2026年1月2日金曜日

4125「青空ひろば」2026.1.2

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1619 2025.12.04  ~ 1620 2025.12.05

<「現成公案(げんじょう こうあん)」の意味>

① 君が現に体験(現成)している事柄は、すべて神(公)によって配慮された、君の魂の成長のために、もっともふさわしい出来事(案)なのだ。

(応用)イライラする時、うまく事が運ばない時、「現成公案、現成公案、…」と呪文のように称えるといい。

② 君が今おかれた時と場所(現)にイノチの重心をしっかり載せて行動(成)してゆけば(フラフラ過去や未来や他の人やモノに意識を漂わせることがなければ)、君の行動に、神の配慮(智慧)や神力が自然と加わり(公)、それによって、あなたの行動は宇宙全体にとって、君や周囲の人やモノや組織にとって、最善、最適な行動・考案(案)となるのだ。→トランスパーソナル(個人性を超える能力が発揮できるようになる)(


<「現成公案」の巻 超要点訳>

君が未知の分野の仕事を手掛けることになったとしよう。

その時、始めは仕事の要領がさっぱり分からず、「ウロウロ・オドオド・ギクシャク」の連続であろう。このような状態を「迷」と呼ぶことにしよう。

やがて、君は仕事の要領を覚え、その仕事に我を忘れて没頭出来、成果を上げることが出来るようになったとする。その時、「スラスラ・スイスイ・ピタピタ」と最高の仕事を決めてゆけるだろう。この状態を「悟」と呼ぶことにしよう。

ただし、この「迷」と「悟」には、価値判断は含まれておらず、単なる記号である、ということに注意して欲しい。

なぜならば、イノチが順当に成長進化している時は、今の状態に満足せず、絶えず新しい分野の仕事にチャレンジすることになるからだ。

そうなると、結局君は「ウロウロ・オドオド」の「迷の足」と「スラスラ・ピタピタ」の「悟の足」を交互に繰り出しながら、前進・成長してゆくことになる。だから、「迷」と「悟」は、イノチの前進・進化のためには同等の価値があり、大切なパートナーであり、いずれか一方が欠けても、イノチはこれ以上の進歩・前進が出来なくなってしまうのだ。

「迷」と「悟」は隔絶した状態なのであろうか?いや、そうではない。

「悟」の状態にあったとして、その状態を手放したくないと執着すれば、それは「迷」である。

また、「迷」の状態にあったとして、それを厭わずに、今の「迷」の状態にしっかり腰を据えて取り組んでゆけるようになれば、それが「悟」である。

つまり、「悟」のコインの裏面には「迷」と書かれており、「迷」のコインの裏面には「悟」と書かれているのだ。そして、それは同じ「イノチの本体」という名のコインの表裏なのである。

「イノチの本体」は、「迷」も「悟」も厭うことなく、それぞれの存在を認め、許し、抱擁し、有効に活用して転進してゆきつつある。

そんな「イノチの本体」の方針に素直に従えるようになった状態を「大悟」といい、あるいは「大迷」というのである。

そのように、「悟」も「迷」も、厭うことなく、執着することなく認め、抱擁することが出来る「大悟」・「大迷」の境地になることができれば、君がこれまで嫌って、我が魂から締め出し、追放してしまっていた、君が弱点や欠点だと思って否定していた部分でさえも、そのまま受容出来るようになり、受容でき、許し、愛せるようになると、弱点や欠点であったはずの君の魂の断片が、君の「イノチの本体」に復帰し、君のために有効な働きをしてくれるようになるのである。

何が君の人生の道行きを妨害するのであろうか。

それは、君の否定的な、誤った「自己イメージ」なのである。

「自己イメージ」が間違っていると、幻想の制約・制限が君を縛り、また誤った「他者イメージ」、「世界イメージ」を持つことになって、君の人生を重苦しくしてしまう。

であるから、君が開放され、自由闊達に自己実現を目指せる人生を生きたいのであれば、誤った、幻想の「自己イメージ」を解消しなければならない。

そのためには、どうすればいいのだろうか。

げんに現われている課題(現成)に、我を忘れて取り組む覚悟を決めればいい。そうすれば、「我を忘れて」いるのであるから、その時、君を束縛する「自己イメージ」は消えており、そうなれば、大宇宙(公・神仏・全体生命)の智慧やエネルギーが、即、流入してきて、君を通して働くようになってくる。

この人生は「表現の場」である。しかし、うまく表現しなければならない、成果が上がる表現を目指さなければならないというのではない。

うまい、へたではなく、君にしか出来ない表現を追求し、努力してゆかねばならない。

そして、もし、君独自の表現が出来るようになれば(現成)、その時、君の作品に大宇宙の影が、永遠と普遍の影が宿っているであろう(公)。

君が実現し成就した作品によって、多くの人やモノたちが、祝福され、福祉を与えられることになろう(案)。

それが、私が言わんとする「現成公案」なのである。


1616 2025.11.30 ~1618 2025.12.02 

法華経の前半は「授記物語」です。「授記」とは、お釈迦様が人々に「君たちは将来必ず仏に成れるよ」と保証のコトバを授けることをいいます。

これをさらに掘り下げて考察してみると、個々の魂が「人類の魂」から枝分かれして出発した時に、母体である「人類の魂」から、個々の存在すべてに分与された精神遺伝子に、<どこまでも高く伸び、可能性を広げていって、やがて、すべての個々のイノチと融合一体化して「人類の魂」に復帰する>と書き込まれたのです。これこそがどの存在にも最初から埋め込まれていた授記で、これを「根本授記」と呼んでおきましょう。

しかし、この「根本授記遺伝子」は潜在していて、「縁」に触れることによって、はじめて本格的に発動し、作用し始めることが出来るのです。それで、「仏種従縁起(ぶっしゅ じゅう えんぎ、仏種は縁より起こる)」と説かれています。

・因(根本授記)→縁(世尊の授記など)・修行も縁(坐禅や聴聞、読経など)→果(「ひとついのち」にゴールイン)

「根本授記」は、意識化されることによって、スイッチが入り、本格的に作動し始めるのです。


<道元禅師 正法眼蔵『授記』の巻の要約>

君の頭で認識できないからといって「私は授記されていない」などと思い込んではいけない。

また、「修行の功が満ちて悟ることが出来、その時に「授記」が得られるのだ。「授記」を得るのはそんなに容易いことではない。悟りも体験したことがない、修行も未熟な君のような人間が、簡単に「授記」を得られるはずがないのだ」などという誤った説、偏見をもつ者に惑わされてはならない。

自分に自覚できなくても、君はすでに「授記」を頂いているのだ。

いや、「授記」が、君をこの地上世界に生み出し、生かし、歩ませているのだ。

君が住む世界環境もすべて、「授記」が君の成長のために用意し、セッティングしてくださったものなのだ。

太郎君も花子さんも、山も川も、イヌ君もネコさんも、みんな「授記」の産物なんだということを忘れないようにしよう。

君が坐禅したり、お経を称えたりしているのも、遠い、遠い昔に、君が「授記」を得ていなければ現成するはずがないのだ。坐禅したり、お経を称えたりする行は、自分がやろうとしてやれることではないのだから。

師から教えを聞いて、喜ぶことが出来るのも「得授記者」だからこそのことなんだ。

君が生まれ、楽しいこと、悲しいこと、腹立たしいこと、涙をながすようなこと、それらをいっぱい体験して、そして死に、また次の生を得る。これらの「生死去来」のすべてを「授記」が導いてくれているのだ。

法華経にこうある。「釈迦牟尼仏が薬王菩薩に告げられた『また、私が地上世界を去った後に、若し妙法蓮華経を聞いて、あるいは法華経の一節、一文章、一単語だけでも聞いて、わずか一念でも随喜する者がいたとしたら、私は彼に授記することにしよう』」

このように、君はすでに「授記」を授かっている者だからこそ、法華経の教えに随喜できるのである。君たちの過去・現在・未来は、「授記」中にあり、「授記」に抱擁され、育まれつつある「過去・現在・未来」なのだ(「授記時間」の中に私たちは生きて、歩んでいる)。

維摩経にはこうある。「もし彌勒(みろく)がお釈迦様から授記を授かったとするならば、一切衆生もまた授記を得ているはずだ。なぜならば、彌勒と一切衆生は「ひとついのち」、つまり「一体のイノチ」なのだから、彌勒が授記を授かったならば、その時、一切衆生も同時に授記を得たはずなのだ」

一切衆生が同時に授記を得たのでなければ、彌勒の授記はまだ本物ではないということだ。しかし、彌勒の未来における成仏は世尊がしっかり保証されているのであるから、一切衆生の未来における成仏も同時に世尊によって保証、確定されているのだ。

さあ、これで納得できたであろう。授記こそがよく一切をあらしめているのだということを、「授記」の中で君たちは生活しているのだということを。(完)


1614 2025.11.28 ~1615 2025.11.29 (前日の続き)

Q.「成仏」とは?

A.イノチはひとつ、ヒトはひとりしかいないと悟るのが成仏です。

「ほとけ」とは「ほどける」ことで、自他を分け隔てている「囲い」を解いてしまって、「生き通し」になるのが「仏の成る」ことなのです。(続く)


般若心経の末尾の陀羅尼は「ギャーテー(着いた) ギャーテー(着いた) ハーラーギャーテー(仏というゴールに着いた) ハラソウギャーテー(仏というゴールに、残らずみんな一緒に到着した) ボージーソワカ(素晴らしい達成よ、めでたし)」と説かれています。

また、他のお経には「奇なるかな、奇なるかな。我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏(さんせん そうもく しっかい じょうぶつ)」とあります。

自分だけが成仏して、他の人はまだというのは、本当の成仏ではありません。なぜなら、イノチはひとつで生き通し。世界に一人でも苦しんでいる人がいれば、自分はまだ本当に安らげていないのだから、仏には成れていないのです。

そこで、「私は何度でも地上世界に戻ってきて、すべての人を救済しましょう、みんなで一緒に仏というゴールに到着しましょう」という誓願が自然と心の底から湧き上がるようになるのです。この境地になったのが「菩薩」です。