今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年01月20日の記事を紹介します。
「優しさは真実(正義)に勝る」
私たち人間は弱いものです。
・正しくありたい
・優しくしたい
・笑顔でいたい
・人の役に立ちたい
そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。
また逆に、
・自分は正しい
・自分の言う通りに動け・・
と、無意識のうちにマウンティングしてしまい、自分勝手な正義感を振り回し、
・人を批判し
・糾弾し
・追い詰め
または、感情を外には出さなくとも、心モヤモヤしたり。
そして、
・自分勝手な価値観に沿って、家族を含め、他人を動かそうとします。
そして、人がそれに従わないと
・猛烈に批判を浴びせ
・憎み
・足を引っ張り
・仕返しをしようとします
または第三者に告げ口し、自分は正しい、相手は間違っているという
お墨付きを得て、モヤモヤを解消させようとしたりします。
また、心弱い私たちは、
何が正しいか、分ってはいても,なかなか一歩踏み出せないでいます。
生きている間は、ずっとその葛藤かもしれません。
でも諦めないでください。
みんながそうなんです。
そこが出発点なんです。
ブッダがこう仰いました。
・嘘をつけないような人になっては いけない
・優しさは真実に勝る
ブッダの仰りたかったことは、
相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、
真実(正義)よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。
また、こうも仰りました。
捨戒の法
ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、
いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。
そして、酒を飲んだり、戒律を破る。
その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。
ブッダは人間の弱さを知っていました。
そして温かい目で人間を見ていました。
過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。
人を追い詰めることはなさいませんでした。
ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。
次に良寛さんのエピソードをご紹介します。
良寛さんの甥に、馬之助という放蕩息子がいました。
良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛さんに説教を依頼します。
良寛さんは故郷の由之の家に出向き、馬之助の前に座らせられましたが、
酒を飲んでばかりで、いつまでたっても説教しませんでした。
とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとしました。
そのとき馬之助の母は馬之助に、
良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけました。
馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始めますが、それでも良寛さんは黙ったまま。
と、そのとき馬之助は、自分の首に何かが、落ちてくるのを感じました。
見上げると、そこには目に一杯涙をためた良寛さんの顔がありました。
それをきっかけに、たったこれだけの出来事をきっかけに
馬之助の放蕩は、すっかりやんだということです。
良寛さんは、馬之助の心の
・苦しさや
・悲しさや
・それを放蕩で紛らわさずをえない苛立ち
をただじっと見ていました。
煩悩だと知りつつも、煩悩に引きずり回されるのが
私たち心弱い人間です。
人間の悲しさ、苦しみは、いつでもそこから生まれてきます。
悲しみを持った人に、自分勝手な価値観を押し付けたり、くどくどと説教したり、
良寛さんは、そのような事はしませんでした。
ただ馬之助とともに、じっと悲しみ続けるだけでした。
馬之助の父親の由之や母親は、息子の表面的な損得や、世間体から心配したかもしれません。
ですが、馬之助の心と、じっと一緒にいてあげたのは、良寛さんでした。
人は弱いものです。
いくら正しい道を示されても、
「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、なかなかそう簡単に行きません。
でも本当はそうしたいのです。心では分かっていますから。
そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、
結局あきらめてしまい、また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。
正しい道を示されても何の役にも立ちません。
ですが、良寛さんのように
心を理解し、心に寄り添い、
「今のままでも、良いんだよ」と、見守ってくださる人がそばに居れば、
私たちは徐々に、光の方向に進んでいけるかもしれません。
心弱い私たちは、煩悩で、あちこち頭をぶつけながら、人に迷惑かけながら、お世話になりながら、だんだんと、あちこち角が取れて、おかげ様の心が芽生えてくるでしょう。
そして、
・おかげ様
・お互い様
の感謝の心が芽生えた時、
その辛く、苦しい経験をしたがゆえに、
同じような苦しみ、悲しみの中にある人の
心の内を理解して、良寛さんのように寄り添えるのかもしれませんね。