今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。
471 2021.10.16~486 2021.10.31
老子に『無為(むい)にして化(か)す』という、老子全体のエッセンスのような一文があります。
『無為』とは、<為すことが無い>ということですね。
そして、『化す』とは、<変化させる>ということです。
現象世界では、何の手出しもしないのに、いつの間にか、環境や運命をどんどん好転させてしまうという人物を老子は理想とします。
というのは、手出しすれば目立つのです。目立てば敵も現われるのです。ですから、周りの環境に融けこんで目立たず、人にも気づかれず、知られず、思うとおりに人や環境を変化させてしまっていた、というのが、最高の「想いの実現法」なのです。
なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。
自分の心に有るものが、自分の世界や運命に現われてくるのでしたね。つまり、<心が先で、形は後>なのです。
心に描かれた想いは、早晩、形の世界に現われてきます。自動的にそうなるのです。
ですから、自分の想いは当然のこと実現するのだと信じて、何の疑いの念も心に兆すことがない人は、何もしなくても、必ず想いを実現させてしまいます。
疑いの念もやはり、心に描かれる想い(反対想念)なのですから、「私はこのようになりたい」という希望の想いより、「不可能だ」という反対想念の方が強ければ希望は実現しないし、「実現は困難だ」と想えば、実現が困難になったり、実現までずいぶん時間がかかったりするわけです。
現象世界のアレコレを気にして、それを変えようと手出し、足出しして悪あがきするということがあります。困った現象に気を取られてしまって、心にその困った現象を描き出し、心を、困った現象に占領されてしまったのです。
そうすると、心に描かれたものが、形の世界に現われるのですから、その人は、その困った現象の再生産を繰り返し、困難をますます拡大させてしまうことになってしまうのです。
キツネさんの話(「百丈野狐(ひゃくじょう やこ)」の公案)を覚えていますか。
昔、弟子の指導に誤りがあったお坊さんが、キツネに生まれ変わってしまったのです。それが、辛くて辛くて、キツネから脱出したいと思い、そのための努力をするのですが、どうしても脱出できず、ついに五百回、キツネに転生を続けているというのです。
それで、百丈という禅僧のもとに救いを求めてやってきたのです。
それに対して、百丈さんは、「因果歴然だ。お前はキツネから脱出できん」と、断言します。
それで、キツネさんは覚悟を決めます。『もうキツネから抜け出そうなどと思うまい。精一杯キツネを生きてみよう』
そう心が定まった途端に、このキツネはキツネの境遇から抜け出すことが出来たのだそうです。
つまり、キツネがいやだ、キツネから抜け出したいと、思い続けるということは、その嫌なキツネを心に描き続けることなのです。そして、心に描いたものが形の世界に現われるのですから、ずっと、キツネの境遇とキツネが体験する世界の拡大再生産を、五百生の間、続けることになったのです。
しかし、キツネから脱出することを諦めた瞬間に、もはや、キツネを心に描かなくなったので、キツネの思いが無い心は、たちまちのうちに、キツネでない身と世界を、現象化させたのです。
『老子』の冒頭の一節から勉強します。
ここは、様々の訓読みがされ、それによって解釈も色々です。
私には伊福部隆彦先生の訓読みが一番ピッタリくるので、それを採用させて頂きます(『無と人間』近畿大学出版局)。
『道の道たるべきは、常(かわら)ざるの道にあらず。名の名たるべきは常ざるの名にあらず』
『道』とは、<いのちが人生でたどる道>のことです。つまり、運命のことですね。それは、『常(かわら)ざるの道にあらず』、つまり、<変更できないということはない>というのです。つまり、運命は確定しているのではなく、いくらでも自由に変更可能なんだというのです。
次ぎの『名』とは、名前のあるもの、つまり、<現象世界のアレコレのモノゴト>のことです。
これも、変化させることが可能なんです。たとえば、「不幸」という名のモノゴトを「幸せ」に変更したり、身に付いた「失敗者」のラベルを「成功者」のラベルに張り替えたりすることも出来るのですよというのです。
『「無」は天地の始めに名づけ、「有」は万物の母に名づく』
そのように、人生の軌道を修正したり、現象世界に書き込まれたモノゴトの名前を変更したりするのは、どうすれば出来るのでしょうか。
それには、まずこれまでの人生の軌道をアリと見、その延長上の軌道の未来しかありえないと思う、そんな思い込みをリセットしなければなりません。
この世のアレコレは、本当はアルのではなくて、黒板に描かれた絵や文字(名前)なのです。それが、私たちには、いかにもがっしりした、固くて変形できない現実のように感じられているのです。
しかし、その現実は、本当は黒板上の文字や絵にすぎなくて、いざとなれば、黒板消しでサッと消し去ることができるものなのです。
では、人生の軌道を変えたり、我が人生の名前を書き換えたりするにはどうすればいいのでしょうか。
それには、まず黒板に、これまでに描かれた文字や絵を、黒板消しで消して、スッキリした無地の黒板を復活させることが必要です。
『無』、つまり無地の黒板にこそ、あなたの新しい人生と、新しい名前が書き込まれるのです。これまでの人生の軌道、名前を残したまま、その上に「新生のあなた」を描くことはできません。
つまり、無地こそが、あなたの新しい天地の始めなのです。これが、『「無」は天地の始めに名づけ』です。
また、この黒板上には、あなたがこれから歩むの人生のすべてを、克明に綴る必要はありません。たとえば簡単に「私はしあわせ」と書き込んでおけば、その言葉の実現をゴールとするような時空のドラマが自動的に展開しはじめて、形の世界に実現するのです。
それが、『「有」は万物の母に名づく』です。私の想いの実現法の理論で説明すると、心という黒板に描かれたイメージなり、言葉なりを、「心」が時空のスクリーン上のドラマに仕立てて実現させるわけです。
q1この「心」の黒板に文字やイメージが書き込まれた状態が『有』で、それが種子となって、形が育つのです。
『故に常に「無」は以って其の妙を観んと欲し、常に「有」はその徼(おわり)を観んと欲す』
この文章は、なかなか大したものですね。
まず、イノチというものを「無」と「有」の二つの状態から成り立っていると捉えます。
そして、「無」の状態は自動的に「有」の状態を生み出そうとし、「有」の状態は自動的に「無」に復帰しようとするのだとします。
この「有」と「無」の相互作用こそがイノチの働きの本質なんだというのです。
『故に常に「無」は以って其の妙を観んと欲し』の『妙』とは、<形の世界の絶妙の創造物>です。形の世界での表現(身体表現や芸術表現、仕事での見事な捌きなど)は、その人の「無(心)状態」が、深ければ深いほど絶妙のものとなります。
たとえば、野球選手は決勝のタイムリーを打ったり、逆転サヨナラホームランを打ったとき、「無心でバットを振りました」などとよくコメントしますね。
そして、『これまでは、打とう、打とうという気持ち(有心)が強すぎて打てませんでした』などと言います。
つまり、心の「無」の状態が深ければ深いほど、最高の「有」の状態が創造できるのです。
道元さんは『前後際断(ぜんご さいだん)』という言葉で、この「無」の状態を説明しています。
『前』とは未来です。『打とう、打とう』という気持ちが強すぎるのは、未来にイノチの重心が傾いてしまって、行動の自由を失っている状態です。
『後』とは、過去の栄光や、逆に打てなかった記憶にイノチの重心が傾いて行動の自由が奪われている状態です。
『際断』とは、<切断>のことで、未来と過去を断ち切ったら、後は今・ココしか残りませんね。その今・ココにイノチの重心がしっかり落ち着くと、初めて行動の自由が得られるのです。そこで、初めて、その人に可能な最高の身体表現が可能になるのです。
形の世界に表現されたモノゴトが「有」です。
そして、すでに形(有)となったモノは、実はもう無いのです。形の世界に表現された途端に、そのモノゴトは「無」の状態に復帰しているのです。
仏教の理論に、<刹那消滅(せつな しょうめつ)>というのがあって、一瞬、一瞬、世界は立ち上がり、一瞬、一瞬、世界は消滅しているのです。仏さまのように、境地が高い方は、その一瞬、一瞬の世界の創造、消滅を認識できるのです。
ですから、仏さまは、常に生まれたてほやほやの、ピカピカの一年生の世界を観ているんだということになりますね。
それに比べて、私たちは、心に重みがありますね。物理学の用語では、<慣性>と呼ぶものが心にもあるのです。
仏様の心には、もはや慣性はないので、これまでの過去の、運命の軌道にかかわらず、人生の次の道を自由に決めて、その方向に出発できます。
しかし、心にまだ慣性がある人は、過去の人生の軌道の延長の道に進んでしまうことになりがちなのです。
ですから、坐禅をしたり、お経をあげたりして、心を軽くすることが大切なのです。
そうなれば、お釈迦様ほどでは無いにしても、心の軽さに応じて、自分の人生の軌道を自由に変更できるようになるのです。
形の世界に現れた物事は、実はすでに終わっている、無くなっているものなのですから、それを有るもののように観て、その現象に引っかかり、それを心に止めて、その物事を拡大再生産しないようにしましょう。
『此(こ)の両者同じ、出(い)でて而(しか)して名を異にす。同じくこれを玄(げん)という』
この「無」の状態、それから「有」の状態、これらは、私たちの<いのち>というもの2つの状態なのです。
たとえば、ボールが回転しながら進んでいる姿をイメージしてください。
地面(形の世界)に接している一点がありますね。これが「有」の状態、ボールの地面に接していないところが「無」の状態です。
このいのちボールは回転して、「無」は「有」に向かわんとし(地面に接していなかったボールの箇所が回転によって接するようになる)、「有」は「無」に帰ろうとしています(ボールは回転しているので、接していた一点もやがて接触しない状態に戻る)。
その「有」と「無」の循環運動によって、このいのちボールは前進することが出来るのです。そして、その前進が、いのちの「道」となるのです。
そして、老子さんは、この「いのちボール」のことを、『玄』としています。
いのちの、このような神秘的なはたらきを、「玄(暗くて、見通せない)」としたのです。
なにも見通す必要はないのです。ただ、いのちの神秘に身を委ね、形の世界に現れた苦しみは、もう無いんだ、去ったのだと信じて、取りあえず、「無」の復帰する。そうしたら、その「無」から、おのずと、よりよくなった世界が「有」の世界に現れてくるのです。
どれだけ、速く「有」を捨てられるか、どれだけ深く「無」に復帰できるかが勝負なのです。
『玄の又(また)玄、衆妙(しゅうみょう)の門』
『玄の又玄』とは、いのちのさらに奥のいのちのことで、わたしの言葉でいうと、<ひとついのち>のことです。
この<ひとついのち>から、進化のための作戦として、個々のいのちたちが生み出されたのですね。
先ほどまでは、個人がいかに自身の夢を実現してゆくかという方法を説明しました。
しかし、さらに深い想いの実現法があるのです。
それは、<ひとついのち>の想いの実現法です。
個人の、ああしたい、こうでありたいという想いはすべて放棄して、自身の心を、澄み切った水面のようにして、その水面に、<ひとついのち>の想いを写すのです。
そうしたら、それから以後の自分の人生は、<ひとついのち>の思いのままの人生になります(神のまにまに)。そういう運命を受け入れるのです。そうすると、あなたは、形の世界に、素晴らしい創造を生み出す門(『衆妙の門』)となるのです。(完)