2015年7月12日日曜日

461「津軽2」2015.7.10

 青森市内に戻って遅い昼食を済ませて、午後の最初の訪問先は五所川原市飯詰の山中にある石塔山荒覇吐(せきとうざんあらはばき)神社です。地図上には十和田神社と記されています。
 県道26号線津軽あすなろラインを進み五所川原市に入って暫く進むと左手に立ち入り禁止の柵がしてある山道があります。入り口には丸太の道標らしきものが立っていますが文字は消えて読めませんが、石塔山荒覇吐神社参道と書いてあるようです。
 山道を登ること20分弱、林が開けて壊れた鳥居が目に入りました。草が生い茂り、ほとんど手が入っておらず本殿もうらぶれた感じです。本殿前に巨石がありますが、本殿裏には更に大きな巨石が2つ聳え立っています。そして本殿脇には安倍家の墓、石碑があります。
「十和田神社・石塔山 大山祇神社・荒覇吐神社」
http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/13128723.html



  この山中にアラハバキ神を御祀りしていましたが、この創建についてはいろいろあるようです。東日流外三郡誌が世に知れ渡りにわかに有名になりましたが、その本は偽書扱いになっているようで、以下の経緯が記されています。
「青森県の和田家という旧家の屋根裏から戦後に発見された古文書である。その存在が広く知られるようになったのは1975年、市浦村(現在は五所川原市に併合)が村史資料編としてその一部を活字化したからである。」
「『東日流外三郡誌』は寛政年間(1789~1800)頃、三春藩主の縁故である秋田孝季という人物と津軽飯詰村の庄屋だった和田長三郎吉次によって編纂された。孝季は日本国内を歩いて史料を探すだけでなく、海外に渡って遠くインド、トルコにまでその足跡を残したようだ。彼らは『東日流外三郡誌』の他にも『東日流六郡誌絵巻』など多くの古文書を編纂しており、それらは「和田家文書」と総称される。現在残っている「和田家文書」のほとんどは孝季らの書いた原本ではなく、明治期頃に和田家の当主が残した写本でいずれも同じ屋根裏から見つかったものという。
「和田家文書」には後から考古学的発見によって裏付けられた記述が数多く、その内容が真実であることは間違いない。たとえば三内丸山遺跡(青森市)で1994年に発見された縄文時代の建物跡について、その建物が残っている時の姿が和田家文書にははっきり記録されていたのである。
「和田家文書」については発見者の和田喜八郎(1999年逝去)が書いた偽書という論者もあるが、あの膨大な古文書はとても一人で偽作できる量ではない。また、偽作論者が「和田家文書」と筆跡が同じだとして持ち出した筆跡見本は喜八郎のものではなく、その娘のものだった。サンプルの確認さえ怠るような筆跡鑑定など信頼できるものではない。
第一、無学な農夫だった喜八郎に古文書偽作などという高度な知的作業ができるわけもない。」
「『東日流外三郡誌』は古代東北の真の歴史を伝える古文書か?」
http://www.asios.org/tsugaru.html

 しかし、その本は偽書とされていますがその内容は以下のようです。
「東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)は異端史書であり、その発見経緯、記述内容の変遷の歴史を考慮し、歴史学では完全に偽書としての扱いを受けているのは確かであるが、その内容の一部(古代篇の一部)などが、口伝の神話として伝わるものとするならば、それはこの地方をはじめ、土着の神仏、埋没された神仏、自然神の蘇りを促したこととなり、その効果は絶大だったと思われる。」
「 旧石器時代、津軽地方には大陸をルーツとする阿蘇辺(アソベ)族の王国があったが縄文時代中期になると、津保化(ツボケ)族に支配される。列島の西に邪馬台国があり、同国は高砂族王国に敗れ、王の安日王、副王の長髄彦が津軽に逃れ先住民と合流し荒覇吐(アラハバキ)王国を作るのである。この王国は大和朝廷を滅ぼし紀元前214年に王を立てる。これが孝元天皇だという。この倭国王国は、東の日高見国と西の倭国に分かれ、倭国は日本国といい、日高見国は荒覇吐族が作ったもので蝦夷と呼ばれた。日本国は東を抑え、敗れた荒覇吐族は安倍氏を名乗る。前九年の役で源氏に敗れた安倍氏は、安東氏を興し、津軽(東日流)半島の外三郡を支配する豪族となり、十三湊を中心に海上貿易で栄えていたが1341年の大津波で十三湊は壊滅、攻めてきた青森県東部の南部一族にも追いやられ、安東一族は北海道や秋田に逃れた。」           
「石塔山 大山祇神社」
http://mutsusousya.web.fc2.com/sekitouzan/sekitouzan.html

 アラハバキ大神については以下の記載があります。
「近年の研究では、日本人の遺伝的系統がわかってきました。 アイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が《縄文タイプ》で、本州・四国・九州が、弥生系渡来人と縄文人の《混血》ということです。 この縄文タイプ(日本の土着民族)がお祭りしていたのが「アラハバキノ大神威さま」です。
  実は、この神さまは伊勢神宮だけでなく、出雲大社の摂社や美保神社、武蔵国一の宮・氷川神社、武蔵国総社・大国魂神社など、日本な重要な神社に【隠れ神】としていらっしゃいます。 特に、東京都や埼玉県にはたくさんお祭りされていた伝承があります。」
「アラハバキ大神は蘇る」
http://finevision.jimdo.com/%E5%8F%82%E6%8B%9D%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD%E3%83%8E%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E3%81%AF%E8%98%87%E3%82%8B/
 
 アラハバキの流れをくむ安倍一族の末裔が安倍信三首相とのことです。父の安倍晋太郎氏と共にこの神社を参拝していたとのことで、「安倍晋太郎輝かしき政治生涯」(安倍晋太郎伝記編集委員会)の著書に以下の記載があります。
「安倍家のルーツを訪ねる安倍夫妻と晋三夫妻は昭和62年(1987年)7月末、安倍は始祖・安倍宗任の眠る青森県五所川原在の「石塔山荒覇吐(あらはばき)神社」を初めて参拝した。幼い頃から育ての親というべき大伯母ヨシから「安倍家は11世紀、前九年の役で源義家と争った陸奥の豪族の末裔」と聞かされていたからだった。また記者時代に安倍能成学習院長を取材した際、家紋が同じであることを教えられ「安倍家は源平合戦で平家に付き、屋島で源義家軍に敗れた。私の祖先は四国に逃れたが、君の祖先は壇ノ浦(下関)の最後の戦いまで供をした勇敢な家柄だ」と評価を受けていた。こうした話から、古くから伝わる家系図を調べたところ、宗任が始祖であることが明らかとなった。画家の岡本太郎氏が同道しているのは、同氏も安倍家の流れをくんでいるからだという。」
 以下のサイトに詳しく記されていますので興味のある方はご覧ください。
「安倍宗任より四十一代末裔の安倍晋太郎 古沢襄」
http://www.kajika.net/wp/archives/863

 歴史についてはほとんどが勝者のものであり、多くの改竄があるといわれています。それは古事記、日本書紀にも指摘されています。それはそれとして、膨大な量の「東日流外三郡誌」に記されてあることは全てが架空でない様にも思えます。津軽古代王国のロマンを感じる題材ではあります。
 しかしこの石塔山荒覇吐神社の荒れようは、風化による人心の離散、時代の流れを感じてしまいしました。地のエネルギーはそれとは関係なく留まり働いているのでしょう。