今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。
「509 2021.11.24 ~ 524 2021.12.09」
さて、1月の禅の会は16日だったのですが(2011年の文章です)、まさしくドンピシャの大寒波襲来でした。
天気予報では福岡でも40センチの積雪があるだろうと発表されていて、禅の会が果たしてやれるのか心配しましたが、予報は大外れで雪はまったく降らず、太陽さんさえ笑顔をのぞかせて下さって、交通機関の大きな乱れもなく、平常と変わらないほどの人数の参加者もあり盛会でした。
それでも、会が終わった途端に大雪が降り始めて、何だか不思議な感じがしました。
とにかく、この十数年間、何らかの事情で禅の会が開けなかったという月はなくて、これは、当たり前のようでいて、なかなかナイことなんじゃないかなあと思います。
というのは、会が無事開かれるというのは、かけ算的事象なのです。
たとえば、禅の会が開かれるために必要な条件をちょいと挙げてみますと、
(大敬さんが病気でない)×(大敬さんの身内に不幸事がない)×(大敬さんの職場に事件が起こらない)×(地震や台風などの自然災害がない)×(交通機関が事故でストップしない)×(紛争や戦争などの大事件がない)などですね。
このうち一つでも条件が欠けたら禅の会は出来ないわけですね。かけ算では、一つでもゼロの項が入っていると、他の項が大きい数字であっても、結局はゼロになるというのと同じことです。
さて、この禅の会では、先月の会で私が、『今・ココ』の話をしたらしくて(私はちっとも覚えていないのですが)、それがとてもよかった、役立ったとおっしゃる方が多くてうれしく思いながら当惑しました。
私はどんなことを言ったのかサッパリ覚えていなくて、これじゃあ困るので、一度『今・ココ』について、私自身があらためて勉強させて頂くことにしました。お付き合い下さればうれしいです。
私は、高校生時代に、学校にいる時に、突然疑問におそわれたことがあります。
『今、この瞬間に、私の家は存在しているんだろうか。私の父母は本当にいるんだろうか』と。
その疑問をずっと考え続けて、ついに『今、この瞬間に家があるか、父母が存在しているのか、それは確認不能である(観察しないのだから。もしテレビのライブ映像などで家を確認できたとしても、それは観察しない時にも家が存在するという証拠にはならないでしょう)。
しかし、一応アルと仮定して生活してきて、これまで矛盾が生じたことは一度もなかったわけだから、とりあえずアルとして生きてゆけばいいんだろう』
この結論が、日和見(ひよりみ)の妥協の産物で、もっと深く疑問を追求すべきであったのでしょうが、高校生の私にはそんな勇気はなかったのです。
いまなら、こう結論します。
『意識のサーチライトがただ今当たっているところ以外のモノは存在しない。その他のモノは全くの暗黒の中に存在を没してしまうんだ』と。
大変な割り切りですね。そう言い切れる自分が、自分で恐いくらいです。
ここのところを、道元禅師は、『現成公案(げんじょうこうあん)』の中で、『一方を証する(意識のサーチライトを当てること)時は、一方は暗し(他方は暗黒の中に沈んで存在を没してしまう)』と表現しておられます。
そうすると、新たに次の疑問が生じてきます。
たとえば、私が出勤する時、妻が見送ってくれたとします。私が勤務先で仕事をしている時、アルのは、私が今・ココで意識のサーチライトを当てているもの(仕事の内容)だけなのだから、家もナイし、妻もいません。
そうであるのに、私が電車に乗って帰ってくると、ちゃんと自宅はあって、妻が出迎えて「お帰り」と言ってくれます。
これは、実に不思議ですね。ナイはずのものが、意識のサーチライトの中にちゃんとつじつまがあって出現するのですから。
刻々、意識のサーチライトの方向がめまぐるしく転じてゆく、その視野(意識が関わる領域)の中に、次々、つじつまを合わせて、モノや事象を出現させているものはいったい何なんでしょうか。
これが、実は『心』なのです。心さんが意識のサーチライトが届く領域に、つじつまが合うモノや出来事を、自身のふところの中からホイホイ取り出して、光の領域の中にエイヤッと投入して、それらをあらしめているのです。そして、次の瞬間、意識のベクトルがそこから去ると、たちまちのうちに、それらを自身の中に回収します。
どうですか、『心さん』はすごい能力を持っているでしょう。あなたの人生のつじつまが合うというだけではありません。世界中のすべての人やモノを総合して、つじつまを合わせているのも『心さん』です。
あなたが光速ロケットに乗って、はるか宇宙の果てまで移動しても、『心さん』は、「負けました。もう種切れです。あなたの意識のサーチライトの領域に投影すべき内容物は私のポケットにはありません。降参!」なんていうことはありません。
どうですか、面白い理論でしょう。これが、実は仏教の唯識(ゆいしき)理論のとらえ方なのです。
私には、これが当を得ていると信じられますが、まあ、一般の人に、これを理解せよ、信じろという方が無理というものでしょう。ですから、無理強いはしません。
しかし、こういう『今・ココ』しかないという考え方をもとにして生きると、結構いい、楽しい生き方が出来るということがあるので、仮にそういうものだとして生きてみる、そして、その『今・ココのみ法』の有効性を確認してみるのも面白いと思います。
ある方が、不登校の息子さんのことで悩んでおられました。そして、知り合いの方の紹介で、禅の会に来られて相談されました。
そこで、私が「『今・ココ』しかないんですよ。今この瞬間に、あるのはあなたが現に体験しておられる、私と対面しているこの場面だけで、自宅だって、今ナイんだから、いわんや不登校の息子さんなんて宇宙中、どこを捜しても見当たらないんですよ」と言ってあげました。
すると、たちまちのうちに明るい顔になられて、「分かりました。楽になりました」とおっしゃいました。うれしいことです。息子さんの問題もすぐ解決されることでしょう。
和田重正先生の例を紹介しましょう。
先生は、高校の時、英語がとても苦手だったのです。どうしてかというと、単語が覚えられないのです。
なぜかというと、ある単語を覚えるでしょう。そして、次の単語に移ると、前の単語を忘れてしまうんじゃないかと気になってしょうがないのです。
だから、『今・ココ』の課題の単語に集中出来ないのです。だから、覚えるのに大変な時間がかかってしまうのです。さて、二つ目の単語をようやく覚えて、三つ目の単語に移ると、今度は一つ目と二つ目の単語両方を忘れてしまうんじゃないかと不安でしょうがないのです。そういうわけで、ちっとも『今・ココ』の作業に集中出来ないから、わずか十個ほどの単語を覚えるのに1時間もかかってしまうのだそうです。
ところが、ある時に、木の葉がハラハラと散るのを見て、『アッ、そうか。忘れればいいんだ』と悟ったのだそうです。
単語を一個覚えて、『ハイ、忘れたぞ』と宣言して次の単語に取り組む。そうしたら、『今・ココ』の課題に集中出来るようになって、途端に『秀才のようになって(ご自身のコトバ)』、東大に合格できたのです。
さて、この和田先生の体験を唯識の考え方で解釈すると、『忘れたらいい』というのは、『今・ココしか本当はないんだ』ということなんです。そして、忘れるということは、手放して『心さん』に委ねるということなんです。『心さん』には、必要なときに必要なモノなり事象を、ポケットから取り出して、あなたの前に投げ出してくれる、そういう能力を持っているわけですから、それを信じて、自身で単語を握っていないで、『心さん』に手渡したらいいのです。
以前の禅の会で、ある方が「先生はよく『今・ココ』に落ち着けばいいんですよ、とおっしゃいますが、私は『今・ココ』に意識を集めて、そこから外れないようにと努めると、何だかとっても息苦しくなってしまうのですけど」とおっしゃいました。
これは、私が言う『今・ココ』を誤解されているのです。
『今・ココ』は努力の問題ではなく、いのちの事実の事柄なのです。
いのちは事実として、『今・ココ』でしか存在していないというので、努力で『今・ココ』に成り切らねばならないというわけではないのです。
どこに行っても、いつになっても、人は『今・ココ』の上にいます。
宇宙ロケットに乗って、地球から遙かに離れた地点に到着したとしても、その人は間違いなく、『今・ココ』の上に乗っかっています。
タイムマシーンが完成して、過去や未来に行ったとしても、その人はそのそこで、『今・ココ』にいるはずですね。
私は若い頃、道を歩きながら、場所を移動しても、時が経過しても、『今・ココ』の上で不動であるという事実が不思議でしょうがなかったものです。
つまり、いのちにとっては、『今・ココ』に居るという事実だけは、永遠で不動のモノなのです。
そして、その永遠不動の『今・ココ』という中心軸がしっかり定まっているからこそ、いのちの車輪は激しく回転して流れてゆけるのです。
いのちが激しく流れれば流れるほど、『今・ココ』という不動の中心軸がハッキリし、不動の『今・ココ』という中心軸が揺るがないからこそ、いのちは激しく、自在に活動出来るのです。
そういう『今・ココ』にいるという、あなたのいのちの事実に目覚めて生きましょうね、と提案しているわけです。
『今・ココ』に意識を集める努力をしましょうと強いているわけではないのです。
とりあえずは、『今・ココ』しかないんだなあと信じて、過去のことにクヨクヨしたり、未来のことにイライラ、ビクビクしていると気づいたら、ハッと我に帰って、『さあ、今・ココ、今・ココだぞ』と意識するだけでいいのです。
必要であれば、『過去なし、未来なし、世界なし。あるのは今のみ、ココのみ、私のみ』と、呪文のように唱えられたらいいですね。(完)
「505 2021.11.20 ~ 508 2021.11.23 」
ある方の質問です。
「先生の禅の公案の解説を聞いていると、なんとなく分かったような気にはなるんですが、それは悟ったということではないですよね。
禅においては悟らねば意味がないと、ある本に書いてあったのですが、そうであるとすると、ここでこういう先生の解説を聞くということも無駄なことなんでしょうか」
私の答え、「悟りというものは、個人持ちのものではないのですよ。悟りというのは、「差取り」、つまり<自他の差(別)を取りさった>ということでしたね。
だから、世界に一人でも迷っている人がいたら、私は悟っていないんです、あなたもそうなんです。
しかし、世界に一人でも悟っている人がいたら、私も悟っているのだし、あなたもそうなんです。
ですから、個人持ちの悟りを得たとか、得ないとかいうことには何の意味もないんだから安心していいんですよ。
悟ってカラッと明るい人がいたら、それはあなたなんですからね。ここで、こうして偉そうな、何でも分かっているようにお話ししているのは大敬さんではなく、実はあなたなんですよ。あなたが、ここでこういう光景を作り出して、自身の悟りを、大敬さんの口を通して表現して楽しんでいらっしゃるのですよ。
さて、あなたは禅会に来られて、お話しを聞いておられるわけですが、それが楽しいですか、苦痛ですか」
「勿論、楽しくて、うれしくてしょうがないんです。だから、参加しているのです」
「じゃあ、それでいい。魂が喜んでいるんだから、それでいいんですよ。それ以上、何を求めますか。
私だって、禅の会で皆さんにお会い出来るということが、楽しくてしょうがないんです。月に1回、禅会に参加できるということがなければ、もう、とっくに心の病で倒れていたし、もうこの世にはいなかったでしょうね。
禅の会に関われるという喜びで、いのちのバランスをとって来られたのです。有難いことだと思っています。参加して下さる皆さんのおかげです。
私たちは、類魂といって、似たもの同士の『グループ魂』なのです。
何十回、何百回と申し合わせて地上世界に生まれてきて、先生役をしたり、今度はお世話役をしたりしながら、一緒に学び、魂を進化させてきたのです。
ある時は、悟った人の役、ある時は迷いの人の役と、役割と立場をチェンジしながら、歩んできたのです。これからも、きっとそうでしょう。来世でもまた、皆さんとお会いして楽しくやりましょう。今度は大敬が、縁の下のお世話役を、黙々と担当することになりそうですね。(完)
「501 2021.11.16 ~ 504 2021.11.19」
中学教頭であった時、進路指導部の依頼で書いた、「途方もない生き方」というタイトルの文章です。
『志望の確立』について書けと仰せつかったのだが難航した。
というのは、私自身が目標を決めてそれに向かってひたすら歩んで行くというような生き方が出来たためしがなく、脱線に次ぐ脱線人生、行き当たりばったりの人生を生きてきただけだからだ。
しかし、過去の足取りを振り返ってみると、意外とつじつまが合っている。
『ああ、あの時の、あの体験は実はこの時に生かすための伏線だったんだなあ』と気づくことが多い。
これまでの全ての体験(失敗も成功も)がムダではなかったと分かるようになり、自分のすべてを(過去のツラい体験も含めて)肯定出来るようになってきた。(次の日に続く)
私は、『思い通りの人生』を、生きることが出来ず、『思い外れっぱなしの人生』を生きることになったが、それは、『思い及ばぬ人生』であったし、また『思い以上の人生』でもあったんだなあとつくづく思う。
最近の私はさらに進んで、『途方もない人生』を目指してやろうと考えている。これが、これから始まる流動的で、不確実な未来に対処する、一番ふさわしい生き方ではないかと考えている。
これからやって来る波乱の時代、誰も私に『途(みち)』を指し示すことなんて出来はしない。また、進むべき『方(方角)』なんて、誰も示せない。
過去の自分がそうであったように、すべてのつじつまを見事に合わせてしまう自分のイノチの本能を信じて、目の前にやって来る課題を精一杯全力でやっていくだけだ。
道は外にあるのでなく、自分が誠実に自分を生き切ることが『道』なんだと思う。(完)