宣長の下記の短歌に端的に表されています。

敷島の やまと心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花

現代語訳は・・・

日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。  

そして西洋の異人の人々でさえ、日本の山に咲く、山桜を見たら、大和心に目覚めるであろう・・・ 

そう言っています。 

  

このような心をはぐくむために、神々は、4つのプレートが重なる地域に日本列島を作り、 

そのプレートのせめぎあいで山や谷を作り、その高低差で川が流れ、美しい自然をはぐくんできました。 

そして日本は島国であるがゆえに、外敵にさらされることなく、 

・自然と共生する心

・自然を愛でる心

・自然や万物に感謝する心

・自然や万物、そして相手の中に神を見る心 

を創られてきました。 

全部神々が計画した、いわゆる 共生と順応の美しき心です。 

これに対し、厳しい自然環境の中で生きていかねばならない諸外国では 、自分の力で苦難を乗り越えねばならず、征服というキーワードで生きてきました 

・自然を征服する

・病気の原因を細かく分類分けし、征服する。除去する。

全てが対立という考え方からスタートします。 

日本では環境に立ち向かうことなく、受け入れ、環境とともに生きてしまう。 

そして順応し、自分を変えることで、自分が進化することで、環境の変化を乗り越えてきました。 

日本人は、縄文の時代からずっとそれをやってきました。 

ですから柳の木のように、しなやかで折れにくい強い心を持っています。 

この強さを恐れ、破壊するために、根絶やしにするために戦後の統治政策が行われました。

日本人の底力、神と共にある力を恐れたからです。 

アインシュタインが言った

科学の発達によって、外国はみんな武器を争って作って、お互いに戦争をやるだろう。

そして、最後に疲れ果てるだろう。

その時に本当の人生に目覚めるときが来るだろう。

それをするのが日本人である。

日本人の生き方というのは、人間の本当の生き方である。 

そのような地球の未来が託された私たち日本人の大和心。

これを取り戻すには、日々の平凡な暮らしの中で、 

身近な周りの人々と

・その違いを認め

・笑顔で助け合い

・おかげ様、お互い様の気持ちで

・憎しみの心

・不平不満の心

・嫉妬の心を捨て

感謝の心で過ごしていくだけです。 

大それたこと、無理してくださいと言うことでは決してありません。 

自分の心を整えるだけです。 

その積み重ねが、私たちの魂の中に眠っている大和心を揺り動かし、深い悲しみの後の世界に、平和と笑顔を広めてくれることでしょう。

この日本人の優れた特質について、今からちょうど100年前の1922年、芥川龍之介が

「神々の微笑み」で書いています。

あらすじをご紹介し、本日は終わりたいと思います。 

<引用開始> 引用元 

 

十六世紀頃の戦国時代、キリシタン布教の全盛期。

ある春の夕暮れ、京都の南蛮寺の庭で、宣教師オルガンティーノは言い知れぬ不安に襲われていた。

風景は美しく、気候も温和で、人もまあ親しみやすく、布教も進んでいる。

しかしこの国のいたるところに、不安をあおる何かが満ちている。

オルガンティーノは夕の祈祷にて、日本の神霊と戦うための加護をデウスに祈る。

が、彼の目の前には日本神話の天岩戸の場面が幻想として現れる。

オルガンティーノはそのあまりの衝撃に気絶してしまう。

深夜、意識を回復したオルガンティーノは「この国の霊と戦うのは困難らしい」と呟く。

すると「負けですよ!」と姿なき声が聞こえる。

翌日の夕も南蛮寺の庭を歩いていたオルガンティーノは、幾分か昨日の憂鬱を払しょくしているようだった。

数名の新たな入信者があったからだ。

しかし、そんな彼の前に、首に勾玉を下げた老人が現れる。

老人は日本太古の神の一人だと名乗り、オルガンティーノに語り始める。

この国にはデウスだけでなく、孔子、孟子、荘子などいろいろな考え方、物や文字が渡来してきたが、我々を征服することはできなかった。

たとえば、漢字はひらがなやカタカナに造り変えられ、逆に我々が征服しているともいえる。

我々の力とは破壊するものではなく、まさにこの造り変える力。

デウスもまたこの国に取り込まれるかもしれない。

お気をつけなさい。

デウスが勝つか天照が勝つか、いまは容易に断定できず、それは現在、そして未来の日本人の肩にかかっている。 

<引用終了> 

※当時、産業革命をいち早く終えた西洋諸国による世界の植民地支配に先立ち、宣教師たちが先遣隊として、世界に派遣されていました。




2023年1月21日土曜日

2948「ディーガルの世界へようこそ」2023.1.21

 今回はIn Deepさんの2023年1月14日の記事を紹介します。

ディーガルの世界へようこそ - In Deep


「ディーガルの世界へようこそ」

[ディーガルについての参考記事]

これは「副作用」ではなく「本作用」だと認識しながら、人類類史上最大の事象がディーガルの分析した未来予測へと推し進める惨状を見続ける日々 In Deep 2021年6月18日


来年始まる戦争サイクルでは、「世界人口の3分の1が死亡する」というアメリカの著名な金融サイクル専門家の見通し… In Deep 2022年5月19日


全世界が大本営発表状態に

世界的な報道規制が敷かれる中、なんだかんだと、この2、3日、観光客の多そうな国々でえらいことになっています。


過去約半年のイギリスの1日の新たなコロナ死者数の推移

 

パンデミック全期間のオーストラリアの1日の新たなコロナ死者数の推移

 

パンデミック全期間のスウェーデンの1日の新たなコロナ死者数の推移

 

パンデミック全期間のタイ王国の1日の新たなコロナ死者数の推移

 

いろいろと大変なことになっているようですが、もちろん日本が全体として最先端を走っているのは、あまり変わらない部分です。

パンデミック全期間の日本の新たなコロナ死者数の推移 (7日移動平均)

 

どの国でも、自分の国のこの状況を報じることはなくなっていまして、日本に関していえば、昨年の夏も同じでしたが、実際に現在の医療や葬儀等がどうなっているのかは不明です。

以下の昨年 9月の記事でふれました。

[記事] 大本営発表ばかりの中で : 「日本で実際には何が起きているのか?」という海外の報道で知った日本の「死の波」の現状 In Deep 2022年9月15日

この記事でご紹介した英語版の朝日新聞の報道には、以下のようにあり、この時点で、すでに葬儀や火葬全体が滞っていたようです。

(2022年9月5日の朝日新聞 英語版より)

> 遺体が火葬場に送られる前に保管されていた遺体安置所は、8月以降、遺体を収容することができなくなっている。

> 火葬日が近づいている遺体は、棺に 10キログラムのドライアイスを入れて、葬儀場の別室に保管されている。

> それでも収容しきれない遺体が増えた。葬儀場は、それらの遺体を他の葬儀場の冷蔵保管施設に放置することを余儀なくされた。 (asahi.com 2022/09/05)

 

しかし、この頃は、先ほどのグラフで示しますと、以下の頃でした。1日の死者数が現在の半分程度の頃です。

  

ですので、現在はさらに大変になっているのだと見られます。

世界的な状況についても、AFP やロイターなどの国際的な報道機関は、現在「基本的にコロナの報道をしない」ということになっているようで、ほぼ見ません。

結局、

「3年前と逆になっている」のですね。

3年前のパンデミックの最初の頃は、コロナコロナと煽り立てるだけではなく、 

「これがいかにコワイ病気か」「どんなにたくさんの人たちが亡くなっているか」

「葬儀が追いつかない」 

というようなことを世界的に報じていたわけですが、最初に示したグラフでわかる通り、現在との死者数の比較では「当時そんなわけなかっただろ」という状況だったかもしれません。

しかし、今はちがう。

本当に大変な数の死者が出ていると考えたほうがよく、そして、これは3年前に喧伝されていた「感染者数」ではなく、「死者数」です。

イギリスとスウェーデンとオーストラリアとタイのデータシステムが全部いっせいに壊れたというのならともかく、少なくとも現在示されている数値は、

「 1月10日過ぎからいっせいに死者が増えた」ことを示しています。

データは、後に修正される可能性がありますので、それで現状のグラフを示しています。

なぜ、1月10日過ぎから唐突に死者が増えたのかということについての理由には言及しません。憶測に過ぎなくなるからです。ただ、以下のような記事に書いたことが「まったく関係ないか」というと、それは何ともいえません。 

[記事[重要] 中国保健当局の調査で四川省のコロナ感染率は 63%…。日本人の大多数が感染増強抗体を持っている中でこんなものが国に入ってきたら…InDeep 2022年12月29日

仮に、このようなことが関係しているのだとすれば、数字が本当かどうかはわかりようがないとはいえ、中国の北京大学の調査の話を BBC やロイターなどが報じている数字だと、

「中国では 9億人が感染している」と思われます。

(報道) 中国のコロナ感染者数は9億人と北京大学が発表 (2023/01/13) 

仮にこの数値が本当だとすれば、人口 14億人の中国で 9億人がコロナ(かどうかはわからないながらも)感染しているという状況は、

「そのまま他の国にも当てはまる」ということです。

日本なら 7000万人から 8000万人というような数になるかもしれません。

最初のグラフにありましたスウェーデンの人口は 1000万人ほどですが、それで、1月12日に 503人のコロナによる死亡が記録されている。

同じ率を日本に当てはめれば、それは大変な数になります。

あるいは、先日の記事に書きましたフィンランドの率に当てはめれば、それはもう本当に惨事としか言えません。

[記事] フィンランドの「年齢構成リセット」に見る日本の1日のコロナ死が今の20倍を超える日 In Deep 2023年1月8日 

そのように、なるかならないかというと、「なる」と考えられます。

衛生状態や医療の状況などが。日本とさほど差があるとはいえないスウェーデンやフィンランドで、実際に、日本の 10倍、20倍という死者が毎日出ているのですから、日本がそれに当てはまらないという理由はありません。

また、日本は、スウェーデンやフィンランド以上にブースター接種率が高い国です。以下の記事で取りあげましたように、「感染する可能性がきわめて高くなっている人の数が桁違いに多い可能性がある」ということがあります。

[記事] コロナワクチンの最大の問題点がようやくわかってきたIn Deep 2023年1月4日

こういう状況に対しての「心構え」は持っていてもいい時期が近づいているとは思います。

報道はほとんどされないままかもしれないですので、実情もわからないままかもしれません (ずいぶん後になってから厚生労働省などの数値でわかるのかも)。

先ほどグラフで載せましたイギリスでも、国際的なメディアによる報道はシャットダウンされていますが、独立系…というのか、サンとかメトロなどの、いわゆる大衆系メディアはわりと報じています。

内容は、「英国が遺体であふれている」というようなものです。

サンの報道をご紹介して締めさせていただきます。日本でもそういう時期も近いか、あるいはすでにその状態かもしれません。

なお、このサンの報道でも、「コロナ」という文字はまったく使われていません。「原因にふれず」に死者が急増していることを報じているのです。

そういう中に私たちは生きています。 

________________________________________

遺体安置所の危機 病院の遺体安置所が満杯に達しており、英国中の仮設遺体安置所に遺体が保管されている The Sun 2023/01/12

英国の病院の遺体安置所が満員に達しており、多くの遺体が議会の砂利場に保管されている。

ウィルツ州ソールズベリーにある最寄りの病院から車で 15分ほど離れた病院の車両が遺体を搬送し、回収しているのが見られた。

リバプール大学王立病院には、他に 2つのユニットが設置されている。

一時的な遺体安置所は、通常は 40フィートの輸送用コンテナ内にあり、それぞれに約 35人の遺体が収容されているが、このような光景が最後に見られたのは、1日あたり少なくとも 1,000人が死亡したパンデミックの最盛期のことだった。

その時ほどではないが、英国では、クリスマスの週がイングランドとウェールズで、過去ほぼ 2年間で最も死者数が多かったことを示している。

これは、寒波とインフルエンザ感染の急増、あるいは、救急車の長時間の待機などの理由により、死亡率が引き上げられ、英国で、平年を超える 1日 1,600 人以上の死亡があった。

イングランドとウェールズで 1,000人以上の超過死亡者が出たのは 3週連続となった。

王立救急医療大学は、死亡者数の急増は間違いなく緊急治療の記録的な遅れに関連していると主張した。

大学のエイドリアン・ボイル学長は、死亡率は「驚くほど高い」と語った。

彼は次のように付け加えた。

「これはひどく悲惨で、まったく受け入れられる状況ではありません」

昨日、救急車サービスのストライキが 2日目となり、推定 25,000 人のスタッフがストライキの列に並んだ。

これは、遺体の保管を規制する人体組織委員会のトップが、「遺体収容能力の問題」について全国的な警告を発した数日後だった。

人体組織委員会は緊急時対応計画を確実に立てなければならないと述べた。

先週、灰色のコンテナに収納された 1台の冷蔵ユニットが、ソールズベリー地区のすぐ外にあるハイポスト・ソルトストアに配送された。保健当局は、遺体安置所が満杯であると理解されているソールズベリー地区病院から遺体を運ぶために、この場所の使用を要求した。

リバプール大学王立病院にも 2つのユニットが先週配送され、病院の敷地内に設置された。ウェブサイトによると、病院の遺体安置所は年間約 2,000人の死亡者を扱っているが、定員に達したと伝えている。

王立リバプール病院を運営するリバプール大学病院 NHS 財団トラストは、次のように述べた。

「これにより、需要が高まっている期間中、恒久的な遺体安置所と同等の施設で、患者が尊厳と敬意を持って扱われ続けることが保証されます。人間組織局によって設定された基準を満たすこれらのシステムのうちの 2つが、王立リバプール大学病院に導入されました」

24時間体制のセキュリティに加えて、両方のスタッフはユニットを監視するように厳格な指示を受けており、内部の温度が 4℃ から 7℃ に保たれていることを確認している。

この状況について、英国民保健サービスと保健省はコメントを拒否した。


2023年1月20日金曜日

2947「美しい人」2023.1.20

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月14日の記事を紹介します。


「美しい人」


大航海時代から始まった植民地主義

その後に起こった行き過ぎた資本主義

コロナの喧騒 

東ヨーロッパでのグローバリズムと、ナショナリズムの戦争。 

それらすべてが終わった後、 

やっと私達一人一人の心が大切にされる社会が訪れそうです。 

今日はその心の美しさについてのお話です。 

思いやりや、助け合いの心、相手の個性を尊重し、お互い様の心で生きていく社会、

そんな美しい社会が、この大混乱の後、出現しそうです。 

それでは、ノートルダム清心学園前理事長、渡辺和子さんの言葉を紹介します。 

心の美しさについてのお話です。


心の美しさとは、意識しなければ、自然と手に入るものではありません。 

ですが、心こそ、亡くなった後も、生まれてくる前に居たところに戻っても、

決して変わらず、持って帰ることのできる唯一のものです。 

お金や、大きな家や、大きな車、健康や、友達の数、高い地位、周りがうらやむ名誉 

そのような、目に見えるものよりも、目に見えない「心の美しさ」は、はるかに大切なものです。

私たちがこうして生きている時でさえ、心の反映が、人や物を引き寄せ、生きていく環境を形作ります。 

心が美しければ、それに呼応して、宇宙のサポートが協調して、ダイレクトに働きます。 

決して、棚からぼた餅で、何処かの偉い人や、能力者が救ってくれるわけではありません。 

私たちが何度も何度も生き死にを繰り返し、輪廻を経験し、

宇宙中の様々な星々や次元に生まれ変わっているのも、

目的は美しき心を思い出すためです。 

それでは、お話をご紹介します。

 

<引用開始>

お化粧に余念のない学生たちに言うことがあります。

「きれいになるのも結構。

きれいになるためには、化粧品にしてもエステに通うにしてもお金が必要。

皆さんは、きれいさとともに、美しさを育ててゆく人であって欲しい」

美しくなるためには、お金は不要。

それは、心の輝きであり、痛みを伴う自己管理、自己抑制が必要なのです。

かくて私は、学生たちに「面倒だからしよう」と教えています。

「しようか、どうしようか」と迷う時には、してごらんなさい。 

きっと、その積み重ねが、あたなたがたを 美しくしてくれるから と話しています。

「泥かぶら」という劇があります。

これは,真山美保さんという人が作られた,

古い時代を舞台とした「泥かぶら」というタイトルの劇用のお話です。

 

ある村に「泥かぶら」という顔の醜い少女がいました。

「泥かぶら」は,顔が醜いために村の人から馬鹿にされ,子どもからは石を投げられたり,唾を吐きかけられたりしました。

そして,それを悔しがって怒り狂う「泥かぶら」の心はますます荒れ,顔は醜くなる一方でした。

ところがある日,村を一人の旅の老人が通りかかりました。 

竹の棒を振り回して暴れている「泥かぶら」に話しかけました。 

次にいう「三つのこと」を守れば

「あなたは村一番の美しい人になれる」と教えて立ち去っていきました。

旅の老人が「泥かぶら」に教えた三つのこととは,

一つ・・・いつもにっこり笑うこと

二つ・・・自分の醜さを、恥ずかしいことと思わないこと

三つ・・・他人の身になって、考えること、思うこと

「泥かぶら」の心は激しく揺れ動きましたが,美しくなりたい一心で,その日から血のにじむような努力を続けます。 

決心は何度も中断され,たびたびあきらめようとしますが,そのたびに気を取り直し、努力を続けました。

 

その甲斐あって,「泥かぶら」の顔からは,いつしか憎しみが去り,心も穏やかになっていきました。 

やがて,明るく気持ちの良い子に生まれ変わった「泥かぶら」は,村の人気者になり、子守やお使いを頼まれるようになりました。

そんなある日のことです。

自分と同じ年頃の娘が人買いに買われていくのを知った「泥かぶら」は,自分から進んでその娘の身代わりとなり,連れられていきます。 

しかし,道々楽しそうに村の様子を話し, 

自分がかわいがって世話した村の赤ちゃんについて語る「泥かぶら」の話は, 

いつしか悪い人買いの心を動かし始めます。

そして,その人買いは今まで自分がやってきた過ちを恥ずかしいことと思い, 

置手紙をして立ち去っていきます。 

その置手紙には,「ありがとう。仏のように美しい子よ」と書かれていました。

その手紙を読んだ「泥かぶら」は,旅の老人が話してくれた「村一番の美しい人になれる」という言葉の本当の意味を理解することができました。

心の美しさは,内面の輝きを増し、人の容貌さえも変えてしまいます。

そして周りの人も幸せにします。

美しい心を持った本当の「美しい人」になることは、どんなに時代が変わろうとも、大切なことかもしれません。 

<引用終了>

 

相田みつをさんの、「現代版禅問答」にこんなくだりがあります。

「ほとけさまの教えとはなんですか?」

郵便屋さんが困らないようにね、手紙の宛名を わかりやすく正確に書くことだよ

「なんだ、そんな当たり前のことですか」

そうだよ。その当たり前のことを、心を込めて実行してゆくことだよ。

「面倒だから、しよう」とは、相手の立場に立って、面倒がらずに、些細(ささい)な良きことを心を込めてやること。

当たり前のことを心を込めてするには、そこに感謝の気持ちが必要です。

・笑顔、

・思いやり、

・そして今のままの自分を許し、認めること

私達一人一人がこの「泥かぶら」のように、このことをいつも心に留めておきたいものですね。

そして、心の美しい人になりたいものですね。

永遠の宝になるのですから。

自分だけでなく、ご家族はじめ、周りを幸せにするのですから。 

神々の恩寵は、感謝の人、心美しき人に降り注ぎます。 

・目に見えるものだけに、大いなる価値を置き、人と比べ、見下し、優越感に浸る者と、・・・

・例え貧しく、弱く、何も持たなくとも、神の前にへりくだり、

与えられた環境の中で、精一杯、人生を生きて行こうという者

神々は、どちらに微笑むでしょうか?