2023年11月6日月曜日

3237「天に帰ろうとしている方へ」2023.11.6

 今回は「いっぷくからのありがとうさん」の2023年10月24日「天に帰ろうとしている方へ」と2023年10月20日「小欲知足」の2つの記事を紹介します。


「天に帰ろうとしている方へ」

今まさに天に帰られようとしていらっしゃる方々にも、 

普段このブログで言っている、「感謝」や「ありがとう」が通用するのか? 

綺麗事では無いのか? について書きたいと思います。

アメリカの著名な心理学者、

レイモンド・ムーディー博士が臨死体験者150人の証言をもとに、 

「臨死状態に陥るとどんな感覚になるのか」をまとめあげたものがあります。

それによると、蘇生にいたるまで計14の過程があると言います。


私達は過去、何百回も死を経験し生まれ変わっていますが、 

今生きている間は、それらの記憶が封印されていますから、

あちらでの生活や、その移行過程(生まれる、死ぬ)の記憶はありません。

ですので、この臨死体験者の経験が何か役立つかもしれません。

臨死体験者は、臨死状態から生還にいたるまでまで次の14の過程を踏むのだと言います。

1、自分の死の宣告が聞こえる

2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる

3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も

4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる

5、魂が肉体から離脱し、外部から自分の身体を観察する

6、懸命に自らの苦境を他人に訴えるが、誰にも聞こえない

7、時間の感覚がなくなる

8、視覚や聴覚が非常に敏感になる

9、強烈な孤独感に襲われる

10、周囲に様々な“人”が現れる

11、「光の存在」と出会う

12、自分の一生が走馬灯のように映し出される

13、先に進むことを遮られる

14、蘇生する

臨死ではなく、実際に向こうから戻らない場合には、

上記の13と14が無いことになります。

また肉体が死を迎える時、

脳から大量のドーパミン(快感物質)が分泌されることが解っていますので、 

痛みはありません。

これから、元の世界に戻ろうとされる方は、

意識の中で光が見えたら、そちらの方向へ進んで下さい。

 

瞬間的に亡くなるのではなく一般的には、肺の機能が低下し、

血中酸素濃度が減り、脳の機能停止が起こると言われています。

ですので、私達一般人が 「死ぬ時って痛いんじゃない?」という心配は要りません。

肉体が機能停止した時、光が現れるので、そちらに入って行く・・ 

と言う事さえ間違わなければ大丈夫らしいです。

どうか元の世界に、帰られる皆さん、安心して下さい。

遅い早いの違いはあれ、みんなが通る道です。

また私達は、もうすでに、何百回も輪廻を繰り返していますので、生と死は怖いものではありません。

さて、これで死と言う境界を通過する際の心配は無くなりました。

後は、死ぬ瞬間まで どう生きるか?  

と言う事が問題となります。

瀬戸内寂聴さんは、死ぬ瞬間に付いてこう仰っています。

どんな辛い病気をしても、死ぬ瞬間まで、努力して下さい。

人の命は、そうするに値するものなのですから。

何に努力するのでしょうか?  

寂聴さんは、私達の知っている「努力」と少し違った意味でこの言葉を使っています。

それは、この世に生まれてくる時に。自分で決心したことを、やり遂げることです。

それは、もしかしたら、ブッダが2500年前に説いた般若心経の真髄のことかもしれませんね。

この般若心経はブッダが一番後世に伝えたかったことなのだそうです。 

日本には三蔵法師を介してもたらされました。

そしてこの般若心経の真髄こそが、日々の生活の中での

「ありがとう」、「感謝の心」なのでした。

・全ての人、

・動物、

・植物、

・自然現象に

感謝すること、ありがとうと言うこと。

そして感謝の真心を込めて日々を過ごすこと。。

私たちには、元の世界に帰るまで、時間はあまり残されていないかもしれません。

健康な人でさえ、明日、帰らなくてはならないかもしれません。

どうか後悔せぬように、最後の一息を吐き終わるまで、感謝の日々をお過ごしください。

この最後の意識状態こそが、次の生へと大きく影響すると言われているからです。



「小欲知足」


今日のお話は「小欲知足」ということで、九州のお寺さんのお話をご紹介します。 

これから始まる新しい世の中、

そしてそこまで行くまでの間の、変化の波の中で、一番大切な心かもしれません。

「小欲知足」とは、欲が少なく、わずかなもので満足すること。 そんな意味です。 

一番大切なことは、 

幸せや満たされた日々の暮らしが、当たり前のことではないと言うことです。 

<転載開始> 転載元

  

不平というのは不足の心から生まれます。

不足の心を持つと心が貧乏になっていきます。 

「あれもない、これもない」

「ああしてもらいたかった、こうしてもらいたかった」と。

「小欲知足」という言葉があります。 

小さな欲で足りていることを知ったら、私たちは毎日楽しく生きられると思います。 

「あれもない、これもない」と思って生きるのと、

「これだけあれば充分。これだけあればいいじゃないか」と思って生きるのとは、

どちらが楽しい人生か、容易に想像がつくでしょう。

昨年、茨城県に住んでいるTさんという31歳の男性から、

「お寺で1日修行をさせてほしい」と電話が掛かってきました。

私の寺は九州ですから、いつもだったら「わざわざ九州まで来なくても、

お近くのお寺で修行をしたらどうですか」と言っていたと思います。

でもなぜかその時は、「いいですよ。いらっしゃい」と言ってしまったんですね。

よほど居心地が良かったのか、Tさんは1カ月間も修行されていかれました。

そして朝から晩まで働く中でこんな話をしてくれました。 

Tさんは以前、100日かけてお遍路を回ったことがあったそうです。

その道中で、会った人たちから、

おまんじゅうや果物、おにぎりをよくもらうようになりました。

宿がなくて困っている時に、「よかったらうちに泊まってください」と言ってもらえたり、

お風呂を貸してもらえたり、本当にありがたいことをたくさんしてもらったそうです。

ある日、Tさんが寺を訪れるとすでに閉門していました。

これではお参りができません。仕方ないので明日の朝一番にお参りしようと思い、

Tさんはそのお寺の軒下に寝袋を広げました。

しばらくするとその寺のご住職が出てこられて、彼に向かってこう言いました。

「いい若者がこんなところで何をしているんだ!

おまえたちのような若者がいるから日本はちっともよくならないんだ。

人の情にすがらずに生きていけ!」

叱られてTさんはそこを立ち退きました。悔しくて涙が出てきました。

「何もあんなに言わなくても」と思ったそうです。 

でも彼はふと立ち止まって考え直しました。

「あれはお不動様が教えてくださったのではないか」と。

自分は人の親切がいつの間にか当たり前になっていた。 

人から物をもらう時、初めは「ありがたい、ありがたい」と思っていた。

でもいつの間にか、もらえないと「どうしてくれないのか」と思うようになった。

宿に泊めさせてもらえる時も、最初はとても嬉しかった。

でもいつの間にか、寝袋で寝なくてはいけない日は、

「どうして今日は野宿なのだろう」と不足の気持ちが出るようになった。 

門が閉まっていると、「もうちょっと開けてくれてたらよかったのに」と思うようになった。

そんな私の不平の心を、お不動様がご住職の口を借りて教えてくれたのではないか。

Tさんは次の日の朝、そのお寺にお参りし、

ご住職に「ありがとうございました」とお礼を言って帰られたそうです。

何か自分に嫌な事を言う人がいたら、

「あぁ、言ってくれてありがとうございます」と思える自分でありたいものですね。 

<転載終了>

  

私たちは、日々の暮らしの中で 

・家族がいてくれること

・暮らしを支える仕事があること

・病気でないこと

・目が見えること、音が聞こえること、食べることができること、歩けること 

このようなことが当たり前のことと、思いがちです。 

ですが病気をしたり、失業したり、家族を失った時、 その当たり前だった暮らしが、

どんなに奇跡の連続で保たれ、有難いことであったかを思い知らされます。 

日々の何気ない暮らしは、有難いこと・・その連続で保たれています。 

それをしてくださっているのは、私たちの内に居らっしゃる神さまです。 

日々の暮らしの中で、小さな小さな「幸せ」探しをしてみませんか? 

小さな幸せは、あちこちに沢山あります。

そしてそれに気付けたら、感謝の気持ちが自然に起こってきます。