今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年04月17日の「お陰さま」と2023年04月19日の「愛語」の2つの記事を紹介します。
「お陰さま」
今日も、ご縁のある皆さんに、生きている今の物質の世界、また死後の見えない非物質の世界(黄泉の国)を、幸せに生きる秘訣、心をテーマに書きたいと思います。
私が神社に行って、いつも唱える言葉の1つに、
生きとし生けるもの、みんなが、お陰さまの気持ちで、生きられますように・・
というのがあります。
これには沢山の願いが込められているのですが、生きとし生けるものが
・お陰さまの、謙虚な気持ちで生きて行けますように
・助け合って生きて行けますように
・他人の個性、尊厳を認め、尊重して行けますように
・心が尊大になりませぬように
・他人を見下すことがありませんように
・おごり高ぶることがありませんように
など様々な意味を込めて、お祈りしています。
私たち、みんなが、この「お陰さまの気持ち」を持って謙虚に生きられたら、
他人を思いやる優しい気持ちで生きられたら、この世の中からギスギスした雰囲気が消え、
春の日差しのように、心地よい、温かな光に包まれることでしょう。
そこに住む、みんなの顔が、笑顔で溢れ、笑い合って暮らしていけることでしょう。
そんな、願いを込めて、お祈りしています。
さて、このお陰さまに関して、とっても良い詩があります。
上所重助さんと言う方が書いた「おかげさま」という詩です。
以前も掲載したことがあったのですが、ご紹介します。
<引用開始> 引用元
夏が来ると「冬がいい」と言う 冬が来ると「夏がいい」と言う
太ると「痩せたい」と言い 痩せると「太りたい」と言う
忙しいと「暇になりたい」と言い 暇になると「忙しい方がいい」と言う
自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い 自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う
借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる 金を持てば 古びた女房が邪魔になる
所帯を持てば 親さえも邪魔になる
衣食住は昔に比べりゃ天国だが 上を見て不平不満の明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり
どうして自分を見つめないのか
静かに考えてみるがよい 一体自分とは何なのか
親のおかげ 先生のおかげ
世間様のおかげの固まりが自分ではないか
つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら
世の中はきっと明るくなるだろう
「俺が」、「俺が」を捨てて
「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい
<引用終了>
本当にその通りですね。
私たち人間は結構、我がままです。
その我がまま(我欲)が本来の魂の輝きを隠し、罪、穢れとして付着してしまい。
運命を暗く、苦しいものにしてしまいます。
人生が順調の時は、どうしても、「お陰さま」の気持ちを忘れがちで、
尊大な心になることもあります。
そんな時は、もしかしたら他人に対する優しさを忘れてしまっているかもしれません。
自分の思い通りにならなければ、イライラしてしまうかもしれません。
感受性が鈍り、すぐそばに居る人の、瞳の奥に隠れた
・寂しさ
・悔しさ
・不安
・恐怖
・ひもじさ
などを見過ごしてしまうかもしれません。
もしかしたら、死別や病気やケガ、急なリストラ、貧困、離別などは、神さまが、私たちに、
大切な「お陰さま」の気持ちを思い出させるために、起こしていることかもしれませんね。
もし、私たちの心がお陰さまの感受性を持つならば、自然と感謝の気持ちに溢れ、
「ありがとう」の言葉が、口から出てくることでしょう。
そして、既に、その時は、生きながら、天国を実現している状況です。
まさに空海の仰った言葉の通りの状態です。
空海は仰いました・・・
生きとし生けるもの、すべてに命があり、心がある。
そのことを忘れてはいけないよ。
すべては、一人一人の命の働きから始まるのだ。
難しく考えることはない。
素直に生きて、皆に感謝をしなさい。
そして、おのれの魂が喜ぶ生き方をしなさい。
さすれば、道は開くであろう。
空海は、そう仰ったのでした。
生きながら天国に住む、仏の心になる。
これが、空海の説いた即身成仏の意味です。
皆で協力し、助け合い、お互いさま、お陰さまの 謙虚な気持ち、温かな気持ちで
仲良く暮らしていきたいものですね。
この「お蔭様」の感受性を持つことで、きっと幸せに暮らしていけると思います
「愛語」
見える世界、見えない世界を含め、その世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。
今日は、その心を美しくするために、簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。
きっと、この愛語の精神でいる限り 、宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、
私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、
ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。
<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より
「愛語(あいご)」という言葉は、良寛和尚が好んで使っていたと言われています。
良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。
「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。
だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。
それならいくらでもあげることができるから」
良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
にしたいと思っていたようです。
日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。
「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、
私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、
相手に大きな影響を与える力(神)が宿っていることを、忘れていたのかもしれません。
京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。
木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。
説明によると、
「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、
すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。
私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、
「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、
一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、
・あたたかいもの
・勇気づけるもの
・安らげるもの
・幸せを感じさせるもの
・喜びを与えるもの
にできたらと思います。
そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。
「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか…
芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。
「言葉には『神』が宿っている」という考えは、
「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。
だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。
人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。
<転載終了>
自分の口から出る言葉に少し気をつけて、
良寛さんのように、
・あたたかい言葉
・やさしい言葉
・思いやりに満ちた言葉
を口にしたいものですね。
そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、
必ず相手のハートの中の神さまも共鳴します。
その結果、お互いの間に目に見えない良き共鳴現象が起き、
美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。
私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。
また、自分の心の中のものが、口から出ます。
ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も
・美しい心の表現
・信じる心の表現
・優しい心の表現
・思いやり、助けいあいの心の表現
を見て、そして聞きたいものですね。
そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。
逆に、興味本位で(面白いからと)
・人をけなすもの、おとしいれるもの
・人を疑う、疑心暗鬼のもの
・人を差別するもの、排除するもの
・怒りと憎しみに満ちたもの
からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。
それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。
そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか?
そうすれば私たちの心のバケツは、美しいもので満たされることでしょう。
美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、周りを幸せにすることでしょう。
そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。
空海の言った「生きながら天国に住む」とはこのことです。
幸せは、神様がくれるものでも、何処かの誰かがくれるものでもありません。
自分の心が決めるものです。