今回は「いっぷくからありがとう」さんの2023年04月27日の記事を紹介します。
「心を洗う挨拶」
今日は小林正観さんのお話をご紹介します。
相手の反応に左右されず、自分の心を律し、あいさつをすることは、
とても良い心の訓練であり、心を清浄化し、徳を積むことにつながるというお話です。
・世の中がどのように変わろうと、
・神々による、建て替えが起ころうと
・天変地異が起ころうと
・次元が変わろうと、
最後は、平凡な一般の私たちにとって、心が浄化されているかどうか?
それだけが問われるからです。
それは、今生きている間の幸せも、肉体を脱いで天に帰った後の幸せも、
全てがそこにかかっているからです。
<引用開始> 引用元
『中陰の花』で芥川賞を受賞された玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さんは、
臨済宗のお寺の僧侶でもあります。
その宗久さんが、天竜寺で修行をしていたときの話です。
毎朝宗久さんが廊下の拭き掃除をしていると、庭先から「おはようございます」と、
にこやかな笑顔で挨拶をされる作務衣(さむえ)姿の方がおられました。
宗久さんは、当初はこの方がいったい何者なのかわからず、
ただ、毎朝爽やかな笑顔で挨拶されるので、
とても感じのいい人だとは思っていたそうです。
後でわかったのですが、この方が天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)でした。
この貫長さんは、毎朝決まった時間に天竜寺近くを散歩されていたそうです。
そのときに毎日出会う人がいました。
その人に対して、貫長さんは毎日同じように
「おはようございます」と挨拶をして会釈をなさいました。
しかし、声をかけられた人は、無視をして一切返事をすることがなかったといいます。
しかし貫長さんは、相手の笑顔や挨拶が返って来ようが来るまいが関係なく、
毎朝笑顔で「おはようございます」と言い続けたのだそうです。
三年経ったある日のこと。
いつものように「おはようございます」と笑顔で挨拶した貫長さんに対して、
その人はついに「おはようございます」と声を発しました。
そして、言い終わった後に、「ごめんなさいっ」と、がばっとひれ伏したというのです。
この人の心の中に何があったのか推測するすべはありません。
推測することも無意味なことでしょう。
何があったのかということは大した問題ではなく、
大切なのは、かたくなに挨拶を拒み続け、
視線を交わすことさえしなかった人に対して、一ヵ月や二ヵ月ではなく、三年もの間、
笑顔で「おはようございます」と言い続けた人が世の中にいる、という事実です。
その結果として、そのかたくなに人を拒み続けた人が、
ついに心を開き、涙ながらに「ごめんなさい」と謝ったというのです。
貫長さんは、返事をしなかったことを責めていたわけではありません。
ただ自らの生き方として、相手がどういう態度であろうと関係なく
「おはようございます」と言い続けた、
ということに徹した、ということだと思います。
「これほど自分が挨拶をしているのに、
返事をしないとは何事だ」と言うのは簡単でしょうし、一般的な反応かもしれません。
しかし、それは挨拶している意味がありません。
挨拶をすることで結局ケンカを売っているのでは、何にもならないでしょう。
その人に「おはようございます」と声をかけることは、
貫長さんの側からすると「自分の勝手」ということであったのかもしれません。
自分が行として、ただそのように毎日を送り、
そういうことに徹し、相手がどのような反応であろうと関係なく
そのように生きる、という姿であったのでしょう。
宗久さんが語る貫長さんの姿は、とても爽やかで、清々しいものでした。
<引用終了>
私たちは、相手から善意を受ければ、無意識に善意を返す・・ という「好意の返報性」を持っています。
それと同じく、全く反対に
相手から、悪意や無視といった態度をとられると、無意識に、同じものを返してしまいます。
ですが、この天竜寺の貫長(かんちょう・最高位の方)さんは、違っていました。
相手から例え、何年も何年も、無視され、悪意を返されようと、 自分の心にまで、悪を入れず、心を汚すことなく、ぶれることなく、毎日毎日、善意を施しました。
これは、相当難しいことです。
・自分の心を律する必要があります。
・相手の態度に左右されないという強い心が必要です。
そしてどんな時も、相手に、自分の中の最上のもの
・愛
・優しさ
・いたわり
・思いやり
・深い共感
・笑顔
を向け続けるという訓練になります。
このように、私たちは、日々の暮らしの中において
神様が置いてくださったこの環境の中において
心を、清め、神様のような心になる訓練をすることができます。
自分の身近な周りの方々に、
いつも、笑顔と優しさを伝えていきたいものですね。