2025年12月25日木曜日

4117「一面しか見ない私達」2025.12.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月16日の記事を紹介します。


「一面しか見ない私達」


以前書いた記事ですが、大きな自戒も込めて、加筆して掲載します。

もう読んだよ、と言う方は、どうぞスルーなさってください。 

私たちはよく、 

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

・いじめ

・差別

・誹謗中傷

・人格の否定 

などを日常的な光景として目にします。

そして、自分でも、してしまいがちです。 

きっと、それは、そうする人たちが、

相手の方の、瞬間の一面しか見ていないから・・・・

なのかもしれません。

また 

・自分の欲望や、

・愛されたい、

・注目されたい、

・一目置かれたいという

・自尊心を満足させるために、

身勝手なフィルター越しに、相手の方を見ているからかもしれません。 

私たちは、

・人から嫌なことをされたり、

・人の身勝手な言動を見たりすると、

どうしても、心の中に「もやもや」が発生し、 

・怒りの感情や

・仕返ししなくては

・ギャフンと言わせなくては

・正義を通さなければ 

と思いがちです。 

その結果、大切な大切な自分の心が 

・イライラして

・冷静さを失い

・曇ってしまいます。 

嫉妬の心もそうですね。 

・何時も明るく、楽しそうに輝いている人や

・沢山の友人に囲まれている人 

などを見ると嫉妬の心が芽生え、「貶めてやろう」そんな風に思う方もいるようです。 

ですが、それは、相手の方の、ほんの一面、一瞬の姿、形、行動を切り取って 

自分で勝手に解釈し、想像し、妄想し、勝手に嫉妬したり、

勝手に憤りを感じているだけではないでしょうか? 

もしかしたら、その人には、私たちには見えていなくても、

沢山の物語や、理由があって、今の言動を、たまたま

してしまっただけなのかもしれません。 

私は、もうずっとずっと以前から、心に決めていることがあります。

それは、次のようなことです。

人と、会う時、その人の後ろに、その人を愛し育ててくれた 

・ご両親や、

・その人のご家族  

・おじいちゃん、

・おばあちゃん、

・旦那さま、

・奥様、

・子どもたち

・その人の親しい友人たちの姿を、

思い浮かべるようにしよう。

なぜなら、そのような沢山の人達の愛に包まれて、今のその人があるのだから。

どうしてこんなことを思ったかというと、 

もうずいぶん前ですが、社会人になったばかりの頃、 

コンピュータープログラマーとしてうまくいき、得意の絶頂にあった時、 

会社の同僚が自殺してしまったことがありました。 

私はそれ程、親しくはなかったのですが、

私が見ていたのは、彼の単なる会社人間としての顔だけでした。

そして仕事ができるとか、できないとか。

そんな表面的な価値観でしか彼を見ていませんでした。 

彼が亡くなり、お葬式に参列した時、もの凄い衝撃を受けたのです。

多くの友人たちが参列する中、若い息子を無くしたお父さん、お母さんが、 

涙をこらえ、参列者にお礼を述べていられました。

でも、本当に最後の出棺の時、堰を切ったような慟哭があがりました。

それは、ご家族の悲しみの叫びでした。

親より先に亡くなるって、こう言う事なんですね。

私が今まで見ていたのは、会社人間としての彼のほんの一面だけでした。

でも彼にはこんなにも多くの友人たちと、そして愛いっぱいに育ててくださった

ご両親がいたんです。

してしまっただけなのかもしれません。 

得意の絶頂だった私は、仕事が出来るとか、できないとか、優秀か、優秀でないか、

そんな表面ばかり見て人を判断していました。 

でも、もしかしたら、その方は 

・親孝行の息子さんかもしれません。

・おじいちゃん、おばあちゃんの背中で、愛情いっぱいに育てられた人かもしれません。

・子供の頃に病気をして、お母さんが寝ずに看病して下さったかもしれません。

・思春期の頃には、淡い恋をしていた少女だったかもしれません。

もしかしたら、その人は 

・ご家庭では、良きお父さん、お母さんかもしれません。

・お休みの日には、子供たちと一所懸命、遊んであげている人かもしれません。

そして、仕事の要領が悪かったのは、たまたま、その分野の仕事が、

苦手だっただけかもしれません。

ただ、ちょっとおっちょこちょいだけだったかもしれません。

私達は、どうしても、目に見えている一面だけで、人を判断しがちです。

そして現代のような、 

・経済至上主義、

・極端な合理主義、

・成果主義の世間 

では、なおさら人をその一面だけで判断しがちです。

見えている一面だけで、全人格を判断しがちです。 

一瞬だけの態度が気にくわないからと、いじめてしまうかもしれません。 

何か心配事があって、上の空で、返事をしなかっただけかもしれません。

ですが、目の前の人にも、沢山の歴史がありました。

苦悩や涙のドラマがありました。

その人を愛する人達が、周りに沢山いたのです。

その人の一面だけを勝手に切り取って、その人の全人格を否定するとは、

そういったご両親や友人達の、愛や真心までも否定することです。

その方の内に居らっしゃる神様も否定することです。

そう気付きました。

天狗の鼻は折られました。

目の前にいる人を、一面だけで、判断してはいけない。

そう、その時 決心しました。 

自戒を込めて・・・・・ 

あなたが気軽な気持ちで、または自分の欲望に負けて、 

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

・いじめ

・差別

・誹謗中傷

・人格の否定 

しようとする人には、 

・お父さん、お母さんはいませんか?

・おじいちゃん、おばあちゃんはいませんでしたか?

・お子さんはいませんか?

・友人はいませんか? 

その人には、生まれてから、この方、

いったい、どんなドラマがあったのか想像できますか? 

特に、

・自分の嫌いな方

・自分を嫌っている方

のお顔を、思い浮かべ想像してみることをお勧めします。


2025年12月24日水曜日

4116「神々が望むもの」2025.12.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月15日の記事を紹介します。


「神々が望むもの」


私たちは、肉体が自分自身だと思っていますが、 

しかし本体である魂は、同時に多次元に住んでいます。 

多次元とは、肉体の無い世界、物質世界を包括している

非物質の世界(黄泉の国)でも、同時に存在しているということです。

就寝してしまえば、意識は肉体の縛りから離れ、

非物質の世界にフォーカスを移すことができますから、 

黄泉の国と言うよりも、非物質世界を自由に行き来しています。 

目覚めると、再び物質次元にフォーカスされますから、その間の記憶はありません。 

記憶とは、ステート・スペシフィック・メモリー。 

つまり「状態特有の記憶」だからです。

(心身が同じ状態になった時に思い出される記憶) 

私たちは、どの次元に意識をフォーカスさせるかによって、繋がる次元が異なります。

高い波動(意識)状態であれば、神々の世界に繋がるでしょう。

また意識の状態によっては、僧、源信の『往生要集(おうじょうようしゅう)』の描いたような、地獄霊たちの世界や、修羅の世界に繋がることでしょう。 

・人を憎んだり、恨んだり

・嫉妬したり

・悪口、告げ口、揚げ足をとったり 

そのような心でいては、生きていても死後も、心と同じ世界、

醜い世界に繋がることでしょう。 

私たち人間は生きている間は、見えない世界はわからないために、

自分と繋がっている世界が、唯一で、かつ真実なものとみなしてしまいます。

ですが、一人一人の波動が異なるように、繋がる世界も千差万別です。 

私たちが繋がる世界、つまり私たちの波動を決めるのは、私たちの心の状態です。 

心を澄ませ、日本固有の素晴らしい文化、DNAに刻み込まれた性質である、

共生と感謝の心を取り戻せれば、きっと、高い波動領域にフォ-カスすることができることでしょう。 

この美しい日本の文化を作り上げるために、神々は何億年もの歳月をかけました。 

最初のビッグバンから数えれば150億年かかりました。 

私たち日本人は、生まれながらにして、

縄文の先祖たちから受け継いだ、この素晴らしきものを持っています。 

ブッダが2,500年前に悟った時、一番最初に気づいた宇宙の法則は。

縁起の法則であったそうです。 

この縁起の法則こそ、私たち日本人が、

縄文の昔から、既に持っていた心(共生と感謝の心)なのでした。

宇宙にちらばる生命体は、地球にあこがれ、転生を望みます。

地球転生が約束された魂は、日本への転生を熱望します。

まさに、日本人のDNAの奥底に、この神々に直結する美しい心があるからです。

私たちは、何度も何度も転生を繰り返し、

外国に生まれもし、そして今はこの日本に生まれました。 

ですので私たちだけが偉いわけではありません。 

私たち日本人は、ずっと何万年も

みんなで仲良く、助け合い生きてきました。 

共生してきたのは、 

・人間同士だけではなく

・自然

・黄泉の国に帰った人

・そして神々でした

こんな民族が地球上にいるでしょうか? 

3万年前の氷河期、この時今よりは海面は100mの下にありました。

このため、日本は大陸と陸続き、色んな民族が混ざり合いました。 

そして、2万年前、地球の温暖化が始まると

氷が解け、海面が100mも上昇し、日本は大陸から分断されました。 

その結果、島国となり、大陸で頻繁に起こった侵略戦争などは無縁のものとなりました。

平和な時代が1万年以上続きました。 

また、日本は4つのプレートが交わる地域にあります。

(神々が、世界の中に日本と言う文化を作り上げるために、あえてそうしたからです)  

・北米プレート

・ユーラシアプレート

・太平洋プレート

・フィリピン海プレート 

そのため、その沈み込む圧力で沢山の山脈ができました。 

その結果、川が出来、清浄な水が豊富な国になりました。 

また緯度の関係で、日本には美しい四季が生まれました。 

・自然の緑の美しさ

・秋の虫の音色 

私たち日本人は、これらを愛でる心が生まれました。 

外国には無い物です。

(単なる雑音に聞こえるそうです)

(自然や動物は、共生ではなく、支配するものとされました) 

まさに、多くの転生の中で、日本人に生まれることは

当たり前ではなく、有り得ないほど、ありがたいことです。

今、ここ日本に誕生させていただいたことに感謝いたします。

そんな神々に、私たち人間が恩返しできることはないでしょうか? 

神々は、何を喜ばれるでしょうか? 

・お酒でしょうか?

・卵でしょうか?

・お金でしょうか?

それは、私たちの自分自身の波長によって

繋がる神さまも様々ですから様々あるかもしれません。 

ですが、神々の中の神様、大神様はどうでしょうか? 

地球創世の神、国常立大神は何に喜ばれるでしょうか? 

きっと神さまが望むことは、私たち人間たちが 

・素直な心で

・互いを思いやり、助けいあい、

・お互いさま、お陰さまの気持ちで 

仲良く笑顔で暮らしていく  

そんなことではないかと思うのです。 

それこそが、神々が私たち人間に、一番望んでいらっしゃる心ではないかと思うのです。

そして、その心こそが、神々のエネルギーの源泉であり、

神さまと人間たちが、共に幸せになる道だと思うのです。 

・神さまから一方的に何かを頂いたり、

・不思議な現象を見せて頂き、好奇心を満たしたり、

・それを自慢し、人に羨ましがられたり、尊敬されたいと言う欲を満たしたり

・私は神さまと繋がっている特別な人と、周りの人を支配しようとしたり 

神さまは決して、そのようなことを良しとなさる方とは思えないのです。 

神社に行くと必ず、神殿の中に鏡が置いてあります。 

鏡は、私たち自身の ありのままの姿を映し出すものです。

神道の本質は「鏡」にあるとも言われています。 

神社の社殿の鏡は、参拝する人自身の姿を映し出すとともに、

その人の自分の中にある神さま、 

つまり、自分の本質、本当の姿を思い出し、自覚する場所でもあるからです。 

鏡に映るのは、自分の中に居らっしゃる神さまの姿です。 

この鏡の前に座り、敬虔な気持ちで手を合わせ、祈る時、神さまと私たちは繋がります。

そして、神さまの前に素直になった心そのもので、自分の周りに居てくれた人たち、

家族、友人、同僚、そんな人たちに、

感謝と、祈りにも似た気持ちで接することができれば、

神々は喜び、今度はそこで、その場において、

私たちと神々のエネルギー交換がなされることでしょう。  

その時、私たちはきっと気付くはずです。  

・私が好きな人も

・私が嫌いな人も 

・私を好きな人も

・私を嫌いな人も

みんな、みんな大切な人だったと。 

かけがえのない人だったと。

溢れる感謝の気持ちと共に。

私たちは、人の 嫉妬、やっかみ、悪意には鈍感でも構いません。

ですが、人の優しさ、温かさ、思いやり、愛情には敏感でありたいものです。 

なぜなら、そこには、心の中には、神さまがいらっしゃるからです。

その心のことを 神さまと呼びます。 

あなたの繋がる世界は、どんな世界ですか? 

今のあなたの心は、どんな色をしていますか?


2025年12月23日火曜日

4115「青空ひろば」2025.12.23

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1597 2025.11.06 

Q.仏教でいう「空」とはどういうものなんでしょう?

A.

ぜひ「空」の体験をなさってください。一番簡単な方法は、坐禅しながら聞こえてくる「音」に注目します。「これ何ぞ?、これ何ぞ?」と音を奥へ奥へと探ってゆきます。そしてたどり着いたそのモノは、音ではありませんが、それナシでは、音が存在できない「白いキャンバス」のような存在です。その「白いキャンバス」があればこそ、音という色や形が存在できますし、もしあなたが、「音」とあわせて、その「音」を載せている「白いキャンバス」の「無音」も同時に聞くことができれば、これまでの平板的な音とはまったくちがった、立体的な「妙音」が聞こえてきて感動されるはずです。

それが芭蕉さんの「蛙とびこむ水の音」なのです。また、その「空」の白いキャンバスは、すべての存在(岩も、蝉も)のベースとなっている共通なものですから「岩にしみいる蝉の声」なのです。


1596 2025.11.04

Q.小乗仏教と大乗仏教の違いを教えてください。

A.

「小乗仏教」では、この世は苦しみの世で、罪けがれた誤りの世なのだとしています。 

ですから、一日でもはやく悟りを開いて、この苦悩の世界に対する執着心をなくして、この世界から脱出しなさいと教えます。

「灰身滅智(けしんめっち)」といって、この身は汚らわしい肉体なので、はやく燃やして灰にしたほうがいいんだ、この頭が生み出す考えは、すべて錯覚と妄想なので、頭なんてはやく切り捨てたほうがいいんだとします。

そして、今生(こんじょう)が地上生活の最後で、もう二度と地上に戻ってくる必要がなくなったという「アラカンの悟り」が最高の悟りで、悟りがそこまでいたらない人は、あと何回か地上に戻ってこなければならない。その戻らねばならない回数の多少が、小乗仏教の悟りの段階となっているのです。

そして、「小乗」とは、「小さな乗物」のことです。自分だけが乗れる車です。少しでもはやく地上世界を脱出したいものですから、障害物に邪魔されてもクルクル避けて進み、すばやく脱出出来るようにと、「小さな乗物」に乗車するわけです。定員一名のミニカーですから、家族や眷属は脱出の邪魔になります。ですから、小乗仏教は出家主義なのです。

大乗仏教の悟りは、「ひとついのちの自覚」です。すべての人や動植物や山や川(「万類」と呼んでおきましょう)が、実はみんな「私」だったんだと悟るのです。

そして、大乗仏教の学び(修行)とは、その「ひとついのちの悟り」を、地上に現実化してゆく過程のことです。この世に一人でも、万類がひとつでも苦悩したり、正常でない状態になっていたら、「私」は、まだ本当の「ひとついのちの悟り」を得ていないのです。

ですから、地上の万類がしあわせになるまで、私は何度でも地上世界に戻ってきて、私の車にすべての人を収容して平和と融合の世界へと運びます、という誓いを立てるのです。そんな誓いを立てた方が「大乗菩薩(ぼさつ)」です。万類を全員収容して運ぶのですから、「大きな乗物」でなければなりませんね。だから「大乗」なのです。

以下は、宮沢賢治さんの言葉です。この文章に大乗仏教のエッセンスが詰まっています(「農民芸術概論綱要」より)。

○ 世界がぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

○ 新たな時代は世界が「一の意識になり、生物となる」方向にある。


1595 2025.11.03

<自らの心の状態を見事に分析された方に対して>

A.

とてもよく心理状態の分析をしておられて感心しました。その分析力は貴重な財産です。これからもしっかり育てていって下さい。きっと「いい人生道の教師」になられると思います。

ただひとつだけ、お忘れのなっていることがあります。

それは、人間は無力で、無知で、自らの願いを叶えるだけの力も、智慧も持たないということです。だからこそ、神や仏さまに、最後はお任せするしかない存在なのです。

努力は必要で、あれこれ工夫して、神に願いがどうすれば届くのか実験してください。しかし、やるだけやったら、もう最後は願いが叶う、叶わないも含めて、神さまに「まる投げ」すればいいのです。叶っても、叶わなくても、それは神さまの愛の表れ、きっとあなたにとって、それが「最善・最高」の結果なのだと信じることです。 

そう信じて、決してイライラしたりしないし、困ったとか思わないし、神を恨んだりしない、平安な心境になれたとき、あなたが望んでいたこと以上の、もっともっといいビッグサプライズプレゼントをきっと神さまが下さいます。


1594 2025.10.30

Q.すべての人やモノや自然が、懐かしくて、懐かしくて、愛しくてたまらなくなってきたのですが?

A.

「いのちの一体性」が分かってこられたのですね。素晴らしい「悟りの芽生え」をお持ちです。その「悟りの芽」を大切に育てて下さい。それを「聖胎長養(せいたい ちょうよう→お腹に宿した悟りの胎児を大切に大きく育てること)」と言います。

私が今飼っているイヌは、ボストンテリア10歳のメス、名前は「モン」です。鼻ぺチャのブサカワいいイヌです(16歳で天国に旅立ちました)。

散歩していると、よく人が寄ってきて可愛がってくれます。不思議なことには、うちのモンは、ヤンキーのお兄さんやお姉さんにとても人気があるのです。うちのイヌを可愛がってくれている場面の彼ら、彼女らの無邪気な笑顔は本当に美しいなあと思います。ツッパリの囲いなんて本当はないんだなあ、ワザワザ無理な努力をして「幻想のツッパリ囲い」を作っているのだなあと、しみじみ思います。

私も、そしてあなたも、「モン」のように、無邪気にふるまっていながら、なぜか人の「自我のツッパリ囲い」を自然にほどいてしまう人(ほどけ様)になりたいですね。


1593 2025.10.29 

Q.「私はイエスの生まれ変わりだ」と主張する人がいるのですが?

A.

私が皆さんに繰り返し説いているのは、実は「あなた」が釈迦だったのですよ、イエスキリストも実は「あなた」だったんですよということです。

いのちはひとつなのだから、過去の、現在の、未来の、すべての人が実は「あなた」なのです。

それが分かれば、特定の人が釈迦やイエスだといって崇拝したり、特別視したりするのはおかしいということがお分かりになるはずです。 

それに、そんなイエスキリストの生まれ変わりだと主張する方に、「本当はあなたはユダだったんではないですか?」と尋ねてごらんになって、その人がそれを否定して怒るようだと、その人はきっとニセキリストです。「いのちはひとつ」なのですから、イエスであるその人は同時にユダでもあるはずなのです。そんな「私のなかにユダがいる」ということも認め、受け入れ、愛し、抱擁してゆくようになれたのが「本当のイエスさま」なのです。


2025年12月22日月曜日

4114「自分のしたことが自分に帰る」2025.12.22

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月14日の記事を紹介します。


「自分のしたことが自分に帰る」


どんなに人格ができた人でも、時々は、人の言動に我慢できなかったり。

たまたま虫の居所が悪く、イライラしたり、

他人に対して、キツイ言葉を吐くこともあるものです。

人間はどんな聖人君子でも、肉体に付随して

「感情」を持っているのですから、それは仕方ありません。

それは、自分だけでなく、他人も同じです。

自分では覚えのないことに、理不尽に怒りをぶつけられたり、

立場を利用した幼稚な

・パワハラ

・モラハラ

・セクハラ

玉石混合の、この地球を選んで生まれて来たのですから

本当は、覚悟のうえで、私たちは誕生してきました。

ですが、

・他人から理不尽な仕打ちや、

・他人の身勝手な態度

に対して、いちいち腹を立てたり、仕返ししようとしたり、しない方がよいようです。

仕返しではなく、人それぞれの生き方、そこから醸し出される波動・・

それらが、宇宙に広がって、必ず同じ波動が同調して

自分自身に同じ現象が返ってくるからです。

宇宙の法則です。

このことを、「復讐するは我にあり」と言います。

我とは、自分のことではなく、神様のことです。

復讐は、神さまの仕事です。

自分ではジャッジしたり、手を下すな!と言うことです。

それでは今日は、小林正観さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元

ある女性(40歳くらいの会社員)から聞いた話です。

その人には、23~24歳の後輩のOLが3人ほどいました。

春と秋には、会社の人たちとバーベキューをしにいくのが恒例になっていました。

そんなとき、いつものその3人のOLは、焼いているときは遠くでおしゃべりをし、

食べる段になると、最前列まで来て食べる。

そして片づけのころになると「用事があるので失礼します」と言って帰っていく…。

何の手伝いもしたことがない、というのです。

その女性は、「今まで、精神的なことをいろいろ学んできた結果、

イライラしたり、腹を立てることも少なくなってきました。

でも、あの3人に対しては、どうしてもイライラと腹が立つのです。

どのように解決したらいいでしょう」

と言いました。

自分が、バーベキューを手伝いたくないのなら、やらなくていいのです。

やりたければやればいいし、やりたくなければ、やらなければいい。

その結果が自分に返ってきます。

それが「自己完結」です。

要領よく立ち回っているその3人のOLは3人とも、

それぞれの人生で「自己完結」するはず。 

ですから、自分の持っている価値観と他の人

(この場合は、3人のOL)のそれが違っても、論評する必要はありません。

必ずその3人には、その生き方に見合った結果が返ってきます。

必ず自己完結するのです。

逆に、自分が他人に対して腹を立てながらいやいややっていれば、

それも「自己完結」するし、笑顔でやっていても「自己完結」します。

「頭にくるからやらない」といいうのでもいいのです。

ただ、それに対しての「自己完結」も必ずやってくる、

ということを覚えておいてください。

この話をした結果、その40歳の女性は 

「気持ちがすっきりし、他の人のことが気にならなくなりました」と言いました。

それ以降は、その3人のOLが要領よく立ち回っていても、

笑顔で過ごせるようになったそうです。

<引用終了>

人の悪口を言う人がいます。 

また嫉妬の心や、悔しさから人の陰口を吹聴する人もいます。

また現在のようにネットが普及してくると、

SNSで人の悪口や非難をする人も目にします。

もしかしたら、相手がいないところで、

自分の周りの人に、悪口を吹聴している人もいるかもしれません。

そして、それに対して、反応してしまい、今度は自分が同じようにやり返す方もいます。

ですが、それらの行為は、やめた方が良いかもしれません。

今度は言った相手ではなく、仕返しをした自分自身が同じ土俵に立ち、

同じような嫌な波動をまとい、自分自身の人生に不幸を引き寄せてしまうからです。

やられたからやり返す。

そうしなければ、自分は正しく生きているのに、何だか負けた気になってくる。 

やられ損にはなりたくない。

ですが、その心では、必ず相手と同じ波長をまとってしまいます。

私たちの住む世界は、自分の心の状態が現実を作りますから、

その汚れた心と同じ現実が、自分の周りに現れてくることでしょう。 

また生きている間だけでなく、死後も、その世界に住まうことになるでしょう。

ですから例え悪口やイヤミを言われたとしても、

それを心に留めず、受け流し、受け取らなければ良いことです。

もし目の前で言われたのなら、ニッコリ笑って 

「ご忠告ありがとうございます。感謝します」と言って、

離れたら、また元のように、ご自分の信念に基づき行動すれば良いだけです。

ブッダもこのような時、 

静かに反論せず、受け取らなければ良い・・ そう仰っています。

人から根拠なき悪口やイヤミ、陰口を言われることは日常茶飯事ですので、

仕返しや、反論など考えず、その後のことは神様にお任せして、

自分自身の波動を、同調させないで、いつも感謝の心でいたいものですね。 

かなり楽に、そして幸せに生きられるかもしれませんね。

分裂する地球。
私たちは、今の自分の心の波動(状態)に従った世界に移行します。


2025年12月21日日曜日

4113「何か問題でも?」2025.12.21

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月12日の記事を紹介します。


「何か問題でも?」


私たちが今世、肉体をまとい、

物質的な地球に生まれて来たのには意味があります。

魂を進化させる。 

これは全ての生命体や、その他の被造物が同じ目的を持っています。 

自分では何もせず、神々に頼り、願い、すがって叶うものではありません。 

かえって、その「依存の心」は、魂を弱らせ、 

神々から離れてしまう方向性を持っています。  

また、

・お金のために人を陥れたり

・地位に固執したり

・プライド高く人を見下したり

・嫉妬心から人の足を引っ張ったり 

つまり、心を汚して、真っ黒くしていては

魂は重く、未来は今の心と同じく、黒く汚いものになることでしょう。 

良きことも、悪しきことも、自分のしたことと同じことが、

倍になって、自分に帰ってきます。 

派手さも無く、地味なことなのですが、

自分の心をピュアで綺麗に保つこと。 

周りの方々に、愛と思いやりを持って接すること。 

これこそが、魂の美しさを保ち、

肉体を脱いだ後も、真っすぐに神々の所へ行くための王道です。

ピュアな美しい心でいるには日々の 

・思い

・考え

・言葉

・行動 

を良く制御する必要があります。

一朝一夕にはできませんが、失敗したら反省し、また軌道を戻す。。 

その繰り返しで、いつの間にか意識せずともに、心の中の罪や穢れが 払われて、

人々や神々に愛される 美しい心となります。  

それでは今日も 

・神々に愛される美しい心を保つために・・

・そして本当の幸せをつかむために・・

・心の中の神々と直接対話できるように・・・ 

書きたいと思います。

ご自分の心が整理されていないゆえに、自分自らが、悩みや苦しみ、不幸をかき集め 

幸せになりたいのに、無意識のうちに、それを拒否して、

あえて、自ら進んで、不幸な人生を送ってしまう・・

そんな方向けの記事です。 

幸せになりたいのに、自分の心の何が原因でなれないのか? 

そんな方向けのお話です。 

過去に書いたこともありますが、加筆して掲載します。 

もう読んだよって方は、スルーなさってください。 

小林正観さんのお話です。

テーマは「で、何が問題なの?」です。 

正観さんはブッダの説いた真理を、

今の言葉で、解り易く、そして実行しやすく説いて下さいます。

<引用開始>

あるところで、一泊二日の泊まり込みの旅行がありました。

数十人の人が泊まり込み、夜を徹してしゃべり、翌朝も一緒に朝食を食べました。

朝食の時、隣にご夫婦が座っていました。

私の顔を見るなり、その奥さんが話しかけてきました。

「質問してよろしいですか」「どうぞ」

「実は私の子供なんですが…」というふうに話をし始めました。

私は、そこで両手でバツを作りながら、にっと笑って「ブー」と言いました。

実は、その前夜に数十人でお茶会をやったときに、

何十人もの人から同じような質問を受けていたのです。

その質問とは 

「自分以外の人間を、自分の思いどおりにするには、どうすればよいか」 

というものでした。

質問している人は、それぞれ全部、状況が違います。

自分の思いどおりにしたいその対象は、 

・子供であったり、

・親であったり、

・夫であったり、

・妻であったり、

・職場の同僚であったり 

はするのですが、

結局は、自分を取り巻いている人間関係のなかで、気に入らない人を

「自分の思いどおりにしたい」というのが悩み相談のほとんどでした。

それを昨夜のうちに何回も何回もくり返し言っていたのです。

「また、自分以外のことの質問なんですね、 

実は…自分の質問のようにご本人は思っているでしょうけど、

結局は自分の思いどおりにしたいということですよね」と言いました。

一分ほどこの方が黙っていました。

また口を開きました。

「職場にですねえ…私にすごくつらく当たる上司がいるんです」。

私はまた笑ってしまって、手でバツを作って「ブー」と言いました。

私は、次のような話を続けたのです。

「もしかすると、日常生活ではほとんど笑顔がない状態で、そのように行く先々で、 

家庭の中で、職場で、あるいは友人の中で、いつもいつも『これが問題だ、問題だ』と 

言い続けてきたのではありませんか。

もし、私があなたの上司であったならば、あなたの顔を見たら、 

『これが問題だ、これが問題だ』と言っている

あなたに対して、自分に近づいてこないように、

より厳しく、より冷たい言葉を投げかけるのではないでしょうか。

『私のそばに寄ってくるな』という意志や、作用が明らかに働くと思います。

『問題だ、問題だ』というふうに、

問題をわざわざ、熊手で集めてくるのをやめにしませんか」と言いました。

「こんな楽しいことがあってね、

こんな嬉しいことがあってね、

こんな幸せなことが実はあったのよね、

こんなおもしろい話に出会ったのよね、

つい最近読んだ本がものすごくおもしろい本だった」

そういうように笑顔で話す人がいたら、その人の周りには人が集まると思います。

その人の口から出てくる言葉が

・嬉しい

・楽しい

・幸せ

・愛してる

・大好き

・ありがとう

・ついてる

(この七つを、「七福神」ならぬ「祝福神」と名づけました)。

そういう喜びの言葉、幸せな言葉というものが外に出てきたら、

それを喜ぶ人たちがたくさんいます。

「問題だ、問題だ」と問題点を探し出すよりも、 

受け容れることで、自分が楽になるのです。

そして、受け容れることでさらに、

そこに喜びを感じ、幸せを感じ、さらに感謝を感じることができたならば、 

その一つひとつの言葉に人々は癒されて、明るい気持ちになり、

その人の周りに皆さんが寄ってきます。

そして、周りの人みんなが笑顔になり、笑顔の集団が出き上がります。

<引用終了>

よくよく悩み事を分析して見ると、ほとんどが

・自分以外の人間を、自分の思いどおりにするにはどうすればよいか? 

・自分が思っているように、自分が気にいるように、相手に行動してもらうにはどうしたらよいか?

などのようですね。

ですがブッダが般若心経で伝えてくれたように、周りに起きて来る現象を

全て肯定して受け入れてしまう、そのほうが良いかもしれません。

悩みが悩みで無くなりますから。 

人が

・自分の思い通りに行動しない、

・時間を守らない

・ずうずうしい

・自分の価値観にそぐわないことをしている、、 

そんなことで、イライラするのはやめましょう。

スーパーの障害者用駐車場に、我が物顔で駐車しようとする人に

腹を立てるのはやめましょう(笑) 

人には人の心があります。

それに従った住む世界があります。 

私たちは、他人の心を推し量ることはできません。 

私たちが集中しなければならないこと、それは、他人のことではありません。 

まさに私たち自身の 心の在り方だけだからです。 

自分の心がイライラしたり

乱されるものからは離れましょう。心に入れないようにしましょう。 

悪い情報を、ムリにかき集め、毒を周りにまき散らすよりも、

明るく楽しい情報を周りに笑顔で発信していたほうが、

どんなに幸せになれることでしょうか?

きっと、ご自分でも驚くほど、運命が好転していくことと思います。


2025年12月20日土曜日

4112「二億パーセント大丈夫」2025.12.20

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月11日の記事を紹介します。


「二億パーセント大丈夫」


今まさに、 

・どんな逆境に置かれていようと

・どんな辛い病気であろうと、

・貧困の淵にあろうと 

そんなことはお構いなしに、周りの環境は、どんどん変化しています。

・悪く見える方向にも

・良く見える方向にも 

一瞬たりとも、同じ状態であるものは、 

この世に存在しません。 

その状態の変化、環境の変化、 

それらが何によって方向付けされるかといえば、

全て、私たちの心です。

あなたの心は、清らかに洗われていますか?

それとも、どす黒い憎しみに覆われていますか? 

今の心の状態に従って、少しづつ、運命は動いていきます。変化していきます。

中間世記憶、つまり生まれる前の記憶を持つ

子供たちが、話してくれた通り、私たちの今の人生を、魂のレベルから見た時、

・どんな辛い環境の中であろうと

・病気であろうと、

・貧困の中にあろうと、

・孤独の中であろうと

全ては、私たちが生まれる前に、計画して来た通りの状態であり、

そして、それは神さまの承認を得て、生まれて来たのだそうです。

今日は、以前掲載したこともあったのですが、

非常な逆境の中で生きる、一人の女性のお話です。

これも、やはり魂の醍醐味を味わうため。 

魂の成長のための、あえて選んで生まれて来た苦難であると分かります。 

母を救った娘の言葉

・知的障碍のある長男の誕生、

・夫の死、

・そしてご自身の大病。

度重なる試練に見舞われ、悲しみのどん底に沈んだ岸田ひろ実さん。

今日は車いす生活になり、絶望を感じていた岸田さんを救った、

娘さんの言葉をご紹介します。

<転載開始> 転載元

ある日、娘が車椅子を押して、私を街に買い物に連れ出してくれたんです。

目的の店はすぐ目の前なのに、車椅子では遠回りしないと行けないというようなことが、

いかに多いかを、この時の外出で初めて実感しました。

それともう一つは、人の目線ですね。

どこに行っても

「うわぁ、かわいそう」といった目で見られてしまう……。

「車椅子で何とかなると言ったって、 

何ともならないじゃない」

という感情がワッと込み上げて、一所懸命に頑張ってきたものが

音を立てて崩れるようでした。

それが本当に辛くて、レストランに入った時、「もう無理」と思って

初めて娘の前で泣きました。

「こんな状態で生きていくなんて無理だし、

母親として、してあげられることは何もない。 

お願いだから、私が死んでも許して」って。

――娘さんは何と?

「泣いているだろうな、死なないでって言われるんやろうな」

と思ってふと見たら、普通にパスタを食べていました。

そして

「知ってる、知ってる。死にたいんやったらいいよ。一緒に死んであげてもいいよ」

と言ったんです。

続けて

「でも、逆を考えて。

もし私が車椅子になったら、ママは私のことが嫌いになる?面倒くさいと思う?」

と聞きました。

「思わないよ」

「それと一緒。

旅行に行きたかったら行けばいいし、歩けないなら私が手伝ってあげる。  

二億パーセント大丈夫だから私の言うことを信じて、もう少しだけ頑張ってみようか」

と言ってくれたんです。

私の生き方や考え方が大きく変わったのはそれからです。

<転載終了>

「逆境は真実への第一歩」と言われています。

自分が経験したことのない痛みや苦しみは、本当に理解してあげることはできません。

・親が離婚した子供の悲しみは、親の離婚を経験した人にしかわからない

・子供を亡くした親の悲しみは、子供を亡くした親にしかわからない

・多重債務や倒産、破産、一家離散の苦しみは、それを経験した人にしかわからない

・過ちを犯してしまった人の苦しみは、同じ過ちを犯してしまった人でないと、わからない

同じように

「その苦しみや悲しみから救ってもらった時の 

『人の情けのありがたさ』も、苦しみや悲しみから救ってもらった人にしかわからない」

子供でも大人でも、救いや指導を必要としているのは、

今まさに、苦しみや悲しみを伴う逆境の中にいる人達。

逆境を突き抜けたところに、自分にしかできない、生きる道がある のかもしれません。

今まさに、自分は逆境の中にある、そう感じている方、

そんな人こそ

「同じような過ちや逆境の中で、 

同じような苦しみや悲しみを背負っている人たちに声をかけ、 

手を差し伸べる人」なのかもしれません。

そのために、天が試練を与えてくれてるのかもしれません。

その中にこそ、私たちが、この世界に生まれて来た目的が、あるのかもしれないですね。

もう一度、この試練を生きる糧に変えた母と娘の、 

本物の笑顔の写真を見てください。

もしかしたら、もしかしたら、

私たちの、その目の前の試練は、

とてつもなく大きな神様からのギフトなのかもしれません。


2025年12月19日金曜日

4111「泥を肥やしに咲く花」2025.12.19

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2025年12月09日の記事を紹介します。


「泥を肥やしに咲く花」


今日は西尾市にある浄名寺の副住職 松原紗蓮さんのお話をご紹介します。

親と子は時に離れ離れに暮らさなければならないことがあります。

まして自分が捨てられたと感じた時に、

子供はどんな気持ちになることでしょうか?

<引用開始> 引用元

私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。

幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、

親代わりの庵主様や、世間様の「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

同級生からはその逆に、お寺の子であることや、

実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが

「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、

泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。

張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。

役所に、ある書類を提出する際、

庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、

母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。

自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。

一体何を信じて生きてきたのだろう?

事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。

そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、

・髪の毛を金色に染めて、

・耳にピアスの穴を開け、

・あらゆるものに歯向かい、

・強がって見せることでした。

暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。

14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、

私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。

私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、

そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は

訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られてばかりでした。

ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、

読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。

例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。

私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。 

それは親心を越えた、仏様の心というものでした。

また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、

内から輝けるようになりなさい」と言われました。

人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、 

本当の生き方ができるようになるのだというのです。

私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない

簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。

ではその分、一体何に時間を使っていたか。

そう考えた時に、 

庵主様はすべての時間を

「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。

私の思いの至らなかった陰の部分では、

どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、 

御仏の光に照らされ、 

初めて親のお陰、世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。 

修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、

本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は

「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。

ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、

かえって反発を生むだけだった。

いまおまえが分かるということは、

おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」

とお話しになりました。

庵主様には1つの願心があり、

私がグレ始めた14歳の時に、

10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。

そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、

自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、 

どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。

庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、

私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。

23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。

後にある方から

「美しい蓮(はす)の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。 

人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、

その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」

と教わりました。

振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、

私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、

市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。

けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。

人一倍光るようになるよ、この子たちは――。 

私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。 

<引用終了>

紗蓮さんを変えたきっかけの言葉は、「少欲知足」だったそうです。

少欲にして足るを知る。 

なかなか実践することは難しいことですね。

私たちは、この物質文明、お金至上主義の真っ只中に生きており、 

お金が全て、そして便利さの恩恵にあずかっています。

お金や、その便利さ・快適さを得ることが人生の目的になり、

それが本来の人間らしい生き方を見失わせる原因になっているのかもしれません。

紗蓮さんは、育ての親の無償の愛に気付いた時、立ち直れました。

振り返って私達はどうでしょうか?

自分の都合のよい時だけ、子供に愛情を与え、

子供が自分の意に添わなければ、

「フン」と言って子供をないがしろにしてはいないでしょうか?

この庵主様のように、何があっても「平素のように生きよ」と、 

他人(や子供)の態度に一喜一憂せずに、

平素のように「慈悲」の愛を注ぎ続けたいものですね。

そうすれば、この庵主様と紗蓮さんの関係のように、

周りに愛の灯を広げて行くことが出来るかもしれません。