2021年12月27日月曜日

2559「縄文回帰」2021.12.27

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月21日の記事を紹介します。


「縄文回帰」

日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とはなりえません。

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。 

そこで説かれることは、

・神々の恩寵は、人間の感謝の心を媒介として現れる

・神職など、職業的な立場の人を媒介とするのではなく

 人間が心を清め、神々と直接的に繋がることが大切 

など。


これらは、私たち一般人の、今までの常識とは少し異なっていることかもしれません。 

ですが、このことは古代から存在している由緒ある神社仏閣では、常識とされていた物のようです。 

私がこのことを、はっきりと知ったのは、春日大社の元宮司、さらに日本の形成外科医の草分け的な存在であった葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本からです。

  

巫女や神職など、人々と、神々の間に入り、仲介することを、職業として行い始めたのは、

多分、日本では大和朝廷設立 直前、つまり大陸からの好戦的な民族が日本全国を制圧し始める以前の、邪馬台国の時代。卑弥呼やその後継、トヨなどの時代からと思われます。

それ以前の日本は、平和で、神々と人々が直接繋がり、世界一、平和で豊かな時代と言われる縄文の時代でした。 

約1万5千年続いたと言われています。 

大陸から好戦的な民族、弥生族が来るまでは、争いもなく、所有の意識もなく上下の違いもなく、人々、一人一人が純粋な心を持ち、それゆえに、みんなが直接的に、神々と繋がれた時代でした。

アイヌの女性
  

もし、日本古来の神道というものがあるとするならば、 それは縄文時代に一般的だった 

・物の見方、

・考え方、

・生き方

そのものです。

そして、それはムー時代の生き方でもありました。 

私たち日本人は、縄文の古来より、ムーの生き方を大切に守ってきた民族と言われています。

そして、その精神と伝統は今でも息づいています。

文明の大転換点である今、西洋で始まった産業革命に端を発した利益追求主義、行きすぎた資本主義、骨までしゃぶり尽くす金融資本主義は終わろうとしています。

   

この終焉を迎えようとしている現在の文明では、人々は、ずっと真実から遠ざけられ、

常に不安の中に置かれ、自立した魂の働きが封印されて来ました。

常にお金や権力に頼ろうとし、常に力ある者、能力あるものに頼ろうとする依存、執着の状態に置かれたのです。 

それは、彼らが軽蔑の意味で使うゴエム(奴隷)と言われる状態です。 

この時代、その仕組みを お手本に、大小様々な、依存・執着と、それと一体となった支配

が、私たちを身近で取り巻いて来ました。 

この精神構造は宗教でもそうでした。 

イエスの生きた時代、イエスは、宗教など作りませんでした。

イエスの死後、国王をもしのぐ、強大な権力を握ろうとした者たちにより教会が作られ、戒律が制定され、宗教と言う組織が出来上がりました。

  

それは、人間の持つ、ピュアな信仰心とは、全くの別物であり、まさに人々を権威と恐怖で縛りつけ、他者(教会)に対する依存・執着状態に置き、

自分たちを、その対極となる支配する立場に置いたのです。

それが、今まで私たちが置かれていた精神構造でした。

本来は、イエスやブッダのように自立した自由闊達な魂の状態で、神仏に対するピュアな信仰心、先祖を大切に思う敬心、そして、生きている人々に対する、

・お互いさま

・お陰さま 

相手の個性、尊厳を大切に思う、温かな心、優しい心であったはずでした。 

ですが、この宇宙の大神様が作ってくださった人間の精神が、萎縮させられて来たのです。

「縄文回帰」が様々な所で叫ばれています。 

縄文回帰とは、この、依存と執着、そして支配の構造から、人間の精神を解放させ、縄文の時代のように人々が、一人一人、直接的に神々と繋がる時代を思い出そうと言う、大きな運動(ムーブメント)です。 

これは、ブッダグループが1,200年単位で、人類に対するアプローチをしている中で、現在、実際に行っているアプローチ方法です。 

 

このブログで何度もご紹介してます通り、ダライ・ラマ、そしてマザーテレサも同じことを仰っていますので、ブッダ・グループの計画を知り、そして協力なさっているのでしょう。

そして、その人類へのアプローチが目指すものは、一人一人の人間の 本当の幸せです。

私たち人間はしっかりと自分の足で、大地に立ち 

例え、貧しくとも、例え、病にあっても 

清らかな心で、天を仰ぎ 、神々に感謝し、そして微笑む時、 

本当の幸せをかみしめることができるのかも、しれません。