2017年6月5日月曜日

961「祈り旅2」2017,6,5

 はやぶさは新青森に定時に到着して在来線に乗り換えて1駅で青森駅に到着です。後は、空港バスで青森空港に向かい、11時半集合に余裕で間に合いました。
 東京便が到着して天外さん達が出てきました。参加者の中に生体エネルギーの仲間の長野のSさんが居ます。彼と大型バスに乗り込んで同席です。Sさんは天外塾で天外さんと懇意のようです。総勢50名の大勢ですが主催の事務局のHさん、仙台の方数名以外は初めての方々です。今回のメインゲストのアシリレラさんは青森の仲間の車でバスの先導をして下さいます。
 今回の祈りの旅は2泊3日で1日目、2日目は祈りの旅で、3日目は観光も兼ねてのスケジュールです。祈りの場所は予てよりアイヌの御魂を祈り続けてきているレラさんが決められた処です。私はこれまで、大概は訪れている処ですが、全く初めての処は2箇所ありました。同じ場所でも目的と同行者でその現われは変わります。果たして如何な祈りの旅になるのか興味深深です。

 最初の目的地は空港から程近くにある小金山神社・入内観音堂です。田植えが済んだ山間の道を進み、目的の観音堂は入内の石神様の巨石が鎮座する石神神社へ向かう道の途中にあります。ここは何度かあわ歌等で訪れています。
 バスを降りて暫し待機している間に、レラさん達はお堂でお祈りの準備をされています。


 目的の場所は神社の左手の山の中腹にある入内観音堂です。
 この観音堂の謂れなどは以下の様にあります。

「入内観音堂の創建は大同年間(806~810年)、蝦夷東征の為当地に派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命を完遂し、蝦夷の首長「大獄丸」を討ち取り、その首を当地に埋め観世音菩薩を安置したのが始まりと伝えられています。
 天慶年間(938~947年)平将門の孫とされる信田小太郎が当地に逃れて三間四方の白山権現社と観音堂を造営し入内観音堂を再興したとされます。平将門の男系の子供の内唯一生き残った平将国が常陸国信田(信太)郡に住した事に因みその子供である文国(小太郎)の代に信田姓を名のる様になりました。文国(小太郎)が家督を継いだのが幼少時だった為、家臣で義兄だった小山行重が所領を接収し追い出した事で、文国(小太郎)は全国を流浪し当地に流れ着いたとされます。
 その後荒廃しましたが慶長年間(1596~1616年)津軽為信が再興し寺領30石を寄進し堂宇の再建が成され寺号「華福寺」が与えられました。無住だった事もあり再び荒廃しましたが寛永18年(1641)に住民達の浄財により堂宇が再建され、その後は津軽観音霊場24番札所(当初は28番札所)に選定されなど隆盛しました。」

 この中に蝦夷の首長「大嶽丸」を殺害し埋めたとあります。詳しい説明は無いままにお祈りの儀式が始まりました。




 最初、下のお堂にレラさんがお座りになり天外さん共々お祈りをしています。ここは1300年程前にアイヌの酋長が惨殺されて、首、胴体が切断されて埋められたところだそうです。上のお堂に首、下のお堂に胴体が埋葬されています。
 下のお堂から上のお堂に天下さんと口羽和尚が移動してお祈りをします。レラさん達は下のお堂で同時にお祈りをしています。
 祈りは、アシリレラさんはアイヌの祈り。口羽秀典さんは真言密教の施餓鬼供養、天外伺朗さんはアメリカインディアンの祈りと、それぞれで何とも異質なるものの同化でしょうか、多次元的多層に祈りの響きが発せられます。
 強い光が降り注いでいます。



 レラさんは青森の方々と20年前からこの地を訪れてお祈りを捧げてきていました。しかしお堂が何時も振動し、揺れていて中々に浮かばれなかったといいます。しかし50名からの大勢の人々の想い、三人の先達の祈りが効果があったのでしょう、揺れが収まり、怒りの怨念が抜けても抜けの殻になった、とレラさんが言います。
 終わって皆さんが揃って事の次第をお話頂けましたが、大多数の方は是までの北海道、出雲、剣山の旅に参加しておられる方々で、全く初めては私を始め10名ほどです。天外さんからメインゲストの方々の6名の紹介もいただけました。