2016年4月25日月曜日

601「菩薩5」2016,4,25

 次の目的地は一関市にある第二十七番札所の東光山観福寺です。かつて中尊寺住職を務めた今東光さんともご縁があるようで、今東光さんの筆で山号の東光山の額があります。 天台宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。
 本堂までの真っ直ぐな参道に円を成す石が敷き詰められています。○にⅠです。その円の中で中心にSさんに立っていただき、皆さんで○を成してあわ歌を響かせました。




その時のお言葉です。
「程なく参るあなた様のその時、新たなる結びを成されて、広き大きなるへと参るなり。
 かたじけなき事なれど、益々働き、共々に、皆々と大いなる。」10:40
 主にSさんへのお言葉のようですが、皆様にも関係することのようです。

 次は奥州市水沢区黒石町にある天台宗のお寺、第二十五番札所の妙見山黒石寺です。以下の様な縁起です。
「ご本尊は薬師如来坐像で、胎内に貞観4年(862)の造像記がある。天台宗の古刹黒石寺は、天平元年(729)行基菩薩の開基で、「東光山薬師寺」として建立されましたが、延暦17年(798)年蝦夷と朝廷軍との戦いによる兵火によって焼失しました。
 その後、大同2年(807)飛騨の工匠が方7間の薬師堂を再建しました。
 それから40数年後の嘉祥2年(849)には慈覚大師が復興して、妙見山黒石寺と改名した。もとは修験の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。」
 この地は蝦夷、アテルイの本拠地であり坂上田村麻呂との事には以下の様な記載があります。
「延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的存在となった。
 しかし、この胆沢の地は北上川の扇状地の肥沃な地で、阿弖流為や母礼を族長とする集落でもあった。
 田村麻呂朝廷軍は数次に亘り、数万の兵をもってこれを従え城を築いたのであったが、しばしば蝦夷による反抗には悩まされ続けた。
 胆沢城は多賀城に次ぐ国府であり、奥州支配の最北端であった。
 4000人の移住民の中には。軍艦、医師、弩師(ゆみし)、楽師、陰陽師、兵士、柵戸がいたことだろう。」
 黒石寺の蘇民祭りは有名です。
「毎年旧暦1月7日の晩から翌早朝にかけて行われる祭り。年の初めの厄よけと招福の祭りで、裸祭とも呼ばれ、厄年の男を始めとする祈願者の男たちによる、「蘇民将来子孫門戸」と書かれた六角柱形の小間木を入れた蘇民袋の争奪戦で知られる。」
 これまでこの黒石寺には何度も参拝していますが、中々に動かずに頑なに閉ざして響きあうことを拒否して来た経緯がありました。妙見の大元の意向を待っているかのようでした。
 本堂脇から山の手に登る階段の先に観音堂があり千手観世音菩薩が祀られています。そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「はるけきのこの響きは伝わりておらるるや。
 『うましみよ、その身なる。大いなる事よ。良く分かり来た。是よりの時はそれぞれ大いに励みて参るなり。』
 伝え行く是よりの新しき、大いなる嬉しきなり。
 『お~お~お~う~お~お~う~お~あお~。連れて参るは多く、晴れやかなる時目指しましょう。』
 新たなる光は今一度。それまでの御用意を。」11:33
 今回は心開き、響きに呼応して下さったようです。諦めずに回を重ねたことが、我々の真剣さがそうさせたのでしょう。また近日中に新たな光を今一度送るために訪れることになりました。



 次は八幡平市西根町の第三十一番札所の聖福寺です。高速道路で1時間ほどの移動です。昼時ですので、西根町のお店で盛りだくさんの豪華ランチを頂きお腹を満たしました。


 聖福寺はお店から直ぐのところあります。曹洞宗のお寺で本堂の右手前に観音堂(白坂観音堂)があり、七面観世音菩薩が祀られています。元は鹿角街道沿い七時雨山麓にあったと伝えられています。以下のように記されています。
「聖武天皇は蝦夷に信仰心をもたせ、心を和らげる意図をもって、神亀5年(728)勅願所として白坂観音堂を建立させ、将監吉次に御本尊 七面観音像を鋳造させました。
 天台寺と同じく行基に開眼させたと伝えられています。」


 観音堂には蜂の巣があるようです。少し離れたところであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「来る時はもうそこ迄参りております。是よりの日々にて、光と響き益々新たなるへ代わり行き、それぞれのその身も余分を無しとして、新たなるを受け取られ、その身を変え行きて下され。あわ歌の響きに乗せて参るなり。生み出だす新たなるを。」14:05