2021年12月31日金曜日

2563「神仕組みに気づく」2021.12.31

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月26日の記事を紹介します。


「神仕組みに気づく」


神様はどなたの中にもいらっしゃいます。 

そして私達を護ったり導いたり、生まれる前に決めてきたシナリオ通りのことが、ジャストなタイミングで起こるように調整したり、様々な働きをしてくださっています。 

6歳の神様トキ君が言うように、いつも、どんな時でもニコニコと、感謝の気持ちでいれば、

神様はスムーズに神仕組みをなさってくださいます。

その時は、ヒラメキや、直感を信じ、心がワクワク、喜ぶ方向へ進んでいくだけです。


また神様を信じてさえいれば、今日のお話のように神仕組みの片りんに気づくこともできます。 

特に神社参拝などに行った時は、アンテナを張り巡らして、外応をキャッチされるのをお勧めします。 

また、賛否両論ありますが、些細なこと(現象)でも、神々に感謝し、喜ぶことをお勧めしています。 

それは、そのことを、特別扱いとか、威張るとか、自慢するとか、有頂天になるとか、そんな下世話な意味ではありません。

そのあたりのことを小林正観さんが書いていますのでご紹介します。

<引用開始> 引用元

 

偶然を書きためる、神さまの存在は、誰でも感じることは出来ます。

正観さんの方法は、ノートに記すことから始まります。

・偶然のようで 偶然に起こった現象。

・偶然じゃないけれど偶然のような面白い現象。

これら偶然を書きためます。

正観さんは40年で1000件。1年で25個。1ヶ月にすると平均2個ぐらいあったそうです。

・色々な偶然を面白がる。

・その際、他人の評価は気にしない。

自分が面白いと感じたもの。

それが100件以上になったら試してみるといいですよ、と仰いました。

・例えば落ち込んだりした時

・自己嫌悪に陥ったりとか

・嫌味を言われたときなど

ノートを広げてみて、過去の全ての偶然を見てみます。 

そうすると、それらは、決して偶然ではなく、全て一連の流れとして、起こされている現象であった・・ 神々の意図を感じることができるからです。

そうすると「自分は神様に好かれているみたいだ」ということが分かってくるんです

多くの現象を眺めてみると、自分がどれ程神さまに好かれているか、愛されているかということに気づきます。

講演会で、このお話の最中に不思議な現象が発生しました。

「絶対に神さまが嫌っているという結論にはならない」 

このフレーズを言ったとき、正観さんの携帯電話が突然鳴ったのです。

この電話、機種変更で番号は生きているが、一年前から使っていないものでした。 

その電話が、偶然に、「偶然のお話の最中に」、講演会の最中にけたたましくなったのです。 

不思議。不思議。神さまの承認の呼び出し音か。

このような、「偶然を見つけ、喜ぶ」という態度は、偶然の現象の奥に「恵んでくださっている存在」を見出すこと、感謝することになります。

この時、講演会で、事例を二つ紹介くださいました。

正観さん誕生日11月9日。野口英世も11月9日。

正観さんが新千円札を始めて見た日が11月9日。

お札の顔 野口英世博士は微笑んでいる、かどうかは別として、面白いと楽しむ、

ということ。

仙台と盛岡間 車で高速道路 送ってもらう。走っていて偶然にある車のすぐ後についた。

その車の ナンバープレート 1259。

運転していた人が喜んで教えてくれた。その瞬間 時計を見ると12時59分。

わ~~~おと声をあげた。

ふたつともだから何? と誰か言っても関係ありません。

  

自分だけで、

・随分神さまに愛されているね。

・人生は面白いね。 

と、そう感じるだけで結構です。

その結果、神様は、 

・面白がる人には どんどん面白がる現象を

・楽しがる人には、どんどん楽しがる現象を

・幸せがるひとには どんどん幸せになる現象 を下さる。 

さらに大事なことは、

感謝したがる人には、次々に感謝できるような現象を降らせてくれる・・ということです。

その時、質問がありました。

「神さまに好かれていない人。そのような人はいるんですか?」

すごく重要で、いい質問ですとおっしゃって、正観さんは、こう答えました。 

「全員神さまに愛されています。全員です」と強調しました。

実は神さまからもの凄く愛されている人だけが、肉体をもらってこの世に人間として生まれている。

肉体を持って生まれたい魂が800億。その魂は地上80kmあたりにいるらしいです。

その7%くらいの魂が地球に生まれてる。

その魂、つまり私たちは神さまにお願いして お願いして 頼んで 頼んで、生まれさせてもらってきた。神さまから特別扱いで生まれさせてもらった。

  

その人間がね、愚痴や泣き言ばかり言ってると、地上の魂に「俺に変われ」と言われてしまう。 その怨念をかぶってしまうと、どうも寿命に影響が及ぶらしい。

不機嫌でいると体が壊れやすい。地上の魂の想念が降りかかるのかもしれません。

喜んで楽しんでいる人は、寿命も長く、健康でいやすくなります。

すべての人間は、神さまに好かれている。

しかし、このことを知ってるか、知らないでいるかで、人生変わってしまう。 

「神様に好かれている」 

これを耳にする人は 0. 01%と少なく、地球全体では56万人。

日本人では1万人。

死ぬまでに、神さまから好かれている。愛されている。

この情報を聞くことができる人の数は、たったのこれしかいません。

聞く聞かないで、人生観が変わります。

<引用終了>

 

一の鳥居 鳥居が浮いているのがわかりますか?

神様は、様々なところにいらっしゃり、様々な形で私たちにアプローチしてくださっています。

それを感じ取り、喜び感謝して受け取るか。偶然とかたずけて、無視するか? 

放っておけばよいものを、神様に感謝して些細な出来事を喜ぶ人を、馬鹿にし、否定し、せっかく、神様と絆を深めようとしている人たちの心を、神さまから引きはがしてしまうのか?

人それぞれです。 

ですが、些細なことに神さまの息吹を感じ、感謝して喜ぶ人は、きっと生涯、幸せに生きていくことでしょう。 

偶然とかたずけて、現実は厳しいもの、苦しいものと、眉間にしわを寄せている生きる人は、もしかしたら、神々の手を自らはねのけてしまっているかもしれません。

  



2021年12月30日木曜日

2562「おかげさま」2021.12.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月25日の記事を紹介します。


「おかげさま」


今日も心のお話です。 

私たちの心は強力で、広大です。

見える世界、見えない世界を包み込んでいます。 

例え、神様・仏様、能力者の方が一瞬にして私たちの境遇を引き上げたとしても 

私たちの心が変わらなければ

またすぐに同じ世界に戻ってしまうことでしょう。



それに引き換え、 

心の中に感謝の気持ちを持つことができれば

私たちの境遇は一瞬にして変わってしまうことでしょう。 

空海が仰るように生きながら天国に住むものとなります。

さて今日は、お陰様に付いてご紹介します。

謙虚で優しい気持ちです。

前ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんの言葉です。

<引用開始>


小さなお子さんの手を引いて、

一人のお母さまが水道工事の現場の傍(そば)を通りかかりました。

暑い夏の昼下がりのことでした。

お母さまは坊やに向かって、 

「おじさんたちが、汗を流して働いてくださるから、坊やは、おいしいお水が飲めるのよ。

ありがとうと言いましょうね」

と話してやりました。

やがてもう一人、同じように幼い子の手を引いて、別の母親が通りかかりました。


「坊や、坊やもいまから一生懸命にお勉強しないと、こういうお仕事をするようになりますよ」

と言ったというのです。

 

同じ仕事に対して、こうも違った考えがもてるものでしょうか。

最初の母親は、この日、子どもの心に 

労働に対しての、尊敬と感謝の気持ちを育てました。

二番目の母親は、

(手をよごす仕事、汗まみれの労働)に対しての、 

恐ろしいまでに誤った差別観念を、我が子に植えつけたことになります。

 

私たちがいま、子どもと一緒にこの場にいたとしたら、どんな会話を交わすことでしょうか。

会話以上に大切なのは、

どんな思いを抱いて、働いている人たちの傍を通るかということなのです。

人は、自分がもっていないものを、相手に与えることは出来ません。

感謝の気持ちを子どもたちの心の中に育てたいならば、 

まず親がふだんから「ありがとう」という言葉を生活の中で発していることが大切なのです。

近頃の学生たちで気になることの一つは、

いわゆる〈枕詞(まくらことば)〉のようなものを習ってきていないということです。

例えば、「お元気ですか」と尋ねると、「はい、元気です」という答えは返ってきても、 

「おかげさまで元気です」という返事のできる学生が、以前と比べて少なくなりました。

 

遅刻して教室に入ってきた学生が、

授業の後で、「遅刻しました」と、名前を届けにはきても、

「すみません、遅刻しました」という枕詞がつかないのです。

「お話し中、すませんが」とか、

「夜分(やぶん)、失礼します」という挨拶のできる学生も少なくなりました。

いずれにしても、言葉が貧しくなっています。

そして、それは取りも直さず、心が貧しくなっている証拠なのです。

せめて、「おかげさまで」という言葉と心を、生活の中に復活させましょう。

 

理屈っぽい人は、「何のおかげですか」と言うかも知れません。

何のおかげでも良いのです。

この表現は、私たちが実は、一人では生きられないこと、

たくさんの〈おかげ〉を受けて生きていることを忘れない心の表れなのです。

見えないものへの感謝なのです。

ところで、本当にありがたいこと、

何でもない時に「おかげさまで」と言うのは比較的に易しいのですが、

不幸や災難に遭った時はどうしましょう。

そんな時にも、「おかげさまで」と言える自分でありたいと思っています。

ごまかすのではなく、不幸、災難、苦しみをしっかりと受け止めながら、

「いつか、きっとこの苦しみの〈おかげさまで〉と言える自分になりたい、

ならせてください」と祈る気持ちをもっていたいのです。

<引用終了>

 

子どもは親や教師の「いう通り」にはならないが、「する通り」になる。

そう渡辺さんは仰います。

このたとえ話では、親の価値観が、子どもの価値観を作る・・ 

ということが良く描かれています。

私たちの日々の何気ない一言、行動を子どもたちは本当によく見ています。

そして、ものすごい早さで吸収していきます。

親だからといって、100%完璧な人間になることは不可能ですが、 

「お手本」になるために、少しだけ意識してみることはできるかもしれませんね。

 



2021年12月29日水曜日

2561「神様との約束」2021.12.29

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月24日の記事を紹介します。


「神様との約束」


あなたは今、歩くことが出来ますか?

あなたは今、しゃべることが出来ますか?

「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」と

悲しい言葉を、誰かが言わなくても良い世界を作りたいものです。

これは40年前のおはなしです。

<引用開始> 


「おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい」

ごめんなさいね おかあさん

ごめんなさいね おかあさん

ぼくが生まれて ごめんなさい

ぼくを背負う かあさんの

細いうなじに ぼくは言う

ぼくさえ 生まれてなかったら

かあさんの しらがもなかったろうね

大きくなった このぼくを

背負って歩く 悲しさも

「かたわの子だね」とふりかえる

つめたい視線に 泣くことも

ぼくさえ 生まれなかったら

山田康文くんとお母さん

この詩の作者は山田康文くん。

生まれた時から全身が不自由で書くことも話すことも出来ない。

養護学校の向野先生が康文くんを抱きしめ投げかける言葉が、

康文くんのいいたい言葉の場合はウインクでイエス、 

ノーの時は康文くんが舌を出す。

出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけで1ヶ月かかったという。

気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。

 

この母を思いやる切ないまでの美しい心に対して、

母親の信子さんも、彼のために詩を作りました。


わたしの息子よ ゆるしてね

わたしの息子よ ゆるしてね

このかあさんを ゆるしておくれ

お前が脳性マヒと知ったとき

ああごめんなさいと 泣きました

いっぱい いっぱい 泣きました

いつまでたっても 歩けない

お前を背負って 歩くとき

肩にくいこむ重さより

「歩きたかろうね」と 母心


"重くはない?“   と聞いている

あなたの心が せつなくて

わたしの息子よ ありがとう

ありがとう 息子よ


あなたのすがたを 見守って

お母さんは 生きていく

悲しいまでの がんばりと

人をいたわる ほほえみの

その笑顔で 生きている

脳性マヒの わが息子

そこに あなたがいるかぎり


 

このお母さんの心を受け止めるようにして、

康文君は、先に作った詩に続く詩をまた作りました。


ありがとう おかあさん

ありがとう おかあさん

おかあさんが いるかぎり

ぼくは 生きていくのです

脳性マヒを 生きていく


やさしさこそが、大切で

悲しさこそが 美しい

そんな 人の生き方を

教えてくれた おかあさん

おかあさん

あなたがそこに いるかぎり

 

康文くんは重度の脳性マヒで8歳の時、奈良の明日香養護学校に入学しました。

不自由児のための特殊学校で、康文くんも母子入学でした。

康文くんは明るい子でクラスの人気者になりました。

1975年4月には体の不自由な子供達が集う

「タンポポの会」が「わたぼうしコンサート」を開き、康文くんの詩が披露されました。 

このコンサートはテレビ、ラジオでも取上げられ、森昌子さんが康文くんの詩を歌いました。 

このコンサートのあと、康文くんは突然天国に行ってしまいました。

 

窒息死でした。

横になって寝ていたとき、枕が顔を覆ってしまったのです。

15歳の誕生日を迎えた直後だったそうです。

康文くんの先生で、この本の著者の向野幾代さんは復刊にあたって


「あの子の詩は、障害者が

『ごめんなさいね』なんて、言わなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。

今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね。

いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。  

 

『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。

歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障害になったり・・・ 

健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。

だから康文くんたちは私たちの先輩。

世の中をより良くするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」と・・・

向野幾世著 『おかあさん、ぼくが生まれてごめんなさい』より

<引用終了>


山田康文くんは、生まれた時から、全身が不自由、口も利けない状態でした。

通称やっちゃん。そのやっちゃんを、養護学校の先生であった向野さんが抱きしめ、

彼の言葉を全身で聞く。 

向野さんが言う言葉が、やっちゃんの言いたい言葉だったら、やっちゃんがウインクでイエスのサイン。

ノーの時は舌を出す。気の遠くなるような作業を経て、この詩は生まれました。

そしてその二ヵ月後、彼はは亡くなりました。

自分を生み育ててくれた母親に報いたい。

その思いがこの少年の人生のテーマだったといえるかもしれません。

短い生涯ながら少年は、見事にそのテーマを生ききり、それを一篇の詩に結晶させて、逝きました。

生前、ひと言の言葉も発し得なかった少年が生涯を懸けてうたいあげた命の絶唱かもしれません。

この詩が私たちに突き付けてくるものは大変に重いです。

人は皆、神様との約束を胸に宿してこの世に生まれてくるといいます。

その約束を深く掘り下げ、高め、そして仕上げていくことこそ、

私たちが果たすべき人生のテーマといえるのかもしれないですね。

 

あなたは、もう、神様との約束を思い出しましたか?

神様との約束って、もしかしたら家族や身近な周りの人と、例え苦労の中にあったとしても、仲良く、思いやり、助け合って生きていきます・・ 

そんな約束だったかもしれませんね。

 


2021年12月28日火曜日

2560「まるごと受け入れる」2021.12.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月22日の記事を紹介します。


「まるごと受け入れる」

このブログでは、元気で悩みも無く、明るく暮らしていらっしゃる方へと言うよりも、どちらかというと、日々の暮らしに疲れ、悩み苦しみ、涙を流していらっしゃる方に向けて書くことが多いです。

できれば悩みや苦しみから解放されて、心から笑って頂きたいからです。

そのヒントとなればと、今日もブッダのお話からご紹介します。


ブッダは2500年前に、人間の生というものは「苦」に満ちていると悟りました。

ブッダが悟った「苦」とは、世の中は自分の思いどおりにならない、 という意味でした。 

災難の中に居ることが「苦」ではありません。

「この世は『苦』に満ちている」という言葉の本当の意味は、結局は自分だけの問題だということになります。 

何故なら、どなたも自分の思い通りにならない現実に対して、自分の心が苦痛を感じているからです。

外からやってくる不幸や悲劇は存在しません。

それらには良いこと・悪いことという色が全くついていません。

全てが内側、つまり自分の心・思い、受け取り方の問題だったとブッダは気付きました。

ブッダは思いどおりにしたいという「執着」を持たなければ、人間は全ての「苦」から解放されることに気づいたのでした。

そしてブッダは全ての煩悩から自由になり、悟りを開きました。

私たちの悩みの多くは、実は自分自身のことではなくて、他人が自分の思う通りに振る舞わないことから発生していると言われます。

多くの人は自分の価値観の中に、相手を連れてこようとして苦しみます。

でも、その人の良いところも悪いところも全部踏まえた上で、そのまま全て、まるごと受け入れてしまえば何の問題・悩みも無くなります。

自分の価値観を、人にまで押しつけようとした時に、実は自分自身が一番苦しみます。

人や物事・起こっている現実を自分の思う通りに変えようとせず

・お金と仕事の問題は、「掃除」をしていれば無くなってしまう。

・体と健康の問題は、「笑って」いればいい。

・人間関係は、感謝、「ありがとう」を言っていればいい。

それだけで私たちは幸せに暮らしていけるように神さまが、この世の中を作ってくださっています。

 

神さまが好む人間の行為ベスト3は、

・掃除

・笑い

・感謝

の3つなのだそうです。

神さまは掃除をする人が好き、笑顔や笑い声が好き、感謝する人が好きらしいのです。

「掃除」と「感謝」は、いわゆる善行。

ここに「笑い」が入ってくるのは、実は「笑い」は「肯定」を意味しているからです。

「笑い」とは、目の前に起きている現象に対する肯定であり、受け入れることです。

それは目の前の現象(嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと)を起こしてくださっている地球や宇宙や神さまに対し、「ありがとう」と肯定したという意味になります。

神さまにとって「肯定された」ということは、自分のしたことを「喜ばれた」ということになります。

小林正観さんが仰るには、 

神さまは喜ばれると嬉しくてやる気になって、応援支援をしようと思うみたいなので、

肯定的な人には、どんどん味方をしてくれるようになるそうです。

 

私たちは子供のころから、 

「手に入っていないもの」を挙げ、「それを手に入れることが幸せ」という風に教えこまれて来ました。 

またビジネス社会でもそうですね。

売り上げ目標を高く掲げ、ムダを極力省き全てのエネルギーをそこに注ぎ込みます。

また「努力しなければダメ」「頑張らないとクズ」と教えられても来ました。

一方、

・既に沢山のものをいただいている

・既に充分恵まれている

との考え方に至った人たちもいます。

これは現状(嬉しいことも、苦しいことも、悲しいことも)を肯定して、

「喜びながら」「幸せを感じながら」「感謝しながら」生きるという生き方です。 

神さまや宇宙に、今既に十分与えられていると言う「小欲知足」の生き方です。  

強く願えば叶う、努力すれば必ず現実を変えられる。 

宣伝や営業努力の結果でものが売れる・・  

そのような方法論はもう古いのかもしれません。

神さまの意思や働きを否定した傲慢な考え方かもしれません。

神々の計画では、21世紀は「精神性の復活の時代」、「心の時代」になって来ています。

21世紀は、いかに宇宙を味方にするか? 周りと調和していくのか?

そう考える方が時代の潮流のようです。 

・人に喜ばれるように生きていくこと。

・「頼まれごと」をひたすら実直な、愚直な、誠実な心で行っていくこと。

・目の前の現象をまるごと感謝して受け入れること。 

・自分が社会的に成功するとか、

・お金持ちになるとか、

・商品が売れるとか、広まるとかということは、

  

ブッダが言うように、全て本人の力ではありません。

すべて神さまや、宇宙、そして周囲の人・ご縁のおかげです。 →縁起の法則と言います。 

ブッダは般若心経でそう教えてくださいました。 

自分の努力や力ではなく、全てが目に見えない神さまや、宇宙、人様のご縁のおかげということがわかったら、あとはただ感謝、「ありがとう」と言うだけですね。

何故なら、その現象は、私たちの魂を磨き、美しく輝かせるために起きていることだからです。 

それが、ブッダは2500年前に悟った人間の生というものは「苦」に満ちている・・

その苦しみの世界において、真の幸せを掴む道なのかもしれません。

   

泥の中から咲くハスの花ように、 

私たちも、この世界において、 

置かれた場所で、

美しい花を咲かすことが、 

きっと誰にでもできるのです。

  



2021年12月27日月曜日

2559「縄文回帰」2021.12.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月21日の記事を紹介します。


「縄文回帰」

日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とはなりえません。

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。 

そこで説かれることは、

・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる

・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく

 人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切 

など。


これらは、私たち一般人の、今までの常識とは少し異なっていることかもしれません。 

ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、常識とされていた物のようです。 

私がこのことを、はっきりと知ったのは、春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。

  

巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、仲介することを、職業として行い始めたのは、

多分、日本では大和朝廷設立 直前、つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める以前の、邪馬台国の時代。卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。

それ以前の日本は、平和で、神々と人々が直接繋がり、世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。 

約1万5千年続いたと言われています。 

大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、争いもなく、所有の意識もなく上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。

アイヌの女性
  

もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、 それは縄文時代に一般的だった 

・物の見方、

・考え方、

・生き方

そのものです。

そして、それはムー時代の生き方でもありました。 

私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を大切に守ってきた民族と言われています。

そして、その精神と伝統は今でも息づいています。

文明の大転換点である今、西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。

   

この終焉を迎えようとしている現在の文明では、人々は、ずっと真実から遠ざけられ、

常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。

常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする依存、執着の状態に置かれたのです。 

それは、彼らが軽蔑の意味で使うゴエム(奴隷)と言われる状態です。 

この時代、その仕組みを お手本に、大小様々な、依存・執着と、それと一体となった支配

が、私たちを身近で取り巻いて来ました。 

この精神構造は宗教でもそうでした。 

イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。

イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。

  

それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、他者(教会)に対する依存・執着状態に置き、

自分たちを、その対極となる支配する立場に置いたのです。

それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。

本来は、イエスやブッダのように自立した自由闊達な魂の状態で、神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心、そして、生きている人々に対する、

・お互いさま

・お陰さま 

相手の個性、尊厳を大切に思う、温かな心、優しい心であったはずでした。 

ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった人間の精神が、萎縮させられて来たのです。

「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。 

縄文回帰とは、この、依存と執着、そして支配の構造から、人間の精神を解放させ、縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う、大きな運動(ムーブメント)です。 

これは、ブッダグループが1,200年単位で、人類に対するアプローチをしている中で、現在、実際に行っているアプローチ方法です。 

 

このブログで何度もご紹介してます通り、ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、そして協力なさっているのでしょう。

そして、その人類へのアプローチが目指すものは、一人一人の人間の 本当の幸せです。

私たち人間はしっかりと自分の足で、大地に立ち 

例え、貧しくとも、例え、病にあっても 

清らかな心で、天を仰ぎ 、神々に感謝し、そして微笑む時、 

本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。


2021年12月26日日曜日

2558「死はすぐそこに」2021.12.26

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月20日の記事を紹介します。


「死はすぐそこに」

ここ数年、地球の波動が上がっているためか、

・覚醒した・・という方

・地球に来た目的を思い出した方 

が急激に増えているようです。


出来れば、その思い出した英知を自分のためだけではなく、 

人々の幸せのために使っていただけたら、世の中は、もっと幸せになれるかもしれません。 

2,500年前の梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と同じです。

2,500年前、ブッダが悟りを開いた時

自分が覚った真理を説いても、欲望に支配された人々は理解できないだろうと、 

一人安楽な悟りの世界に安住してしまおうと、ブッダが思っていた時、 

梵天(ブラフマン)が現れて、人々の幸せのために、悟った法を説くよう要請しました。 

この梵天の要請を「梵天勧請」といいます。

さて今日は、27歳でガンで亡くなった若い女性の手紙をご紹介します。 

死が目前に迫った時、私たちは何を思うのか? 

死は、私たちに平等に必ずやってきます。そしてそれはいつ来るのか誰にも分かりません。

健康で、朝「行ってきます」と笑顔で出かけた人が、突然帰らぬ人となるかもしれません。 

では、ご紹介します。

 

<転載開始> 転載元 


26歳という若さで、死と向き合い始めるというのは、少し珍しいことかもしれません。

多くの人はこのことに目を背けて生きているからです。

毎日は、当たり前のように過ぎていきます。まるでそれがずっと続くかのように。

私もいつか歳を重ね、シワができ、白髪になることを想像していました。

たくさんの子どもに囲まれ、愛に溢れた家庭を築くことをいつも考えていました。

でも人生は儚く、貴重で、予想できないものです。

毎日を生きることは、与えられた権利ではなく、贈り物なのです。

 

私は27歳です。

まだこの人生を終わらせたくない。私は今とても幸せだからです。

でも、もう私にはコントロールすることはできません。

私はただみんなに、些細なことを、あまり心配しないで欲しいのです。

そして覚えておいて下さい。

最後にはみんな同じ運命が待っているということを。

だからあなたの時間を、価値のある素晴らしいと感じることに使って欲しいのです。

嫌だと思うことはしなくていいのです。些細なことには寛大な心でいてください。

もちろんイライラすることはあると思いますが、ずっと引きずらないでください。

そのようなことで、周り人々の人生に、悪い影響を与えないようにしてください。イライラしてしまう時は外に出て深呼吸をして、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで下さい。

 

そして空の青さを、木々の緑を見てください。それはとても美しいものです。

考えてみてください。呼吸ができること、その素晴らしさを。

もしかしたら今日、渋滞につかまってしまったかもしれませんね。

あなたの愛おしい赤ちゃんが泣きわめくせいで、よく眠れなかったかもしれません。

美容師があなたの髪を短く切りすぎたかもしれないし、変えたばかりのネイルが欠けていたかもしれません。

自分の容姿が気に入らない人もいるかもしれません。

でもそれらのことは些細なことです。

あなたが人生の終わりを迎える時、そんなことは考えないでしょう。 

人生全体で見れば、それらのことは本当にどうでもいいことです。

私の身体は日を追うごとに、どんどん痩せ細っていきますが、 

私の願いは、

・もう一度だけ、家族と誕生日を過ごしたい

・もう一度だけ、クリスマスを迎えたい

・もう一度だけ、パートナーと過ごしたい

それだけです。

たったもう一度だけでいいから。

 

仕事がどれだけ大変だったかなどの不満を訴える人がいますが、まずは身体が満足に動くことに感謝してください。

たとえ理想の体型でなかったとしても、健康でいられること、身体が機能すること、 それだけで素晴らしいことなのです。

食べ過ぎに注意して、適度に運動をし、新鮮な食事で十分な栄養を与えてください。

そして、お互いを助け合いましょう。

与えて、与えて、与えるのです。

他者に与えることで得られる幸せは、この上ないものです。

私ももっとそれをしたかった。

 

病気になってから、多くの人が私をサポートしてくれました。

とても返しきれるものではありません。そのことを私は一生忘れないでしょう。

あなたが死ぬときに、お金を持っていても なんの意味もありません。

自分の服を買う代わりに、誰かのためにそのお金を使いましょう。

あなたが同じ服を着ていても、誰も気にしません。

何より大切な人を食事に連れていったり、贈り物をすることは気持ちの良いことです。

その際に、大切に想っているという気持ちを伝えましょう。

自分のためにお金を使う際は、モノではなく経験に使いましょう。

ビーチに行って足を水につけ、つま先で砂を掘り、顔を海水につけてください。

自然を感じてください。

携帯の画面ばかり見るのではなく、ただその瞬間を楽しむようにしてください。

人生とは画面を通して生きることではないし、完璧な写真を撮ることでもありません。

大切な人との、血の通う時間を大切にしてください。

早起きをして、鳥のさえずりに耳をすまし、朝日の美しい色を眺めるのです。

音楽を聴いてください。音楽はセラピーです。

犬を抱きしめてください。携帯を置いて、友達と話をしましょう。

 

旅をしたいならしましょう。生きるために働いてください。働くために生きてはいけません。

心が幸せに感じることをしてください。ケーキだって食べていいのです。 

何の罪悪感も要りません。やりたくないことには、やりたくないと言いましょう。

他の人が考える理想の人生にプレッシャーを感じなくても大丈夫です。

平凡な人生を望んでも全く構いません。

愛する人に、毎日愛を込めて、愛していると伝えましょう。そして覚えていてください。

もし何かが、あなたを不幸にさせたとしても、あなたにはそれを愛など他のパワーに変える力を持っています。

この地球であとどれくらい生きられるか分からないのだから、そのようなことで時間を無駄にしてはいけません。

多くの人が同じことを言っていますが、これ以上の真実はないと思います。

これは一人の若い女性からの人生のアドバイスです。 

覚えていてくれても、忘れても構いません。それでは、また会う日まで。

<転載終了>

 

今目の前に居る人、配偶者、子供、家族、友人、彼らとも、いつか「さよなら」する時が来ます。この地球では、永遠に続く関係性は無いからです。 

もしかしたら、何か些細なことで、わだかまりを持っているかもしれません。 

 

ですが、死と言う別れを前にした時、そんな些細なことが、

・心を通い合わせること

・感謝すること

に何の支障があるでしょうか? 

出会ってくれてありがとう。喜びも悲しみも、苦しみも、沢山の経験をありがとう。

そう伝えたくなるのではないでしょうか? 

もう直接、肉体のあるその方に、伝えるチャンスは永遠にないのですから。 

この亡くなった彼女の最後の願いは 

・もう一度だけ、家族と誕生日を過ごしたい

・もう一度だけ、クリスマスを迎えたい

・もう一度だけ、パートナーと過ごしたい

でした。

これら全ての願いは、物ではありませんでした。

身を飾る、肩書、地位、名誉、プライドではありませんでした。

全てが、大切な人との、思いやり溢れる魂の交わり、経験を望んでいたのです。 

別れは、突然にやってきます。

 

私たちの目の前の人たちは、私たちにとって一番大切な人々です。 

ですから神さまの采配で、近くに置かれたのです。 

いつ死が私たちを引き裂いても悔いのないように、どうか目の前の方を愛し、大切になさってください。

出会ってくれたことに感謝してください。 

そのように心を合わせることのできた人とのご縁は、きっと死を超えて、永遠の絆となるからです。



2021年12月25日土曜日

2557「今あるものに感謝」2021.12.25

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月19日の記事を紹介します。


「今あるものに感謝」


元春日大社の宮司、葉室頼昭さん 神道の最高位、「浄階」まで行かれた方です。 

葉室さんが仰るには、神々の恩寵は、私たちの感謝の心を媒体として現れるそうです。 

従って、どんなに霊験あらたかな神社や仏閣にお参りに行こうと、私たちの心に感謝の気持ちが現れなければ、神々も助けたくとも助けられません。 

自分の運命を呪い、より楽な境遇になりたくて、現世利益を求め、よりすがり、依存の心むき出しでは、神々と相いれない波動をまとうことになり、繋がる先は、低き世界となることでしょう。

今日も、心を覆う罪、穢れを祓い、本来私たちが持つ、美しき心を表すために 

「今あるものに感謝を」というテーマのお話です。

感謝の気持ちで生活して行けば、どんどん、本当にどんどん、これでもかと言うほどの、幸せなことが起こってきます。

感謝の気持ちに敵対できるものなど、存在しないからです。

どんな小さな事にも、そこに感謝の種を見つけ「ありがとう」と言える人って、とっても素敵な人だと思いませんか?


一見

・嫌なこと

・面倒なこと

・悪い予感のすること

そんなものでも、神様が与えてくださった幸せのための、最初のステップだと思えば 

信じて安心し、喜んで受け入れることができます。

なぜなら、その出来事は幸せが訪れる 先ぶれだからです。

では、小林正観さんのお話より、ご紹介します。

<引用開始>


目の前の現象は「幸」にも「不幸」にもなる

九州でのある講演会で、定刻になっても半分しか人が集まらず、 

主催者の方が、「どうして九州の人間はこんなに時間にルーズなんでしょうね」と嘆いたことがありました。 

それを聞いた私は、笑ってこのように話しました。

 

「定刻なのに半分も来ない、のではなくて、定刻にもかかわらず半分も来てくださっている。

ありがたいですよね」 

つまり、来てくれたほうに目を向けたら、「ありがとう」です。

来ていないほうの半分に、「まだ来ないじゃないか」と不平不満を言うよりも、来ている人に感謝するほうがいいということです。

同じ現象でも、感謝ができる人とできない人がいます。 

私の話を聞いて、その主催者の方は、

「自分は正観さんのお話を何十回も聞いているのに、まだイライラしてしまう人間でした」とおっしゃいました。

それから、その人はまったくイライラしなくなったということです。

面白いことに、定刻に集まらなくてもイライラしなくなったら、その次の会からは、定刻に三分の二の人が集まるようになりました。

イライラしているときにはなかなか集まらなかったのに、イライラしなくなったら、集まりもよくなり、人数も増えているそうです。

地球と宇宙を味方につけるためには、 「自分の思いどおりの現象が100点満点になっていないじゃないか」と文句を言うのではなく、 

80点の現象があるのなら、その80点に、手を合わせて感謝をすること。

ある歌手が、コンサートの直前に客席を見て、空席があることに腹を立てて帰ったことがあったそうです。

当然、コンサートは中止 。3000人ほどの規模の会場で2500人ほど入っていたそうですから、充分にお客さんは集まっていたと思います。

ただ、空席があったからそれが気に入らないというので、来てくれた人に対して自分の腹立たしさをぶつけるのは、実は本人が考えている以上に損です。

そういうことをしていると、そのうち誰からも信用されなくなります。 

興行主から見ると、もうそんな危険のある人に、次からは頼まないようにしようと思うに違いありません。

そこに幸せを感じられるようになると、自分自身がラクで楽しい、ということです。

なおかつ、地球と宇宙が味方になってくれます。

<引用終了>

 

イライラしているときには、なかなか集まらなかったのに、

イライラしなくなったら、集まりもよくなり、人数も増えた。

これは神様が良くなさる方法です。

私達が気付けるように、気付くまで、色々手を変え品を変え。

そして一旦気付いてしまえば、もうそういった現象は無くなります。

今、何か問題を抱えている方がいらっしゃったら、(その問題を解決したいと思ったら)

少し考えて見てください。

自分は、その問題に対して不平不満に思っていないか?

イライラしていないか?

人のせいにしていないか?

 

そして、上記の正観さんのお話のように、発想を変えて、見方を変えて

今自分の目の前にある「もの」、そして「こと」に、感謝してみてはいかがでしょうか?

感謝することが出来さえすれば、もうそれは、問題では無くなります。

その問題が気付かせようとしてくれていた課題がクリアされたので、もうその問題は、目の前から無くなります。

  

問題が問題では無くなったからです。

それは、ブッダが2500年前に教えて下さった「般若心経」に書かれている、私たち人間が幸せになる方法の真髄です。

目の前にある問題は、私達に何か気付いて欲しいから、神様が起こして下さっています。

どんなことも、自分の周りに起こって来ることに不要なものはありません。

全て、必要であり、必然的に起こってきます。 

それも私達の魂の学びにとってベストなタイミングで起こって来るようになっています。

ですから、全てのもの、人に感謝なのですね。

「ありがとう」なのですね。

ありがとうの言霊は宇宙で一番、力のある言霊と言われています。

 



2021年12月24日金曜日

2556「青空ひろば」2021.12.24

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


525 2021.12.10 ~ 537 2021.12.22 

『今・ココ』の勉強にピッタリの禅の公案があるので紹介しておきましょう。碧巌録第53則の馬大師野鴨子(ばだいし やおうず」)という公案です。

 <第1幕>

馬祖禅師は弟子の百丈と草原を歩いていました。すると、野鴨(のがも)が驚いて、バタバタバタと飛び立ちました。

それを見て馬祖が百丈にたずねました。「これは何だ」

百丈は答えました。「野鴨です」

さらに馬祖がたずねました。「どこに行ったのか」

百丈は答えました。「飛んでいってしまいました」

すると、馬祖は百丈の鼻をつまんで、グイッとひねりました。

百丈は「イテテテッ」と悲鳴をあげました。

馬祖は言いました。「飛び去るもんか」

(解説)百丈の「飛んでいってしまいました」という解答が悪いわけじゃないのです。いのちは刻々流れて行き、決して留まることはないという、『いのちの流動性』については、百丈は分かっているのです。

しかし、百丈はまだ『いのちの不動性』については盲目であったのです。だから、馬祖はそのことを教えようとしました。

いのちを「転がるボールの例え」で説明してみましょう。

一つのボールが床の上を転がって行きます。このボールがあなたや私の『いのちの本体』の例えです。

このボールは絶えず前進して、決して留まることがありません。これが『いのちの流動性』の例えです。

このいのちのボールは常に床と一点だけで接しています。そして、この床との接点は固定していなくて、次々、変わってゆきます。

この床との接点が、私たちが体験する『今・ココ』です。

さて、その接点から床に垂直に直線を引くと、その線は、必ず球の中心を通ります。この球の中心は『いのちの意識の座』を例えています。私たちの『意識の中心』は常に、『今・ココ』の上にあって、その位置から外れず、動きません。いのちがいかに流れ流れても、いかに「飛んでいって」しまっても、意識の座は、刻々の『今・ココ』の上で不動なのです(「飛び去るもんか」)。これが『いのちの不動性』です。

馬祖は、百丈の鼻をつまんで、グイッとひねることによって、流れの中にいながら、常に不動であるところの『今・ココ』というものを体験させようとしたのです。そして、その試みはまんまと成功しました。この「イテテテッ」の瞬間に、百丈は不動の『今・ココ』を見出すことが出来ました。


<第2幕>

次の日は、馬祖の説法がある日で、弟子達が法堂に立ち並んで、馬祖の入場を待っていました。

師匠は説法の前に、まず仏様を礼拝することになっていて、演壇には礼拝用の茣蓙(ござ)が敷いてあります。

馬祖が入場してくると、百丈が弟子の列の中から出てきて、その茣蓙を、巻き上げてしまいました。

すると、馬祖は説法をしないで、そのまま自室に帰ってしまいました。そして、百丈を呼びました。

「わしは、まだ説法をせぬのに、お前はなぜ茣蓙を巻き上げたのか」

すると、百丈は言いました。「私は昨日、和尚様に鼻をひねられて痛かったです」

それに対して馬祖はたずねました。「君は昨日、どんなところに心を留めたのか」。

それに対して、百丈は「今日は鼻は痛くありません」と答えました。馬祖は百丈を褒めて言います。「君は、深く『今日のこと』を知ったなあ」

(解説)

『馬祖が入場してくると、百丈が弟子の列の中から出てきて、その茣蓙を巻き上げた』

これは分かりやすいですね。『私はもう流れでありながら不動であるといういのちの本質を悟ったので、師の説法は必要ないですよ』というジェスチャーですね。

「私は昨日、和尚様に鼻をひねられて痛かったです」

これは、『私はその時に悟ったのですよ』と言いたいわけですね。

「君は昨日、どんなところに心を留めたのか」

つまり、『君は昨日どんなことを悟ったのか』と聞いているのですが、その裏には、『君はその悟ったということに心を留めていないか、どんなにありがたい悟りであっても、そのそこ(もうすでにそれは流れさって過去なのに)に心を留めてしまったら、君は流れるいのちになりきれていない、刻々の『今・ココ』になりきれていないということになる』わけですから、もし、昨日はこんな体験をして、こんなことを悟りましたなどと得々と語りはじめたら、ぶっ叩いてやろうと、待ち構えているのです。

百丈は「今日は鼻は痛くありません」と答えました。

これは、『昨日は<イテテテッと悟った>『今・ココ』であり、今日は、<痛くない>という『今・ココ』にいます。どの『今・ココ』にもいのちの流動性を阻害されていませんし、常に刻々の『今・ココ』に不動なのです』と、表明しているのです。

馬祖は百丈を褒めて言います。「君は、深く『今日のこと』を知ったなあ」

この馬祖の『今日のこと』とは、つまり、私が言う『今・ココ』の秘密のことです。いのちの動・不動性を統合する『今・ココ』をよく理解したねと百丈の悟りを認めているのです。


<第3幕>

百丈は馬祖を礼拝して自室に帰り、ワンワン泣いていました(感激の涙です)。道友がそれに気づいてやってきて「どうしたんだ」とたずねます。百丈は「師匠に聞いてくれ」と言います。

そこで、この友は和尚のところに行って、「百丈が泣いています。どうして泣いているんですか」とたずねます。馬祖は「本人に尋ねよ」と言います。

友が百丈のもとに戻ってくると、百丈は大笑いしていました(解放の喜びです)。

友はたずねます。「君はさっきは泣いていたのに、今は大笑いしている、なぜなんだ」

百丈は答えます。「さっきは泣いていた。今は笑っているんだよ」

(解説)

ここのところも第2幕と同様ですね。

「さっきは泣いていた。今は笑っているんだよ」

これも、「昨日は痛かった、今日は痛くない」というのとおなじです。

要は、泣いている『今・ココ』、笑っている『今・ココ』しかないんです。それが分かれば、何も引きずることがないから、サバサバ、イキイキ、今とココで躍動して生きることができるのです。

木枯らしに身を縮め、春風に身を伸ばす ただ、それだけの事。


<第4幕>

百丈は、この後、馬祖のもとを離れ、武者修行の旅に出て、十年後、再び馬祖のもとに帰ってきました。

馬祖が自室で坐禅しているところに、百丈がやってきました。それを見て馬祖は払子(ほっす)を手に取って持ち上げました。

百丈はたずねます。「この用に<即する>のですか、この用に<離する>のですか」

馬祖は払子をもとの位置にもどします。しばらくして今度は馬祖がたずねます。「君は以後、どのように人のために尽くすつもりか」

百丈は馬祖の払子を持ち上げ、もとの位置に戻します。

すると、馬祖は、「カーッ」と、一喝します。その途端、百丈は大悟しました。

後年、百丈は弟子の黄檗にこの経験を語って、「わしはその時から三日間耳聾(耳が聞こえなくなって)になってしまったよ」と言ったそうです。

それを聞いて、黄檗は驚いて舌を出したそうです。

(解説)

「この用に<即する>のですか、この用に<離する>のですか」というのは、十年前の『今・ココ』の悟りの発展です。分析が精緻になっているというところはありますが、その路線を踏み外せないでいるという行き詰まりも感じられます。 

いのちのボールの例えにもどって、ボールと床との接点が、私たちが体験する『今・ココ』でしたね。いのちが正常に流れている時は、いのちのボールの全体重が、その『今・ココ』の接点にかかっています。これが、<即する>です。『用』とは、動作・作用のことで、この場合は、払子を取り上げて立てるという動作の刻々の『今・ココ』に、馬祖のいのちの全体重がかかって動作している。決してお留守になっていないということです。

そして、『用に<離する>』とは、どの『今・ココ』にも停滞しない、意識がこびり付いてしまわないということです。いのちは本来流れですからね。先ほどのボールの例で言うと、ボールの中心(意識の座)は、『今・ココ』と同一化していませんね。常に『今・ココ』と意識のセンターは等距離を保って離れています。だから、今の『今・ココ』から次の『今・ココ』へよどみなく移動できるのです。

百丈さんのこの『即して離する』いのちの体得という悟りは素晴らしいものなのですが、宗教家としては、まだ至らぬところがあるのです。

百丈さんの悟りは、スポーツ界、昔なら武道の世界、その他各界の一流人のためには、大変役に立つのです。この教えによって、成果を上げる人が続出するでしょう。つまり、百丈さんの『今・ココ』の悟りは、効果的に、効率的に行動する秘訣なのです。各界の一流の方は、この秘訣を手に入れて成功するでしょう。

しかし、『<即する>ことも、<離する>ことも』十分には出来ない普通の人にはどう指導するのでしょうか。

以前、禅の会で、『今・ココ』の話をしたとき、「先生の『今・ココ』の話を聞いて、『今・ココ』になりきって、そこから外れないように生きようと努力するとシンドクなってしまうんですけれど」とおっしゃった方がいました。そういう方がきっと多いと思うんです。私なんかもその口です。

ですから、百丈さんは宗教家としては、まだダメで、もう一段アップしなければならないと師匠の馬祖は見抜いたのです。それで、一喝となりました。


さあ、ここからの話は途方もなくなります。だから、禅の会で少しこの話をしたことがあるのですが、大半の方は『さっぱり分からん』という困った顔をされていました。

これまで、『今・ココ』にいのちの全部の体重をかけて、しかも、どの『今・ココ』にも執着しないという生き方を説明しました。

しかし、本当は『今・ココ』を見た人はいないし、聞いた人も、触れた人もいません。

どうしてかと言いますと、『今・ココ』を体験したと思った瞬間、もう次の『今・ココ』に移っています。目で見たとしても、対象物から出た光線が、目に入り、神経を経由して、頭脳に到り、モノとして認識されるまでには、時間がかかります。わずか数秒のことかも知れないけれど、『今・ココ』の光景として認識した時には、その光景はすでに過去に流れ去ったもの、もうナイモノなんです。ですから、本当の『今・ココ』を捉えた人は誰もいません。

ですから、私たちは、『今・ココ』を決してみたことがないし、これからの永久に見ることはありません。また、もちろんのこと、『今・ココ』を聞くこともできないのです。つまり、本当は私たちは、何も見ていないのだし、何も聞いていないし、何も行動していないのです。

でも、気が付いてみると、なんとなくつじつまがあった行動が出来ているというのも事実で、これは『心さん』が、ちゃんと必要に応じて、つじつまを合わせてくれているのです。

ここのところを、般若心経では、観音さまの境地として、『不得、不智』とあります。自分ではなにも手にしている必要はないし(才能も集中力もお金や人脈も)、なにも知っておく必要もないのです(知識も、経験も)。そんなものは、全部『心さん』のポケットに入っているんだから、「そこんとこ、よろしく」ということで、手元に道具は一切不要です。

そうなってはじめて、エリートだけでなく、万人のために手を差し伸べることが出来るのです。

白隠さんは、『三日どころか、それから永遠に耳が聾するんだ、目が盲するんだ』とおっしゃっています。

また、園梧禅師は、『百丈のマネをしたら、天下の師となれる。しかし、馬祖のマネをしたら、自救不了(じぐふりょう、自分も救えない)だ』とおしゃっています。つまり、百丈のように『今・ココ』の悟りを説けば、天下の一流人に賛同され、彼らから素晴らしい師として尊敬されるというのです。しかし、『不得、不智』で、『何も分からんチン』になった馬祖は、『自救不了』だというのです。

では、『自救不了』の典型は誰かと言うと、イエス様ですね。自分さえ救えなかった人ですね。こういう生き方が馬祖なら出来るわけです。百丈の教えに従うと、効率的な成功道を歩めます。馬祖に従うと、効率も、自他の区別もない、目も耳も届かない闇の道を歩くことになります。それが、本当の宗教家の生き方ですね。


過去なし、未来なし、世界なし

今なし、ココなし、自分なし、

さっぱり分からん、闇の道

何や知らんが、つじつまが合う

万事おさまる

万事ととのう

(完)



2021年12月23日木曜日

2555「現実を変える想いの力」2021.12.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月18日の記事を紹介します。


「現実を変える想いの力」


今日は、人間の持つ「想いの力」がどれほど強いものか、書きたいと思います。 

人間の「想い」は非常に強いものです。

・生きている間であれば、無意識のうちに「生霊(意識)」も飛ばせます。

・肉体に変化を生じさせることもできます。 

それでは、まず一例を、元春日大社の宮司 葉室 頼昭さんの、ご著書「心を癒し自然に生きる」よりご紹介します。 

葉室 頼昭さんは、日本での形成外科医の草分け的な存在でした。 

<引用開始>


あるとき一人のお母さんが小学校四、五年生の男の子を連れて来た。 

見たら、男の子のおでこに、ひどい傷あとが残っている。

診察をして、「心配いりません。 きれいになりますよ」と言いました。

それなのに、そのお母さんがその傷をいちいち説明するんですね。

上から一ミリぐらいのところが膨れているとか、そこから曲がって二、三ミリしたら赤くなっているとか、上から下まで全部説明して、「これがきれいになりますか」と聞かれるから、

今度は「きれ いになりません」と答えました。

「いま先生はきれいになると言われたではないですか」と言うのですが、お母さんがそんなに子どもの傷に心を集中していたら、絶対にきれいにならない。

またお母さんの 「念」が、傷を出しますよと言いました。

なぜお母さんがそこまで固執するのかというと、その子どもが赤ちゃんのとき、お母さんが持っていた剃刀か何かで、誤って赤ちゃんのおでこを切ってしまったんですね。

それを思い続けていままで来たから、その傷から目を離 すということができなかったのです。

「どうしたらきれいになりますか」と言うから、お母さんが傷のことをいっさい考えない、

忘れると言うのなら手術をしてもいいけれども、 

そうでなかったらきれいにならないから手術をしないと言いました。

そうしたら、そのお母さんが「今日からいっさい傷のことを言いません」と言うので、

手術をして、その傷はきれいに治りました。

それからも十日か半月に一回ずつ通院して、一年がたちました。

ところがなんと、前と同じ傷がおでこに現われてきたのです。

手術する前と全く同じ傷です。 へこみから赤みかみから、まったく同じ傷ができていた。

こちらが寒気がするほどです。 

「やっぱりお母さんは、その傷が忘れられなかったのです。

手術したおかげできれいになった。そこまではいいんです。

ところが、「先生、ちょっと待ってください。上から五ミリぐらいのちょっと赤いのは大丈夫ですか」と、すぐにまた言い出した。

それから一年間、来るたびに言い続けていました。

そして一年たったら、まったく同じ傷が現われてきたんです。

それは確かに、自分の手で手術をして、間違いなくそのときに全部取ってきれいになっ ています。でも、またその傷が出てきた。単に傷あとが目立ってきたということではない。 

前と同じ傷が出てきた。

いかに母親のこころが子どもに影響するかということを、目の当たりにさせられました。 

<引用元>

 

葉室 頼昭さんの手術は、神様とともに行っていました。

土台は、あらゆるものに対する「感謝の心」です。 

これにより、世界でも例をみないほど、後に残らない、みんなが幸せになる手術を行っていました。

この例は、母の強い思いが、子供に現実の傷跡として現れたという例です。

私たち人間の想いの力は強く、それは、強い想いであればあるほど、持続すればするほど、 

現実世界(3次元の世界)に現れやすくなります。

それは、私たち人間が神さまと同じ力を与えられているからです。


またアメリカの心理学研究チームが「典型的な二重人格の青年を発見した」と報告したことがあります。

「二重人格」とは、一人の人間に異なる二つの人格が生まれるケースです。

この青年の場合、通常のA人格のときはオレンジにアレルギーがあり、別のB人格になるとアレルギー症状がサッと消えるという現象がわかりました。

「病気」は「人格」と連動していて、「心が健康」であれば、「体も健康」だということが実験で証明されました。 

私たちが、考えたこと、意識したことは、そこにエネルギーが供給されることと同じことです。どんどん、エネルギーが流入し、現実化しやすくなります。 

五体不満足の著者「乙武洋匡」さんが、「じゃがいも」のような手と足しかなく生まれた時(著作の記述通り)、1ヶ月遅れの母子対面の時、病院の医師や看護婦、周りの人々が手足のない息子を見て、母が卒倒するのではないかと心配していましたが、お母さんは、開口一番「まあかわいい」と言ったそうです。

その後もお母さんは、彼の無いもの(手、足)に意識を向けることなく、彼の全部をひっくるめて愛してくれました。

母が、無いもの(手足)に、何時までも執着し、悔み意識を向け、落ち込んでいたら、きっと母子ともに暗い人生を歩んでいたかもしれません。 

子供が心配だ、心配だと、何時までも、取り越し苦労をし、心を乱していたら、そこにエネルギーが流入し、きっとそれが、現実化することでしょう。 

このことは6歳の神様トキ君も同じことを言っています。

意識の力は強大です。

これは私たちの意識の科学でもあるのですが、私たちが何か意識するだけで、そこにエネルギーが流れ込みます。 

(私たちは本来、神さまと同じ力を持っていますから、神さまと同じことが起こるのです。)

例えば、人の悪いところが気になり意識していると、本当は小さな小さなことなのに、過大に悪しきことが評価され、自分にはその悪い面しか見えなくなります。

相手も、そう思われていることに無意識に気付いていますから、自分のことを「悪」と観ている人の前では、 「悪」、もしくはさらにパワーをもらい、「極悪」としてふるまってしまうのです。

その極悪人と言う役目を、私たちの無意識から受け取ったからです。

ですから、悪しきことには意識を向けないことが大切なのです。

これを「悪」ではなく、どこか良いところを探し、相手の「良き心」を意識すれば、これと逆の現象が起こり、良き部分に、エネルギーが流れ込み、その人は、天使のような慈悲の人となることでしょう。

ですから、私たちが、どの部分に意識を向けているか?それはとても大切なことです。

 

私たちの心を

・いつも穏やかにしておくこと、

・感謝の気持ちで満たしておくこと。

人は、 

・自分のことを「良き人」と見てくれる人に対し、

・自分のことを信頼してくれる人に対し、

・自分に感謝してくれる人に対し、

どのような極悪人であろうと、善人にしか、なれなくなるのです。

これは、人に限ったことだけではありません。

神様が作ってくださった被造物、全てに当てはまることです。

どのような人、物、状況に対しても、病気、ケガもですね。。

感謝し、受容(受け入れる)していれば、悪しきことは、忘れ、良きことに意識を置いておけば、それだけで、神様は良きように計らってくださることでしょう。

 


2021年12月22日水曜日

2554「仕事をさせてあげて」2021.12.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月17日の記事を紹介します。


「仕事をさせてあげて」


表題の「仕事」とは、一般的に対価を得るために働く「仕事」の意味ではありません。

黄泉の国から、この3次元の地球に生まれてくる時に決めてきた今世、地上でやってみようと決めてきた目的(役割)のことです。

人それぞれ色んな目的を設定して生まれて来ています。

・病気で生まれ、肉体的、精神的な苦痛の中から直す喜びを経験してみたい

・親と子の葛藤を経験し、様々な感情を味わいたい

・看護や介護の仕事に就いて、人の役に立ってみたい

良きことに見える物もあれば、一見して避けて通りたいような目的もあります。

様々です。


また6歳の神様トキ君によれば、犬や猫にも神様の与えてくださった役割があり、

犬の役割

・人を護るため

・人に愛を与えるため

ネコの役割

・人間の邪気(悪い氣)を吸い取ってしまう

しっかりとこの仕事をさせてあげると、彼らにとってそれが一番の幸せであり、その結果、すぐに天国に行けたり、すぐに生まれ変われたりできるそうなのです。

 

動物への愛情の強い人からすれば、人間の邪気を吸わせるなんてかわいそう・・ 

そう思うかもしれません

ですが、それが神さまの与えてくださった彼らの役割、それを果たすことこそが、彼らの魂にとっては最上の喜びです。

でも、もし彼らのことを愛し、可愛そう・・そう思うのであれば、彼らにその役割をきっちりと果たせてあげたうえで人間である私たちの「愛」を沢山与えてあげてください。

 

何故ならこの地球は「感情の星」です。

感情の中の最上の形、「愛情」をふんだんに注いでください。

「愛」は魂を成長させます。

「愛」を沢山受ければ受けるほど、彼らの魂の進化のスピードが速まります。

彼ら動物たちも、人間と同じく進化の階段を上っている最中です。

その先には、魂の故郷、原初の神様がいらっしゃいます。

地上での仕事をし、疲れた魂を、人間の「愛」は、きっと癒してくれることでしょう。

 

レインボーチルドレンのそうた君(クラリオン星からの宇宙人)の場合は、クラリオン星では、文明も精神性も進み、安定的であるので、星の人々の話し合いで、生命体としての「感情」を捨てることにしたのだそうです。

激しく上下に揺れ動く「感情」を失った代わりに、文明や魂の進化は高い位置で安定するからです。その代わり魂進化の飛躍的なジャンプはないのだそうです。

そのため、一定期間の安定期を経験したら、地球など「感情」が存在する惑星に、「感情」とは何かを経験しに来るのだそうです。(現在のそうた君の役割がそうです)

そのため、そうた君は地球に魂の一部を転生させてきました。

地球での生活の中で経験する感情の一つ 「愛情」を、出身星であるクラリオン星に転送し続け、その「感情(愛)」を利用して、クラリオンの文明の発達に寄与しようとしているのだそうです。

それほど、この宇宙の中で地球は突出して「感情」を経験できる星であるようです。

ですから私たちが所属するこの宇宙において、「愛」は魂の進化、ジャンプにとって、非常に重要です。

地上に生まれてくる時、犬や猫さえも「役割」を与えられてきました。

人間の場合、魂の自由度が高いですから、地上での役割(仕事)、目的は自分で決められます。そして神様の承諾をもらって生まれてきました。

 

ですが、生きている間、その目的は私達人間には、本人や周りの人間にはわかりません。

分かりはしませんが、相手を束縛せず、暖かく見守ってあげる事で、魂は伸び伸びと自分の持ってきた目的を遂行することができます。

例えそれが、悪く見えるような現象でも・・・です。

 

一面しか見えない私達、その私たちが自分のエゴで、

・心配だ

・こうやった方がうまくいく、楽だ

などを押し付けることで、相手の魂は委縮してしまい、せっかく地球に生まれて来たのに、

その目的を果たすことができず死を迎えてしまうことでしょう。

そうならないためにも私たちは、例え血の繋がった家族であろうと、目の前のその人を許し、受け入れ見守ってあげることしかないようです。

それも大きな大きな「愛の目」を持って見守ってあげる事。

生まれて来た目的(仕事)をさせてあげる事。

 

生きている間に経験する喜怒哀楽は、激しく感情を揺さぶりますが、結局は「感謝の心」「愛」を学ぶための神様が作ってくださった仕組みです。

目の前の家族や友人たちの理不尽にも、自分勝手にも見える行動も、病気やケガも、彼らが仕事(生まれて来た目的)を果たしたいからです。

 

その仕事さえ果たせたら、彼らの今世の目的は達成され、魂としては幸せなのです。

逆のことを言えば、彼らの「心願」が成就さえすれば、目的は達成されたのですから、

彼らの人生の中に、艱難苦難の起こる必要性は、もうなくなります。

従ってそれらは起きないことでしょう。神様は無駄なことをしないからです。

そしてそのようなふるまいは、周りの私たちの感情も激しく揺さぶります。 

何故なら、それは私たちの心をも、立ち止まって変えて欲しいからです。 

神様はむごいことも、残酷なことも、決してなさいません。 

愛の心、感謝の心で、その現象が、私たちの心の何を変えて欲しくて、起こっているのか考えてみてください。

どうぞ、例え かわいそうに見えても、彼らの魂を自由にさせてあげてください、

自分のエゴを押し付けないでください。

心配しないでください。

指図しないでください。

その代わりに、目の前のその人を許し、受け入れ優しく見守ってあげてください。

大きな大きな「愛の目」を持って見守ってあげる事。

生まれて来た目的(仕事)をさせてあげる事。

 

犬や猫、人間。生きとし生ける生命体は、みな同じ仕組み、神さまの作ってくださった仕組みの上で生きています。

私たちの住むこの宇宙では愛と感謝、この2つより大切なものはありません。