2022年4月30日土曜日

2683「死者と生者の仲良し時間」2022.4.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月22日の記事を紹介します。


「死者と生者の仲良し時間」


このブログは、元気はつらつの方へと言うよりは、 

どちらかと言えば悩みや苦しみの中で生きる人たち、

鬱々とした、生きづらさを感じながら生きる人たち向けに書いています。 

昔からの読者の方もいらっしゃれば、発する波動に呼ばれていらっしゃる方も居ます。

そのような中で、悩みの中から抜け出せない方に感じることは、

※共通の波動を感じるのですが。 

・憎しみの心を手放せばよいのに・・

・自分のことばかり考えていないで、 自分のことなどすっかり忘れ、身近な周りの人の

 本当の笑顔のために、がむしゃらに動いてみればよいのに・・ 

そんな風に思います。 

少しでもそうした途端、一気に自分が幸せになれると思うのです。

まさに日々の考え方、思考の癖を少し変えてみるだけです。

言うは易く行うは難し・・

ですが。 

さて、ここのブログを読んでくださっている皆さんの中にも、

お子様を早くに亡くされた親御さんが沢山いらっしゃいます。 

今日は「死者と生者の仲良し時間」ということで、

以前掲載した記事に加筆・修正してご紹介します。 

病気で早くに亡くなった、お子さんのお話です。 

「仲良し時間」とは、聖心女子大学教授でシスターでもある鈴木秀子さんの著書

「死にゆく者からの言葉」に出てくる言葉です。

彼女の「死者と生者の仲良し時間」の本の中に

「けんちゃんからの贈り物」という文章が書かれていますのでご紹介します。

<転載開始> 転載元 


けんちゃんは6歳で白血病でした。

ある日、お母さんの友人がお見舞にきて 

『死にゆく者からの言葉』 (鈴木秀子さんの著作) という本を渡してくれました。

お母さんは

「読んでいるうちに涙が止まらなくなり徹夜して読み上げた時、 

不思議な力で他人への不信感が払われ、人への信頼感が深まり、自分が変わったと強く感じ、

心の底から温かさがあふれてきたそうです。

人との繋がりというものを確信をもって感じ初めました。

そこでけんちゃんの担当の3人のお医者さんに、

この本を読んでもらいたいとの強い希望を持ちました。

こういう題名の本が医師たちに、どう受け取られるかという懸念もありましたが、 

それでも先生方にこの本を読んで下さいと手渡すことができました。

しかしどの先生も、その本については言及することはなく、

やっぱり読んでくださらなかったのかと、ちょっとがっかりした気持ちでいました。

そして、けんちゃんが亡くなり、遺体は夜の八時ごろ家に帰っていました。

誰も訪問する人はなかったのですが、夜10時すぎに

その3人のお医者さんがお悔やみに訪れてくださいました。

眠っているように横たわるけんちゃんの傍に、

3人の先生たちは黙って座ったまま、けんちゃんを見つめていました。

お母さんが、もう終電車の時間じゃないかしらと思った時、

一番若い先生が口を開いて話し始めたのです。

「僕とけんちゃんは仲良し時間を持ったんですよ」

「仲良し時間」とは、鈴木秀子著の「死にゆく者からの言葉」に出てくる言葉です。 

死期の近づいた病人が、その死の直前、急に元気を取り戻して、 

あたかも回復したように思われることがあります。

その間、病人はさりげないかたちで、言い残したり、したいと思ったことを

成し遂げたりするのです。 

世を去るにあたっての準備の時間、和解し、愛を分かち合う時間、

そうした死の前のひとときは、一部の医療関係者の間で、「仲良し時間」と呼ばれています。

亡くなる2週間前の出来事でしたが、

けんちゃんは、苦い薬を水で流し込んでいたところでした。 

どうしたわけか「けんちゃん、先生のど渇いているんだ」 

という言葉が、何気なくふと口をついて出ました。

けんちゃんは、水のまだいっぱい入ったコップを差し出し、無邪気そのものの顔で、

「先生、これ飲めば」といったんです。 

その時、けんちゃんに必要なのは、そのコップの水でした。 

でもけんちゃんは、それを僕にくれようとしたんです」

午前1時をまわっても、先生たちは帰りませんでした。 

そこは死者の家というより、まるで心と心が交わる、温かい場所に変わっていました。

そして二人目の先生も仲良し時間を持ったと話し始めました。 

「けんちゃんが亡くなる1週間前のことでしたが、お尻に太い注射をして、

「痛いよ、痛いよ」とけんちゃんが訴えるので

僕は思わず「ごめん、ごめん」といったんですね」

けんちゃんは笑顔を僕の方に向けて、無邪気で素直な声でこういったんです。

「いいよ、先生、許してあげるよ」

「それを聞いた瞬間、僕は全世界から許されたような気がしました、 

僕のいままでの人生の中でおかした過ちや愚かさや悲惨な罪でさえ、

すべて許されたおもいでした。」 


「そうだ。僕はこの世に生きていることを許されているんだ。 

自分の存在が許されるということが、どんなに大きな価値をもつことか、 

まざまざとわかったのです」

お母さんは「この先生も、けんちゃんが言ったことを文字通りに受けとめてくれたんだ。 

そして、けんちゃんを一人の病人としてではなく、一人の人間として

最後まで付き合ってくれたんだ」と感謝しました。

明け方近くになり、一番年輩の先生がふっと口を開きました。

亡くなる前日の午後でした。

けんちゃんに慰めや励ましの言葉は出ず、自分でも予期しないのに、 

「けんちゃん、先生疲れているんだ」と言ってしまったんです。

けんちゃんは大きな目を見開きましたが、

両目に光が差し込むのがありありと感じられました。

息がもう尽きそうなけんちゃんが、必死で体をずらして、長い時間をかけ、

ついにベッドの上端にたどりついて、両足と両腕を曲げ、小さく丸まっていました。

けんちゃんのあえいでいた息が静まると、にっこり笑って、

大きな目で広く空いたベッドを指し示して、 

「先生、ここに寝れば」とけんちゃんは声をかけてくれました。

 

息子を失った悲しみは深いものでしたが、その夫婦は3人の先生に見守られながら、 

この世での使命を果たし終えた息子が天に帰ったという、

不思議な慰めも感じていたのでした。

そうした慰めに気づくと、子供を失った寂しさよりも、自分たちにけんちゃんという子供が、

6年間も預けられたことへの有り難さが、両親の心にわき起こったのでした。

「一人息子をなくして悲しいし寂しいけど、もっと深いところで感謝と喜びを感じています。人生は長さだけでは計れないものですね。

けんちゃんは、親である私たちに、人間として一番素晴らしい贈り物をしてくれたと思うのです。最高の親孝行息子でした」

<転載終了>


私も若いころ母を亡くしました。がんでした。

病状が悪化し、私たち家族の住む中核都市の大きな病院に転院してきていましたので、

毎日顔を出すことができました。

そして亡くなる3日くらい前に行った時、不思議な光景を目にしたのです。

部屋全体が神々しい光に満たされているのです。

ベッドに座った母は微笑んでいました。それはまるで仏さまのよう。

きっとこれが、死を目前に控えた人の、あの世とこの世の繋がった瞬間かもしれません。

まさに、仲良し時間そのものでした。

きっと人間にはそんな瞬間が誰にでもあるのですね。

もうこの状態の時は、無意識の内に死の覚悟はできているのかもしれません。

残された家族は、どんな形でも良いので、何とか死から引き離そうと、 

沢山のチューブに繋がれるようなこともある延命措置を望むようですが、

もう向こうの世界と繋がっている本人は 

もしかしたらそれを望んでいない人も、多いかもしれません。

例え肉体は死しても、その精神や意識は永遠です。

また逢える日もあることでしょう。

私たち残されたものの願いではなく、これから死に向かおうとしている方々の

意思を尊重して差し上げたいものです。

数え切れないほどの死にゆく方々の臨終に立ち会った鈴木秀子さんが仰るには、

この状態の時には、既に死を受容したうえで、残された人々に感謝の気持ちを伝えたい

と願う方々が多いそうです。

そして静かに向こうの世界に帰りたいと思う方が多いそうなのです。

私たちは、死を意識して生きて行くことで、日々の暮らしの中で、身近な人々を、 

大切にできるのかもしれませんね。




2022年4月29日金曜日

2782「類は友を呼ぶ」2022.4.29

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月21日の記事を紹介します。


「類は友を呼ぶ」


今日のテーマ「類は友を呼ぶ」です。

類は友を呼ぶ・・とはどういうことでしょうか? 

趣味や嗜好が似通った者同士は仲良くなりやすい  

そんな意味ではないようです。 

自分が醸し出す雰囲気、オーラ つまり心の状態、自分が今発している振動数が、

同じパターンの人は、遠く離れていても、引き寄せられ 集められる。 

固まる、徒党を組む。友人関係になる。そんな意味です。

それは、自分の今のレベルや程度にちょうどお似合いの人が近寄って来るということです。

ということは、自分の周りの人々を見渡してみれば、今の自分の心の状態が分かります。 

要するに、今自分に近付いてきてる人は、自分の今のレベル・程度に

ちょうどお似合いの人が近寄って来るということ。 

ここで小林正観さんのお話をご紹介します。 

<引用開始> 転載元 


すべてが、あなたにちょうどいい

お釈迦(しゃか)さまの言葉に、次のようなものがあります。

すべてが、あなたにちょうどいい。

今のあなたに、今の夫がちょうどいい。

今のあなたに、今の妻がちょうどいい。

今のあなたに、今の親がちょうどいい。

今のあなたに、今の子どもがちょうどいい。

今のあなたに、今の兄弟がちょうどいい。

今のあなたに、今の友人がちょうどいい。

今のあなたに、今の仕事がちょうどいい。

死ぬ日も、あなたにちょうどいい。

すべてが、あなたにちょうどいい。

ビジネスマンの中には、会社や上司、取引先の「悪口」を言う人がいます。

「上司はこうで、取引先はこうで、どうしようもない。

どうしたら、自分の思いどおりになるのか?」

このような質問を受けたとき、私は、次のような話をします。

「あなたの言っていることは、きっと間違っていないのでしょう。


ですが、あなたはその会社からお給料をもらい、その集団の中で生かされているわけです。 

自分の人生を成り立たせてくれる会社、上司、取引先に対して 

平気で悪口や愚痴を言えるあなたは、どうしようもない会社、上司、取引先と同じレベルの

『どうしようもない社員』なのではないでしょうか?」

会社や、上司や、取引先が、仮に批判されてもしかたがない状況だったとしても、 

彼らを批判している「私」も、「同じレベル」であるような気がします。

夫婦関係や親子関係でも、 

・うちの夫(妻)は、こんなにつまらない人で……

・うちの親(子ども)は、本当にどうしようもなくて……

と文句や愚痴を言う人がいます。

しかし、愚痴を言うということは、「自分の価値をさらけ出している」ことと同じです。

「どうしようもない親、子、夫、妻」を持つにふさわしい、

「ちょうどいいあなた」がいるのですから。

 

人の悪口を言わない人には、「悪口を言わないあなた」にちょうどいい 

「悪口を言わない仲間」が集まってきます。

「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と言い続けていると、「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」仲間が集まってきます。

人の悪口ばかり言っている人には、「悪口を言うあなた」にちょうどいい「悪口を言う仲間」が集まってきます。

すべてが、あなたにちょうどいいのです。

 

「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言い続けると、そのとおりの人生になる

私は講演会などで、たびたび「五戒(ごかい)」について話をします。 

「五戒」とは……、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の5つです。 

「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を口にしないように戒(いまし)めようというのが、私の唱える「五戒」です。

何があっても、「五戒」を言わずに、口から出る言葉がすべて優しく、 

周囲の人を元気づけるものであれば、神様や宇宙を味方につけることができます。

 

たとえば、信号を渡ろうとして横断歩道にさしかかったとき、ちょうど信号が青に変わる。 

買い物をしてお金を支払うとき、小銭入れの1円玉の数がピッタリだった。 

といったことがいつも起きる。言い換えれば、「ツキを味方にできる」ようになります。

一方で、いつも「五戒」を口にしていると、神様や宇宙を敵にまわしてしまいます。 

なにげなく天気の不満を口に出している間は、否定的な論評をする癖がついたままです。 

どんなに一所懸命生きているつもりでも、神様や宇宙は味方になってくれません。

人間は、「自分の発した言葉」で自分の人生をつくっています。 

「私」の周囲の環境や、自分が立たされた状況は、 

すべて「自分の発した言葉」によって形成されていきます。

 

ですから、朝から晩まで、

「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と言い続けると、

この言葉をまた言いたくなる現象や出来事に囲まれます 

(私は、「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」の7つの言葉を、七福神ならぬ「祝福神(しゅくふくじん)」と呼んでいます)。

反対に、「五戒」を口にしていると、「ツイていない人生」を送ることになります。

以前、午前2時くらいに、私に電話をしてきた方がいます。 

この人は、次のようなことを言いました。

「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わないでいたのですが、

4ヵ月たっても、思いどおりの人生を送れない」


 

私は、電話口で、こう答えました。

「そういうのを、不平不満と言うのではありませんか?」

宇宙が自分の味方をしてくれない、自分の思いどおりの人生にならないと、嘆く人がいます。ですが、 

よく考えてみると、「電車に乗った」「電話をかけた」「お茶を飲んだ」「食事をした」といった日常の行動は、すべて自分の意思でそうしたものです。

だとしたら、多くのことが「思いどおりになっている」ではありませんか。

また、こんな話もあります。

東京に住む70代の女性が、50年間、ことあるごとに同じセリフを言い続けてきたそうです。

 

「20歳のときに会社を興してもダメで、 

40歳のときにボランティアグループをつくろうとしたときも人が集まらなかった。 

何かイベントをしようとしても、全部ダメだった。 

私の人生は、何をするにせよ、思いどおりにならなかった」

この女性は、「私の人生は思いどおりにならなかった」と思い違いをしています。 

「全部、思いどおりになっていた。全部、言ったとおりになっていた」ことに気がついていません。

自分の発した言葉が、人生をつくります。 

「思いどおりにならない」と言い続けたからこそ、たしかに「思いどおりにならない人生」を送ることになったわけです。

<引用終了>


自分の回りで起こって来ることは、全て自分の発した言葉から起こって来るのだそうです。

「自分の発する言葉」とは、普段私達が考えていること・・ということです。

つまり、私達の置かれた環境とは、私達の意識に丁度良いもので囲まれていると言うことです。

ですから、甲斐性の無い夫も、いつもガミガミと文句を言っている妻も、

  

言うことを聞かない反抗的な子供も、怒鳴ってばかりいる上司も、 

全ては、今の自分に丁度良いから、存在していると言うことです。

もし、幸せな、落ち着いた、思いやりのある環境の中で生きて行きたいなら・・・

「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」と

言い続けていると、

「嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる」

仲間が集まってきます。

正観さんは、このような言霊を使うことにより、自分自身がまとう波動と言うか、

オーラというか、雰囲気を変えて行くことで、

それにふさわしい(丁度良い)未来が作られていくと仰りたかったのだと思います。

貴方は普段、どのような言葉が多いですか?

不平・不満・愚痴・悪口・陰口・恨み・ねたみ・そねみ などの言葉ですか?

 

それとも

嬉しい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ツイてる などの言葉ですか?

その貴方の発した言葉は、 

・回りを元気にしますか、

・勇気づけますか、

・笑顔にしますか?

それとも、その言葉を聞いた、周りの人は、 

・暗く、重苦しい気持ちになりますか?



2022年4月28日木曜日

2681「地球の旅」2022.4.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月20日の「地球の旅」と

2022年04月23日の「信じて祈ること」の2つの記事を紹介します。


「地球の旅」


クラリオン星から転生してきた小学校4年生の久松奏拓(ひさまつ・そうた)君

彼は、生まれる前の記憶や、故郷の星クラリオン星のこと、神様のことなどを明確に覚えたまま、ここ地球に転生してきました。地球人の意識レベルを一気に上げるために最近はこういった星の子供たちが増えてきたようです。


生まれる前の記憶を持つ、沢山の子供たちと同様に彼もこう言います。 

・障害を持って生まれてくる。将来の障害を計画して生まれてくること

・それは凄い幸運なこと、喜ばしいこと

・障害を持って生まれてくる確率の方が大分低い

・障害という大変な経験をすることで、物事をいろんな角度から見れるようになったり

・他の人にはできない学びが一杯ある

・わざわざ、その苦労を分かって、それを魂的に楽しむために生まれて来た

この今世で経験すること、会う人、別れる人、

出来事は全て神様と生まれる前に計画してきたことなのだそうです。 

そしてこうも言います。

生まれる前に立ててきた計画は、生まれた後に、変えることはできない。

これがどういうことかと言えば、

例え自分で経験がしてみたくて立てた計画 

・病気、貧困

・裏切り

・窃盗、殺人

・成功、失敗

・出会い、別れ、死別 

このような経験が、辛くて、苦しくて、、やっぱり計画を変更したい・・ 

そう思っても途中で変更することはできない。投げ出すことはできない。

そういった意味になります。

肉体ではなく、私たちの魂は、永遠に存在する生命体であります。 

この魂にとっては、

・生きるも、死ぬも

・殺すも、殺されるも 

人間が思うほど、大きな出来事ではないようです。 

魂にとって死はないのですから、一つの経験にしか過ぎないということです。 

そのことによって、魂が曇ることもないし傷つくこともない。 

だから、魂は、いろんな体験をしてみたいと思うようです。 

その行為を神様も、良いとか悪いとか、決してジャッジしません。

このことは、今生まれてきている沢山の

高い意識を持ったまま生まれて来ている子供たち共通の認識のようです。 

魂にとっては、時間と言う概念さえもありませんから

長い期間とか、短い期間と言うことさえありません。 

源信が『往生要集』の中で紹介した地獄のありさまも、

魂にとっては、肉体があった時の延長の一つであり、 

意識がまだ肉体に縛られたまま、信念体系領域に縛られている間に

死後、経験する一時の出来事であるのでしょう。 

魂が肉体を脱ぐことで、だんだんと肉体に付随していた

感情や、信念となってしまった意識が薄れるに従って、

徐々に魂としての本来の状態に戻り、 

どんな出来事も、どんな大きな感情の波も 魂を傷つけることはできない。。

単に魂にとって、未知の領域を経験しただけ。。 

そう気づいてくるのでしょう。 

私たちが、今経験している出来事は、 

色んな感情を伴い、私たちに、まるで襲い掛かってくるかのようです。 

それは、苦しかったり、辛かったり、悲しかったりするかもしれません。 

ですが、生きている間は逃げることはできません。

計画を変更することはできません。 

今感じている感情こそ、

私たちの本来の姿、魂が、経験して見たくて、

その出来事を、自分の人生のタイムラインに埋め込んできた出来事です。 

そこには、良いこととか、悪いこととかの区別はありません。 

ただ辛く苦しい経験からは、より大きな果実が実ります。 

魂の飛躍的な向上が見込まれます。

何も辛く苦しいことの起こらない、単に平和で、楽しいだけの人生からは、

魂にとっては、あまり身になる経験は得ることができません。

ある程度、進化した魂にしか、辛く苦しい経験は与えられません。

今苦しい経験をなさっている方も、どうぞ勇気を持ってください。

神さまに見込まれたのですから。 

そしてその辛く苦しい経験こそが、私たちの魂を高みに連れて行ってくれるものです。 

泣いたり笑ったり、苦しんだり楽しんだりしながら、

この宇宙で、唯一感情を味わうことのできる

地球の旅を楽しみたいものですね。

 



「信じて祈ること」


今日はまず、斎藤一人さんの次の言葉をご紹介します。

<引用開始>

 

もし身近な人が苦しんでいるとしても過剰に心配しなくて大丈夫。 

それよりも信じてあげること。 

「今、神様の愛によって、全てがうまく行っています」と、 

祈ってあげると良いですね。 

祈りっていうのは愛だから。 

<引用終了>

 

私たちは誰もが、神様の分け御霊を頂いた生命体です。

全ての生命体には神様の与えてくださった役割として、 

・他の役に立つこと

・他と調和して

・宇宙の生成発展に寄与して、それを維持すること

と言う役割があります。

その大きな役割の中で、生命の進化の過程で、今人間として生まれて来て

動植物含め、全生命体の調和の調整という役割が与えられています。 

そして自らの魂も進化させるために、この3次元地球に肉体を頂いて、今生きています。 

その目的を果たすために、いろいろな舞台が用意されています。

それは、一人一人全部違います。 

交わる部分もあります。 

深く交わる部分は、家族や恋人、友人などの役回りかもしれません。 

ですが、私たちは、他の誰かの人生に決して介入することはできません。

例え親子、家族であっても・・

人それぞれの魂の目的が違いますし、その方法論も違います。 

「良かれ」と思っても、決して自分の思い通りに人を動かすことはできません。 

でも心配することはありません。 

全ての人は、それぞれが、神様と約束し、この地上に降りて来ました。

  

私たちがそうであるように、その人も、常に神様に守られています。 

人間の情の部分からすれば、 

親なんだから・・・

家族なんだから・・・ 

と、どうしても、自分の価値観で口酸っぱくとも、アドバイスしたくなりますし、

思いが伝わらなければ、怒ったりもしたくなります。

ましては、生死が関わるとなれば、なおさらです。

ですが、たとえ家族であろうと、

その魂の目的や、魂の欲求を無理やり変えることはできません。 

別個の魂だからです。 

彼らは彼らなりに、今回の人間の人生をかけて、、この方法ではうまくいかない。 

そんな学びを一所懸命、苦しみ、悲しみながら、命がけで学んでいる最中かもしれません。

神さまの目から見たら、肉体の生死はあまり関係ないようです。 

永遠の魂の方を見ているからです。 

必要があれば、今回の人生の教訓を

直ぐに生まれ変わって、次の人生のステップに生かしていくことでしょう。 

その時は、もう、親子関係などなく、赤の他人としての人生を歩むかもしれません。

先ほどご紹介した一人さんの言葉には、このような意味があります。

 

感情は、生きて肉体を持つ間にしか生まれません。

 

私達今生きている人間にとっては少し薄情(情が足りない)に思えるかもしれませんが、 

きっと、一人さんの仰っていることは真実だと思います。 

情の目で見れば「かわいそう」な出来事かもしれませんが 彼らの魂は、その過程を楽しんでいるかもしれません。 

何者も、どんなことをしても魂に傷をつけることはできないのですから。 

一人さんの言うように、それよりも信じてあげること。

「今、神様の愛によって、全てがうまく行っています」と祈ってあげると。 

きっとこちらの方が魂的には本質的で良いことに思います。 

彼らが計画してきた、この地上での苦しい、悲しい経験が、 

その目的を達成することで役に立つのであれば、 

周りの親しい人々は、信じて祈ってあげる事。 

彼らの心願が成就すること。 

を祈ってあげることが本当の愛かもしれません。 

晴れて彼らの心願が成就した時、その魂の目的は達成されたのですから、 

その手段だった、彼らの悲しみ、苦しみも、記憶の遥か彼方に消えてなくなってしまうことでしょう。

  

その時こそ、生まれて来た時に持っていた、本来の魂の輝き、神々の光が現れてくる時です。




2022年4月27日水曜日

2680「子供が教えてくれた」2022.4.27

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月19日の記事を紹介します。


「子供が教えてくれた」


今日のお話は、以前ご紹介したこともありますが、最近読者登録くださった皆さんの中にも、

同じようなことで苦しんだり、悩んでいらっしゃる方がいる様でしたので加筆して掲載します。

小林正観さんが、悟った瞬間と言っても良いお話かもしれません。

日常の何気ない生活の中や、絶望のさ中と思われる時に、神様の導きが行われることがよくあります。

神様の奇跡は、決してサーカスのように鳴り物入りで、耳目を集め起きることではないと思います。日常の何気ない生活の中にこそ、神様の様々な奇跡が行われています。

正観さんは、ブッダや、空海の弟子の時もあったそうです。


<引用開始>


30歳のとき結婚しました。結婚後3年間は子供ができませんでした。

33歳のとき、子供を授かりました。なかなかできなかった子供なので、よろこびの「慶」を命名しようと心待ちに待っていました。

7月14日(パリ祭の日)、その子が生まれました。 知恵遅れの障害児でした。

 別室に呼ばれて、私は医師からこのように宣告されることになります。

「この子は先天的な障害児です。手術によっても、薬によっても、リハビリによっても治ることはありません。この子は生まれなかったものと思ってください」・・・。

目の前が真っ白になりました。  

「目の前が真っ暗になる」という表現はよく使われますが、実際に体験した者の立場で言うと、真っ黒になるのではなく、真っ白になるようです。


真っ白になった風景が徐々に薄れていき、目の前に再びその宣告をした医師が見えたときは、その医師を含む部屋中の風景がモノクロになっていました。

白黒だけのグラデーションの世界です。 

それから半年間、私は色の付いていないモノクロの風景を見ることになりました。 

一番困ったのは、天気がわからないことでした。

窓の外を眺めても、晴れているのか(空が青色なのか)、曇りなのか、雨なのか、見ただけではわからないのです。

季節感もなくなり、花の色、緑の色、木の肌の色、そして人の顔色なども全くわかりません。

半年ほどたった1月16日は休刊日でしたので、私は15日に届いた膨大な付録の部分を読んでいたのです。その記事の一つに、このようなものがありました。

── 新生児の600人に1人は、障害を持つ子供が生まれる。

あなた方も20歳になって、将来結婚をするであろうから、その生まれる子供に障害児が生まれてくる可能性もある。

そういうこともあるのだ、ということを知っておきなさい── 

というようなとても短いコラムでした。

このコラムを真剣に受け止めた人は少なかったと思います。

ただ、私にとっては、この小さなコラムが救いでした。こう思ったのです。

「慶子ちゃん、うちに生まれてきてよかったね。

600人に1人、障害児として生まれてくるのであれば、

慶子ちゃんは、どこかの家を選んで必ず生まれなければならなかった。

そのときに、小林家の両親を選んだというのは、ものすごく良い選択をしたと思う。

私は障害がある子をいじめたり差別をしたりはしないし、私の妻もやさしい人だから、いじめたり差別をしたりはしない。

慶子ちゃんは、そういう両親を選んで生まれてきたんだね」

とそう思った瞬間に、半年前に失っていた「色」が戻りました。 

風景に色が付いたのです。

瞬間の出来事でした。 

半年間、私は苦しんでいました。悩んでいました。

なぜなら、生まれた子供を受け入れることができなかったからです。

しかし、そのとき、目の前に乗り越えるべき大きな障害や、障壁が立ちふさがっていると思っていたものが、実は 幻 であったということに気が付いたのでした。

私自身が障害や障壁だと思っていた大きなものは、私の認識だけの問題 だったのです。


私が「慶子ちゃん、よかったね」と思えた瞬間に、その問題は消滅していました。

努力や苦労をして乗り越えたのではなく、乗り越えなければならないと思っていた障害や障壁が、その1月16日の瞬間に消滅したのです。 

乗り越えたのではありません。乗り越える必要がない状態になったのでした。

生まれてからわずか半年後に、この慶子は私に大きなことを教えてくれました。

悩み・苦しみというのは、実はその目の前の現象を否定し、受け入れないところから生じているのだということを。

私たちが目の前の現象について悩んだり、苦しんだりしているときは、

それを受け入れていないということなのです。

否定をしているということにほかなりません。

<引用終了>

 

小林正観さんは、この障害を持つお嬢さんの誕生によって、大きな気付きを受け取りました。

まるで神様からの贈り物ですね。。 

ですが正観さんでさえ、その悟りまでに半年を要しました。

 

苦しみの原因は、それを受け入れていないと言う事。

受入さえすれば、一瞬でそれは苦しみではなくなると言う事

これこそが、ブッダの説いた「般若心経」の真髄です。

悩み、苦しみの種に見えた現実を 

・受け入れた瞬間、

・感謝できた瞬間

それは、恵みの種に変わったのでした。 

この気づきによって、悟りによって、どれだけ多くの方が、正観さんの著作や、講演を通じ

救われたことでしょうか? 

慶子ちゃんの誕生によって、絶望の淵にまで落とされていた正観さん、そして半年後の悟り、

そしてそれが開花して、何十万人もの多くの人の心の救いに繋がりました。

それは、全て慶子ちゃんの誕生から始まりました。 

慶子ちゃんが生まれなければ、

後に、これほどまでに多くの人の心が救われることはなかったのです。

 


2022年4月26日火曜日

2679「青空ひろば」2022.4.26

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


637 2022.04.10 

私が私であること それは何と素晴らしいことでしょう

あなたがあなたであること それは何と素晴らしいことでしょう

そして世界が世界であること それは何と美しいことでしょう


636 2022.04.09 

<大乗の坐禅とは>

「大乗の坐禅」は、ただ「坐禅という形」を信じて坐るのです。

この坐禅は、5千年ほど前から、実践されてきたということが、その時代の石像や、岩に刻まれた絵図から分かるそうです。

なぜ、坐禅がそんな長い年月の間、連綿と組まれ続けてきたのでしょう。

それはやはり、このポーズをとると、なぜか

「心が穏やかになって安心でき」、

「疲労が回復し」、

「病気が治り」、

「人との調和がよくなり」、

「想いが叶いやすくなる」

ということを、古代の人が本能的に知ってやり始め、それが伝承されてきたのでしょう。


635 2022.04.08

私は、対症療法のような指導はせずに、まずは参加して下さっている人たちがホッと安心し、温まって、身心がゆるくなるような「温かい坐禅」や「心をゆるめるお話し」が出来たらいいなあと思っています。

そうすれば、その人の本来の根源生命力(元気)が妨害されずに、自然に湧き出してくるので、あとは、その人自身の本来の力で、どんな問題でも、たくましくクリアしてゆけるようになるからです。坐禅会運動に参加して下さっている皆さんも、やって来る方をそのように導いてあげてください。


631 2022.04.03 ~634 2022.04.07

ファン・マトゥス(メキシコの呪術師)の弟子カスタネダの体験

カスタネダは、師に<世界を止めよ>という課題を与えられ、荒野に向かわせられた。

途方にくれ、疲れ果て、ついに大地に横たわった。甲虫がフンの玉を転がしているのが眼に入って、それをながめていた。

突然あたりがシーンと静まりかえり、自分の左側に何かが忍び寄ってきた。それが「死の影」であると知り、彼は震え上がった。

その時、突然、この甲虫と自分が、結局なんの違いもないのだ。甲虫と自分が平等のいのちだったんだと気づいた。

「甲虫と私は対等だった。どちらかがより勝れているなどということはなかった。私たちの死が、私たちを対等にしたのだ」

その興奮と喜びのあまり、彼はすすり泣きをはじめた。

「師は正しかった。私はもっとも神秘的な世界に住んでおり、ほかの誰もと同じように、私はもっとも神秘的な存在であり、しかも甲虫より重要な存在などではなかった!」

すると、目の前に何かがいる。やがて、それがコヨーテであることが分かった。追っ払っても近づき、やがて横に座った。

カスタネダはなぜか会話出来るように感じて、意識レベルで語りかけた。

「元気かい、コヨーテ君」、「元気だよ。君は?」

カスタネダは、コヨーテからコトバがかえってきたのでびっくりした。

「なんで驚いているの?」コヨーテはたずねた。

また、「君はそこで何をしているの?」とたずねた。

彼は「師匠に<世界を止める>修行をして来いと言われたのさ」と答えた。

コヨーテは、「それは素晴らしい!」と言った。

やがて、そのコヨーテの目が彼を引き込んでゆくように感じ、コヨーテが虹色に変身し、流動的で、液状で、まぶしいほどの輝きを放つ存在に変わっていった。

カスタネダはしびれたようになって、まったく動けず、その輝く存在が自分に触れ、包みこんでくれ、抱きしめてくれ、その温かみを感じて、無上の幸福感に満たされた。

ふと気づくと、太陽は地平線に沈んでいこうとしていた。その太陽をながめていると、突然、師が言っていた<世界のひも>が見えた。世界中のすべてのものをつなぎ、結び付けている無数の蛍光色のひもが知覚できたのだ。


(ファン・マトゥスが弟子のカスタネダに向かって語る)

「人が世界はこういうものだぞと、お前に教えてきたのさ、わかるか?人はわしらが生まれたときから、世界はこういうものだと言い続ける。だから自然に、教えられた世界以外の世界を見ようなんぞという選択の余地はなくなっちまうんだ」

「きのう、世界は呪術師がお前に教えたような世界になったんだ。

その世界じゃ、コヨーテはしゃべるし、シカもしゃべる。いつかお前に話してやったようにさ。それにガラガラヘビも木も、いのちあるものはみんなだ。

だが、わしがお前に学んでほしいのは<見る>ってことだ。

今お前は二つの世界の中間にいるんだ。

きのう、お前はコヨーテに話しかけられたと信じとった。<見る>ことのない呪術師なら、同じように信じるだろう。

だが、<見る者>は、それが呪術師の世界に釘付けにされちまうことだって知っとる。

それと同じで、コヨーテがしゃべったと信じないと、普通の人間の世界に釘付けされちまうのだ」

「つまり、ふつうの人間の世界も、呪術師の世界も、現実じゃないということかい?」

「両方とも現実の世界だ。どっちもお前に働きかけることができる。たとえばな、お前が知りたいことはなんでも、あのコヨーテに聞くことが出来たはずだ。そうしたら、そいつは答えないわけにはいかなかっただろうよ」

動物や植物がしゃべったり、世界をつなぐヒモが見えたり、操れたりする世界が「呪術師の世界」です。カスタネダは、初めてそんな次元の世界(エネルギー次元の世界)に入れたのです。<(私たちが現実だと思い込んでいる)世界を止めた>からです。

この「私たちが釘付けされている世界」では、動植物は語りませんし、世界は個物の集合体で、それらを結ぶ無数のヒモなんて存在しません。

しかし、その「現実世界」に意識が固着している限り、心のエネルギーを駆使して、こうしたいという思いを形の世界に実現してゆくことは困難です。

「呪術師の世界」は、「エネルギー次元の世界」です。その世界では、すべてのものが語っており、その情報を入手して活用することも出来るし、ヒモをたぐり寄せて、必要なモノを手に入れることもできます。

しかし、そういう世界に釘付けになって、私たちが普通に生きている世界を無視するようになると、結局はルール違反だ、暴走族だと、罰せられる時がきます。

「現実世界」に生きる時は、そこに全体重をあずけて生き、「呪術師の(エネルギー次元の)世界」にいる時も、そこに全力で生きながら、しかも、どの世界からも一定の距離離れていて、決してどの世界とも固着してしまわないという生き方が出来てこそ、それが本当の<見る者>なのです。


629 2022.04.01~630 2022.04.02 

私たちそれぞれが、この地上世界に生まれたのには、やはり深い意味と意義があるのだ。

ジグソーパズルで喩えると、それぞれの人が、人類全体の進化達成のためには、どうしても欠かすことができない、貴重な「ワンピース」なのだ。

どの「ワンピース」が欠けても、「人類進化達成図」は完成しない。

どの「ワンピース」の進化過程が遅くなっても、「人類進化達成図」は、まだ完成ではないのだ。だから、自分ひとりが解脱すればいいということにはならない。

だから、人類全員が乗り込んでも、まだ空席が余るほどあるというほどの「大きな乗り物(大乗)」に、みんなで乗り込んでゴールに向かわねばならないのだ(動物も植物も自然環境もみんな乗せて)。

そのためには、私たちは菩薩になって、何度も地上世界に帰ってきて、すべての「ワンピース」を、この「大きな乗り物」に回収し尽くすまで活動を続けてゆかねばならないというのが「大乗」の教えなのだ。


628 2022.03.31 

「大乗の悟り」とは、すべての人が、こうでしかあり得ないという「絶妙」のあり方をして生きており、それぞれがそのままでOKだったんだと気づく、すべての人を受容抱擁する悟りなのだ。


627 2022.03.30 

大きなものに身を任せ、フワフワ浮かんで運ばれて

気づいてみれば、幸(さち)の国、ああ、神流楽(かんながら)、神流楽(かんながら)


626 2022.03.28 

私たちは他の生物のいのちを奪って生きている。だからいつの日か、あなたも私も、我がいのちを、我が血や肉を、他の生物や大地自然に差し出す、お返しするという日が必ずやってくる。いのちの平等性と尊厳を受け入れるということは、自分も最後はそうなるのだという運命をしっかり受け入れるということだ。


625 2022.03.27 

自分だけが特別だと思えば、世界や他人と切り離された、ちっぽけな自分でしか生きられなくなる。

イヌもネコも、トンボもアリも私同様、平等で、尊い、尊い、いのちなんだと、頭ではなく、身体全体で納得できれば、そこから世界全体、すべてのいのちたちと連帯した素晴らしい人生が始まる。「いのちの平等性」は、きれいごとのスローガンではない。本気の覚悟で受け入れなければならない真理だ。


621 2022.03.23 ~624 2022.03.26 

ファン・マトゥス(メキシコの呪術師)の名言(1)

「お前の連続性(決められた時間に決められた順序で行動してゆくような人生態度)は、お前を幸福にも、力強くもしない」


ファン・マトゥス(メキシコの呪術師)の名言(2)

過去の履歴がお前を縛って自由に行動することを妨げるんだ。いざ決断の時が来たら履歴を捨ててみよ。なにもかも不確実だったら、永久につま先で立っているように、いつでも油断せずにいるさ。わしらは何でも知っているというようにふるまうよりは、どのヤブにウサギが隠れているか知らないでワクワク、ドキドキしているほうがずっと素晴らしい人生さ。


ファン・マトゥス(メキシコの呪術師)の名言(3)

「死」はいつもわしらの左側、腕を伸ばせば届くところにいる。そして、「死」は一番頼りになる友人なのさ。イライラする時、つらい時、怒りがいつまでも去ってくれない時など、「死」の相談すればいい。きっといい対処法を教えてくれるだろう。


ファン・マトゥス(メキシコの呪術師)の名言(4)

それが自分の最後の戦いだと知っている時の行為は力強い。自分がしていることが、地上での最後の戦いになるかも知れないと充分承知してやると、そこには焼き尽くすほどの幸福感が届く。


2022年4月25日月曜日

2678「何に感謝するのか」2022.4.25

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月18日の記事を紹介します。


「何に感謝するのか」


私たちは黄泉の国から来て、この現世(うつしよ)での計画や目的が達成されれば、

再び黄泉の国へと帰っていきます。 

神々の世界は黄泉の国。

黄泉の国は主に国津神が統括しています。 

黄泉の国と現世と、循環しながら行き来を繰り返します。 

ですから、私たち人間から見た「死」は、

決して悲しいものではなく、循環の過程でしかありません。

私たちの魂は永遠に存在すると同時に黄泉の国、そして現世にも存在しますから、 

愛で結ばれた魂にとって永遠の別れはありません。

必ず再び出会います。 

それでは今日は「何に感謝するのか」というお話です。 

斎藤一人さんもくどいほど仰っていますが、魂的な視野からいうと、

自分に起きるトラブルや問題は

「自分の感謝のなさ」を教えてくれるものとして出てきています。。。

そうおっしゃっています。 

また神道的には、私たちは「感謝の心」を学ぶために生まれたのだとも言われます。

何故かと言えば、私たちは魂を、進化させ輝かせ、神々に近づこうと、

進化の旅を永遠に続けていますが、

そのために、人生のタイムラインに沢山の仕掛けイベントを置いておきます。 

それらは、喜怒哀楽、激しく感情を揺さぶりますが、

結局は「感謝の心」を学ぶための仕組みです。 

逆のことを言えば、「感謝の心」を得てしまえば、目的は達成されたのですから、 

人生の中に、艱難苦難の起こる必要性は、もうなくなります。

従ってそれらは起きないことでしょう。

神様は無駄なことをしないからです。

では、そのような観点から

私たち人間の、全ての悩み苦しみに対応できる、共通の解決方法についてのお話です。

神様や自然界、宇宙からのサポートをふんだんに得るためには 

「感謝」が大切なことなのですが、その具体的な方法を、別の角度からご紹介します。

小林正観さんの著作からです。

<転載開始> 転載元


講演会が終わって、初めて二次会に来たという方が私の右隣に座りました。

そして「質問していいですか?」と私に声をかけてきました。

「実は、今日のお話のように自分はたくさんの幸せを感じ、とても恵まれていて、 

悩み・苦しみがないのですが、一つだけどうしても超えられない悩みがあります。」 

ということでした。

「どんなことですか?」

「実は結婚して十年経つのですけれど、子供ができません。

いろいろなことをしているのですが、どうしても子供ができないのです。 

それだけが悩みで、ずーっと悩んで苦しんでいます。

というお話でした。

「そうですか。結婚して十年経って、 子供がほしいを思っているということは、

ご主人がとてもいい人で、優しい人なんですよね?」 

というふうに問いかけました。


「ほんとうにそうです。とても優しくて、いい夫です」と彼女は答えました。

「舅姑との関係が悪くて、頭にきて腹を立てるような日々だったら、 

多分、その家の子供が欲しいとは思わないでしょうから、

舅姑との関係のいいのでしょうか?」と、私は問いかけました。

「ほんとうにそうなんです。舅さんも姑さんもとてもいい人で、

私は恵まれてほんとうに幸せです」と、彼女は答えました。

「そうですよね」。

親戚の人もみんな、いい人なのではありませんか?」

彼女は答えます。

 

「ほんとうにそうです。

私はほんとうに優しい人たちに囲まれていると思います」という答えでした。

「では、伺いますが、その方たちの一人にでも、手を合わせて感謝をしたことがありますか?

自分がどれほど恵まれているかということに、手を合わせて感謝をしたことがありますか?」

と聞きました。

「え?」

と小さく声を発した彼女は、わーっと涙を流し、二十分ほど泣き続けました。

私は、その泣いている彼女の耳にこういう言葉を伝えました。

「もし私が神さまだったならば、あなたのその唯一のお願いごと、 

頼みごとを、絶対聞かないと堅く決意したかもしれない。

そして、もし私が神さまの友人であったならば、

神さまがこの人のいうことを聞いてあげようと思ってやってきたときに、 

神さまの目の前に立ちふさがって、この人のいうことを聞いてはいけないと 

邪魔をするかもしれません」というふうに申し上げました。

なぜなら、子供ができないことばかりを挙げ連ねて、実はそれ以外に、

自分がどれほど恵まれているか、ということに感謝をしていないのではないのですか。

もし、自分がどれほど恵まれているかということに気が付いたならば、 

恵まれてないその一点を悩み・苦しみだといって挙げつらうのではなくて、来る日も来る日も、自分が恵まれていることに手を合わせて感謝をしているのではないでしょうか。

そういうことに全然感謝をしないで、ただひたすら、

「これが足りないから、これをよこせ」、「あれが足りないから、あれをよこせ」

と言い続けている人には、神は微笑まないような気がするのです。

自分の思い通りになったら感謝するけれど、思い通りにならない状態では、感謝をしない、 

というのはほんとうの感謝ではないのかもしれません。

恵まれているもののほうに目を据えて感謝をする。

足りないものだけを挙げつらねて「神さま、これをください」というのは、ほんとうは、 

神さまや宇宙に対する冒涜なのかもしれません。

この話にも後日談があります。

一年ぶりに彼女が私の前に現れました。

「相談したときに言われたことはショックでした。

でも、そのショックは「確かにそう・・・」と思え、体中にしみ込みました。

なんと、私は今、妊娠七か月なのです・・・」

みんなの猛烈な拍手。

受け入れて「感謝」することを始めたら、なんと授かった・・・

奇蹟はあちこちで起きるのです。

<転載終了>


ここでもやはりポイントは「置かれた場所で咲きなさい」と同じことです。 

何か足りない、何かが無いから不幸だ。

と無いもの、与えられていないものに不平不満を言うのではなく、 

今与えられているものに感謝すること、自分が置かれた環境に感謝すること。

足るを知ること・・

それが大切なんだよと教えてくださっています。

 

私たちを、今の環境に置いて下さったのは神様です。 

そしてそれは、私たちが生まれる前に、神様と私たち自身が一緒に決めてきた環境です。

これを摂理と言います。 

苦しくて辛い環境も、決して私たちを苦しめるために

神様が用意して下さったわけではありません。

その辛い環境、悩み多き環境を経験することで、私たちの魂を引き上げようとしてくださっているからです。

ですので、その悩みは決して永遠に続くものではありません。 

破滅への道ではありません。どうか安心なさってください。

そして、置かれた環境、周りに居てくださる方々に感謝してみてください。

笑顔を向けてみてください。  

きっと、それが幸せになるための答えですから。

 




2022年4月24日日曜日

2677「幸せになりたいのに」2022.4.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月16日の「幸せになりたいのに

と2022年04月17日「病気を手放さない人」の2つの記事を紹介します。


「幸せになりたいのに」


今日は、幸せになりたいと願っていても

「いつまでも幸せになれない人」の心の持ち方を書きたいと思います。 

なかなか自分の心を自分で見つめてみる作業を、普段は行わないものなので 

自分で心のクセを見つけるのは難しいのですが、

例えば

・大きな障害(離婚、失業など)にぶつかった時

・大きな病気、事故に遭った時 

このような困難に会うと

私たちは

・まずは社会や会社などの周りを呪い、人のせいにして

・何とかそこから抜け出そうと、人や物に頼り

・神仏にすがり

・それでもだめなら、諦め無気力となります

ですが、そのような時こそ、本当は自分の心と素直に向き合う絶好のチャンスです。

神々が与えてくださったラッキーなチャンスです。 

なぜなら、自分の心と向き合い、「感謝の心」の足りなさに気づけたら、

そしてそれを反省し、改善しようと決心したら、その途端に運命は大きく開けるからです。


行動にまで移すまでもなく、決心しただけで変わります。 

では、そんな心のクセの一つを

小林正観さんが分かりやすい例で教えてくださっていますのでご紹介します。 

正観さんは前世では、ブッダや空海の弟子であったことや

出身星がプレアデスであったことなどを思い出していました。

<引用開始> 引用元


・交通事故で追突された。どういう意味があるのでしょう? 

・病気で一週間仕事を休んだ。どういう意味があるのでしょう?

・友人にお金を貸したけれど返ってこない。どういう意味があるのでしょう? 

ありとあらゆることに

・どういう意味があるのでしょう?

・何か私に教えようとしているのでしょうか?

とつねにそうやって問いかけてくる人がいます。 

それは質問というかたちをとって、

自分が気に入らないことを言っているだけに過ぎません。

・これが気に入らない

・あれが気に入らない

・これが思うようになっていない

と愚痴や泣き言を言っているだけ。

本人は質問のかたちをとっているのですが、「どういう意味があるのか」と問うこと自体が現象を否定している。 だから、そんなことにいちいち関心を持たなくてもいい。

ただ淡々とやっていけばいい、とずっと言い続けています。 

その人たちは、質問というかたちをとって問いかけてくるのですが、要するに、「私が気に入るように、正観さん話してください」と言っているのです。

「そこから先は神の領域」という思想があると、いつも心穏やかに生きていくことができます。私はつねにそういう概念があるので、すごくラク。ストレスの少ない生活をしています。

 

夢や希望に満ちあふれているというのは、

・あれが足りない

・これが足りない

・あれ欲しい

・これ欲しい

と言っていること。

結局ストレスになって思いどおりにならない。

思いどおりにならないのは、「思い」があるからです。 

「思い」をなくして、自分が頼まれてやるはめになったことについては、

何も考えないで、「はい、わかりました」と言いながらやっていけばいい。 

そう思っている人は、ストレスがたまらない。

ストレスがたまらない状態だと、自分が一番ラクに生きることができます。

<引用終了>

  

自分の周りで起きる出来事が

・気に入らない

・自分の思い通りに運ばない 

そのように口に出さなくとも、不平、不満、愚痴を心に抱けば 

それはいつしか心に巣食う憎しみに変わり 

一番大切な「感謝の心」とは正反対の状態になってしまいます。 

感謝の心が無ければ、神々の恩寵は届きません。 

神々の光が届かなければ、幸せにはなれません。 

斎藤一人さんは 

色々な問題や障害が起こってくるのは、自分の心に「感謝の心」が足りないよって・・ 

知らせるために起こっているんだよ。

そう教えてくださいました。 

私たちの心とはそのように、その状態を全て周りにと投影して見せてくれます。 

それほどに神様から頂いた、この心とは大切なものです。

 


「病気を手放さない人」


今日は「病気を手放さない人」ということで、

元春日大社宮司で、形成外科医だった葉室頼昭さんのお話をご紹介します。

全ての病気がそうだとは申しません。 

敢えて病気を選んで生まれ、魂の目的を達成しようとする方もいらっしゃるからです。 

ですが、お医者様である、葉室さんの仰ることに、当てはまる方も多いのではないかと思い、ご紹介します。 

<引用開始> 引用元

 

私はいつも、患者さんの気持ちを神様に対する感謝に向けるようにしています。

それによって、自分の病気のことから、神さまの方に心を向けられ、

 やがては、病気が良くなっていることに気付くようになるからです。

神社では、神様に「健康にしてください」とご祈祷においでになる方が多いようですが、 

しかしこんな方は、なかなか神さまのお恵みを受けることができません。

なぜなら、「健康にしてください」ということは、自分が病気だと思っている現れだからです。

 <中略>

「神さま、健康にして頂いたありがとうございます」と

感謝をするのが、本当のことなのです。

心を放てば神さまのお恵みがいただけます。

いつも心に病気をつかんでいる人は、病気になりやすく、 

逆に、すべてを良い方向に考え、感謝をしている人は病気になりにくいのです。

<引用終了>

また、病気と感謝の心について、こうも仰っています。

 

<引用開始> 引用元

人間がいちばん嬉しいのは、人に認めてもらうことです。

反対に、一生懸命やっても誰にも認められないというのは悲しいものです。

これはなぜでしょうか?

科学で証明されないものや、目で見えないものは信じないなどと言う人がよくいますが、 

この宇宙には、絶対に、永久に見ることができないものがひとつあります。

それは何かというと、自分自身です。自分という人間は永久に見ることができません。

鏡や写真などに映して見てはいますが、あれはあくまでも影を見ているわけです。

自分はどんな顔をしているのかも分かりません。

自分自身を知ろうと思えば、他人から見てもらうしかないのです。

もしあなたが女性であれば、「きれいですね」「若いですね」と言われれば嬉しいでしょう。

それは、自分では自分のことが分からないからです。

男性は、「素晴らしい」「立派だ」といわれると、ああそうなのかという気がして嬉しくなるでしょう。生き生きした気持ちになると思います。

これと同じで、人間の身体の細胞一つ一つもみんな生きています。

ですから、認めてあげることで、やはり非常に生き生きとしてくるのです。

この体は、生まれてからずっとこの何十年一秒の休みもなく働いてくれています。

この体に生かされているのに、

ご主人さまが一向に褒(ほ)めてくれないとなると、細胞も怒ります。

もう力が出なくなってしまうのです。

ですから、一つ一つの細胞を、「素晴らしいね」と認めてあげて、感謝してあげる。

これが健康の本当の基本です。

私は、健康のために、感謝の心を込めて毎日、頭から足の先までをなでています。

私は医者で体全体の構造を知っていますから、頭をなでながら、

毛髪、皮膚、頭蓋骨、脳と次々に「ありがとう」と感謝していきます。

五十肩という病気があります。

なかなかなおらないので不平をこぼす人がいますが、

そんな人に「あなた、肩に感謝したことがありますか」と尋ねると、びっくりするのです。

長い間、ものを持ったり、支えてくれたり、いろいろと働いていてくれているのに、

ご主人さまがちっとも感謝してくれないので、肩の細胞が怒っているのです。

それが五十肩です。それで、「まず肩に感謝しましょう」といっているのです。

感謝するとなおってきます。これは本当の話です。 

<引用終了>

  

これと同じことを、斎藤一人さんや、昭和の魂の巨人、中村天風さんも仰っています。

要するに「病気という意識を手放す」ということなのですが、 

でも、「言うは易く行うは難し」かもしれませんね。 

簡単に言うと 

・病気であることを忘れてしまう

・好きなことに没頭する

などで、病気にフォ-カスしないこと、意識を向けないことです。 

意識を向けないことで、病気にエネルギーを与えないようにします。 

エネルギーが与えられないもの、つまり誰からも意識されないものは、 

病気に限らず、存在することができなくなるからです。 

マザーの言葉を思い出します。

「愛の反対は、無関心」 

人も、神様も同じ。

皆様が内なる神さまに気づき、お幸せになられますように。





2022年4月23日土曜日

2676「何か問題でも?」2022.4.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月15日の記事を紹介します。


「何か問題でも?」


私たちが今世、肉体をまとい、物質的な地球に生まれて来たのには意味があります。 

魂を進化させる 

これは全ての生命体や、その他の被造物が同じ目的を持っています。 

自分では何もせず、

神々に頼り、願い、すがって叶うものではありません。 

かえって、その「依存の心」は、魂を弱らせ、神々から離れてしまう方向性を持っています。

 また、

・お金のために人を陥れたり

・地位に固執したり

・プライド高く人を見下したり

・嫉妬心から人の足を引っ張ったり 

つまり、心を汚して、真っ黒くしていては 

魂は重く、未来は今の心と同じく、黒く汚いものになることでしょう。 

良きことも、悪しきことも

自分のしたことと同じことが、倍になって、自分に帰ってきます。

派手さも無く、地味なことなのですが、自分の心をピュアで綺麗に保つこと 

周りの方々に、愛と思いやりを持って接すること

これこそが、魂の美しさを保ち

肉体を脱いだ後も、真っすぐに神々の所へ行くための王道です。

 

ピュアな美しい心でいるには

日々の

・思い

・考え

・言葉

・行動

を良く制御する必要があります。 

一朝一夕にはできませんが、失敗したら反省し、また軌道を戻す。。 

その繰り返しで、いつの間にか意識せずともに、心の中の罪や穢れが 払われて

人々や神々に愛される 美しい心となります。

  

それでは今日も 

・神々に愛される美しい心を保つために・・

・そして本当の幸せをつかむために・・

・心の中の神々と直接対話できるように・・・ 

書きたいと思います。 

ご自分の心が整理されていないゆえに、自分自らが、悩みや苦しみ、不幸をかき集め

幸せになりたいのに、無意識のうちに、それを拒否して 

あえて、自ら進んで不幸な人生を送ってしまう・・ 

そんな方向けの記事です。 

幸せになりたいのに自分の心の何が原因でなれないのか?

そんな方向けのお話です。 

過去に書いたこともありますが、加筆して掲載します。

もう読んだよって方は、スルーなさってください。

小林正観さんのお話です。

テーマは「で、何が問題なの?」です。 

正観さんはブッダの説いた真理を、

今の言葉で、解り易く、そして実行しやすく説いて下さいます。

<引用開始> →引用元HP


あるところで、一泊二日の泊まり込みの旅行がありました。

数十人の人が泊まり込み、夜を徹してしゃべり、翌朝も一緒に朝食を食べました。

朝食の時、隣にご夫婦が座っていました。

私の顔を見るなり、その奥さんが話しかけてきました。

「質問してよろしいですか」「どうぞ」

「実は私の子供なんですが…」というふうに話をし始めました。

私は、そこで両手でバツを作りながら、にっと笑って「ブー」と言いました。

実は、その前夜に数十人でお茶会をやったときに、

何十人もの人から同じような質問を受けていたのです。

その質問とは 

「自分以外の人間を、自分の思いどおりにするにはどうすればよいか」 

というものでした。

質問している人は、それぞれ全部、状況が違います。

自分の思いどおりにしたいその対象は、 

・子供であったり、

・親であったり、

・夫であったり、

・妻であったり、

・職場の同僚であったり 

はするのですが、結局は、自分を取り巻いている人間関係のなかで、 

気に入らない人を「自分の思いどおりにしたい」 

というのが悩み相談のほとんどでした。

それを昨夜のうちに何回も何回もくり返し言っていたのです。

「また、自分以外のことの質問なんですね、 

実は…自分の質問のようにご本人は思っているでしょうけど、

結局は自分の思いどおりにしたいということですよね」

と言いました。

一分ほどこの方が黙っていました。

また口を開きました。

「職場にですねえ…私にすごくつらく当たる上司がいるんです」。

私はまた笑ってしまって、手でバツを作って「ブー」と言いました。

私は、次のような話を続けたのです。

 

「もしかすると、日常生活ではほとんど笑顔がない状態で、そのように行く先々で、 

家庭の中で、職場で、あるいは友人の中で、 いつもいつも『これが問題だ、問題だ』と 

言い続けてきたのではありませんか。

もし、私があなたの上司であったならば、あなたの顔を見たら、 

『これが問題だ、これが問題だ』と言っているあなたに対して、

自分に近づいてこないように、

より厳しく、より冷たい言葉を投げかけるのではないでしょうか。

『私のそばに寄ってくるな』という意志や作用が明らかに働くと思います。

『問題だ、問題だ』というふうに 問題をわざわざ熊手で集めてくるのをやめにしませんか」

と言いました。

「こんな楽しいことがあってね、こんな嬉しいことがあってね、

こんな幸せなことが実はあったのよね、こんなおもしろい話に出会ったのよね、

つい最近読んだ本がものすごくおもしろい本だった」

そういうように笑顔で話す人がいたら、その人の周りには人が集まると思います。

 

その人の口から出てくる言葉が 

・嬉しい

・楽しい

・幸せ

・愛してる

・大好き

・ありがとう

・ついてる 

(この七つを、「七福神」ならぬ「祝福神」と名づけました)。

そういう喜びの言葉、幸せな言葉というものが外に出てきたら、

それを喜ぶ人たちがたくさんいます。

「問題だ、問題だ」と問題点を探し出すよりも、

受け容れることで自分が楽になるのです。

そして、受け容れることでさらに 

そこに喜びを感じ、幸せを感じ、さらに感謝を感じることができたならば、

その一つひとつの言葉に人々は癒されて、

明るい気持ちになり、その人の周りに皆さんが寄ってきます。

そして、周りの人みんなが笑顔になり、笑顔の集団が出き上がります。

<引用終了>

よくよく悩み事を分析して見ると、ほとんどが

・自分以外の人間を、自分の思いどおりにするにはどうすればよいか? 

・自分が思っているように、自分が気にいるように、

相手に行動してもらうにはどうしたらよいか?

などのようですね。

ですがブッダが般若心経で伝えてくれたように、

周りに起きて来る現象を全て肯定して受け入れてしまうそのほうが良いかもしれません。 

悩みが悩みで無くなりますから。

人が 

・自分の思い通りに行動しない、

・時間を守らない

・ずうずうしい

・自分の価値観にそぐわないことをしている、、 

そんなことでイライラするのはやめましょう。 

スーパーの障害者用駐車場に、我が物顔で駐車しようとする人に

腹を立てるのはやめましょう(笑) 

人には人の心があります。それに従った住む世界があります。

私たちは、他人の心を推し量ることはできません。

私たちが集中しなければならないこと、それは、他人のことではありません。 

まさに私たち自身の 心の在り方だけだからです。 

自分の心がイライラしたり乱されるものからは離れましょう。

心に入れないようにしましょう。

  

悪い情報を、ムリにかき集め、毒を周りにまき散らすよりも、 

明るく楽しい情報を、周りに笑顔で発信していたほうが 

どんなに幸せになれることでしょうか? 

きっと、ご自分でも驚くほど運命が好転していくことと思います。


2022年4月22日金曜日

2675「大丈夫の小石」2022.4.22

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月14日の記事を紹介します。


「大丈夫の小石」


私たち人間は弱いものです。 

何か自分にとって不都合なことが起きれば、

何かにすがって、それを取り除いて欲しいと依存したり、その環境から救い出して、

自分にとって幸せ、安楽と思える場所へと移動させて欲しいと願います。

ブッダは私たちの苦しみの原因を 

思い通りにならないことを

思い通りにしようとすること 

そうおっしゃいました。

世の中の出来事、全て神様の意思で起こっていますが 

これらは決して私たちに、都合よく起きてくるわけではありません。 

ですが、私たちを破滅させよう、苦しめてやろうと起きるわけでもありません。 

神様が見ているのは生死を超えた永遠の時間の中で、

私たちの魂がより美しく輝くには、どうしたらよいか? 

それだけです。 

人間の一生のほんの数十年の短いスパンで見ているわけではありません。 

ですが、生きている私たちには、その神々の深い心を理解することができないために、 

・病気であれば、早く治して

・貧困であれば、お金持ちにして

・子供が言うことを聞かなければ、良い子にしてください? と頼んだり 

環境を恨み、境遇を呪います。 

それは、まさに 

せっかく その場所、その境遇で、自分なりの美しい花を咲かせなさい・・ 

そのように言ってくださっている優しい神様を、うらみ、のろうことと同じです。 

私たちの人生は、どのような人生であれ、生まれる前に自分で全て設計してきました。 

そして神様の承認を得てきました。 

ですので、どのような出来事が起きようと、どのような境遇に置かれようと 

本当は大丈夫なようにできています。 

その深い神様の愛に感謝せず、自分の都合ばかりを押し通そうと、恨み、呪ってばかりいては、神様も、助けてあげたくとも、決して手出しはできないでしょう。

私たち自身の心から、依存の心、恨みの心、呪いの心が消え去り、

感謝の心が芽生えるまでは、神々さえも 救いの手を差し伸べることができません。

全ては、何か大きな力によるのではなく、私たちの心ひとつの 置き方にかかっています。

それでは今日は、今、辛い思いをされている方、

心の中で、ザワザワと、恐れや不安の嵐が吹き荒れている方に書きたいと思います。

  

置かれた場所で咲きなさい で有名な渡辺和子さん。 

お亡くなりになりましたが、元ノートルダム清心学園の理事長で、カトリック修道女でした。

彼女は50歳の時、うつ病になったのだそうです。

<引用開始>


「忘れかけていた大切なことほほえみ一つで人生は変わる」より

曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、

「だいじょうぶの小石」というお話があります。

仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石を

患者さんに、握らせてあげるのだそうです。

その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、 

それを握らせてもらった人は、 

「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」と喜びます。 

すると、その方は、

「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、

そういう大丈夫の小石なんですよ」とおっしゃるのだ、というお話なのです。

私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。

これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると 

「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、 

そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。

 

祈れば

・神が私の願い通りにしてくださる、

・病気を治してくださる、

・夫の怪我を治してくださる、

・子供の暴力を止めてくださる、 

というのではなく、

どっちに転んでも大丈夫、

神は悪いようにはなさらないという信頼、

腹のすわった心がまえ、

そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。

 

「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」

・私たちが祈ると神は聞いてくださる。

・神さまが、私たちの意のままになる。 

そのように想いがちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心を、行いになるのです。

私は「欲しいもの」を願うけれど

神は「要るもの」を下さるのです。

お父様は2.26事件の際に若き将校にピストルで打たれ絶命しました。

その時彼女は父と一緒におり、当時9歳でした。


私は26年前、うつ病になりました

50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。

その時、一人のカトリックのお医者さまが、 

シスター、運命は冷たいけれど、(神の)摂理は温かいですよ」と

慰めてくださったのです。

 

その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。

治りたい!治りたい!とだけ想い、 

・神をうらみ、

・愚痴を並べ、

・そして暗い顔 

をしておりました。

私が唯一、微笑むことの出来なかった時期です。

その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。

  

この世の中に起こることを 

・しようがないこと、

・降って湧いたような天災、

・人災 

つまり、運命として受け取るのではなく、

同じ受け取るなら、 

・摂理として

・神のはからいとして受け取る。

だから「大丈夫だ」ということなのです。 


渡辺和子 人を許した時、許した人は自由になる

私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない。 

でもいつか神の時間に実現されるのだということ、 

そう信じて生きることが、 すべてを摂理として受けとめるということです。

(略)

神の摂理として病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれども、

いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。

病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。

それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、

なぜ、もうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、 

それを思わないで済むようになりました。

自分の弱さを知ったからです。

私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。

そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。

 

(略)

皆さんも、「だいじょうぶの小石」を 

しっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。

時たまポロッと落としてしまってもかまいません。

どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。

でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。

<引用終了>


運命は冷たいけれど、(神の)摂理は温かい

本当の事ですね。

でもきっと、「冷たい」と思うのも、限られた時間と空間の中でしか生きられない私達には、 

仕方の無いことかもしれません。

神様の目線は、もっと大きくて優しくって温かい。

常に私達に良きものを与えて下さろうとしています。

病気や事故などは、私たち人間を優しくしてくれるのだそうです。

神さまは私たちを「苦しめてやろう」などと、決してお思いになりません。

全ての出来事は、それを神さまが私たちに起きることを許した出来事なのです。

だからどちらに転ぼうと、神様と共にある限り、絶対に大丈夫なんですね。。


最後に置かれた場所で咲きなさいより・・

自分の良心の声に耳を傾ける

私たちの心の中に、善いことをすすめ、悪いことを制止してくれる

”王さま”が住んでいるのだから

  

良寛さんも、こう仰いました

災難に逢ったら、それから逃げ出そうとせずに、災難に直面するがいい。

死ぬ時がきたら、ジタバタせずに死ぬ覚悟をするがいい。これこそ災難をのがれる妙法なのだ。

これは、あきらめの心ではなく、神さまの下さった現象を、しっかり受け取り、感謝するということ。

不平不満、じたばたせず、現実を素直に受け入れる。その時 道が開かれます。

こうみてくると、神さまを信じたからと言って、現実が変わるわけではありません。 

私たちの心が変わるだけです。ですが、それが全ての変化を引き起こします。 

すべての出来事を受け入れて、感謝できる心に変わることで、一見現実は変わらなくとも、

心は、見える世界、見えない神の世界・霊の世界を包括していますから、上にあるが如く下もかくありの言葉の通り、心の状態によって現実の世界にも変化が現れます。 

皆様が、心の中の神様を信じ、心に、平安を取り戻せますように・・・・




2022年4月21日木曜日

2674「天命の発見」2022.4.21

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月13日の記事を紹介します。


「天命の発見」


今日は、自分の天命の見つけ方について書きたいと思います。

小林正観さんは著書の中でこう仰っています。

五戒を守り、頼まれごとをこなしていくうちに

ある方向で自分が使われていることに気がつくんですが、

それが使命、天命というものです。

天命、使命に出会ってからの人生というのは、すごく、楽しいものですから、

なるべく早くそこのところに到達することをお勧めします。

 

頼まれごとをニコニコと笑顔でこなしていく人生が一番早く使命、天命を知る方法です。

また、頼まれごとは、3つに1つは有料になるようです。

頼まれごとを淡々と受け入れることで、お金にも困らずに、

天命、使命に出会って楽しい人生を過ごせるようです。

その具体例をご紹介します。

「人の心に灯をともすHP」より抜粋

<引用開始>


・不平不満、

・愚痴、泣き言、

・悪口、文句、

・辛い、悲しい、

・嫌だ、嫌いだ、

・疲れた

という言葉を言わなくなって、三ヵ月から半年位経つと、突然に頼まれごとが始まります。 

頼まれごとがきたら、基本的には全部引き受けます。

頼まれごとは「適当」にやることをお勧めします。

「適当に」というのは、『適度に』ということです。

「引き受けたからには、いい仕事をしなくてはいけない」と気負わずに、 

そのときの加減で 「良い加減」でニコニコと取り組んでいけばいいのです。

頼まれごとを引き受けて行くと、三年くらい経ち、

ある方向性でこき使われていることに気がつきます。

「どうもこういうことをするために、この世に生まれてきたみたいだ」というように、 

自分の“使命”がわかる瞬間があります。

それを「立命」の瞬間といいます。

 

自分の好きなこと、嫌いなことをより分けていると、 

なかなか自分の所に面白いことは起こらないようなのです。

宇宙の仕組みに、「自我+お任(まか)せ=百」という方程式があります。

自我が三十パーセントだと、お任せが七十パーセント。

自我がゼロパーセントだと、お任せが百パーセントという仕組みになっています。

私は、頼まれごとを、好き嫌いで選ぶのではなく、三つ目の選択をしています。

それは、「ただ、淡々と生きる」という生き方です。

頼まれごとを、自分の評価、論評を入れずに淡々とこなしていく。

あれがしたい、これがしたい、という自我や目標があったら、

そこにたどり着くために、努力しなくてはいけません。

また、努力しても叶わないこともあるでしょう。

ただ、頼まれごとをして淡々と生きていくと、何を頼まれるかわかりません。

自分が想像しなかった方向へどんどん流れていくこともあり、考えていたときよりも、

はるかに楽しいことが起こっていくようなのです。

頼まれごとがあるということ自体が、人間としてとても幸せなことなのです。

「ヒトは一人で生きているとヒト。人の間で生きることが人間」

死ぬまでに人間として何をするのか、何のためにこの世に生を受けたのか?

それは、「いかに人の間で喜ばれる存在だったか」を残すことなのでしょう。

業績や実績を残すことではありません。

自分の身の回りの人(家族・友人・知人)から、 

「あなたに○○をしてもらって良かった」と言ってもらえること。

さらに向上すると、

「あなたがそばにいてくれて良かった」というレベルになります。

そばにいるだけで、その人が自分を明るくして、

心を温めてくれることを「仁」と呼びます。

「人が二人(あなたのそばにいつもいます)」という意味です。

「人に対して何かをする」という段階からさらにもう一歩踏み出し、 

相手が、「あなたのそばにいる、ととても幸せ」と言ってくれるようになったら

「仁」の領域に入ります。

本当に喜ばれる存在という人は、何かをしてあげて喜ばれるレベルで留まるのではなく、

その人がそこに居るだけで、ホッと和むような人になることらしいのです。

頼まごとをすべて引き受けなくてはいけないのかと、聞かれることがありますので、

断ってもいい頼まれごとを書いておきます。

 

「お金を貸してほしい」というときは、自分ではなくお金に用事があるということですから、

断っても構いません。

ただし、次の条件によって変わってきます。

お金に余裕があるときに、借金の頼まれごとを断ったとします。

貸したほうが、自己嫌悪が少ないのなら貸してあげる。

自分の生活を犠牲にしてまで貸すと、自己嫌悪が大きくなります。

「私」のレベルが変わると、自己嫌悪のレベルも変わります。

また、百キログラムの荷物を持ってほしいなど、物理的に無理なものや、 

単なる数合わせの場合、先約がある場合も断っても構いません。

PTAなど、今までやってことのないような頼まれごとがあります。

その場合はこのように判断するといいでしょう。

今までに経験したことのないものは、引き受けた結果としての

自己嫌悪を味わったことがないので自己嫌悪は「ゼロパーセント」になります。

引き受けないときの自己嫌悪は「五パーセントくらい」あるかもしれないので、

このような場合は引き受けるほうを選ぶということです。

これが一期目になり、二期目を引き受けるときには、

改めて自己嫌悪が少ないほうを選ぶといいでしょう。

基本的に、自分の中で自己嫌悪を量ると答えが出てきます。

まだやったことがないのであれば、引き受けたほうが良いかもしれません。

自分ではできないと勝手に判断して断ることを 「傲慢(ごうまん)」と言います。

基本的に、できない頼まれごとは来ません。

「一度断ってしまうと、三年間頼まれごとが来なくなる」という宇宙法則もありますので、

自分の能力を自分で量らないほうがいいようです。

<引用終了>


正観さんは、ブッダの悟った内容を、誰でも解るように、平易な言葉や、

具体的な例を示して教えてくれています。

本当に私達の人生と言うのは、

・気張らずとも、

・努力しなくとも、

・宇宙の采配に任せ、

・流れに乗っていれば、 

どんどんと、生まれて来た目的を達成できるように出来ているようです。

このことを知ってから、私は来た頼み事や、仕事はほとんど断らなくなりました。

今は解らなくとも、いつかそれが必要だったことが解るからです。

私達、それぞれの内に居らっしゃる神様はムダな出来事など一つも起こしませんし、

その出来事も一番良いタイミングで起こして下さっています。

必要なことが、ベストなタイミングでもたらされます。

それは、神様が私達を成長させようとして下さっているからです。

貴方は、もう天命を見つけましたか?

それとも、まだ見ぬ どこか遠くの「凄い使命」を待ち焦がれ、日々を過ごされますか?

 






2022年4月20日水曜日

2673「地獄に住む人」2022.4.20

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月12日の記事を紹介します。


「地獄に住む人」


今日は、1年ほど前に書いた記事ですが、占星術の大家マドモアゼル愛さんのお話をご紹介します。

そのお話の内容は、空海の「即身成仏」の内容を、切り口を変えて、分かりやすく説明してくださっています。

 少し過激な単語を使われていらっしゃいますので、なじみのある単語に置き換えて、ご紹介します。

<引用開始> 引用元

 

人は死んでから地獄に行くのでしょうか?

違うと思います。 

人は生きている時にすでに地獄に行くのです。 

もちろん、すべての人がそうではありませんが、生きている時に、既に地獄に住んでいなければ死んでも地獄にはいかないはずです。

天国も同じでしょう。 

生きている時が天国でなければ、死んでも天国に行けるわけではありません。

これはすべてに共通した法則です。 

今幸福でない人が未来に幸福になることはできません。

将来幸福になりたいと願うのは人情ですが、法則的には今幸福でない限り

未来も幸福ではないのです。 

要するに今と未来の関係です。

未来を作るのは今ですから、今が変わらなければ物事は永遠に変わりません。 

人が不幸のどん底にいたとしましょう。

不幸だ不幸だと思っている状態が長期不幸です。 

普通は相当な不幸が襲っても、時には気分が変わったり、感情が変化したり、

考えが変わることがあります。


それなのに、

・変化を拒否して、かたくなに気分を変えない、、、

・かたくなに考えを変えない、、、

・かたくなに感情を変えない、、、、

これが不幸が続く原因です。

恨みや怒りを変えない、、、、

何があってもそれを維持し続ける、、、 

それが地獄に住むということです。 

人は生きていながら、こうして地獄の世界に、足を踏み入れていくわけです。

何でこんな話しをまだ夏でもないのに始めるかと言うと、

けっこう地獄に住んでいる人が多いことに気づいたからです。


何かにこだわり、それをかたくなに変えようとしないまま生きている人は、 

少なからず地獄の状態になっています。

そして生きる現場のリアリティよりも、現実と異なる幻想の思いこみのウエイトの方が重いとき、私たちは段々と地獄に住むようになります。 

この世は変化こそが取りえであり、変化が大きい恵まれた世界です。

この世に理不尽なことが多すぎるのは困りものかもしれませんが、

その分、色々な変化のチャンスに恵まれた、可能性に満ちた世界なのです。

本当は悪いことも良いことも含めた変化こそが、私たちの世界からのプレゼントであり宝物です。

・天候の変化、

・四季の変化、

・環境の変化、

・人間関係の変化、

・訪れる事柄の変化、

・肉体の変化、

・感情の変化、

・考えの変化、

・意識の変化

など、様々な変化に充ち溢れています。

そして変化を受け入れることで過去を流し去っていきます。 

変化を受け入れさえすれば、過去が人を苦しめることは基本的になくなります。

また変化があれば必ずそこにはエネルギー現象がありますので、

変化=エネルギーとなるわけです。

生きながら地獄に住む人は、エネルギーが少ないのです。

地獄に住む人は変化にエネルギーがあるなどとは認めず、

物にしか、また過去への思いにしかエネルギーがないと思っています。 

地獄に住む人の考えは、凄く現実的なんです。

だから死んでもこの世に関わるのです。 

現実的だからです。

物や過去が好きなんです。

 

私もお墓に停めておいた車が、わずか30分後に戻ったとき、

ラジオも聞こえない程バッテリーが完全に上がってしまったことがあります。 

肉体を持たないお化けにやられたのでしょう。

お化けはエネルギーを欲しがるのでバッテリーはごちそうだったのかもしれません。

地獄に住む人は変化を拒否しているので、慢性的にエネルギー不足に陥っています。

ですので、外界からエネルギーを得ることを考えた結果、

電気を好んだり、人からエネルギーを奪おうとするのかもしれません。 

一緒にいるとやけに疲れる、エネルギーを奪われる、、、

という経験は誰にでもあると思いますが、

それはその相手が変化を認めない人の場合に多いはずです。 

相手ばかりでなく、こちらも変化を認めなければ、お互いで地獄合戦になりますので、 

恨みや怒りが増幅します。 

変化を認めず、双方が変化なしで物事を解決しようとする時、

私たちは地獄合戦の、恨みあいに入っていくのです。

どちらの我を通すのではなく、お互いに変化することで問題解決に導くことが

エネルギーワークとなりますので、そうすれば物事は必ず発展します。

取り決めだけの、事務的やりくりで、平成は30年やってきましたので、

エネルギーを失っているわけです。

おそらく令和の時代は、変化にとんだ時代になるでしょう。 

 

私たちの生き方も、

変化を受け入れることで、

自ら変化に身を置くことで、 

エネルギーを得ることを考えたいと思います。

・四季を愛でる、、、

・一日の自然現象の変化に喜びを見出す、、、

・季節の食べ物の変化を味わう、、、

地球は変化によって、エネルギー現象を起こしていますので、

それを見たり味わうことが、文化として定着してきたわけです。

生きながら地獄に住む人には 四季も 夕日の美しさも 鳥のさえずりもありません。 

ただ自身の思いの世界があるだけ。 

変化したら自分がいなくなることを恐れているのでしょうか。 

いなくなれば大きな世界に入るわけで、肉体が無くなる変化を最終的には人は受け入れるわけです。(生きながら地獄に住んでいた人は、それを拒否します)

生れたら死ぬのはセットです。 

死の変化を受け入れることが、永遠の世界の入り口に私たちを導いてくれるわけですが、

せめて生きている間にも、変化多き人生を歩み、地獄的な生き方から自由でいたいものです。

変化多き人生とは、何も激動の人生であるというのとは違います。 

変化を受け入れる姿勢で生きることです。

変化を楽しめるということです。

変化がエネルギーであることを認めず、物にエネルギーがあるとする今の科学の限界を、

私たちの心だけでも、越えて行かねばならない時代に来ている気がします。 

<引用終了>

  

この地球は行動の星と呼ばれています。

自分自身で、一歩踏み出すことで、様々な波紋が、宇宙に解き放たれます。 

そして、その波長をキャッチした、共振した人が、必ず現れ、発信者である、私の人生に変化がもたらされます。 

運命は人が運んでくるとは、その事です。 

・誰かがやってくれるだろう

・誰かが助けてくれるだろう

・棚からぼた餅的なことが起きるだろう

の心では、そのような依存の心では、決して運命は変わりません。 

ご自分の心を、静かに見つめてみてください。 

・私は不幸だ

・私は貧困だ

・私は重い病気だ

・私に友達はいない

・周りはみんな敵だ

・みんな私の不幸を望んでいる

・私をだまそうとしている人がいる 

そんな風に、かたくなに思ってはいませんか? 

そのような考えを手放さない限り、何時までも「地獄に住む人」から抜け出せないことでしょう。 

何時までも、頑なに、恨みを心に抱いていては、その頑なで、重い心ゆえに、肉体を去る時には、天に上ることはできないでしょう。 

そのような状態では、肉体の死後も行先は、もう決まっています。

一度、一回だけでも、一切、そのような心を忘れてみませんか? 

そして、私は、もともと 

・心あたたかく

・みんなで助け合い

・お互い様と、人の個性も受け入れ

・おかげ様と、みんなに感謝して

そして

・人をだまさず

・疑わず

・恨まず

・さげすまさず、

・不平不満を言わず 

そんな風に生まれ、そして生きてきた。

そして、それはこれからも変わらず そんな人間だったと、、、 

思い直し、生きなおしてみませんか? 

そう決心した途端、人生は180度変わり、神々も、周りの人々も

あたたかな心で受け入れてくれることでしょう。 

そして、生きながら天国に住む人に生まれ変わることでしょう。

 


2022年4月19日火曜日

2672「人生の祝福 (ある無名戦士の詩)」2022.4.19

 今回は「立花大敬青空ひろば」の2022年4月12日の記事を紹介します。


「人生の祝福 (ある無名戦士の詩)」


<はじめに(大敬)>

しあわせ通信第二集『神様の壺』(本心庵)のあとがきに、「人生の祝福」という詩を紹介して、この詩の作者や由来についてはまったく分からないので、ご存じの方がいらっしゃればお教え下さいと書きました。


そして、二十数年の時を経て、松永さんから最近お便りが届いて、この詩の由来が判明しました。

松永さんは大学生の時に、私もお世話になった和田重正先生に師事されて、長年坐禅を組んでおられるということです。

松永さんは英語に堪能な方のようで、従来の和訳には、意味が取れない箇所が少なからずあるのですが、その箇所についても適切な解釈をしてくださって、なるほど!と、すこぶる納得できました。

そこで、この詩の新訳を作って下さいとお願いをして出来上がったのが、下に紹介する作品です。この詩についての解説も書いて頂きました、あわせてお読み下さい。



人生の祝福 (ある無名戦士の詩)


手柄をたてようと神さまに強さを求めたのに

へりくだることを学ぶよう弱い体を授かった

I asked God for strength, that I might achieve.

I was made weak, that I might learn humbly how to obey.


どでかい事ができるよう健康を求めたのに

それより良い事ができるよう病弱を授かった

I asked for health, that I might do greater things.

I was given infirmity, that I might do better things.


幸せになれるよう富を求めたのに

賢くなれるよう貧しさを授かった

I asked for riches, that I might be happy.

I was given poverty, that I might be wise.


人からあがめられるよう権力を求めたのに

神さまを求めるよう弱さを授かった

I asked for power, that I might have the praise of men.

I was given weakness, that I might feel the need of God.


人生を楽しもうと全てを求めたのに

全てが楽しめる人生を授かった

I asked for all things, that I might enjoy life.

I was given life, that I might enjoy all things.


求めたものは何ひとつもらえなかったが

自分の(本当の)願いは全て聞き届けられた

恵みにほとんど値しない自分であったのに

口にしなかった祈りに応えていただいた

I got nothing that I asked for – but everything I had hoped for.

Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.


わたしは、あらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

I am, among all men, most richly blessed.



人生の祝福(ある無名戦士の詩)の解説

ご縁あってこの詩についてご紹介する機会を得ました松永と申します。よろしくお願い申し上げます。


実は、この詩については、アメリカの南北戦争(1861~1865)の戦場で、南軍兵士の遺骸のポケットに残っていた紙に書かれていたという以外、私はほとんど何も知らないのです。ただ、とても深く良い詩なので、アメリカではよく知られていて、壁に貼っていつでも見られるようにポスターにもなっているようです。


私がこの詩に出会ったのは、去年、ある映画をビデオで観ていた時のことでした。この詩がナレーションで朗読されたのを耳にして、背面から衝撃をくらったような感動を覚えたので、ビデオを何度も止めたり戻したりして言葉を書き取りました。そして、あとで英語の原文を突き止めることも出来ました。


「かたじけなさに涙こぼるる」という表現がありますが、そういう感動を覚えました。自分が心底から求めているもの、願っているものが何であるかを自分でも知らないで、勘違いしてそっぽに幸せを求めていたのを、神様と呼ぶべきかサムシング・グレートというべきか、大いなる存在が本当は何を自分が求めているかをご存じで、それをふんだんに与えてくださっていたのだと気づいた喜び、深い感謝が伝わってきます。


世間の人々は、この兵士の死に同情し可哀想だと思うかも知れません。しかし我々は、この兵士が「人として、自分はこの上なく豊かに恵まれたのだ」と言う言葉を文字どおりに受け止めて構わない、いや受け止めるべきだと思うのです。負け惜しみや強がりではなく、兵士が本当の気持ちを語っていることに留意すべきです。


もうひとつ大事なことがあります。「あらゆる人の中でもっとも豊かに (most richly) 祝福されたのだ」が常識的な最上級でないことです。原田祖岳老師(1871~1961)は、「もし皆様の中で自分の境遇は全く不幸だ、嫌だと思っている人があったら、小衲にご相談ください。必ず我は無上の幸福者だと解釈の出来るようにしてあげます。」と仰っていたようです。比較を超えた世界の話なので、比べたうえでの最上級より、もっとずっと素晴らしいのです。


遺骸のポケットに入っていたことから、この兵士は、自分の詩が人に読まれることや、まして世間に広く知られるようになることなど、全く想定していなかったと思われます。宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」が賢治の没後ポケットから発見されたことにつながるものがあります。だから、実はこの詩にタイトルはないのです。「人生の祝福」とか「ある無名戦士の詩」というのは、他の人が便宜上つけたタイトルです。他方で、自分の戦死を予感していたことは確かで、それゆえ自らの人生がいかに恵まれていたかを綴ったものと思われます。


人間が生まれてくる意義が、命のあり方が如何に素晴らしいものであるかに目覚めることであるとすれば、この兵士は立派に人生の意義を果たして死んだことになります。たとえ、ひとから犬死にと思われようと、神様が託した役割を十分果たして亡くなったと言えるでしょう。



 

2022年4月18日月曜日

2671「神様の恩寵」2022.4.18

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年04月10日の記事を紹介します。


「神様の恩寵」


よく聞く言葉があります。 

・願いが叶ったら、感謝する

・気持ちが落ち着いたら、感謝する

・生活に余裕ができたら、感謝する 

ですが、これは、宇宙の法則とは

まったく逆のことをおっしゃっています。

宇宙の法則とは 

与えたものが、受け取るもの

まず自分から、何かを出さなければなりません。  


出したものと同質のものが、巡り巡って自分に何倍にも帰ってきますから 

幸せになりたいのであれば・・

感謝の人生を送りたいのであれば・・ 

まず自分から他人に対し、優しさや、思いやりのある言葉かけ

笑顔、感謝を、出さねばなりません。

そうやって初めて自分に返ってきます。

何かを得たら、とか、素晴らしい環境になったら感謝する 

そんな気持ちを

元春日大社宮司の葉室 賴昭さんは、「それは、取引だ」と、排除なさっています。

それでは、今日のお話です。

 

自分が持っていないものに、不平不満、愚痴を言うのではなく 

与えられているものに・・・

何もない平凡な日々に、感謝しよう

そんなお話です。 

あなたは、他人や、モノ、動植物、自然、神様に感謝することはありますか?

一日に何回「ありがとう」と口になさいますか?

今日は何人の方に、笑顔を向けましたか?

私たちが生きていく上で遭遇する、悩みや苦しみ。

そこから解放される手段を、

ブッダは2,500年前に「般若心経」の中で教えてくださいました。

それは「感謝の心」です。

ブッダは人間として生きていく上での全ての悩み苦しみの、共通の解決方法を、 

「般若心経」に残してくださいました。

「般若心経」はブッダの弟子の一人、

シャーリプトラ(舎利弗=10大弟子)に、観音菩薩が教えを説くという設定で

全文が構成されています。

では、小林正観さんの講演会でのお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元


講演会が終わったところで、本にサインをする場合があります。

その時は百二十名ぐらいの講演参加者でしたが、半分の六十名ほどの人が

本にサインが欲しいということで並びました。

三十人ほどのところに、「質問していいですか?」という女性が立っていました。

年齢は四十歳ぐらいでしょうか。

質問の内容はこういうものでした。

実は私は看護師をしています。

夫は長距離トラックの運転手で、毎晩出かけて行って、夜はいません。

そして、自分は夜勤も嫌がらず引き受けてやっているので、

週に二回、子供たち三人だけの夜があります。

最近のニュースを見ていると、子供たち三人をおいていく時に、

何か事件や事故があるのではないか、 変な人間が侵入してきたらどうしようか、

火事が起きたらどうしようか・・・

そういうことばかりを考えて、夫婦二人で話し合い、

どちらかが仕事を辞めた方がいいのではないかと話しています。

けれども、住宅ローンを返さなければいけないという事情もあって、

簡単に二人とも辞めることができません。

悩んで苦しんで、いつも夫と話し合っているのですが、

どうしたらいいでしょうかという質問でした。

私はこのように聞きました。

「一年に五十三週ありますね。 

週に二日、子供たち三人だけの夜があるということは、一年を通していえば百六日になりますが、子供たち三人だけの夜は百日を超えていますか?」

と聞きました。

「超えています」と答えが返りました。

「では、二年だと二百日を超えますが、 二百日を超えていますか?」

「超えています」

「では、三年だと三百日を超えていますが 三百日を超えていますか?」と聞きました。

「三百日も超えていると思います」と答えが返ってきました。

「それでは伺いますが、 その無事に過ごせた一日だけにでも、  

安全に何事もなく過ぎてくれてありがとうと、手を合わせて、感謝したことがありますか?」

と問いかけました。

十秒ほど黙っていましたが、この方は、そこからどわーっとすごい涙を流して、泣き始めました。

二十分ほども そこで立ったまま泣いていたでしょうか。

私はその間に残り三十人ほどの本のサインを済ませ、それがちょうど終わったころに、

彼女がやっと話ができる状態になって口を開きました。

「ほんとうに一度も感謝したことがありませんでした。 

心配ばかりをして、無事に過ごしてきた日に一日たりとも、 

一度たりとも感謝したことがありませんでした。

今日、帰って宇宙に、地球に、いろいろな方に感謝をするとともに、

子供たちを思いっ切り抱きしめてあげます」

と語りました。 泣いてはいましたが、明るい笑顔でした。

この話には後日談があります。

半年ほど経ってまた同じところで講演会があったのですが、

「先日はありがとうございました」と言って、その方がお見えになりました。

その後、毎日毎日、感謝をして、 

何事もないことに手を合わせてお礼を言っているそうですが、

何事もなくほんとうに平穏無事に毎日が過ぎていっている。

ありがたい。

何かが変わったわけではないのに、状況がなにも変わったわけではないのに、

心が平穏になり、穏やかで豊かで幸せである、ということを話にきてくれました。

<転載終了>


このことに気づいたお母さんは、もう大丈夫ですね。 

宇宙からのパワー、神様からの恩寵を手に入れる方法を知りましたから。 

何かが叶ったら、感謝する、ではなく、 

本当の感謝は、何も起きないことに感謝なのかもしれません。

何も起きないで淡々と穏やかに過ぎていく日々、 

実はこれが物凄いことなのだということに気がつくこと。

不安 恐れ 懸念 心配事というのは、私たちのために、常に沢山の恩寵を施し、

時間やタイミングを調整し、様々とやって下さっている神様に対して、 

それに気付くことなく、感謝することなく、

それどころか文句を言っているのと同じことです。

また、まだ起こってもいない未来に対し、

心配し取り越し苦労することも、同じことかもしれません。

いま何事もなく 淡々と過ぎている時間というのは

何も起きていない ということではなく、

神様が全てを調整し、全ての出会い別れをセッティングし、

そのうえでそれがうまく動いているが故の 

無事なことが起きているの連続 

かもしれないのです。

この奇跡の連続、とめどもない神様の恩寵の連続、これこそが、感謝の源泉です。

そのことに気づき、感謝することができれば、

宇宙からのサポートの100%を享受することができます。

正観さんは、これこそが 本当の感謝の本質と仰っています。

何かを頑張って、努力して手に入れることが感謝ではなくて、

今、穏やかに穏やかに暮らしていることが、本当の感謝の源なのだそうです。

悩み、苦しみの生活の中でも、ふと穏やかな時が流れることもあるのではないでしょうか?

そんなひと時もあるのですから、「置かれた場所で咲きなさい」と言われるように、 

その環境の中で感謝の心を身につけることは、本当に大切なことではないかと思います。

何よりもご自身の幸せのために・・

感謝の心は、幸せになるために、どうしても必要な心です。

 


2022年4月17日日曜日

2670「つかの間の地球」2022.4.17

今回はいっぷくからのありがとう」さんの2022年04月09日「つかの間の地球」と2022年04月11日「先祖供養を行いました」の2つの記事を紹介します。


「つかの間の地球」


レインボ-チルドレンのまりなちゃんのお話を書きたいと思います。 

まだ14歳なので、難しい言葉遣いもせず、さらっと話すのですが、

その内容は、まさにブッダやイエスが仰っていたこと、そのままです。

ですので尚更、ブッダ達の意識が宇宙神に根差していたことが分かります。


では、まず感情について 

感情とは、肉体に伴うもの・・ 

6種類の代表的な感情・・・

・喜

・怒

・哀

・楽

・愛 (いとしみ)

・憎 (にくしみ) 

肉体をまとって、初めて味わうことのできるもの。 

宇宙(天)での生活では感情はない。

ただ生命の躍動感を感じ、イキイキと命を輝かせていただけ・・

・心地良いか

・心地が悪いか 

があるだけ。。 

つまり、憎しみの心も、肉体を脱げば(天に帰れば)消えてなくなる、と言うことです。

生まれた時には、どの赤ちゃんも、憎しみや恨みの心を持ってきていません。 

成長するにつれ、環境から、その心が芽生えてきます。

誰一人生まれながらに悪人はいません。 

ただ生まれてくるときに、そのようなシナリオ(脚本)を書いてくるだけです。 

その感情を味わってみたいから。。 

 

あまりにもシリアスな人生の脚本を書いてくるとき

例えば

・重い心や身体の病気

・夭逝(ようせい--早くに亡くなる)

・親に深い悲しみを与える

・社会的に悪とされる行為を行う 

などでしょうか。。 そのような時

このような厳しいシナリオを受け入れてくれる両親は、

一体どんな人たちなのだろう・・ 

と想像するのだそうです。 

まさにこれらの出来事は、本人にとっても、

受け入れる家族にとっても、難易度の高い課題です。 

神々に近い高貴な魂たちなのでしょう。

それゆえに、天に戻った時、

どんなに深い喜び、魂の共感、神々からの祝福に包まれることでしょう。 

成熟度がまだ低い場合には、

このような試練(厳しい環境を選んできた子供たち)は与えられないでしょう。 

ですから、もし皆さんの目の前に、

何か問題が立ちはだかったり、悩みや苦しいことがある場合には、 

こう考えて欲しいのです。 

この、つかの間の地球で、 

魂を揺さぶるような

・悩み

・苦しみ

・悲しみ

・悔しさ

・後悔 

の機会を与えてくれて「ありがとう」

そのような憎まれ役を、あえて引き受けてくださって「ありがとう」 

私は、泣いたり笑ったりするけれど、

ここでしか味わえない、その感情をしっかりと味わって 

それでも、そのことを 

・心の糧として、

・心を磨く研ぎ石として、 

感謝の息吹に変えて見せましょう。

  

つかの間の地球

そこで出会ってくれてありがとう!

私たちを、この地球に送り出してくださった方々も

きっと、そう望んでいらっしゃることでしょう。

 


「先祖供養を行いました」


昨日は、竹之高地不動社の月2回ある、月並祭にて先祖供養が行われました。

※月並祭は、毎月第2日曜、および28日の2回

先日、「先祖供養プレゼント」に当選なさった方のご先祖さまの供養も行われました。 

私も参加して、応募くださった皆様のご家族、ご先祖の皆さんの幸せをお祈りしてきました。

今回の応募条件は、

・障害があるお子様をお持ちの方

・病気のお子様をお持ちの方

・この日、ご自宅にて、ご先祖に思いを寄せられる方

とのことで募集しましたところ、条件が厳しかったため 15名の応募でした。

条件を厳しくさせてもらったのは、

・私も真剣ですし、

・善意のご寄付を使わせていただくことですし、

・無理を聞いてくださった先達も、命がけでご祈祷くださいます。

そして何よりも皆さんに、真剣にご自分の望んで生まれて来た環境に対し、

・真摯な気持ちで向き合って欲しかったからです。

また当選なさった方には以下をお願いしておりました。

ご神事は 4/10 日曜日 午前10時頃より行われます。

親御様も、この時間にご先祖の方々に手を合わせ、

・命をつないでくださったことに、感謝のお気持ちをお送りください

・ご先祖の皆様の足元が、神さまの光で照らされるようお祈りください

・ご先祖のお一人も道を外れることなく、神様のもとへ進めるようにお祈りください

・ご先祖も、子孫である私たちも、みな幸せであるようお祈りください

※できれば、お顔を思い出せる方は思い出しながらお祈りください。

何事も、全部を人任せにして、おんぶにだっこでは、

どんな良きことでも成就しないし、現状の変化など望むべくもないからです。

応募の時の記事に書きましたが、日本の神道では、

病気に関する願いの場合は、先祖供養が大変有効であるとされています。

特に精神の不調の場合、大きな効果を発揮します。

科学的には、私たちのDNAのスイッチの ON/OFF に関係するようです。

元春日大社宮司の葉室頼昭さんが仰るには

<引用開始> 神道、見えない物の力

 

つまりこれが祖先の生きる仕組みなんです。

この祖先の仕組みを通さないと、われわれのものにならないのです。 

それがいちばんよく分かるのは妊娠です。

この宇宙に38億年昔に生物が誕生してきて、そしてついに人間ができたでしょう。 

そうすると、進化したと思うけれども、じつは変わらないんです。

人間が誕生するためには、もう一度38億年の昔に戻るんです。 

この38億年間を通さないと、

いまでもわれわれは生きられないというシステムになっているのです。

どういうことかというと、

お母さんは十月十日で赤ちゃんを産むんだけれども、 

そのいちばん最初は一個の卵細胞です。

単細胞ですね。それが受精し分裂して魚みたいになり、 

爬虫類みたいになり、サルみたいになり、

そして38週で人間の姿になるわけです。

そうすると、お母さんの一週間が一億年なんです。

一億年の変化をお母さんは一週間でやっ てのけるわけです。

まったくその38億年の経過をそのまま辿っている。

そうしないと 赤ちゃんは産まれてこない。

すべてがこういうふうに循環しているのです。 

ですから、祖先の生きた道を通らないとわれわれは生きられない。

赤ちゃんも産まれてこない。いきなりは産まれてこないんですね。

摩訶不思議なことだと思います。 

<引用終了>


つまり私たちの祖先が38億年もかけ、色々な環境の変化、病原体の攻撃、 

などに適応しながら獲得したDNAが、今生きている私たちの身体を構成しています。 

ですから、心身の不調は、先祖の皆さんに幸せになっていただくことで、 

そこに適合しているDNAのスイッチが起動します。

その結果、私たちの心身に変化が表れてきます。 

現在の状況は、お子様が生まれる時に神さまと相談して、ある目的を達成するために、

その環境として、病気や障害をご自分で選んで生まれてきているので、

子供たちの、今回の生まれて来た目的(心願)が、成就するように、お祈りください。

目的が達成・成就されてしまえば、その手段、環境はもう不必要なものになります。

その結果、その事象は

・消えてなくなるか

・同じ状況であっても、親子、家族、周りの方々の人生にほとんど影響を及ぼさなくなる

と思われます。

今回応募くださった皆さん、ありがとうございました。

ご寄付くださった皆様、ありがとうございました。