2016年4月27日水曜日

603「菩薩7」2016,4,27

 奥州33観音霊場もお陰様で巡り終えることが出来ました。そして後10日後には陸奥戸開きの旅が待っています。今回の後半の4月9,10日に巡った16箇所でのお言葉を整理してみました。
 お言葉の内容は見事に起承転結になっていて、そして最後に大きな課題を頂いていました。先ずは時系列に並べて適当に削除し、組み合わせると以下のようです。太字はキーワードです。

「大いなる光をありがたき。留まりておる方々、この地で囚われたるもの、この時預けて、大きなるへと参られませ。是よりの新しきへ向かうは皆々様と共なる喜び。なお一層、この地を讃えて嬉しきへ参りましょうぞ。
永き時、元へ還るを祈りておりました。本日、揺るがぬ大きな元より発するこの響きを承りて、嬉しき時なり。皆様方のこの響き、皆々に届きて、新たなるへ向かうことなり。多くの諸々、皆々流して共に嬉しきと成りましょう。」

「捧げて参りた是までは、新たに向かう皆々のものと成り行く。その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行くを、しっかりとその身に治めて参りませ。この大きなる時、大切に。
大きなるこの地球の流れを変え来るは、如何なるもの、如何なること、如何なる思いなり哉か。皆々我良し、振りかざし、この地に向かいた大きな過ちあり。その事知らせて新たなるへ向かう為のこと。ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され、この響きにて暫しの時を保ち行きて、新しきへ皆々で向かいましょう。

西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ。つまりはこの地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め、その上、大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。思いの丈をしっかり強く、定めて、響きて、ひとつと成せば、皆々様には備わった大いなるがありて、この地と共に進み行く。晴れて素晴らしき日を向かえましょう。

すだく多くのものを鎮めて、是より新たなるへ向かうは、遥かなる響きをおいて他に無し。争い鎮め、この地を鎮め、宇宙を鎮めて参る故、皆々それぞれ、その身を鎮めて参られませ。
 来る時はもうそこ迄参りております。是よりの日々にて、光と響き益々新たなるへ代わり行き、それぞれのその身も余分を無しとして、新たなるを受け取られ、その身を変え行きて下され。
 是より参る日に備え、それぞれの方、その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。是よりの時は、大いなる日々、心して参られませ。

大きなる響きに出合いたり。いざ、いざ、いざや。西にある多くの兵士を、間もなく治める響きを送る。この地に揺らぎを鎮めて参る。共々新たへ向かい行く。大きなる柱を立てましょう。

 これを更に纏めると以下のようです。
「大いなる光をありがたき。新しきへ向かうは皆々様と共なる喜び、この地を讃えて嬉しきへ参りましょう。
それぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行く。皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され、この響きにて暫しの時を保ち行きて、新しきへ皆々で向かいましょう。
 西の大きな過ち正して、是より変え行くこと。この地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め、大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。共に進めば、大安心の嬉しきなり。このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり
 すだく多くのものを鎮めて、是より新たなるへ向かうは、遥かなる響きをおいて他に無し。皆々それぞれ、その身を鎮めて参られませ。来る時はもうそこ迄参りております。その身も余分を無しとして、新たなるを受け取られ、その身を変え行きて下され。その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。是よりの時は、大いなる日々、心して参られませ。」
「大きなる響きに出合いたり。いざ、いざ、いざや。西にある多くの兵士を、間もなく治める響きを送る。この地に揺らぎを鎮めて参る。共々新たへ向かい行く。大きなる柱を立てましょう。

 そして結論は以下のようです。
・思い、真を外せばたちまち無しと成り行く。
・西の大きな過ち正して、是より変え行く。
・全てを預けて行くこと、共に進めば、大安心の嬉しきなり。あわ歌歌い、響きて参るはその事なり。
・その身を鎮めて参られませ。来る時はもうそこ迄参りており。
・その身も余分を無しとして、新たなるを受け取られ、その身を変え行きて下され。
・北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。
・是よりの時は、大いなる日々、心して参られませ。
・共々新たへ向かい行く。大きなる柱を立てましょう。

 今回11名で2台の車で33観音を巡らせていただきました。数秘術、カバラでは11はマスターナンバーの数です。11は2であり2から派生した数で、今回は4+7の2です。11については以下の様な内容です。
「誕生数11を持つあなたは、並はずれた感受性を宿す神秘的なパワーの持ち主です。11は、数秘術においてマスターナンバーと呼ばれる特殊な数字の一つであり、他の数字を持つ人に比べ非常に鋭い感受性と洞察力を持っており、人の本心や真理を理屈ぬきに見抜いてしまいます。
 自覚している人とそうでない人がいますが、11の人の感受性は霊的であり、直感ですべてを察知してしまうことができるのです。ときに相手の心の内が見えすぎて傷ついたり、虚しくなったり気持ちが沈むこともありそうですが、驚くほど寂しがりなところがあり、心が通い合い信頼できる人間関係を築きたいと願い、人間嫌いになることはありません。
 穏やかで思いやりがあり、人を癒すことのできる平和主義者ですが、一方、頭脳明晰で自他共に厳しいところがあり、完璧を目指して自分のペースを守るため、相手に対しても厳しく接したり、能力不足などを感じると冷たく離れてしまうところがあるようです。
試す数字であるマスターナンバーは、誕生数11を持つ人の心の内に、“常にベストを尽くさねば”という思いや、“自分の使命を果たさなくては”という不安や焦りをしばしば生み出します。
 11の人は理想を描き、理想に生き、内面世界を育て伝えていくことが求められ、精神世界と現実世界を行き来するため、精神的に平静を保ちにくい面もあります。しかし11の人は、お金や地位よりも理想に向かって忍耐強く邁進するエネルギーを宿した純粋な努力家であり、しかも有能さと霊感を持って不可能と思えることでも実現してしまえる人なのです。」
 この内容を我々11名のグループが1個をなして今回巡り活動をしたとして読み解いて下さい。

 観音様については観音経には、「観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身する」と説かれています。そして「観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。」これを観音の普門示現(ふもんじげん)といいます。基本となる聖観音の他、いろいろな変化(へんげ)観音、多種多様な別身の観音様が派生しました。

 今回の巡りでは11名、各自に応じて普門示現して数々の救済のお与えを下さったことと思いますが、それは各自の頂きによるものでしょう。そして各所を真剣に巡る中に、あわ歌の響きを発することで、大いなる存在から頂けた御下賜、御配剤です。それらへの感謝の中にこれからも、ご縁の皆様方と自覚の中に、その身を変え、大いなる日々を心して参りましょう。先ずは次なる物語は5月7,8日の陸奥戸開きの巡りです。楽しみです。

2016年4月26日火曜日

602「菩薩6」2016,4,26

 第三十二番札所の北上山正覚院は岩手町にある天台宗のお寺です。正覚院は「御堂観音」の通称で親しまれている観音様で、北上川の源流点としても有名です。



 縁起等は以下のようです。
「大同2年(807)に坂上田村麻呂が奥州平定の折、敵味方の戦没者の慰霊と天下泰平、五穀豊穣を祈願して一宇を建立して、十一面観音を安置したといわれています。
 その後、天喜5年(1057)前九年の役の際、頼義、義家の軍は炎天続きで飲料水に事欠いたが、義家が観音堂に籠り祈願したところ、夢枕があって、杉の根もとを掘ると清水が湧いてきたと伝えられています。「弓弭(ゆはず)の泉」と名付けられました。
この霊験に感動した頼義、義家  父子は観音堂を改築し、 義家の護持仏「千手観音」を安置し、堂名を新通法寺正覚院と命名したと伝えられています。
 その後、元亀・天正(1570~1591)の頃、世の乱れのどさくさで千手観音は一時行方不明になりましたが、秀吉の手に渡り、秀吉が護持仏としていました。やがて、家臣の蜂須賀隆長に恩賞として渡り、息女春子姫が南部藩に輿入れの際、形見の護持仏として与えたため再び南部の地に戻ったと伝えられています。南部家の家宝として護持され、正覚院にはその分霊が奉安されたそうです。」
 御神木の巨大な杉に落雷があり途中で折れています。


北上川の源流のお宮、御神木の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「是より参る日に備え、それぞれの方、その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。
是よりの時は、大いなる日々、心して参られませ。」15:06



 皆さんの声は素晴らしい響き合いでした。いよいよ次なるクライマックスが楽しみです。

 そして奥州33観音巡りも最後になりました。目指すは第三十三番札所、二戸市浄法寺町にある八葉山天台寺です。天台宗の名刹で聖観世音菩薩がお祀りされています。瀬戸内寂静さんが住職をされ、廃れていたお寺を大きく復興をなし、多くの参拝客で賑わったお寺です。
 以下のように記されています。
「1976年中尊寺管主であった今春聴(作家今東光)が特命住職として普山、本尊十一面観音の造立を発念し復興に着手したが、着任まもなく病に倒れ、のち瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め、復興に尽力しました。毎月1回の法話の日には、境内に入れきれない程の参拝者で賑わっていました。2005年に住職を引退、現在は名誉住職です。」

「寺伝によれば、奈良時代神亀5年(728)に行基菩薩が聖武天皇の命を受けて、八葉山と命名し、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、天皇直筆の額を掲げて開山したと伝えられている。草創の正確な時期は不明であるが、寺に伝わる仏像の制作年代から平安時代には寺観が整っていたと思われています。」

 夕刻で参拝者は他に居られず林の中にあるお堂前であわ歌を響かせました。ここでは最後ですので配置をしっかり定め八様と中心に1人、その南北に中山さんと1人で臨みました。しかし期待した響きにはなかなかならずに些か残念でしたが兎も角、全てを完了し満願成就できました。



中山さんから以下のお言葉がありました。
「大きなる響きに出合いたり。いざ、いざ、いざや。西にある多くの兵士を、間もなく治める響きを送る。この地に揺らぎを鎮めて参る。共々新たへ向かい行く。大きなる柱を立てましょう。」16:40

 お陰様で全ての巡り、予定を終えることができました。今回の中で課題として残したことは5月に繋がります。仙台への帰路も順調なドライブで7時半には到着できました。ゆっくりと皆さんとお別れの食事会も出来ました。
 帰りの車中は7月の巡りの打ち合わせです。御堂観音のお言葉がキーワードです。
「是より参る日に備え、それぞれの方、その時迄の御用意は、この北の地にて大きく引き寄せる力、発しておるを探して、響きを持ち行き、その身を変えませ。」
 5月7,8日の陸奥戸開きに続いて、テーマは東北の大地のエネルギーが拮抗し、地磁気が高くエネルギーがあり、かつての聖地として大切にされたところ、今で言うゼロ磁場と思えるところを巡ることになりました。次々と奥州が開かれ、北からの力が動いて活きそうです。7月23,24日「陸奥ゼロ磁場の巡り」の内容も決まりました。
http://genkiup.net/awa/28.07.23.pdf

2016年4月25日月曜日

601「菩薩5」2016,4,25

 次の目的地は一関市にある第二十七番札所の東光山観福寺です。かつて中尊寺住職を務めた今東光さんともご縁があるようで、今東光さんの筆で山号の東光山の額があります。 天台宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。
 本堂までの真っ直ぐな参道に円を成す石が敷き詰められています。○にⅠです。その円の中で中心にSさんに立っていただき、皆さんで○を成してあわ歌を響かせました。




その時のお言葉です。
「程なく参るあなた様のその時、新たなる結びを成されて、広き大きなるへと参るなり。
 かたじけなき事なれど、益々働き、共々に、皆々と大いなる。」10:40
 主にSさんへのお言葉のようですが、皆様にも関係することのようです。

 次は奥州市水沢区黒石町にある天台宗のお寺、第二十五番札所の妙見山黒石寺です。以下の様な縁起です。
「ご本尊は薬師如来坐像で、胎内に貞観4年(862)の造像記がある。天台宗の古刹黒石寺は、天平元年(729)行基菩薩の開基で、「東光山薬師寺」として建立されましたが、延暦17年(798)年蝦夷と朝廷軍との戦いによる兵火によって焼失しました。
 その後、大同2年(807)飛騨の工匠が方7間の薬師堂を再建しました。
 それから40数年後の嘉祥2年(849)には慈覚大師が復興して、妙見山黒石寺と改名した。もとは修験の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。」
 この地は蝦夷、アテルイの本拠地であり坂上田村麻呂との事には以下の様な記載があります。
「延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的存在となった。
 しかし、この胆沢の地は北上川の扇状地の肥沃な地で、阿弖流為や母礼を族長とする集落でもあった。
 田村麻呂朝廷軍は数次に亘り、数万の兵をもってこれを従え城を築いたのであったが、しばしば蝦夷による反抗には悩まされ続けた。
 胆沢城は多賀城に次ぐ国府であり、奥州支配の最北端であった。
 4000人の移住民の中には。軍艦、医師、弩師(ゆみし)、楽師、陰陽師、兵士、柵戸がいたことだろう。」
 黒石寺の蘇民祭りは有名です。
「毎年旧暦1月7日の晩から翌早朝にかけて行われる祭り。年の初めの厄よけと招福の祭りで、裸祭とも呼ばれ、厄年の男を始めとする祈願者の男たちによる、「蘇民将来子孫門戸」と書かれた六角柱形の小間木を入れた蘇民袋の争奪戦で知られる。」
 これまでこの黒石寺には何度も参拝していますが、中々に動かずに頑なに閉ざして響きあうことを拒否して来た経緯がありました。妙見の大元の意向を待っているかのようでした。
 本堂脇から山の手に登る階段の先に観音堂があり千手観世音菩薩が祀られています。そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「はるけきのこの響きは伝わりておらるるや。
 『うましみよ、その身なる。大いなる事よ。良く分かり来た。是よりの時はそれぞれ大いに励みて参るなり。』
 伝え行く是よりの新しき、大いなる嬉しきなり。
 『お~お~お~う~お~お~う~お~あお~。連れて参るは多く、晴れやかなる時目指しましょう。』
 新たなる光は今一度。それまでの御用意を。」11:33
 今回は心開き、響きに呼応して下さったようです。諦めずに回を重ねたことが、我々の真剣さがそうさせたのでしょう。また近日中に新たな光を今一度送るために訪れることになりました。



 次は八幡平市西根町の第三十一番札所の聖福寺です。高速道路で1時間ほどの移動です。昼時ですので、西根町のお店で盛りだくさんの豪華ランチを頂きお腹を満たしました。


 聖福寺はお店から直ぐのところあります。曹洞宗のお寺で本堂の右手前に観音堂(白坂観音堂)があり、七面観世音菩薩が祀られています。元は鹿角街道沿い七時雨山麓にあったと伝えられています。以下のように記されています。
「聖武天皇は蝦夷に信仰心をもたせ、心を和らげる意図をもって、神亀5年(728)勅願所として白坂観音堂を建立させ、将監吉次に御本尊 七面観音像を鋳造させました。
 天台寺と同じく行基に開眼させたと伝えられています。」


 観音堂には蜂の巣があるようです。少し離れたところであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「来る時はもうそこ迄参りております。是よりの日々にて、光と響き益々新たなるへ代わり行き、それぞれのその身も余分を無しとして、新たなるを受け取られ、その身を変え行きて下され。あわ歌の響きに乗せて参るなり。生み出だす新たなるを。」14:05

2016年4月22日金曜日

600「菩薩4」2016,4,20

 2日目の朝も清清しく迎えることが出来ました。すべすべの心地良い温泉の朝風呂を満喫しました。そして7時には取れたて新鮮野菜のヘルシーな朝食を美味しく頂きました。

 いよいよ奥州33観音霊場巡りの最終日スタートです。宿を8時に出発しましたが、宿のおかみさんやスタッフの皆さんが見送りをして下さり、心温まるおもてなしを尽くして頂きありがたい限りです。又来たくなるお宿でした。

 始めに向かうのは平泉町にある特別霊場の開山中尊寺です。世界遺産に指定され有名な奥州藤原時代を代表する聖地です。宿からは10分位であっと言う間に中尊寺の裏の目指す駐車場に到着です。宿は中尊寺の裏座敷、隠れ家的なやすらぎの地でした。
 平泉の浄土思想について以下のように記されています。
「奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清です。藤原経清は官軍でしたが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦いました。前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わいました。清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手しました。この理想の世界が極楽浄土世界の建設でした。
 清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築きました。2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立しました。仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化です。
 当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘しましたが秀衡は平和主義者のためにこれに応じませんでした。しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになりました。ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していきました。」

 藤原清衡が再興した中尊寺について「中尊寺建立供養願文」があります。その一部を紹介します。
「鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 攻めてきた官軍(都の軍隊)も守った蝦夷も 度重なる戦いで 命を落とした者は 古来幾多あったろうか いや みちのくおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、具も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれますように」
 奥州に浄土を願ったその意図が読み解けます。しかしその浄土の世界も100年で潰えてしまいます。

 朝のお寺の境内は清掃作業がなされていて、作務の方々の挨拶が気持ち良いです。参拝客はほとんどいなくて独占状態です。本殿からお参りしました。中尊寺は天台宗のお寺で阿弥陀如来がご本尊です。沢山のお堂が祀られてあり、金色堂を過ぎて奥の白山神社であわ歌を歌うことにしました。






 かたくりの花が綺麗に咲いていて、見晴らしの良い、神社の裏手に丘の上で、皆さんで円をなして響かせました。その時のお言葉です。

「思いの丈をしっかり強く、定めて、響きて、ひとつと成せば、皆々様には備わった大いなるがありて、この地と共に進み行く。晴れて素晴らしき日を向かえましょう。」8:59





 次も平泉町にある特別霊場の毛越寺です。中尊寺と同じく天台宗でご本尊は薬師如来です。毛越寺には白鹿伝説があります。
「寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
 ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。
 大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。」
 建立については以下です。
「毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。
 平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。」
 



桜が咲き、美しい回遊式の見事な浄土庭園です。中心は大泉が池でそこを1周しました。あわ歌を響かせたのは巨大な礎石が完存する白鹿伝説の嘉祥寺跡です。そこでのお言葉です。
「すだく多くのものを鎮めて、是より新たなるへ向かうは、遥かなる響きをおいて他に無し。争い鎮め、この地を鎮め、宇宙を鎮めて参る故、皆々それぞれ、その身を鎮めて参られませ。」9:44


2016年4月17日日曜日

599「菩薩3」2016,4,16

 次は一関市花泉から気仙沼市に向かいます。暫くは北上川の川岸を車は進みますが、その豊かな河のエネルギーがこの奥州を実らせた大元の一つです。気仙沼市内に入り昼食をいただきました。気仙沼は漁港として海の幸の宝庫です。豪華な海鮮丼を美味しく頂きました。お店は先の東日本大震災の津波の被害を受け、ほぼ1階が水没したようですが綺麗に復活を遂げていました。人の思い、力は素晴らしいです。

 第三十番札所補陀寺は気仙沼駅の直ぐ裏、山手にあります。曹洞宗の古刹で素晴らしい樅(もみ)の巨木が直ぐに目に入ります。

以下の表記があります。
「寺伝によると補陀寺の開山は寛永2年(890)。元は、天台宗柏華山補陀落寺と称し隆盛を極めたが、平泉の藤原氏の滅亡と共に衰退した。後に、宝亀寺6世周庵文懊和尚が天文3年(1534)再興、曹洞宗補陀寺と号し、中興開山しました。
 平安末期、保安4年(1123)に名取熊野神社を勧請してと伝えられる伝承上の人物名取老女が奥州を巡礼して、創建した三十三箇所の観音堂のひとつといういわれがある。
 平面は珍しい六角形で、一辺の長さ2.47m、屋根は六角錐体、赤瓦葺、内外部朱塗で板天井に墨絵をえがく。堂内の須弥壇上に入母屋造りで、千鳥破風、軒唐破風をつけたこけら葺きの家形逗子がある。 宝暦12年(1762)制作、享和2年(1802)に修理したとの文書がある。気仙大工の作。観音堂の本尊は如意輪観世音菩薩です。恵心僧都の作と伝えられる。」

 如意輪観世音菩薩が祀られる六角堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ、は、い、お、え、は、あ~。
 捧げて参りた是までは、新たに向かう皆々のものと成り行く。
 その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行くを、しっかりとその身に収めて参りませ。この大きなる時、大切に。」14:02
「その時はそれぞれの思い、真を外せばたちまち無しと成り行く」との厳しきお言葉です。
 次は陸前高田市にある第二十九番札所普門寺です。陸前高田市は津波の被害でほぼ市街地全域が消えてしまいました。震災から5年経つ今も護岸、造成工事が進められています。

その殺伐とした工事の現場を通り過ぎ山手にある曹洞宗の大きなお寺に着きました。まず参道の巨木の杉並木に目を見張ります。



 広大な敷地の奥に観音堂があり、聖観世音菩薩がお祀りされています。観音堂の右脇には三重塔があります。文化6年(1809)岩手県内唯一の塔婆建築の三重塔が建立されたもので、地上より12.5mの高さ、気仙大工の粋を集めたものです。
更に左脇には大仏様があります。享保3年(1718)唐金の大仏建立。高さ5mあり、この時代で、青銅製のこの大きさのものは東北では稀有のものです。
観音堂前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「思い起こされませ。
 この地の大きなる災害を、皆々只ただ悲しみておらるるが、大きなるこの地球の流れを変え来るは、如何なるもの、如何なること、如何なる思いなり哉。
 皆々我良し、振りかざし、この地に向かいた大きな過ちあり。その事知らせて新たなるへ向かう為のこと。
 ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され、この響きにて暫しの時を保ち行きて、新しきへ皆々で向かいましょう。」14:59

 お言葉の中に「ここに皆の思い、真を現し、世界に知らしめねば大きなるを又また受ける。急ぎて下され」とあります。ここも厳しいお言葉です。
 このお寺には大震災の慰霊の為に以下のものが祀られています。
「境内、本堂前に五百羅漢があります。これは「未来への記憶プロジェクト」の一環で、被災者を中心とした参加者たちが、彫刻家の指導を受けながら自ら石を彫った羅漢様です。」「安置されている仏像は震災直後、百日目に奉納された千体物、①京都の大文字焼きに送られた高田松原の松が諸事情で230体の仏様に変わり、②それから京都静原小学校の児童の作った焼き物の80体、③中心には松原の松で造られたお地蔵さん2体。」
 私達があわ歌を響かせている時に、女子高生の課外研修でしょうか大勢の方が境内の見学をしていました。

 次は大船渡市の第二十八番札所大善院蛸浦観音です。尾崎半島の付け根にあり、漁港の水産加工場の脇を通って海岸沿いに進むと尾崎神社があります。海岸直ぐの鳥居を登った先に尾崎神社があり、千手観世音菩薩をお祀りする観音堂は神社の右側にあります。


まず尾崎神社の謂れは以下です。
「尾崎神社の草創は延暦2年(783)。養和元年(1181)に鎮守府将軍藤原秀衡より社領2百石を賜り、天正18年(1590)に領主葛西氏が滅びるまで続きました。
 伊達政宗以来代々藩主巡国の際奉幣され、明治維新後に郷社に列し、さらに明治7年(1874)に村社に列しました。」
 この地に観音堂を設置した謂れは以下のようです。
「名取老女旭が奥州に三十三所の札所を設定する旅の途中、この山に祀られた尾崎神社の霊気を感得し、28番札所を設けたといわれています。昔は神仏習合だったため、大善院は尾崎神社と観音堂を併せ護持していたものと考えられます。」観音堂前であわ歌を響かせました。


その時のお言葉です。
「サンタクレメント ハラルリヤ フンタラルリ。
 唱えて回りて、大きなる海を共々ひとつの皆々と繋ぎて、西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ。晴れるや、はらしろ。この海も皆ひとつ。」15:53
 お言葉で「西の大きな過ち正して、是より変え行くことぞ」とあります。

 今日の巡りの最後は一関市大東町にある第二十六番札所の長泉寺です。天台宗のお寺で 千手観世音菩薩がお祀りされています。夕暮れ迫る中、お堂の前であわ歌を響かせました。

その時のお言葉です。
「つまりはこの地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め、その上、大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。
 起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」17:13
 ここでもお言葉に厳しいものがあります。
「この地の大きなる進みを皆々受けて、共々参らるるや、否やを定め」と己の決断を迫れらています。
 そして共に参ると定めると「大きなる宇宙と共なれば、全てを預けて行くことなり。起こり来る事、柔らかき、軽きと成りて、共に進めば、大安心の嬉しきなり。」と大安心の嬉しきなるとあります。
 そしてそのことは「このあわ歌歌い、響きて参るはその事なり。」とあります。
 果たして如何ほどの自覚を持つて臨まれているのか、共に響かせているこの場の面々がまず先に問われています。
 
 先ずは無事に1日の巡りを終えることができました。急いで宿に向かいます。宿は平泉の奥、自然の真っ只中にある素晴らしいところです。温泉も素晴らしく、宿の前の畑で栽培した自家製の野菜等地場の命の恵みを美味しく提供して下さいました。楽しく食事を頂き、2次会も盛り上がりましたが、前回のような深い頂には至りませんでした。今だ決断、自覚に至らずでしょうか。