2016年4月17日日曜日

599「菩薩3」2016,4,16

 次は一関市花泉から気仙沼市に向かいます。暫くは北上川の川岸を車は進みますが、その豊かな河のエネルギーがこの奥州を実らせた大元の一つです。気仙沼市内に入り昼食をいただきました。気仙沼は漁港として海の幸の宝庫です。豪華な海鮮丼を美味しく頂きました。お店は先の東日本大震災の津波の被害を受け、ほぼ1階が水没したようですが綺麗に復活を遂げていました。人の思い、力は素晴らしいです。

 第三十番札所補陀寺は気仙沼駅の直ぐ裏、山手にあります。曹洞宗の古刹で素晴らしい樅(もみ)の巨木が直ぐに目に入ります。

以下の表記があります。
「寺伝によると補陀寺の開山は寛永2年(890)。元は、天台宗柏華山補陀落寺と称し隆盛を極めたが、平泉の藤原氏の滅亡と共に衰退した。後に、宝亀寺6世周庵文懊和尚が天文3年(1534)再興、曹洞宗補陀寺と号し、中興開山しました。
 平安末期、保安4年(1123)に名取熊野神社を勧請してと伝えられる伝承上の人物名取老女が奥州を巡礼して、創建した三十三箇所の観音堂のひとつといういわれがある。
 平面は珍しい六角形で、一辺の長さ2.47m、屋根は六角錐体、赤瓦葺、内外部朱塗で板天井に墨絵をえがく。堂内の須弥壇上に入母屋造りで、千鳥破風、軒唐破風をつけたこけら葺きの家形逗子がある。 宝暦12年(1762)制作、享和2年(1802)に修理したとの文書がある。気仙大工の作。観音堂の本尊は如意輪観世音菩薩です。恵心僧都の作と伝えられる。」

 如意輪観世音菩薩が祀られる六角堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ、は、い、お、え、は、あ~。
 捧げて参りた是までは、新たに向かう皆々のものと成り行く。
 その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行くを、しっかりとその身に収めて参りませ。この大きなる時、大切に。」14:02
「その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行く」との厳しきお言葉です。
 次は陸前高田市にある第二十九番札所普門寺です。陸前高田市は津波の被害でほぼ市街地全域が消えてしまいました。震災から5年経つ今も護岸、造成工事が進められています。

その殺伐とした工事の現場を通り過ぎ山手にある曹洞宗の大きなお寺に着きました。まず参道の巨木の杉並木に目を見張ります。



 広大な敷地の奥に観音堂があり、聖観世音菩薩がお祀りされています。観音堂の右脇には三重塔があります。文化6年(1809)岩手県内唯一の塔婆建築の三重塔が建立されたもので、地上より12.5mの高さ、気仙大工の粋を集めたものです。
更に左脇には大仏様があります。享保3年(1718)唐金の大仏建立。高さ5mあり、この時代で、青銅製のこの大きさのものは東北では稀有のものです。
観音堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「思い起こされませ。
 この地の大きなる災害を、皆々只ただ悲しみておらるるが、大きなるこの地球の流れを変え来るは、如何なるもの、如何なること、如何なる思いなり哉。
 皆々我良し、振りかざし、この地に向かいた大きな過ちあり。その事知らせて新たなるへ向かう為のこと。
 ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され、この響きにて暫しの時を保ち行きて、新しきへ皆々で向かいましょう。」14:59

 お言葉の中に「ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され」とあります。ここも厳しいお言葉です。
 このお寺には大震災の慰霊の為に以下のものが祀られています。
「境内、本堂前に五百羅漢があります。これは「未来への記憶プロジェクト」の一環で、被災者を中心とした参加者たちが、彫刻家の指導を受けながら自ら石を彫った羅漢様です。」「安置されている仏像は震災直後、百日目に奉納された千体物、①京都の大文字焼きに送られた高田松原の松が諸事情で230体の仏様に変わり、②それから京都静原小学校の児童の作った焼き物の80体、③中心には松原の松で造られたお地蔵さん2体。」
 私達があわ歌を響かせている時に、女子高生の課外研修でしょうか大勢の方が境内の見学をしていました。

 次は大船渡市の第二十八番札所大善院蛸浦観音です。尾崎半島の付け根にあり、漁港の水産加工場の脇を通って海岸沿いに進むと尾崎神社があります。海岸直ぐの鳥居を登った先に尾崎神社があり、千手観世音菩薩をお祀りする観音堂は神社の右側にあります。


まず尾崎神社の謂れは以下です。
「尾崎神社の草創は延暦2年(783)。養和元年(1181)に鎮守府将軍藤原秀衡より社領2百石を賜り、天正18年(1590)に領主葛西氏が滅びるまで続きました。
 伊達政宗以来代々藩主巡国の際奉幣され、明治維新後に郷社に列し、さらに明治7年(1874)に村社に列しました。」
 この地に観音堂を設置した謂れは以下のようです。
「名取老女旭が奥州に三十三所の札所を設定する旅の途中、この山に祀られた尾崎神社の霊気を感得し、28番札所を設けたといわれています。昔は神仏習合だったため、大善院は尾崎神社と観音堂を併せ護持していたものと考えられます。」観音堂前であわ歌を響かせました。


その時のお言葉です。
「サンタクレメント ハラルリヤ フンタラルリ。
 唱えて回りて、大きなる海を共々ひとつの皆々と繋ぎて、西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ。晴れるや、はらしろ。この海も皆ひとつ。」15:53
 お言葉で「西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ」とあります。

 今日の巡りの最後は一関市大東町にある第二十六番札所の長泉寺です。天台宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。夕暮れ迫る中、お堂の前であわ歌を響かせました。

その時のお言葉です。
「つまりはこの地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め、その上、大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。
 起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」17:13
 ここでもお言葉に厳しいものがあります。
「この地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め」と己の決断を迫れらています。
 そして共に参ると定めると「大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。」と大安心の嬉しきなるとあります。
 そしてそのことは「このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」とあります。
 果たして如何ほどの自覚を持つて臨まれているのか、共に響かせているこの場の面々がまず先に問われています。
 
 先ずは無事に1日の巡りを終えることができました。急いで宿に向かいます。宿は平泉の奥、自然の真っ只中にある素晴らしいところです。温泉も素晴らしく、宿の前の畑で栽培した自家製の野菜等地場の命の恵みを美味しく提供して下さいました。楽しく食事を頂き、2次会も盛り上がりましたが、前回のような深い頂には至りませんでした。今だ決断、自覚に至らずでしょうか。