2026年11月2日月曜日

4429「青空ひろば」2026.11.2

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


イノチの学校より99 2026.09.29 ~ イノチの学校より110 2026.10.11


親鸞聖人語録〈嘆異抄(たんにしょう)〉の中から紹介していきますね、一部をね。

嘆異抄は昔からけっこう有名な本で、大敬が大学生の時には友だちと読書会を開いた事があります。

それで議論したりしてたんですけど、ちなみにその友だちはお家が金光教の信徒さんだったんです。

そこで金光教について知るキッカケを貰いました。

で、ストライキが始まってね。

大学紛争の時だったから、それで読書会は終わっちゃったんです。

その友だちは北九州の人だったんだけど、地元に帰っちゃって、そこからは皆バラバラになって。

そこから大敬は道を求めて一人で旅をし始めました。

色んな所へ行って、道場に入ったり、東京の方へ行ってみたり。

和田重正先の一心寮を訪ねてしばらく居たこともありますね。

そういう意味ではストライキ、大学紛争も良かったんじゃないかなと思えますね、僕にとってはね。

色々な所を巡りましたからね。


では、嘆異抄(たんにしょう)について話していきましょう。

鎌倉時代後期に、親鸞さんの弟子とされた唯円(ゆいえん)という人が、

師亡き後の教えの混乱を憂いて

「異なるを嘆く」で、〈嘆異抄〉を書き記された。

親鸞さんが亡くなったあと、独自の見解で教えを語り出す人達が出てきたんですね。それが間違っているので、その間違いを嘆いて、正しい教えを伝えようと書かれたわけですね。

親鸞さんの実際に言われた言葉を中心に、語録を集められた。

代表的なものをピックアップします。

<しみじみダメな自分だと悲しむ時が、それでも救おうと抱きしめて下さる光のお方に気付く時>

光のお方と書いてるのは、阿弥陀仏ですね。無量光仏、無量の光と呼ばれているので光のお方と表現している。

親鸞聖人はおっしゃいました。「阿弥陀さまの誓願(48願)の不思議に救われて往生をとげることが出来るのだと信じて、念仏を称えようと思い立った時、摂取不捨(救い取って、決して捨てない)という御利益を頂くのである。阿弥陀さまの本願はすべての人に及んで、老少善悪を選ばない。」

つまり平等なんですね、だから浄土真宗は平座。高い段に上がって説法することはしないんです。

同じ畳の上に座って皆とお話をする、これを平座、平等の精神ですね。

だからお坊さんが偉い訳ではないんです。

妙好人ってね、信者さんであんまり勉強なんかしてない人でも素晴らしい悟りを開いた人が出てきたりする。

浄土真宗の素晴らしい所ですね。


親鸞さんの言葉の続き

「ただ阿弥陀仏とその誓願への信心と念仏を要件(必要条件)として極楽浄土に往生出来るのである。

そのゆえは、特に罪 悪 深 重(罪が深く、重い)、煩 悩 熾 盛(心の穢れ、乱れが激しい)の衆生を救おうと、お立てになった願なのであるから。

だから阿弥陀さまの本願さえ信じていれば、善行の一つも行えない罪深い私だ、こんな私では極楽往生出来るはずがないなどと憂い、悲しむ必要はないのだ。念仏にまさる善はないのだから。

犯した罪が深く、重いものだから地獄行きは決まっている、などと恐れる必要もないのだ。阿弥陀さまの本願を妨げるほどの悪はないのだから」

だから坐禅でもね、こんな坐禅では駄目、アンタみたいな坐禅は悟れません。

とか、煩悩ばっかり妄想ばっかりで良い坐禅ではない。

とか人に言うたらアカンですね。坐禅というカタチがもうそれで救われてる姿なのです。

坐禅というカタチをとれば必ずそれで最終的な悟りの境地まで運ばれていくんだから、それを信じて。

こんな坐禅してても私なんか、これは駄目な坐禅だ、とか自分で思い込むのも間違いですね。

ただ坐ったらいい。同じお話ですね。

坐禅が上手だから悟るわけではないですよね、ただ坐れば良い。

もう一つ大切なのはある方が言われたエピソード。

全身が左に傾いて坐禅してた人が居ました、「そんな傾いた坐禅は駄目だよ貴方」と言われてショックを受けて坐禅しなくなったと。

これはそんなことないですよね、傾いていても真っ直ぐだということがあるんですよ。

坐禅しててね、スッとこう入っていける時なんか中々ないですよねあんまりね。

どこかなにかしら違和感があるんですけど、その違和感を、こんな坐禅では駄目とやめるんじゃなくてね。

その違和感がありながら、それも許されてるね、とただ坐禅というカタチに落ち着けばいい。

そうすれば次第に違和感がほどけてくる時もあるし、違和感がなくならなくてもいいんですよ。

そのまま続けていってOKなんです。


坐禅していて、自然に身体が動き出す時もありますね。

それはそういう身体の勝手に、しばらく任せても良いですね。

そうしたらね、10分間ずっと揺れとったりしてもいいんですよ、全部許されてる。

それで、いつかスッと坐れる時が来るんですね。

でもそれが最終ではないんですよ?スッと坐れて、あ、悟った。とそういう時もある。

でもまた駄目になる時もある。そういうことの繰り返しなんだけど、どれでも自分は受け入れていくという練習なんですね。

これここまで坐禅で話しましたけど、親鸞さんが話されたお念仏のお話と同じですよね。


<ただ念仏を信じて称える。その結果がどうなるか、知ったこっちゃない。後は光のお方次第>

親鸞聖人はおっしゃいました。

「おのおの十余ヶ国の境を越えて(常陸国、茨城県水戸市から上洛、唯円もその一員とされる)、身命を顧みずして訪ね来られたわけは、ただ往生極楽の道を問い、聞こうとなさったがためでありましょう。

しかるに、〈念仏を称える〉ということのほかに、親鸞が密かに保持して、特別の人にだけ伝授している法門がきっとあるだろう。それを何としても伝授してもらおうと思って、この地(京都)においでになったのならば、それはとんでもない誤りです。」

大敬達でいえば、〈坐禅する〉ということのほかに、ですね。

密かな、特別なことがあると思っているなら、それは誤りですと言っておられる訳です。


親鸞さんの言葉の続き

「そのような秘密の法門があるに違いないと思われるならば、南都北嶺(奈良や比叡山)にもすぐれた学匠たちがたくさんいらっしゃいますから、そのような方々にお会いになって往生の肝要をよくよくお聞きになればいいのです。

親鸞はただ、よき人(法然上人)が〈念仏して弥陀のおたすけをこうむって往生しなさい〉とおっしゃったのを信じて念仏を称えるだけで、その他に何も隠し持っている法門などないのです。」

これも大敬も一緒ですよね、ただ坐禅してほしいと思います。

坐禅以外に特別な法門なんて、大敬にはないです、カラッポ。

カラッポのこの身をどうぞ見てください、どこにも何も隠してませんよ。


親鸞さんの言葉の続き

「念仏は、本当に浄土に生まれる種となるのか、あるいは地獄に堕ちる業となるのか、そんなことは私には分かりません。たとえ法然聖人にダマされて、念仏して地獄に堕ちたとしても、私は後悔しません。」

私にはわかりません、って突き放しているでしょう?それでいて私は後悔しませんって言い切っている。これが他力の心意気ですね。


親鸞さんの言葉の続き

「なぜならば、念仏以外の行を励んでいれば仏になれたはずだったのに、念仏を申していたので地獄に堕ちてしまったというのであればダマされたという後悔もあるでしょう。

しかし、私は自力修行のどのような行も、とてもやり遂げることが出来そうにない、意志が弱く、体も弱く、業も深い身なのですから、どうひいき目にみても、死んだら地獄に牽かれて行ってしまうということは決まりきったことなのです。

弥陀の本願がまことならば、釈尊の説法はウソではないでしょう。釈尊の説法がマコトならば、それを引き継いだ善導(中国浄土宗の僧。〈称名念仏〉を中心とする浄土思想を確立した)の念仏もウソではないはずです。

善導の念仏がマコトならば、法然聖人の仰せも、ウソであるはずがありません。法然聖人の仰せがマコトならば、只今皆さんに語っている私の念仏信心も、きっと虚しいウソゴトであるはずがないではありませんか。」


親鸞さんの言葉の続き

「詮ずるところ、私の信心のあり様は以上のようです。

さあ、このようにお聞きになったうえは、念仏をとって信じて称えてゆくのか、あるいは、ガッカリして捨ててしまわれるのか、それはあなたたちの判断次第なのです」

すごく突き放してますよね?こういうのが他力の悟りの潔さですね。

決してウジウジしてないのですね。(完)