いよいよ奥州33観音霊場巡りの最終日スタートです。宿を8時に出発しましたが、宿のおかみさんやスタッフの皆さんが見送りをして下さり、心温まるおもてなしを尽くして頂きありがたい限りです。又来たくなるお宿でした。
始めに向かうのは平泉町にある特別霊場の開山中尊寺です。世界遺産に指定され有名な奥州藤原時代を代表する聖地です。宿からは10分位であっと言う間に中尊寺の裏の目指す駐車場に到着です。宿は中尊寺の裏座敷、隠れ家的なやすらぎの地でした。
平泉の浄土思想について以下のように記されています。
「奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清です。藤原経清は官軍でしたが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦いました。前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わいました。清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手しました。この理想の世界が極楽浄土世界の建設でした。
清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築きました。2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立しました。仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化です。
当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘しましたが秀衡は平和主義者のためにこれに応じませんでした。しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになりました。ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していきました。」
藤原清衡が再興した中尊寺について「中尊寺建立供養願文」があります。その一部を紹介します。
「鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 攻めてきた官軍(都の軍隊)も守った蝦夷も 度重なる戦いで 命を落とした者は 古来幾多あったろうか いや みちのくおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、具も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれますように」
奥州に浄土を願ったその意図が読み解けます。しかしその浄土の世界も100年で潰えてしまいます。
朝のお寺の境内は清掃作業がなされていて、作務の方々の挨拶が気持ち良いです。参拝客はほとんどいなくて独占状態です。本殿からお参りしました。中尊寺は天台宗のお寺で阿弥陀如来がご本尊です。沢山のお堂が祀られてあり、金色堂を過ぎて奥の白山神社であわ歌を歌うことにしました。
かたくりの花が綺麗に咲いていて、見晴らしの良い、神社の裏手に丘の上で、皆さんで円をなして響かせました。その時のお言葉です。
「思いの丈をしっかり強く、定めて、響きて、ひとつと成せば、皆々様には備わった大いなるがありて、この地と共に進み行く。晴れて素晴らしき日を向かえましょう。」8:59
次も平泉町にある特別霊場の毛越寺です。中尊寺と同じく天台宗でご本尊は薬師如来です。毛越寺には白鹿伝説があります。
「寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。
大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。」
建立については以下です。
「毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。
平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。」
「すだく多くのものを鎮めて、是より新たなるへ向かうは、遥かなる響きをおいて他に無し。争い鎮め、この地を鎮め、宇宙を鎮めて参る故、皆々それぞれ、その身を鎮めて参られませ。」9:44