縁起等は以下のようです。
「大同2年(807)に坂上田村麻呂が奥州平定の折、敵味方の戦没者の慰霊と天下泰平、五穀豊穣を祈願して一宇を建立して、十一面観音を安置したといわれています。
その後、天喜5年(1057)前九年の役の際、頼義、義家の軍は炎天続きで飲料水に事欠いたが、義家が観音堂に籠り祈願したところ、夢枕があって、杉の根もとを掘ると清水が湧いてきたと伝えられています。「弓弭(ゆはず)の泉」と名付けられました。
この霊験に感動した頼義、義家 父子は観音堂を改築し、 義家の護持仏「千手観音」を安置し、堂名を新通法寺正覚院と命名したと伝えられています。
その後、元亀・天正(1570~1591)の頃、世の乱れのどさくさで千手観音は一時行方不明になりましたが、秀吉の手に渡り、秀吉が護持仏としていました。やがて、家臣の蜂須賀隆長に恩賞として渡り、息女春子姫が南部藩に輿入れの際、形見の護持仏として与えたため再び南部の地に戻ったと伝えられています。南部家の家宝として護持され、正覚院にはその分霊が奉安されたそうです。」
御神木の巨大な杉に落雷があり途中で折れています。
北上川の源流のお宮、御神木の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「是より参る日に備え、それぞれの方、その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。
是よりの時は、大いなる日々、心して参られませ。」15:06
皆さんの声は素晴らしい響き合いでした。いよいよ次なるクライマックスが楽しみです。
そして奥州33観音巡りも最後になりました。目指すは第三十三番札所、二戸市浄法寺町にある八葉山天台寺です。天台宗の名刹で聖観世音菩薩がお祀りされています。瀬戸内寂静さんが住職をされ、廃れていたお寺を大きく復興をなし、多くの参拝客で賑わったお寺です。
以下のように記されています。
「1976年中尊寺管主であった今春聴(作家今東光)が特命住職として普山、本尊十一面観音の造立を発念し復興に着手したが、着任まもなく病に倒れ、のち瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め、復興に尽力しました。毎月1回の法話の日には、境内に入れきれない程の参拝者で賑わっていました。2005年に住職を引退、現在は名誉住職です。」
「寺伝によれば、奈良時代神亀5年(728)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したと伝えられている。草創の正確な時期は不明であるが、寺に伝わる仏像の制作年代から平安時代には寺観が整っていたと思われています。」
夕刻で参拝者は他に居られず林の中にあるお堂前であわ歌を響かせました。ここでは最後ですので配置をしっかり定め八様と中心に1人、その南北に中山さんと1人で臨みました。しかし期待した響きにはなかなかならずに些か残念でしたが兎も角、全てを完了し満願成就できました。
中山さんから以下のお言葉がありました。
「大きなる響きに出合いたり。いざ、いざ、いざや。西にある多くの兵士を、間もなく治める響きを送る。この地に揺らぎを鎮めて参る。共々新たへ向かい行く。大きなる柱を立てましょう。」16:40
お陰様で全ての巡り、予定を終えることができました。今回の中で課題として残したことは5月に繋がります。仙台への帰路も順調なドライブで7時半には到着できました。ゆっくりと皆さんとお別れの食事会も出来ました。
帰りの車中は7月の巡りの打ち合わせです。御堂観音のお言葉がキーワードです。
「是より参る日に備え、それぞれの方、その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。」
5月7,8日の陸奥戸開きに続いて、テーマは東北の大地のエネルギーが拮抗し、地磁気が高くエネルギーがあり、かつての聖地として大切にされたところ、今で言うゼロ磁場と思えるところを巡ることになりました。次々と奥州が開かれ、北からの力が動いて活きそうです。7月23,24日「陸奥ゼロ磁場の巡り」の内容も決まりました。
http://genkiup.net/awa/28.07.23.pdf