黒石寺妙見堂に祀られている妙見菩薩の解説は以下です。
「妙見尊星王や北辰菩薩ともいい北極星を神格化しその本地仏。童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、笏や剣を持つ。
脇侍は北斗七星を示す北斗菩薩。道教・陰陽道の影響が強く、武運長久、国家安隠、五穀豊穣の尊神であるが、物事の真相を見極める霊力があるとされることから眼病平癒の霊力を持つといわれる。平氏、源氏の妙見信仰には篤いものがあった。」
「北辰と言えば北辰妙見で、天御中主尊に繋がり、北極星(北辰)を神格化したもので、仏教でいう北辰菩薩、妙見、天王とみなす信仰です。この「天王」が牛頭天王(=素戔嗚尊)とされるから、妙見社に素戔嗚尊が祀られることも多い。」
さらに妙見信仰と黒石寺の事については以下サイトの記事が参考に成ります。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/30181010.html
妙見信仰について以下の記載を紹介しておきます。
「妙見信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいうが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰である。
道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされた。
この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習合したという。
この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。
※鎮宅霊符神
鎮宅霊符の“霊符”とは一種の護符で、ご利益の種類に応じて多くの霊符があるという。わが国でいう“お札”“お守り”の原点ともいえる。
鎮宅霊符とは72種の霊符を一枚にまとめたもので、文字通り家宅を治め家人の安全を護る護符であり、これを家の四方に配すれば邪霊排除、いわゆる魔除けに効果があるとされた。
その霊符が時代とともに次第にご利益の範囲を弘め、例えば漢の頃、貧しくて病難災厄が続いていたある一家に、ある日二人の童子が訪れて鎮宅霊符を授け、
「これを朝夕礼拝祈念すれば、10年にして家おおいに富み、20年にして子孫繁栄、30年にして天子がその家を訪れるであろう」
と告げた。奇しきことと思いながらも礼拝していたら、お告げの通り天子が訪れてくるまでに富み栄えた。その家を訪れた天子は、その話を聞き、この霊符の霊験あらたかなことに驚き、自らも信奉し且つ天下に弘めさせた、との伝承があるように、数ある霊符のなかで最も強力な力を持つ霊符として広く信仰されたという。
※北辰妙見菩薩(妙見菩薩)
仏教にいう“菩薩”とは、“悟りを求める人”あるいは“悟りを得た人”の意で、仏に次ぐ地位にある尊格だが、妙見菩薩は菩薩を称するもののインド由来のそれと異なり、仏教パルテノンでは、弁財天や毘沙門天などと同じく“天部”に属する。一般の菩薩に比べて格が低いということだが、その分、身近な尊格として親しみやすかったのかもしれない。
妙見とは“妙なる視力”、事の善悪や真理をよく見通すという意で、七仏所説神呪経(5・6世紀頃中国で成立した偽経)には、
『吾は北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん』
と現世利益の功徳を讃えている。
わが国では密教や修験道で重要視され、これを勧請しての国家鎮護・除災招福の祈願が密教僧あるいは修験僧によって盛んにおこなわれたという。特に日蓮宗では「日蓮が宗門隆盛を祈っているとき、天から大きな明星が降りてきた」とか「日蓮が伊勢の常明寺に滞在しているとき、北辰妙見菩薩が姿を顕した」といった伝承から、宗祖・日蓮との関わりが深く、妙見菩薩を祀る星祭りが盛大におこなわれたという。
また俗信では、眼病平癒に験ある仏として巷間に浸透している。
※天御中主神
アメノミナカヌシとは、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出でた造化三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)の中心となる神である。ただ、この神は開闢の冒頭に登場するもただちに身を隠したため何らの事績もなく、古社のなかでこの神を祭神とする社はなく、この神の後裔を名乗る氏族もないという不思議な神で、重要な神でありながら中心から身を引いた神といえる。
しかし鎌倉以降、特に江戸時代になって記紀神話の再解釈や神道思想の高揚とともに、この神を天地創造の主宰神・世界を創造し支配する最高神とする思想が生まれ、神仏習合の進展ともあいまって妙見菩薩や鎮宅霊符神と習合していったといわれる。
この神が鎮宅霊符神と習合したのは、両者ともに宇宙を創生した最高神とされることが大きな要因であろうが、この神について、記紀神話に何らの記載もないことから、後世の神格形成に際して自由度が高かったことからともいえ、それはキリスト教におけるマリア信仰と同じである。
※妙見信仰の現在
江戸時代までの妙見信仰は、仏教の北辰妙見信仰と道教の鎮宅霊符信仰、そして神道の天御中主信仰などが入り交じった複雑なものであった。しかし現世利益を求める庶民からすると、そこに祀られている神仏の神格・由来など関係ないことで、ただありがたい神仏として祈ることと引き換えに、求めるご利益さえ与えてもらえば良しとしたのが実態で、それは現在にも引き継がれた庶民の信仰である。
いま鎮宅霊符神を表に出している社寺は少なく、ミョウケンボサツを主尊とする寺院とアメノミナカヌシを主祭神とする神社に別れている。これは明治初年の神仏分離によって、鎮宅霊符神が邪神として排除されたためである。」
違う切り口で参考になりますので、以下のものも紹介しておきます
「天智天皇や持統天皇が大和朝廷を確立しようとした頃、アラハバキ神や瀬織津姫などの縄文神を封殺しようとしたのと同時に、古来からの縄文人やスサノオ、ニギハヤヒ、出雲族を抹殺しようとし、また、いわゆるスキタイ(騎馬民族)系など源氏系統の人々を関東以北まで追い払っていきました。
後に大和朝廷と闘うアテルイたち蝦夷(エミシ)や、源頼朝などの関東武士(武士のルーツはアテルイです)たちにも妙見信仰がありました。
幕末の戊辰戦争で敗れた旧幕府軍である新撰組の土方歳三や榎本武揚たちも、開陽丸に北斗七星の旗を掲げていました。
新撰組が甲斐甲府城に憧れたのも関係があります。
空海、修験道、武士…これらに密接に関わる北辰妙見信仰とは、とてもとても簡潔に説明することは不可能どころか、未だ様々な方が研究されており、何冊も本が書けるテーマですが、そこはオイラ、妙見研究家ではありませんので、バサッと結論を言います。
北辰の辰=ヘビ=竜=艮の金神
北辰妙見菩薩=弁財天=瀬織津姫=アラハバキ
艮の金神=アラハバキ=宇賀神=宇宙根元神
実にシンプルじゃないですか!
元々、北極星・北斗七星信仰とは、宇宙根元神信仰なのですから、渡来人政権である大和朝廷にまつろわない縄文の系譜や、その人々と調和していたユダヤ、スキタイ系統の人々は、名前は変われど同じ神を信仰していたことになるのですね。
いや、神と言うと誤解が生じる可能性がありますので、真理・法則と言いかえることができます。
それを縄文アミニズムとも言います。
人は宇宙根元神の分御霊(わけみたま)でありますので、私=神。
また、神は万物に偏在しますので、山にも草木にも、動物にも等しく神を見出すことが出来る訳ですね。
つまり、私はあなたであり、あなたは私であり、私はウリ坊であり、ウリ坊はあなたでもあると。」(縄文アラハバキが世界を変える)
「北斗七星を象った七曜紋は妙見菩薩の象徴とされ、妙見信仰の霊場では七曜紋や九曜紋の星紋が多く用いられています。
また、七曜紋の七つの星は「日・月・火・水・木・金・土」を表し、「日輪・月輪・光明輪・増長・依怙衆・地蔵・金剛手の七菩薩」を意味するといわれています。」
「九曜紋は七曜に「羅ご(ラゴ)・計都(ケツ)」の二星を加えたもので、土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。」
神社などで神紋、家紋が七曜紋や九曜紋は妙見信仰と考えて間違いありません。伊達政宗も細川家から九曜紋を頂いていたようです。
日高見の旅から大分脇道にそれましたが次の目的地は新幹線水沢江刺駅近くの出羽神社・アテルイ顕彰碑です。
2013年11月30日に出羽神社を訪れました。その時に以下のお言葉を頂きました。
「きっと、きっと成し遂げられませ。
皆々様のこの響きと光りでこの地を元へ還し行き、再び大きなる地と為さりませ。(拍手)
お~、承りた。共々に光を配りて、変え行かん。(拍手)
この地にありし大きなる思い発し行く時、伺いたし。(拍手)
是より、北の力を得て渦作り、その時を知らせ行く。
ここに花咲くその時を待ちて構えて下されませ。(拍手)
嬉しきなり。」
この言葉にある様に、ここに花咲くその時を待ちて構えて下されませ、に応じて今回の旅は企画されました。ですからの最大の懸案の訪問先でした。
花の咲くころという事で、桜の咲く5月連休明け頃の予定でしたが、諸事情で今回に延期されていました。果たして花が咲いている事との指定に応えられないと危惧していました。しかし、それは杞憂でした。
境内の整備も進んでいて、倒木が片づけられ綺麗になっています。神社脇を通ってアテルイ顕彰碑の方に進むと、木々に綺麗な白い花が咲き乱れているではありませんか。何の花かと皆さんで問い合いましたところ、どうやらツルアジサイの様です。この様にツルアジサイが群生しているところは珍しいようで、将にこの時に巡り、参ることが願われていたようです。
アテルイ顕彰碑で北の方向を向いて、あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「更なる響きを(拍手)
(あ、い、う、え、お、あ。)
今ここに揃いたるは、見事に果てたる大きな御魂を讃え、これよりの新しきは、
その古き時へと、かえさんと致すものなり。
再びの、大きなる地を見るべく、方々、皆々様、集いて、変え行きましょうぞ。
古き事々、諸々は、一切無しと致して参ろう。
生まれ出で来る、嬉しきへ、共に参らん。(拍手)
だい、だい、だんぶる、すべるは皆々、うんだり。ひむう、ふるい。」16時14分
どうやら、目的は達せられたようです。最期の言葉の意味は解りません。古のこの地での言葉の様です。
2014年6月29日日曜日
2014年6月28日土曜日
321「日高見4」2014,6,27
昼食後目指すは、一関市東山町の石と賢治のミュージアムです。
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,0,149,html
ここはかつて東北粉石工場として土地改良剤の石灰石粉を製造する工場でした。宮沢賢治の晩年にあたりますが、彼は東北の気候風土の中で難儀する農家の困窮を救うために、昭和6年にこの工場で技師として活躍しました。しかし品物を鞄に詰め、重い荷物を抱えて東京に出張中に病に倒れてしまいます。賢治の有名な「雨ニモマケズ」はその病床にあった11月3日に彼の手帳に記されていたものでした。
賢治は明治29年8月27日(1896年)に生れ、昭和8年9月21日(1933年)に亡くなっています。彼の生誕の年1896年6月15日には三陸地震津波、最後の年1933年3月3日に三陸沖地震が発生して甚大な被害がおきています。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感じる、と賢治の弟の宮沢清八氏は話しておられます。
このミュージアムは石っこ賢ちゃんと呼ばれた宮沢賢治が見ていた、自然の不思議な秘密を、石を通して学び、賢治の足跡を辿れるところです。美しい石、不思議な石、めずらしい石、化石などが数百点展示されています。面白く、楽しく賢治の宇宙に遊びました。
次の目的地は奥州市水沢区の妙見山黒石寺です。http://kokusekiji.e-tera.jp/
黒石(こくせき)寺は縁起については以下の様です。
「人皇45代、聖武天皇天平元年(729)、奈良法相宗(ほっそうしゅう)薬師寺五代行基和尚が東奥に行化(ぎょうげ)し、この地に至り渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山した。」
「嘉祥2年(849)、天台宗三世慈覚大師円仁が東大寺を出て錫(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興、四十八宇を造った。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。」
この地は蝦夷の栄えた地で、幾度となく大和朝廷との戦に見舞われたようです。そして最後の抵抗の地であり、寺も消失しています。そしてこの寺を坂上田村麻呂が再建しており、田村麻呂の崇敬心も深く、胆沢城に石手堰神社(通称黒石神社)を官寺として建てその神宮寺的な存在であったようです。
黒石寺の蘇民祭は特に有名です。蘇民祭信仰の内容は以下です。
「北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘を娶ろうと旅をしていたが日が暮れてしまった。武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め、粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り、子を為した蘇民将来の所に、再び武塔神が八人の王子と現れ、「かつての報いをしよう。お前の子孫がこの家にいるか。」と問うと「妻と娘がいます。」と答えた。すると、茅の茎で作った輪を(茅の輪)身に付けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻と娘以外の全てを滅ぼしてしまった。そして、自分の正体が須佐之男命(スサノウノミコト)であることを明かすと共に、「後の世に疫病あれば『我は蘇民将来の子孫である』と唱え、茅の輪を身に付ければ、無病息災が約束されるであろうと告げた」とされ、この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がっていたのではないかと考えられている。
武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。」
武塔神は須佐之男命、牛頭天、薬師如来は同じと言われます。
「蘇民祭はほぼ日本全国に分布しているが特に岩手県の場合、記録保存のために国指定無形民俗文化財となっている。黒石寺の場合は蘇民将来の護符を奪い合う形態をとっており、一千年以上の歴史を持つといわれ、祭日は旧正月七日から翌日早暁にかけて古式通りに行われる。」
黒石寺の事については以下の記事も参考になります。
http://www.emisi.com/material/13_2002.9/kokusekiji.htm
黒石寺の本尊は薬師如来ですが妙見宮には妙見菩薩像が祀られていて妙見信仰もあります。本堂の左手の階段を登り、丘に妙見堂があります。そこであわ歌を響かせました。
そこでのお言葉です。
「いや増す響きとこの光、この地に持ち来るが、生まれ出で来る方々ありや、無しや。
共々参る、新しき道は、この時なり。
留まり行くや。進みて参るや、定め成されよ。
うつりたり響きは、全てを暴きて正します。
この時、この光とひとつへ。(拍手)
ふつつかなりせば、この身は未だ、暫しの時を過ごし行く。(拍手)
さすれば、大きなる光を持ちて参るなり。(拍手)」 15時22分
新しき道へとの誘いに対して、答えはここに留まり動かぬ、という事です。「さすれば、更に大きな光を持って来る、」と言います。北斗妙見に係る大元が同意しないようです。
これは大きな課題と成りました。日を改めて、準備を整えてこの地を再訪することになりました。今年の9月9日の儀式には日高見の地を整えて迎える必要がありますので、その前になります。
終わって戻って来るとKさんが体調が悪いと言います。岩手に住んでいた賢治とも縁深い方ですがこの場のエネルギーの影響を受けたようです。気を送って症状が改善できました。
以前この黒石寺の妙見堂であわ歌を響かせた時がありました。それは2010年10月11日15:57で、その時のお言葉は以下の内容でした。
「訪ねて参り来たり。
このあわ歌の響き、持ちて届けたり。
この響きを聴きたるや。
この響き、これよりこの地、この宇宙に響き、満ち満ちて、全ては変わり行く時ぞ。
この響きと光と、ひとつに成られたれば、元に帰る。
その時に出でませ、参りませ、進み行きませ。
多くの皆々進みておるなり。参りませ。お待ち申す。
永きにわたり御苦労でした。ありがとう。 (拍手)」
この時も動きませんでした。
2012年7月9日に、同じく妙見信仰で、日本三大妙見の一つ、相馬妙見を祀る、福島県相馬市の相馬中村神社を訪れて、あわ歌を奏上した時がありました。その時は以下の様なお言葉でした。
「ずい、ずい、ずいの、ずいを通して行く輩を、しっかりと現して、ふるうなり。(拍手)かなう、かみう、かたう。(拍手)
是より光をここに降ろす。皆々参りて受けられよ。」
あわ歌奏上
「大勢の所縁の方々、集まりありがたき。これより申す事々にお答え下され。(拍手)
あわ歌の響きと、持ち来りたる光、大いなる皆様、受けたるや。(拍手)
ここにある者の一人答える。受けたり。(拍手)
是より参る道、新しきとなさるや。(拍手)
伝えられしは我等の道なり。これよりの新しきは、我等が無きと成るや。(拍手)
今より、新しきは皆々一つとなり、区別は無しぞ。遥かな元へ進み行き、光の中なり。(拍手)
光とは、今見たるものなるや。(拍手)
如何にも。これよりこの光、降り注ぐ。この時に光と共に参られませ。(拍手)
大いなる光と見たり。分かりたり。(拍手)
それぞれ皆々、ご自分の思いで、定めて参られよ。ありがとう。」
この時もまったく動きませんでした。中山さん始め我々もその場のエネルギーを受けて大変な具合になってしまいました。ここで巡りを終わりにして、中山さんも早々に引き揚げた次第でした。相馬妙見も日を改めて参るつもりでいましたが未だ果たせずにいます。
今回も又、黒石寺妙見堂でも同様の結果に成りました。改めて北斗妙見のあり様が問われることになりました。どういう事なのでしょうか。その大元はどこにいるのでしょうか。
最終的に9月6日からその大元と成る地を巡るあわ歌の旅をおこなう事に成りました。
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,0,149,html
ここはかつて東北粉石工場として土地改良剤の石灰石粉を製造する工場でした。宮沢賢治の晩年にあたりますが、彼は東北の気候風土の中で難儀する農家の困窮を救うために、昭和6年にこの工場で技師として活躍しました。しかし品物を鞄に詰め、重い荷物を抱えて東京に出張中に病に倒れてしまいます。賢治の有名な「雨ニモマケズ」はその病床にあった11月3日に彼の手帳に記されていたものでした。
賢治は明治29年8月27日(1896年)に生れ、昭和8年9月21日(1933年)に亡くなっています。彼の生誕の年1896年6月15日には三陸地震津波、最後の年1933年3月3日に三陸沖地震が発生して甚大な被害がおきています。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感じる、と賢治の弟の宮沢清八氏は話しておられます。
このミュージアムは石っこ賢ちゃんと呼ばれた宮沢賢治が見ていた、自然の不思議な秘密を、石を通して学び、賢治の足跡を辿れるところです。美しい石、不思議な石、めずらしい石、化石などが数百点展示されています。面白く、楽しく賢治の宇宙に遊びました。
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黒石(こくせき)寺は縁起については以下の様です。
「人皇45代、聖武天皇天平元年(729)、奈良法相宗(ほっそうしゅう)薬師寺五代行基和尚が東奥に行化(ぎょうげ)し、この地に至り渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山した。」
「嘉祥2年(849)、天台宗三世慈覚大師円仁が東大寺を出て錫(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興、四十八宇を造った。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。」
この地は蝦夷の栄えた地で、幾度となく大和朝廷との戦に見舞われたようです。そして最後の抵抗の地であり、寺も消失しています。そしてこの寺を坂上田村麻呂が再建しており、田村麻呂の崇敬心も深く、胆沢城に石手堰神社(通称黒石神社)を官寺として建てその神宮寺的な存在であったようです。
黒石寺の蘇民祭は特に有名です。蘇民祭信仰の内容は以下です。
「北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘を娶ろうと旅をしていたが日が暮れてしまった。武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という2人の兄弟に一夜の宿を求めたところ巨丹はこれを拒み、蘇民将来は快く旅人を泊め、粟飯で貧しいながらも精一杯もてなした。それから数年後、妻を娶り、子を為した蘇民将来の所に、再び武塔神が八人の王子と現れ、「かつての報いをしよう。お前の子孫がこの家にいるか。」と問うと「妻と娘がいます。」と答えた。すると、茅の茎で作った輪を(茅の輪)身に付けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻と娘以外の全てを滅ぼしてしまった。そして、自分の正体が須佐之男命(スサノウノミコト)であることを明かすと共に、「後の世に疫病あれば『我は蘇民将来の子孫である』と唱え、茅の輪を身に付ければ、無病息災が約束されるであろうと告げた」とされ、この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がっていたのではないかと考えられている。
武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。」
武塔神は須佐之男命、牛頭天、薬師如来は同じと言われます。
「蘇民祭はほぼ日本全国に分布しているが特に岩手県の場合、記録保存のために国指定無形民俗文化財となっている。黒石寺の場合は蘇民将来の護符を奪い合う形態をとっており、一千年以上の歴史を持つといわれ、祭日は旧正月七日から翌日早暁にかけて古式通りに行われる。」
黒石寺の事については以下の記事も参考になります。
http://www.emisi.com/material/13_2002.9/kokusekiji.htm
黒石寺の本尊は薬師如来ですが妙見宮には妙見菩薩像が祀られていて妙見信仰もあります。本堂の左手の階段を登り、丘に妙見堂があります。そこであわ歌を響かせました。
そこでのお言葉です。
「いや増す響きとこの光、この地に持ち来るが、生まれ出で来る方々ありや、無しや。
共々参る、新しき道は、この時なり。
留まり行くや。進みて参るや、定め成されよ。
うつりたり響きは、全てを暴きて正します。
この時、この光とひとつへ。(拍手)
ふつつかなりせば、この身は未だ、暫しの時を過ごし行く。(拍手)
さすれば、大きなる光を持ちて参るなり。(拍手)」 15時22分
新しき道へとの誘いに対して、答えはここに留まり動かぬ、という事です。「さすれば、更に大きな光を持って来る、」と言います。北斗妙見に係る大元が同意しないようです。
これは大きな課題と成りました。日を改めて、準備を整えてこの地を再訪することになりました。今年の9月9日の儀式には日高見の地を整えて迎える必要がありますので、その前になります。
終わって戻って来るとKさんが体調が悪いと言います。岩手に住んでいた賢治とも縁深い方ですがこの場のエネルギーの影響を受けたようです。気を送って症状が改善できました。
以前この黒石寺の妙見堂であわ歌を響かせた時がありました。それは2010年10月11日15:57で、その時のお言葉は以下の内容でした。
「訪ねて参り来たり。
このあわ歌の響き、持ちて届けたり。
この響きを聴きたるや。
この響き、これよりこの地、この宇宙に響き、満ち満ちて、全ては変わり行く時ぞ。
この響きと光と、ひとつに成られたれば、元に帰る。
その時に出でませ、参りませ、進み行きませ。
多くの皆々進みておるなり。参りませ。お待ち申す。
永きにわたり御苦労でした。ありがとう。 (拍手)」
この時も動きませんでした。
2012年7月9日に、同じく妙見信仰で、日本三大妙見の一つ、相馬妙見を祀る、福島県相馬市の相馬中村神社を訪れて、あわ歌を奏上した時がありました。その時は以下の様なお言葉でした。
「ずい、ずい、ずいの、ずいを通して行く輩を、しっかりと現して、ふるうなり。(拍手)かなう、かみう、かたう。(拍手)
是より光をここに降ろす。皆々参りて受けられよ。」
あわ歌奏上
「大勢の所縁の方々、集まりありがたき。これより申す事々にお答え下され。(拍手)
あわ歌の響きと、持ち来りたる光、大いなる皆様、受けたるや。(拍手)
ここにある者の一人答える。受けたり。(拍手)
是より参る道、新しきとなさるや。(拍手)
伝えられしは我等の道なり。これよりの新しきは、我等が無きと成るや。(拍手)
今より、新しきは皆々一つとなり、区別は無しぞ。遥かな元へ進み行き、光の中なり。(拍手)
光とは、今見たるものなるや。(拍手)
如何にも。これよりこの光、降り注ぐ。この時に光と共に参られませ。(拍手)
大いなる光と見たり。分かりたり。(拍手)
それぞれ皆々、ご自分の思いで、定めて参られよ。ありがとう。」
この時もまったく動きませんでした。中山さん始め我々もその場のエネルギーを受けて大変な具合になってしまいました。ここで巡りを終わりにして、中山さんも早々に引き揚げた次第でした。相馬妙見も日を改めて参るつもりでいましたが未だ果たせずにいます。
今回も又、黒石寺妙見堂でも同様の結果に成りました。改めて北斗妙見のあり様が問われることになりました。どういう事なのでしょうか。その大元はどこにいるのでしょうか。
最終的に9月6日からその大元と成る地を巡るあわ歌の旅をおこなう事に成りました。
2014年6月27日金曜日
320「日高見3」2014,6,26
7日朝7時半前に仙台駅に集合し、日高見・アテルイ・賢治の旅に出発しました。今回は12名の参加で自家用車3台に分乗して巡ります。今回の旅のお役目には、全てが丁度良いのでしょう。
まずは6月4日にあった以下のお言葉に従い日高見の旅は開始されました。
「その時、発する大きなる音は光りなり。これ持ち行きて、日高見を望む、美しき地にて、再び集い、あわ歌響きて、繋がりませ。
続きて参るは、海への歌の儀式。
光りは新たに成り成って、東へ向かいて、発して下され。
これより三日のその時ぞ。
回りて、回りて、この地球回り行く。」
最初の目的地は富谷町の大亀山森林公園展望台です。
駐車場についた時は曇りでしたが、山を登り展望台の上に着く頃には雨が降り出し、強風も吹き、生憎の天気に成りました。ですから眺望はあまりよくありませんでしたが、2週間前にも訪れた時の、日高見の緑に覆われた山々の美しい景色をまずはご覧ください。
展望台は海抜138mにあります。これは富谷町(とみや)の町の名前からとったようです。展望台で6人と中山さんを中心にしてあわ歌を響かせました。
その時のお言葉です。
「まずは、それぞれ受け取りたる音 発して下され。(拍手)」
このお言葉を受けて、6人が昨日の儀式で与えられた音を発し、響かせ、光を放ちました。
あわ歌聖歌隊の初仕事、デビューです。
「あ、い、う、え、お、あ(拍手)」
この時、始めに私が“あ”を発したのですが一呼吸なのにとても長く音を発することが出来ましたが、まるで他人事のように、楽々と発している自分に我ながら驚きました。後で皆さんにも普通の倍くらいの時間、音を発していたと言われました。録音していたのを確認したら48秒程の長さだったようです。自分自身もこんな音出しは初体験で、昨日の儀式で頂いたもの、の様な気がします。
その時のお言葉は以下です。
「讃えませ。この地にありたる多くの方々、共々参るはこの光。
皆々知りて、共に参りて、新たなる日高見 参りましょう。」8時43分
お蔭様で、無事にあわ歌を響かせ、繋がりを成す事が出来たようです。
しかし展望台の立ち位置で風雨の影響が違い、ずぶ濡れの方もいましたが、山を下りてくると雨も上がりました。何とも変化の多い天気です。
次の目的地は、海への儀式をおこなう処、多賀城市の陸奥総社宮です。多賀城政庁跡を右手に見て山手の方に進むと程なくして左手にあります。
陸奥総社宮は以下のように記されています。
「本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
入り口となる鳥居を抜けた両側の神名額には、陸奥国大社15、小社85の神社名が列記されています。」
小雨降る中、本殿を参拝し、本殿横には樹齢600年以上の老杉は見事なもので、木肌が顔のように見えます。更に落雷か嵐で折れた枝が龍の頭のように見えるのです。
過ぐ近くに樹齢200年以上の白木蓮が聳えています。
そんな杉の巨木の脇で東方、海の方を向いてあわ歌を響かせ、更に6人で音を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなるかな、この響きと光り、周りて、周り、東へ向かい、この地球を回り行く。
古きを正して回り行く。
現れ出でたる諸々は、光りと共に消え行くなり。
周りて周る。」9時46分
この響きで地球を回り、古きを正し、現れ出た諸々は光りと共に消し行くとのことです。6人で発するあわ歌聖歌隊の響きにそのお役目があるようです。
次なる目的地は一関市の配志和神社です。陸奥総社宮を出て左に進み高速道路の利府塩釜インターに向かいますが、総社宮から出て直ぐ右側の小道を入るとそこには荒脛巾(アラハバキ)神社があります。ひっそりと個人宅の庭先に祀られていますが、みすぼらしい感じが否めません。
アラハバキ神は古代先住民の祖神、守護神と言われ、古代には関東、東北地方に多数祀られていたものですが、大和朝廷の支配下の多賀城府と、陸奥総社宮の近くにまつろわぬ神として取り込まれて、無礙に扱われていった象徴として見えます。塩釜神社もかつてはこの神を祀っていたのではないかとの記事を見ましたが果たして如何でしたでしょうか。
http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11451538911.html
http://sanpomichi114.web.fc2.com/arahabaki01.html
今回、これから訪れる岩手県奥州市衣川区の磐神社はそのアラハバキ神を祀るところです。陸奥総社宮で東に向かってあわ歌を響かせましたので、当然、そのすぐ下にあった、この荒脛巾神社と大和朝廷の出先機関の多賀城国府跡も、その光で古きを正され、諸々は光りと共に消えたことでしょう。
さて配志和神社は一関市内の蘭梅山麓に鎮座する神社で、景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれます。鳥居から直ぐの白鳥神社のご神木の姥杉は樹齢1,000年と言われます。立派な木々の茂った、長く、広い階段の参道を登ると、正面に拝殿があり、左右に夫婦杉の樹齢1000年の巨木があります。立派な樹木の多い、広い境内を持つ神社です。http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
車で本殿近くまで登り参拝してあわ歌を響かせました。この時のお言葉です。
「晴れて参り行く、この響きは、生まれ出でませ、新しきへの力。」11時27分
終わった時に、中山さんは「三角形の岩が見えてて…、直ぐに来て欲しい」とおっしゃいます。それは磐神社のアラハバキ神の巨石ではと思い、予定の順番を変えて先に、磐神社に向かうことにしました。http://www.genbu.net/data/mutu/iwa_title.htm
磐神社には中山さんも何度も訪れています。12時丁度ごろに到着しそうです。
磐神社のアラハバキの巨岩に正午丁度に到着した時に、部落の放送でチャイムがなり、なんと、ふるさとの曲が流れるではありませんか。
この時間にここで歌う事を、昨日、6月6日の大和農場の白石での正午の儀式同様に、意図されていたとしか思えません。確実に白石とこのアラハバキ神の巨石はリンクしていて、同じ時間に響かせるように仕組まれていた様です。なんという驚きの世界でしょうか。
巨石に登って、直ぐにあわ歌を歌い始めました。
そこでのお言葉です。
「あ、あ、あ、あ、(拍手)」
その後に、中山さんの指示で、Tさんが賢治の小石で大石を3度叩きました。この小石は、昨年、花巻市の宮沢賢治記念館近くの胡四王神社でTさんが拾ったもので、石っこけんちゃんの賢治の石と名付けて、今年のスペインポルトガルのあわ歌旅行にも同行した石です。
実は、今朝、陸奥総社宮から岩手に向かう車中で次の言葉がありました。
「三度叩きてみなされよ。
その時、伝え来ること聞きて、大いなる思いを一つと成されませ。
一つと成れば、この身に入り来て、光と成りて発します。」10時6分
「大事に、大事に、ふつ、ふつ、ふつなり。
大事に、大事に、うつ、うつ、うつす。
カンタベリー大司教」
磐が出たいけど出られないので叩いてほしいと願ってきたといいます。果たしてなぜここでカンタベリー大司教が如何なる意味を持つのでしょうか?http://ja.wikipedia.org/wiki/カンタベリー大主教
「そろりと、ふらりと参るや。(拍手)
はるけき時を越え来りて、ここにおわして諸々受けて、見事に続けたるはありがたき。 光持ち来て伺いました。如何なるや。(拍手)
生まれ出で、はるけきへ参ろうぞ。皆々この時、待ちておる。(拍手)
今より光を送りましょう。(拍手)」
ここであわ歌聖歌隊の登場です。
「あ、い、う、え、お、あ。(拍手)」
「立ちませ、この時、方々、皆々、いざ、いざ、いざよ。(拍手)」12時11分
何人かの存在が現れていたようです。この時、中山さん達のあわ歌スペインポルトガル旅行時に、中山さんの靴の底に嵌ってくっ付いていた小さな石の色が、濃くなって変わってしまいました。巨石の変化に連動、共振しているのでしょう。
磐神社から出発して車中でお言葉がありました。
「星空晴れて、大きく拡がり、ウルワシ響き。
ハラ、ハレ、ハラリ。」12時37分
これは磐神社のアラハバキ神の巨石での正午からのあわ歌奏上でもたらされたものだったのでしょう。
大きなお役目を果たして皆さん満足、喜びがあふれています。
車中でお弁当を頂き、腹ごしらえして次へ備えました。
まずは6月4日にあった以下のお言葉に従い日高見の旅は開始されました。
「その時、発する大きなる音は光りなり。これ持ち行きて、日高見を望む、美しき地にて、再び集い、あわ歌響きて、繋がりませ。
続きて参るは、海への歌の儀式。
光りは新たに成り成って、東へ向かいて、発して下され。
これより三日のその時ぞ。
回りて、回りて、この地球回り行く。」
最初の目的地は富谷町の大亀山森林公園展望台です。
駐車場についた時は曇りでしたが、山を登り展望台の上に着く頃には雨が降り出し、強風も吹き、生憎の天気に成りました。ですから眺望はあまりよくありませんでしたが、2週間前にも訪れた時の、日高見の緑に覆われた山々の美しい景色をまずはご覧ください。
展望台は海抜138mにあります。これは富谷町(とみや)の町の名前からとったようです。展望台で6人と中山さんを中心にしてあわ歌を響かせました。
その時のお言葉です。
「まずは、それぞれ受け取りたる音 発して下され。(拍手)」
このお言葉を受けて、6人が昨日の儀式で与えられた音を発し、響かせ、光を放ちました。
あわ歌聖歌隊の初仕事、デビューです。
「あ、い、う、え、お、あ(拍手)」
この時、始めに私が“あ”を発したのですが一呼吸なのにとても長く音を発することが出来ましたが、まるで他人事のように、楽々と発している自分に我ながら驚きました。後で皆さんにも普通の倍くらいの時間、音を発していたと言われました。録音していたのを確認したら48秒程の長さだったようです。自分自身もこんな音出しは初体験で、昨日の儀式で頂いたもの、の様な気がします。
その時のお言葉は以下です。
「讃えませ。この地にありたる多くの方々、共々参るはこの光。
皆々知りて、共に参りて、新たなる日高見 参りましょう。」8時43分
お蔭様で、無事にあわ歌を響かせ、繋がりを成す事が出来たようです。
しかし展望台の立ち位置で風雨の影響が違い、ずぶ濡れの方もいましたが、山を下りてくると雨も上がりました。何とも変化の多い天気です。
次の目的地は、海への儀式をおこなう処、多賀城市の陸奥総社宮です。多賀城政庁跡を右手に見て山手の方に進むと程なくして左手にあります。
陸奥総社宮は以下のように記されています。
「本社の鎮座年月は明らかではありませんが、往古陸奥国の府内にして陸奥国府に属する総社で、かつて歴代の国司の奉斎したところとなります。国司は任国内の諸社に神拝することが定められていましたが、巡拝の手間を省くため、国内の神社を一箇所に集めて詣でることが広まりました。当社は陸奥国府多賀城に赴任した国司が、多賀城東門の近くに合祀勧請したのが始まりとされています。
入り口となる鳥居を抜けた両側の神名額には、陸奥国大社15、小社85の神社名が列記されています。」
小雨降る中、本殿を参拝し、本殿横には樹齢600年以上の老杉は見事なもので、木肌が顔のように見えます。更に落雷か嵐で折れた枝が龍の頭のように見えるのです。
過ぐ近くに樹齢200年以上の白木蓮が聳えています。
そんな杉の巨木の脇で東方、海の方を向いてあわ歌を響かせ、更に6人で音を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなるかな、この響きと光り、周りて、周り、東へ向かい、この地球を回り行く。
古きを正して回り行く。
現れ出でたる諸々は、光りと共に消え行くなり。
周りて周る。」9時46分
この響きで地球を回り、古きを正し、現れ出た諸々は光りと共に消し行くとのことです。6人で発するあわ歌聖歌隊の響きにそのお役目があるようです。
次なる目的地は一関市の配志和神社です。陸奥総社宮を出て左に進み高速道路の利府塩釜インターに向かいますが、総社宮から出て直ぐ右側の小道を入るとそこには荒脛巾(アラハバキ)神社があります。ひっそりと個人宅の庭先に祀られていますが、みすぼらしい感じが否めません。
アラハバキ神は古代先住民の祖神、守護神と言われ、古代には関東、東北地方に多数祀られていたものですが、大和朝廷の支配下の多賀城府と、陸奥総社宮の近くにまつろわぬ神として取り込まれて、無礙に扱われていった象徴として見えます。塩釜神社もかつてはこの神を祀っていたのではないかとの記事を見ましたが果たして如何でしたでしょうか。
http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11451538911.html
http://sanpomichi114.web.fc2.com/arahabaki01.html
今回、これから訪れる岩手県奥州市衣川区の磐神社はそのアラハバキ神を祀るところです。陸奥総社宮で東に向かってあわ歌を響かせましたので、当然、そのすぐ下にあった、この荒脛巾神社と大和朝廷の出先機関の多賀城国府跡も、その光で古きを正され、諸々は光りと共に消えたことでしょう。
さて配志和神社は一関市内の蘭梅山麓に鎮座する神社で、景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれます。鳥居から直ぐの白鳥神社のご神木の姥杉は樹齢1,000年と言われます。立派な木々の茂った、長く、広い階段の参道を登ると、正面に拝殿があり、左右に夫婦杉の樹齢1000年の巨木があります。立派な樹木の多い、広い境内を持つ神社です。http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
車で本殿近くまで登り参拝してあわ歌を響かせました。この時のお言葉です。
「晴れて参り行く、この響きは、生まれ出でませ、新しきへの力。」11時27分
磐神社には中山さんも何度も訪れています。12時丁度ごろに到着しそうです。
磐神社のアラハバキの巨岩に正午丁度に到着した時に、部落の放送でチャイムがなり、なんと、ふるさとの曲が流れるではありませんか。
この時間にここで歌う事を、昨日、6月6日の大和農場の白石での正午の儀式同様に、意図されていたとしか思えません。確実に白石とこのアラハバキ神の巨石はリンクしていて、同じ時間に響かせるように仕組まれていた様です。なんという驚きの世界でしょうか。
巨石に登って、直ぐにあわ歌を歌い始めました。
そこでのお言葉です。
「あ、あ、あ、あ、(拍手)」
その後に、中山さんの指示で、Tさんが賢治の小石で大石を3度叩きました。この小石は、昨年、花巻市の宮沢賢治記念館近くの胡四王神社でTさんが拾ったもので、石っこけんちゃんの賢治の石と名付けて、今年のスペインポルトガルのあわ歌旅行にも同行した石です。
実は、今朝、陸奥総社宮から岩手に向かう車中で次の言葉がありました。
「三度叩きてみなされよ。
その時、伝え来ること聞きて、大いなる思いを一つと成されませ。
一つと成れば、この身に入り来て、光と成りて発します。」10時6分
「大事に、大事に、ふつ、ふつ、ふつなり。
大事に、大事に、うつ、うつ、うつす。
カンタベリー大司教」
磐が出たいけど出られないので叩いてほしいと願ってきたといいます。果たしてなぜここでカンタベリー大司教が如何なる意味を持つのでしょうか?http://ja.wikipedia.org/wiki/カンタベリー大主教
「そろりと、ふらりと参るや。(拍手)
はるけき時を越え来りて、ここにおわして諸々受けて、見事に続けたるはありがたき。 光持ち来て伺いました。如何なるや。(拍手)
生まれ出で、はるけきへ参ろうぞ。皆々この時、待ちておる。(拍手)
今より光を送りましょう。(拍手)」
ここであわ歌聖歌隊の登場です。
「あ、い、う、え、お、あ。(拍手)」
「立ちませ、この時、方々、皆々、いざ、いざ、いざよ。(拍手)」12時11分
何人かの存在が現れていたようです。この時、中山さん達のあわ歌スペインポルトガル旅行時に、中山さんの靴の底に嵌ってくっ付いていた小さな石の色が、濃くなって変わってしまいました。巨石の変化に連動、共振しているのでしょう。
磐神社から出発して車中でお言葉がありました。
「星空晴れて、大きく拡がり、ウルワシ響き。
ハラ、ハレ、ハラリ。」12時37分
これは磐神社のアラハバキ神の巨石での正午からのあわ歌奏上でもたらされたものだったのでしょう。
大きなお役目を果たして皆さん満足、喜びがあふれています。
車中でお弁当を頂き、腹ごしらえして次へ備えました。
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