2021年8月31日火曜日

2441「神さまを認める」2021.8.31

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月25日の記事を紹介します。


「神さまを認める」


今日のお話は、ご自分だけでなく、ご家族や、親しい人たちまで幸せにする方法です。

もし身近に、どうしても助けたい人が居るとして、

でも私たち周りの人は、その人の運命に介入することができません。

その方の生まれる前に決めてきた目的や手段に介入することができません。

ですが、心配で心配で仕方ない身近な人とは、 

例えば

・病気の子供、家族

・早くに亡くなった子供

・自然死ではない亡くなり方をした身近な人 

この方々との関わりに置いて、私たち自身が胸を痛めているのであれば、

私たちが、押しつぶされそうに胸を痛めること自体も、

その方の生まれて来た目的達成の手段(必要なこと)であったはずです。

では、その目的とは何であったのでしょうか?

・私たちが残りの人生を嘆き悲しむため?

・周りや世間、自分の運命を呪うため?

・いつまでも、めそめそ、下を向き、その場にとどまり続けるため?

そうではないはずです。 

そんな目的のために、その方は、貴重な、今回の人生を使いたいと思うわけがないからです。

私たちが、いつまでも、何時までも、その状態にとどまり続ければ、

苦しい役割を引き受けて生まれて来た、その方の貴重な人生が無駄になってしまいます。 

神々からも承諾を得てきた目的や手段は、

必ず、触れ合う、影響し合う周りの方々の感情を大きく揺さぶり、心を揺り動かし、 逆境や苦難の中で、神々の光を見つけ、前向きに方向転換して欲しいからではないでしょうか?


私たちが、その方との触れ合いを通じ、苦難の中でも、心の中に神々を見つけた時、その方の、生まれて来た目的は達成され、苦しい人生を選んだことも、報われるのではないでしょうか?

どんな時も、変われるのは、私たち自身です。私たちが変わることで、その方を含め、関わり合う全ての人たちの大きな目的が達成されます。 

それでは、私たちがどのように変わったら良いのか?

始めます。

今日は「神さまを認めること」というテーマで、

元春日大社の宮司であり、かつ医学博士であった葉室頼昭さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 


みとめる。

この言葉を漢字で書くと「認める」という字になりますが、これでは意味がわかりません。「みとめる」とは、本来は「目を留める」ことであって、じっと見つめるということではないかと思います。

この頃はすべてがスピード化し、無限の情報が瞬時に入ってくるというめまぐるしい世の中となり、何か一つのことをじっと見つめたり、みとめたりということが、だんだんとできなくなってきています。

その上、すべて理屈・我欲中心の世の中になってしまったため、世の中の本当の姿、神様のお姿というものが、みとめられなくなってしまいました。

みとめるということは、どうすればできるかと言いますと、相手と同じものを自分が持っていないと、みとめることができません。

例えば、世界的な名画を見ても、こちらに絵の知識や素養がなければ絵の良さが分りません。

ですから、神様をみとめるということは、こちらに神様がなければ神様をみとめるということはできません。

 

そのため、昔から祖先達は常に、お祓いということを行なってきました。

神様が素晴らしい姿に人間をお創りになったのですが、人間は知識を得たために、理屈でモノを考えるようになり、そのため、本来の姿が見えなくなりました。

これを罪・穢といいます。

罪とは悪いことをしたという意味ではなく、本来の姿を包み隠してしまうこと。

また穢とは汚いという意味ではなく、我々を生かしてくださる神様の気を枯らしてしまうことで、これらはすべて理屈・我欲であります。

ですから、この罪・穢を消してしまえば本来の神様の姿が現れて神様をみとめることができるのです。

今の日本人は、すべて理屈でモノを考えるようになりましたので、テレビや新聞を始め毎日毎日悪いニュースばかりを報道しています。

つまり悪いことを認めているのですから世の中はますます悪くなるのは当たり前です。

そうではなく、たとえどんな悪い状態が現れても、それを幸せに変えていくということが一番大切なことです。

例えば病気でも、皆悪いことと考えておりますが、自分の考え方により、病気も幸せに変わっていくことはいくらでもあります。

昔からよく言われている一病息災ということは、一つの病気を持ったために、返ってそれが幸せとなり、長生きをしていく人はいくらでもいます。

昔から言霊といって、言葉には「たましい」があると言われておりますが、

これも本当のことで、

・良い言葉を言えば幸せが、

・悪い言葉を言えば不幸がやってきます。

ですから、いくら時代が変わり世の中が変わろうとも、そしてどんな厳しいことが現れてこようとも、自分の身体の中に神様をみとめて、生かされていることに感謝をするということが一番大切なのです。

■20ccのミルク

赤ちゃんの手術の翌日、赤ちゃんが20ccミルクを飲んだとする。

経験の浅い看護師は、「20ccしかミルクを飲みません。どうしましょう」と言う。

お母さんが不安に思う。すると赤ちゃんの容体が悪くなる。

逆に、ベテランの看護師は、「20ccも飲んでくれました。よかったですね」と言う。

それを聞いてお母さんが安心する。すると赤ちゃんが元気になってくる。

同じ20ccでも、経験の浅い看護師は、一日に何cc飲むかというところから考える。

そうすると、「20ccしか・・」という言葉になる。

ところが、ベテランの看護師になると、20cc飲んだということは、回復力が出てきているということで、「20ccも・・」という言葉になる。

同じ20ccでも見方によって、まるで違ってしまうということですね。

<引用終了>

人間は「徳」を持って、はじめて人間と言えるのかもしれません。

・神さまや祖先に感謝する。

・親を敬い大切にする。

・自分以外の人や世間の幸せを考えて行動する。

・自然の素晴らしさに感動する。 

「徳」という神様に最も近い性質は、神さまが人間にだけ与えられたものかもしれません。

私たち人間が生きている短い数十年間、その間に「徳」を積んで行くということが、

神さまと約束してきたことかもしれません。

 

人生のいろいろな経験でそれを磨くことによって

私たち人間の真実の徳が現れ、本当の神さまの目的である神さま自身に近づいていきます。

いかにして徳を磨いて、この世界に現すか?

それが、神に最も近いものとして作られた人間の定めかもしれません。

そして、私たちが日々積み重ねた「徳」は、

自分たちだけでなく、私たちの子や孫、 

さらには、遥かにさかのぼって、何代もの祖先さえも 幸せにするといわれています。


2021年8月30日月曜日

2440「最後のプレゼント」2021.8.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月23日「最後のプレゼント」

2021年08月24日「トントンという音」の2つの記事を紹介します。


「最後のプレゼント」


私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますように

そう願いました。 

そしてきっと、自分が先に天に帰るときも、残されたこの子が、幸せに生きられますように

そう願うのだと思います。

子供が悲しみの涙を流していれば、自分の命に代えても守りたいと願うかもしれません。

誰でも、何時かは天に帰るわけですが、今日は、沢山の読者の方々のためにも、

子供にとって、親の死の持つ意味を、書いてみたいと思います。 

どうか、残されたご家族が、最後の親の愛を知り明るく健やかに暮らしていけますように。 

そうして暮らしていくことこそ、周りの人々と仲良く笑顔で暮らしていくことこそ、 

私たちを愛し、慈しんでくれた、親たちの一番の願いだからです。

皆さんは、親が子供たちに最後に残してくださる、最大のプレゼントは何だと思われますか?家や車や、莫大な財産ではありません。

それは、死です。「人は必ず死ぬ」このことは、誰でも知っている、当たり前のことです。

しかしそれは、現実に経験してみないうちは、にわか知識にすぎません。

親が死ぬときに、人は初めて本当に「死ぬのはどういうことか」 

切実な現実を痛烈に知って、私たちは「死」を学ぶことができます。

・人生は本当に有限なものだった。

・自分もいつかは死んでいく。

・この限られた人生を、何に使えば良いのか?

・何をしたら死に臨んでも満足がいくのか? 

鉄拳「振り子」 父と母の人生の物語です。 是非ご覧ください!!

目の前の親の死を、経験させていただくことで、様々な思いが、頭を巡り、 

深く、自分自身のこととして考えることができます。 

また親の死ではなくとも、動物が好きなご家庭では・・・(参考元)

・子供が産まれたら、一匹の犬を飼おう。

・子供は犬と共に大きくなり、いろんな思い出を作るだろう。

・家族の一員であるペットは、子供たちに大切なことを沢山教えてくれる。

・彼らが少年少女になった時、犬は歳を重ね、やがてこの世を去っていく。

・その死をもって、子供たちに最後の教えを伝えるだろう。

・命を終えてゆくことで、共に生きて過ごした日々がかけがえのないものになる。

・終わりを知ることで、輝き出す命。

・ペットの死は、大切なペットからの、最後にして最大の、子供たちへのプレゼントである。  

生前、死後を通じ、何百万、何千万人もの人々の魂を救った親鸞聖人は4歳の時にお父さんを亡くされ、8歳の時にお母さんを亡くされています。聖人は「波瀾万丈」という言葉がふさわしい一生を送られた方ですが、まさに人生のスタートから激しい波が、聖人に襲いかかりました。

松若丸(のちの親鸞聖人)は、ついさっきまで温かい手で自分の頬をなで、優しい目で語りかけてくれていたお母さんが、たちまち目が閉じ、顔から血の気が引き、手は冷たくなり、帰らぬ人となっていった現実になんてあっけなく「死」はやってくるんだろう、と世の無常に愕然とされるのでした。

その時、松若丸は8歳ですから

・お父さん、どこ行ったんだろう。

・お母さん、どこへ行ったんだろう。

・お父さんに会いたい。

・お母さんに会いたい

とどんなに思われたでしょうか。

松若丸がさらに考え込まれたのは、自身の行く末でした。お父さんが死に、お母さんが死んだ。次に死ぬのは自分の番だ。いったい自分は死んだらどこへ行くんだろう。

真剣に我が身の死んだ先を考え込まれ、真っ暗な未来に驚かれるのでした。

世の中には

・父親が死んでも、

・母親が死んでも、

・夫が死んで見せても、

・妻が死んで見せても、

・子供が先に死んで見せても、

すべて他人事と受け流し、自分はまだまだ死なないと頑として思い込み、自分自身の確実な行く末に、目を向け、深く考える人は少ないものです。ですが、松若丸は違いました。

両親の死を縁とし、我が身の生死の一大事に驚き、なんとしてもこの大問題を解決したいと、

比叡山の慈鎮和尚の門を叩かれたのです。この時、のちの親鸞聖人は、わずか 9歳でした。

私たちは、このように死から学ぶことが、大変多くあります。

時には、その後の人生を大きく転換させてしまう力さえあります。 

親が子供たちに最後に残してくださる贈り物。決して無駄にはできないものですね。 

皆さんには、お子様はいらっしゃいますか?

いない方は、ご両親はご健在ですか?

私たち親は自分に子供が生まれた時、この子がどうか幸せに生きられますようにそう願いました。そしてきっと、自分が天に帰るときも、残されたこの子が、幸せに生きられますようにそう願うのだと思います。親と子、深い愛の絆で結ばれています。

私たちは、生まれる前に、お互いの魂同士で約束してきました。 「家族になろうね」って。

人は必ず死を迎えます。親の勝手な希望、価値観、プライド、世間体で、子供たちが、可憐な「スミレの花」を咲かせようと、この世に生まれて来たのに、華やかな「バラの花」になれと、無理強いはしていませんか? 

私たちが嫌いな、あの人も、深く深く愛してくださった親御さんがいらっしゃいます。 

愛する子供もいらっしゃるかもしれません。

世界中の人たちが、優しさと愛で包まれますように・・ 

悲しみの涙を流す人が一人でも減りますように。


 

「トントンという音」


今日は医師である鎌田實さんのお話をご紹介します。 

何気ない平凡な生活の中にある、美しい心に関するお話です。 

私たちの心の世界は

・見える世界(物質的な、目の前の世界)

・見えない世界(冥界、神々の世界)

をも包括するほど重要で、広大なものです。 

心を清浄(ピュア)にすることで、私たちは真の幸せを手に入れ、神々と直接的に繋がることができることでしょう。わざわざ、パワースポットに出かけたりお金を払って、誰かに頼る必要が無くなります。このブログでは、いつも「心の世界」のことを中心に書いています。

幸せになるための王道だからです。 

「心の世界」のお話は大変地味です。 

・お互い様、おかげさまの心で生き

・他人に優しく、寛容に

・感謝の心を持って生きよう

など、平凡なものかもしれません。 

ですが、宇宙神と同じ立場に立ったブッダも、イエスも同じことを、おっしゃっていたのではないでしょうか? 

どうして、このお二人が、同じことをおっしゃったかといえば

心を洗うこと、整えること そのことこそ、見える世界、見えない世界を超えて

神々へと至る道筋だからではないでしょうか。

自らの足で、しっかりと大地に立ち、何者にも、何事にも、依存せず、執着せず、神々へと真っすぐに進む道だからです。

この道は、生も死も時間も空間も超え、真の幸せを分かち合う道だからです。

  

では鎌田實さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 

 

生きるって大変なこと。これまで、たくさんの生と死に関わって生きてきました。

73歳のおじいちゃんの話をしましょう。 

徐々に痩せてきました。背中が張ると言って、外来にやってきました。血液の検査や超音波検査、CTの検査をしました。後腹膜に腫瘍が見つかりました。 すい臓がん。リンパ腺にも転移がありました。ご本人と優しい奥さんと、何度も治療法について話し合いをしました。

東京の息子さんも話し合いに参加しました。

おじいちゃん自身は、「もういいな。手術はしたくない。抗がん剤が少しでも期待できるなら、苦しくない範囲で1回試してもいい」これがおじいちゃんの自己決定でした。

自分の行く道を自分で決めたのです。奥さんも息子さんも賛成しました。

僕自身がこの人の立場だったら、僕もこの選択をしたかなと思いながら、 「全力で支えさせていただきます」と何度もの話し合いをまとめました。 

ご本人の希望で緩和ケア病棟に入院しました。

「やるだけのことはやった。もういいな。とにかく苦しいのは嫌だな」緩和ケアが始まりました。痛みが取れると、彼は再びニコニコし始めました。

それでもご飯は食べられません。 

「匂いを嗅いだだけで食べられなくなる」

「でもね先生、もう1回ご飯が食べたいな」

横についている奥さんが黙ってうなずきました。

「先生、1回外出させてください。気分を変えてあげたい」 

根拠はないけどいいことだと思いました。賛成、賛成と背中を押しました。

おじいちゃんもニコッと笑顔を見せました。 

翌日、息子さんは東京の会社を休み、飛んできてくれました。

お昼から半日、家に帰りました。


夕方7時頃、おじいちゃんが病室に戻ってきました。

病室へ伺うと、おじいちゃんはニコニコしていました。 

「先生、トントンがよかった」

「トントンって何ですか?」

「家に戻って、いつも自分が座るところに座って、夕陽が落ちるのを見ていました。

先生、夕陽がきれいでね。目を奪われていたんです。この庭も見納めかなと思っていました。

その時です。お勝手からトントンという音が聞こえだしたんです。女房のまな板の音です。

こんな音、何十年も聞き続けていたはずなのに、一度も意識したことがありませんでした。

女房もきっと意識していないんです」

奥さんが言葉を受け取った。

「何も意識していません。でも、この人が家に帰ってきてくれて、私はうれしくて、無意識の中で心が躍っていたんです」 

おじいちゃんが続けた。 

「まな板のトントンという音を聞きながら、生きてきてよかったと思ったんです。 

シューッとご飯ができあがる音も聞こえてきました。匂いも伝わってきたんです。

食べ物が運ばれてきても、その匂いだけで吐き気が出てたべたくなかったのに、音も匂いも心地がいいのです。先生、食べれたよ。 お茶碗に3分の1ぐらいだけど、うまかった。 もう思い残すことはありません」

奥さんと息子さんが下を向いて泣き出しました。このおじいちゃんは間違いなく生きている。 死は近づいているかもしれない。けど、そんなことはどうでもいいんだ。 

いま生きているという実感が大事。

<引用終了>

 

何気ない日々の生活の中にこそ、人の優しさや、思いやりが含まれているのですね。

見える世界、見えない世界 不思議なことは、ワクワク楽しいかもしれません。

ですが、それはまさに孫悟空が、いろんな冒険をし、宇宙の果てまで行ってきたのに、結局は、全てはブッダの手の平の上の出来事であった。 と同じことかもしれません。 

地味かもしれませんが、 

・他人に優しく、自分にも優しく

・お互い様、おかげ様と謙虚に

・相手を許し、認め、個性を尊重し

・元気の出る言葉、喜ぶ言葉を口にし

・周りの人や出来事に感謝して 

日々過ごすことが、神さまに似せて作られた人間にとって、大切なことなのかもしれません。


2021年8月29日日曜日

2439「はなればなれの君へ。(後編)」2021.8.29

今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年08月22日「はなればなれの君へ。(後編)」を紹介します。 https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12693474786.html


「はなればなれの君へ。(後編)」

澤野大樹氏ブログインタビュー「はなればなれの君へ。(中編)」からの続きです。

  

――ところで、澤野さん、アフガニスタンのタリバンの件が途中で脱線してしまっていますが?

 

あはい、すみません。大幅に明後日の方向に大規模に脱線していましたね。アフガニスタンでは、イスラム原理主義組織「タリバン」が首都カブールを掌握し全権を奪還しました。この報道を受け、全世界のメディアは「再び暗黒時代へ舞い戻るのか」と報じました。また、多くのアフガニスタン人が、慌てて国外へ脱出しようとパニック状態にまでなりました。

 

――澤野さんは以前からイスラム原理主義組織は、日本の岸思想を具現化させたS・Fの指導の下、教化された組織だと言っていましたよね。つまり、彼らはカバールであると。

 

まさにそうです。ですから私はこの報道を知った瞬間に、アフガニスタンは再びカバールに

支配されてしまったと思いました。

 

――やはりそうなってしまったのでしょうか?

 

6月のイスラエルでのネタニヤフ政権崩壊のニュースの時の報道を思い出してください。

あの時、ネタニヤフ政権が退陣し、民衆たちが大喜びし騒いだ映像がありましたよね。

あれを見て多くの人が、「ついにイスラエルからカバールが追い出され、真の自由がもたらされた!」と歓喜しましたよね。それをマスメディアは嬉々として報じました。

しかし私は、じつはそうではなかったと指摘しました。

すべては逆であると申し上げました。カバールメディアが喜んで報じている時点で、それはカバール側にとって喜ばしいことだった。つまり、あの歓喜に沸く民衆たちというのはじつはカバール側であり、だからこそ、カバールメディアはそれを大々的に報道したのです。 

このことを念頭に置いて、では今回のアフガニスタン報道を振り返ってみてください。

アフガニスタンのこの一連の出来事でバイデン氏は窮地に立たされましたよね。

しかしその一方で、トランプ氏がバイデン氏を強く非難するなどして再び脚光を浴びることとなりました。そしてカバールメディアはアフガニスタンでのタリバンの行動を悲観的に報じましたよね。というのも、首都カブールは「無血開城」だったのですよ。

これ、おかしいと思いませんか?あの過激なイスラム原理主義組織が「安心・安全」な首都掌握を行ったのね。そこに何かを感じませんか?

 

――「安心・安全」、そして「合法」というのは、トランプさんの行動方針でしたよね。

 

そのとおりです。実際に、トランプさんは2020年2月にタリバンと和平交渉に合意していたわけですよね。その時点でじつはタリバンはトランプサイドについたのだと思います。

でもその後、バイデン氏が選挙を盗むことはすでにシナリオの想定内に組み込まれていた。

そして、2021年4月にはバイデン氏は2021年9月11日までにアフガニスタンの駐留米軍を完全撤退させると表明しましたよね。しかし、次の瞬間から突如として、タリバンがアフガニスタン軍に大攻勢を仕掛け始めたのです。

 

――すべて事前に決められたシナリオだったということですね?

 

そう。トランプ氏との和平合意以降、タリバンはすでにトランプサイドとなり、「反カバール」としてその「役目」を演じることとなった。だから最終的に「無血開城」となったわけね。

 

――ということは、タリバンを恐れ国外への脱出を求め、空港に押し寄せていた人々は

どういうことだったのですか?

 

国外への脱出を求めて殺到していた人々は位置付けとしてはカバール集団ですよ。

 

――えーーっ!?

 

だから米軍の輸送機で移送されていたでしょ。

 

――確かにそうでした!

 

しかも満員で乗り切れずに滑走路に溢れる人たちを蹴散らすかのように離陸していきましたよね。あの対応は「保護」じゃない。

 

――胴体にしがみついて振り落とされる人までいました。

 

あのね、トランプさん側の人たちっていうのは、パニックになって逃亡しようとかそういうことはしないのよ。どうして彼らはあそこまで慌てて逃げようとしたのかってことです。 

アメリカとメキシコの国境の壁のことを思い出してください。なぜトランプさんは

メキシコからの不法入国を阻止しようとしたのか。幼い子供を連れた母が泣きながら訴えていましたよね。あれはすべてカバールメディアによる「演出」だった。

本当の親子じゃない。人身売買のためにアメリカに不法入国しようとして大挙して押し寄せるキャラバンたちはカバール集団だった。 

つまり、およそ「可哀想で不憫な難民たち」と印象付けられた者たちはほぼ「やらせ」であり演出だということ。トランプさんがいかに非道で無慈悲な差別主義者であるかを喧伝するためにカバールメディアは「総合演出」をしてきました。 

つまり、今回のアフガニスタンにおいても、「恐ろしいタリバンから逃げ惑う可哀想な難民たち」というのは私はこれ、ほぼほぼ「演出」であると見ているわけです。

国境を越えて集団で押し寄せてくるのはカバールです。そしてカバールメディアは、「タリバンは危険だ」「そのうち本性を現すはずだ」と懸念のみを報じていますよね。 

トランプさんとタリバンはドーハで和平合意済みなのですよ。あとは名目上、バイデン氏が

そのシナリオに合わせて失策を演じていく。そしてその過程において、様々な暗部が浮き彫りになり露呈していくのを全世界の人々にきちんと見せていく。だからカブール掌握は安心・安全の「無血開城」ということだった。

トランプさんは、「ほれ、全メディアよ、今までどおり、きちんと市民を弾圧する恐怖のタリバンだと報道しろよ!」って言っていることでしょう。

それに対して全メディアは、「はい、わかりました」と、唯々諾々と従っていくのです。

ですからバイデン氏はきちんと窮地に陥っていますよね。タリバンの同志であるはずのバイデン氏が、そのタリバンによって窮地に陥っているということです。つまり、タリバンもしっかりとトランプ氏によるシナリオを演じているのだということです。

 

――ということは、トランプさんはこのアフガニスタンの件で、何を伝えているのですか?

 

カブール陥落の日付を見ればそれがわかりますよ。

 

――8月15日!!

 

そう。イスラム原理主義組織のベースは岸の思想の具現化なのね。つまり満州関東軍の「国際根拠地」としての別働隊ということなのです。しかもアフガニスタンという国は、アヘン、ヘロインの世界流通量の90%近くを占める「大麻薬帝国」なのです。世界最大のアヘン(ケシ)生産国ということの意味がわかりますか?アメリカがタリバンと戦争をしたということは、アメリカは岸の関東軍と戦争をしたということなのね。

 

――2001年にニューヨークで「神風特攻」をやって全世界に宣戦布告した彼らとの20年に亘る戦争が終わったということですか?

 

そう。だから8月15日という日に、「終戦」というメッセージがトランプさんから発信されたのだということ。つまりこれはどういうことですか?2001年以降、世界は「テロとの戦い」を行ってきたでしょ。それは「岸の亡霊」と世界が戦ってきたということ。

その戦いが終わった。もしくは「もう終わります」という象徴としてこの8月15日という、

日本のカバールDSに向けたメッセージが放たれたということなのです。

 

――これで完全に終わったのですか?

 

いや、まだまだですよ。大枠での決着は付いたということ。「結果」が先に提示されたということね。これからアフガニスタン国内でも末端では市中での小競り合いも起こるだろうし、この「終戦」を受けてからの戦後処理はあるし、さらに「第二次東京裁判」もやらなきゃいけない。その前に、カバールDS掃討作戦の世界最終の舞台はこの日本なのですから、世界で起きることは日本でも起きるということで、アフガニスタンに投影されたインシデントの「雛形」がこれから日本で起きてくる。

 

――だから日本でコロナが爆発的感染数を記録してきているのですね?

 

まさにそうです。緊急事態宣言が延長に次ぐ延長を繰り返しているのはこのことを暗示しているのです。だから日本国内はこれからが本番となります。

つまりこれまでが「序章」だったと思えるような事態となる。それらはすべて「幻想」として、メディアが五次元的、多次元的に見せてくる。どう考えても「現実」としか思えないような「幻想」が畳み掛けるように現れてくると思います。 

だから私たちは、夜になったら防空壕である自宅に戻り、灯りを落として飲酒を控え、マスクをして静かに待機するという「体」(テイ)で行くのです。その「体」にきちんと乗っていく。戦時体制は現実と多次元が同時進行するのです。だから多くの人にとっては「意味のわからない状況」というものが出てくるはずです。

「なんだこれ?」というようなことも出てくるでしょう。

 

――マスクの複合的多次元的意味ですね。

 

あと、忘れちゃいけないことがあります。私はもう何年も前から、「彼らは自分たちの野望が頓挫したり叶わなかったりした場合、ハイさようならと素直に認めるようなことは絶対にしません。彼らはもしそのような事態になるのであれば、日本国民全員、いや全地球人類を道連れにして、世界を焼き払っていくというメンタリティです」と言ってきました。

 

――ということはどういうことですか?

 

イスラム原理主義勢力が最後の本丸じゃないということ。私たちはこれからもしかしたら、

本当の本丸を目撃することになるかもしれません。そしてそれは、まさかそれが幻想だなんて到底思えないような現実感を伴って来るでしょう。

 

――意識の解像度を上げて多次元的視点で観察できるようにならなければいけませんね。

 

これがまた困難をきわめることになりますけどね。

 

――今、カバールたちが必死に隠そうとしていることは人々が「もしかしたら自分はカバールだったかもしれない」ということに気付いてしまうことではないですか?

 

鋭いですね!だから彼らは人類を「半径5メートル以内の恐怖」に封じ込めているわけですよ。深遠なる世の理などに思いを馳せるためにはリラックスした時間が必要不可欠ですよね。人々が深遠なる壮大な宇宙の理について思いを馳せないようにするためには、人々の身近なところに「喫緊の事態」を提示してあげればいいだけのことです。まさに「5メートル以内の恐怖」です。

 

――それは酷いことのように思えますが、意味のないことなどひとつもないということでしたらそれもまた意味のあることなのかなと思います。

 

全然酷くないですよ。すべてのインシデントにはヤハウェがコードシェアしていますからね。その「半径5メートル以内の恐怖」という「幻想」から脱出するテストみたいなものですから。試されているのですよ。「おまえ、随分知ったかぶりしてるみたいだが、ではこの恐怖の境地を肯定し立脚した上で、おまえはこの迷宮から抜け出ることができるのか?」って。

 

――日常のすべてが「テスト」ですもんね。

 

「恐怖の境地を肯定して立脚」しているうちは絶対に抜け出ることができないように初期設定されてる。これがかりそめの幻想設定ね。幻想世界の中に展開される「恐怖」に、そのままどっぷり浸かって対峙し抵抗し戦うということは、じつはその幻想世界を肯定していることと同義なのね。つまり、自分が幻想世界の中の構成員であることを自分で強化しちゃうことになるわけ。つまり多くの正義の「ジャスティスくん」たちは、マトリックスの秩序を維持するための監視員でもあるわけなんだよね。

 

――だから抵抗して反対するほど、その反対している方向が現実化しちゃうということですね。つまりすべては「幻想」だということですか?

 

突き詰めていけばそうなります。でも、とてもじゃないけどそんなふうには見えないし思えないようになってる。私たちが「外」だと思って見ている景色は「中」ですからね。

そもそも「出産」がそうです。私たちは「出てきた」んじゃない。「入ってきた」のよ。

「Uの世界にログイン」しているのと同じ。

 

――「半径5メートル以内の恐怖」にはどう対処したら良いのでしょうか?

 

己自身がヤハウェそのものであり、宇宙そのものであり、神そのものであるならば、この世に存在するすべての疾病もまたヤハウェそのものであり神そのものであり宇宙そのものなのだということ。

己自身がヤハウェであり宇宙であり神であるならば、私の外側には何ひとつ、モノや偶像は必要ないし、それに依存してきたそれまでの己というもののいかに小さきかなを思うとき、それを懐かしく思ったら良いでしょ。

このことを肉のアタマで理解するだけではなくて、自らが「ひとつ」そのものであるということをあらゆる体験、経験から発見して実感して無意識にもそれを体現するようになることです。世界は美しいのだということに気付くこと。

このことに気付くことが出来たなら、「半径5メートル以内の恐怖」というものが、その瞬間に、「奇跡の幸せはじつは半径5メートル以内に最初から全部揃っていた」となるんです。

景色はまったく同じ。しかしその景色の「意味」が一瞬で変わる。 

「ひとつ」から分離独立などしなくても、「ひとつ」の中には最初から、あらゆる無限の景色、つまり「宇宙」があったのだとわかる。 「人」は「ひとり」では生きていけない。でもだからといって、群れればいいってことでもない。 私たちの世界はこれまでずっと「ひとつ」から分離してきた。それが「ひとり」を強いてきた。 

私たちはこれから「ひとつ」へと還る。「ひとつ」である「ヤハウェ」のもとに。

これまでずっと離れ離れになっていた「ひとつ」へと還る。これが本当の「WWG1WGA」ね。

「君」という字は、「コ+ロ+ナ」と書く。

「コロナ」は「567」「567」は「弥勒菩薩」。

「弥勒菩薩」は「みろく」。「みろく」は「666」。「666」はヤハウェ。

つまり、「君」とは「ヤハウェ」という「ひとつ」。「君が代」とは「666の時代」。

「666の時代」とは「ヤハウェの時代」。

「ヤハウェの時代」とは「ひとつ」と共にある時代。

己が「ひとつ」へときちんと還ることができた人生。

そして何より、その「ひとつ」である「ヤハウェ」とは、自分自身のことなのです。

ずっとはなればなれになっていた「君」に私たちは還る。竜とそばかすの姫より『はなればなれの君へ』

 

――今日お話いただいた内容は、本当にシビアなものだったと思います。でも最後には圧倒的な明るい未来が語られました。「ひとつ」へと還るということが、具体的に私たちの肉眼にはどう映るのか?まだまだ私たちは何も知ってなんかいないんだということを痛感いたしました。決して過信したり傲慢になったりすることなく、シンプルに、そして謙虚に生きて行きたいと思います。澤野さん、かなりのロングインタビューになりました。本当にお疲れ様でした。また次回もどうぞよろしくお願いいたします。

 

長い話になって脱線もたくさんしましたが、それも結果として良かったと思います。

まさに、「All's Well That Ends Well」(終わりよければ全てよし)ですね。

 

――シェイクスピアですね!

 

あと「活字版⑩番原稿」が完成しています。タイトルは『ケモノを追え』です。

→お申込フォームバラバラに思える様々な分野のお話しが、根底ではすべて繋がって展開されるという驚天動地の多次元的な内容ですので、ぜひお読みください。

 

小野さん今回もありがとうございました!(澤野大樹)

 

――澤野さん、ありがとうございました。

 

気が付けば第1回青森講演会から早3年。津軽蝦夷の積年の思いを背負い、猪突猛進、この人でなければ!とアソベ族たちの無念を一心に澤野氏へ告げ、やがて澤野氏とともにその道を歩むこととなり、いつの間にか「666」の時代を迎えていました。この疾走感は何と言ったらよいのか、想像を遥かに凌駕した壮絶な世の中を駆け抜けてきました。

第10回青森講演会では、これまでの集大成ともいえる666の全容、あらまし、そして迫害され、弾圧され、差別され、封印され、殺され、改竄され、存在しなかったことにされてきたこの列島の正真正銘の縄文スピリットが浮上し、弥生南ユダ大日本帝国満州洗脳システムが崩れ、いよいよ「君」へと還る新しい章へと入りました。 

青森講演会の原点ともなった三内丸山遺跡6本柱建物。澤野氏がご来青した第1回講演会のタイミングは、「量子コンピューター並みの精妙なタイミングだった」そう確信しています。 

はなればなれの君へ。

『アダムの創造』ミケランジェロ




2021年8月28日土曜日

2438「はなればなれの君へ。(中編)」2021.8.28

今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年08月21日「はなればなれの君へ。(中編)」を紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12693429218.html


「はなればなれの君へ。(中編)」

澤野大樹氏ブログインタビュー「はなればなれの君へ。(前編)」からの続きです。

 

――さて。澤野さん、私たちは彼らのことを一言で「弥生」って記号化して呼んでしまっていますけど、かなり深く学んで理解し会得していかないと日本のカバールDSの正体というものは付け焼刃のニワカでは掴めないと思いました。

 

確かにそうだと思います。私は以前から「縄文神アラハバキと核エネルギー」という

テーマでお話ししたこともあるように、「縄文スピリット」というものはきわめてシビアで、

それは放射性物質を素手で触るようなものであり、それこそ薄氷を踏む思いで臨まなきゃならないものだと申し上げています。

しかしその「逆位相」の世界がわかれば、それはたとえば一度自転車に乗ることを覚えたら、

あとはもう無意識に運転することが出来るかのごとく、「縄文スピリット」というものは、

まるで空気のように私たちの肺を満たして機能を始めます。弥生化した意識のまま縄文意識領域に入ることはきわめて困難を要するのだということです。

 

――平和の意味を知らなかった縄文人というのは未熟だったわけでもなく野蛮だったわけでもなかった。

 

地球最先端の先進的な「人」だった。何もかもが美しくスタイリッシュで成熟して完成されていた。

 

――そんな縄文をなぜ弥生は侵略したのでしょうか?

 

嫉妬と羨望です。悔しかった。自分たちが持っていないものを縄文人たちはすべて持っているように思えた。

 

――「美しくスタイリッシュだった」ということはどういうことでしょうか?

 

それは見かけの服装のことではありません。生き方、考え方から立ち居振る舞いということです。つまり彼らはヤハウェと「ひとつ」だったということ。この「ひとつ」だったということが、他の何にも代え難いスタイリッシュさを醸し出していたのだということ。

 

――弥生の人たちはどうだったのでしょうか?

 

彼らはヤハウェを裏切り、洗礼者ヨハネを貶め、ヤハウェのオイシイ表層だけを盗みましたよね。この瞬間に「二元論」の世界が生じたのです。

つまりこの瞬間に「敵」が現れたのです。弥生の最大の特徴は「敵」の存在を生み出したということ。するとこの瞬間に「悪」も突然現れたのだということね。

彼らはつまり、上辺の見せ掛けは煌びやかな姿なのですが、「ひとつ」と訣別したいびつな姿をしているのです。だから表向きを装うのです。これは服装に始まり、「名目」を装い、「建前」を装い、詭弁を弄し詐術でしか人々からの支持を得られなかった。

 

――せっかく「ひとつ」からの独立を果たしたものの、そうそう上手くはいかなかったということなのですね。その「ひとつ」からの独立という行為は、数千年経った今でも彼らの中に深く根ざしてしまっているのですね。

 

彼らは「ひとつ」であるヤハウェに対して挑んだということね。自分たちならもっと上手くやれるはずだと、増長して全知全能感を得てしまった。姿も形もないつまらない概念としてのヤハウェなんか無能であると。そんなものよりも私たちはもっと魅力的な「神」を提供できると。

 

――「全知の無知」の状態ですね。

 

そういうことになりますね。「全知の無知」という状態、「私は何でもすべて知っているのだという無知」のことです。一方で「無知の知」は、「私はまだ何も知らないのだということを知っている」ということですよね。「全知の無知」は「無知の知」とは相容れない真逆の姿勢ということになりますよね。

このことを彼ら自身が一番よく知っていたわけです。だからずっと劣等感に苛まれることになりました。

ヤハウェから独立し「新しい神」を創出し、我が世の春を謳歌するはずでした。しかし彼らは自ら「ひとつ」から離れたことによって、寄り添いあって群れて泣きながら慰め合わなきゃいられないという猛烈な寂しさの中を行き続けなくてはならなくなった。

 

――そんな「全知の無知」の弥生たちが、天真爛漫で純粋で朴訥な縄文に対して嫉妬と羨望の念を抱いたということなのですね。

 

はい。これは旧約聖書『創世記』にあるカインとアベルの寓話に似ています。

カインは農業を営む弥生です。アベルは羊飼いの縄文です。カインは一生懸命に育てた農産物を神に捧げます。アベルはただの子羊を捧げただけでした。神はカインの農作物には目もくれず、アベルが捧げたただの子羊を受け容れたのです。

 

――現在の私たちの感覚ですと、一生懸命に野菜を育てて捧げたカインこそが神から賞賛されてしかるべきだと思われますよね。どうして神はカインを無視したのでしょうか?

 

「私たちが野菜を作り上げたのだ」という驕りと傲慢さ、そして、「これだけ頑張ったのだから神は喜ぶに違いない」という打算と野心という山っ気があり、それが神に見透かされていたからです。

 

――では子羊を捧げたアベルはどうだったのですか?

 

「私は神の前では完全に無力である。ならば、私が自らの力を誇り、それを神に捧げものをするなどなんともおこがましいこと。ならばすでにそこに完成形として在る子羊をもって

捧げものにする以外にさて私に何ができようか、いやできるわけがない」という姿勢だった。

 

――アベルは「無知の知」だったわけですね。

 

そう。だからカインはアベルを殺したのよ。これが嫉妬と羨望に憎しみが加算された人類初の殺人事件となったわけだよね。これと同じことが、かつて縄文と弥生の間に起こっていたということ。これが「偽者は本物を抹殺しようとする」ということの根源なのだということ。

この「カイン」という存在は、じつはカバールを暗示しているわけね。

バビロンで魔術や呪詛を身に纏い、低層四次元という「別の宇宙」から、「新しい神」を召還してしまったわけ。「ヤハウェに対抗できる、いやヤハウェ以上の神を私たちは生み出すことができるんだ」と。それはまるでカインが農作物を育てるのと同じように、ヤハウェに対して挑む形になってしまったんだね。これがじつはヴィーガニズムの淵源でもあるのね。

自ら「ヤハウェ」と訣別し、三次元顕在意識という肉の「アタマ」で己の「本能」を否定したり、肉のアタマで作り上げたイデオロギーで己を勝手に規定しちゃったらマズいよね。

ヤハウェとの回線を遮断したがゆえに、そういったカイン型の生き方を積極的に選択するようになってしまうのです。肉のアタマで規定できてしまうほど、「人」というものは浅くはない。

 

――現代は「カイン型社会」だということですね。

 

そういうことです。「古代ヘブライ王国」が北と南に分裂し、南ユダ王国2部族がバビロンに捕囚され、魔術を身に纏い、ヤハウェから分離独立し、カインはアベルを殺害し、弥生は縄文を蚕食(さんしょく)していった。

そして、18世紀半ばからのイギリス産業革命の勃興によって、脱穀の機械化と穀物の大量生産、そしてそれらのグローバル輸送が可能となり、世界は「弥生カバール世界」によって席巻されました。これが「カイン型カバール弥生世界」です。

 

――それが今ひっくり返ってきているということですね。

 

そう。つまり現代社会というもの、現代の世界というものは、嫉妬と羨望と憎しみによる世界初の殺人事件を起こしたメンタリティがベースになっているのだということね。

ほとんどすべての商品が、他者と比較させて劣等感や嫉妬を想起させ、購買行動に繋げていくというやり方なのです。そしてそれはカインが抱いた「全知の無知」という傲慢さと増長によるものだった。つまりそれは「ヤハウェへの反逆」が発端なのよ。つまり「ひとつ」が否定され拒絶されたということです。

 

――ひと言で「カバールDS掃討作戦」とか言いますけど、その元を辿っていくと本当に長い歴史があるということがわかってきました。

 

だから今、「潜在的なカバールは数億人いる」って言われていますけど、その理由はここまで遡らないと見えてこないということね。

 

――ということは自分がカバールだということに気付いていない人たちもたくさんいるということですか?

 

もちろんそういうことになります。また、気付いていないだけならまだしも、その無自覚カバールたちの多くは、「カバールDS掃討作戦」を応援しているのだということ。

だから私たちはこれから見たくないものを見なきゃいけなくなる。

 

――カバールたちは「偽装」と「捏造」の達人ですよね。ならば彼らは「敵」と「味方」もすり替えて偽装しますよね。また三次元世界内での「正義」と「悪」も入れ替えます。

それは私たちの心にも及んでいて、私たちの良心や正義感といったものの中で、基礎に立脚していない脆弱な部分、つまり「心の隙間」にうまく侵入して利用して来ますよね。

操られたその正義感は「本物」を「偽者」と断罪すると思います。

それはものすごいパワーを持って世に君臨すると思います。

 

そう。そして彼ら「ジャスティスくん」たちは、「本物」を「偽者」と断罪し、快哉を叫び、祝杯を上げることでしょう。

出典:アベルを殺すカイン(ピーテル・パウル・ルーベンス画)


――ところで澤野さん、アフガニスタンのタリバンの件が途中で脱線してしまっていますが?

 

あはい、すみません。(澤野大樹)


「はなればなれの君へ。(後編)」へ続きます。




2021年8月27日金曜日

2437「はなればなれの君へ。(前編)2」2021.8.27

満州国を創り上げた「父」には夢があった。バビロン系南ユダ王国2部族パリサイ派たちの

悲願である「理想郷」を作りたかった。しかしすべては敗戦によって失われました。

 

――彼らはそれを諦めることができたのでしょうか?


表向きは諦めた素振りをしなくてはなりませんでしたよね。でも彼らはバビロン系ですし、

しかもヤハウェを裏切り、自ら分離独立した勢力の流れでもあるわけですね。そのしたたかさと往生際の悪さがあったからこそ、これまで生き延びることができたといえますでしょ。

彼らの特徴というのがありまして、絶対に謝らない、責任を取らず他者に転嫁する、被害者を加害者にすりかえる、口先で卓越した詭弁を弄し相手を黙らせる。

このような洗練された「技術」をもって、数千年の風雪に耐え生き延びてきたのです。

つまり彼らの辞書には「諦める」という文字はないのです。日本の彼らは関が原の戦いから268年間ずっと一度も諦めることなくチャンスを待ち続けたくらいですから。

 

――つまり満州国の「父」も諦めなかった?


そう絶対に諦めなかった。しかしA級戦犯を免責され米国の傀儡として、「反共の防波堤」としての日本を維持し、さらに対米従属派として「清和会」の礎となった。

でも自らが先頭に立ってその夢の実現に奔走することは許されない状況となっていました。

そこで彼は「血盟団」時代からの同志の娘で、学生運動に参加していた彼女に一縷の望みを託したのね。

 

――それがSだったのですね。


そう。細かいことは端折りますが、彼女は中東に渡り、中東アラブ、イスラム教、パレスチナの人たちに世界共産革命のイロハはもとより、ありとあらゆるテロのやり方を教えていった。そうやって彼女はイスラム国、アルカイダ、そしてタリバンといったイスラム原理主義勢力の基盤を作っていった。だからタリバンも「学生」っていう意味なのです。

自爆テロというのは大日本帝国直伝の神風特攻そのものであり、その自らの命を懸け、国や信仰のために投げ出すことこそが聖戦(ジハード)なのだと認識されていった。

また満州国といえば「アヘン貿易」ですね。それがわかった上でアフガニスタンを見てみますと、アフガニスタンは世界最大のアヘン、ヘロイン生産国です。全世界のヘロインの90%以上がアフガン産です。アフガンでケシの栽培を行っているのがタリバンです。

 

――いろいろ受け継がれているのかもしれませんね。だからパレスチナやイスラム原理主義勢力が、その「父」系のDSなのだということになるのですね。


そうです。彼女は2000年11月8日に日本国内で逮捕されましたよね。移送される時に彼女は笑顔で親指を立てました。そこには些かの悲愴感もなく、むしろ充実感と達成感すら漂わせていました。彼女の中では「完全にやり切った」という意識があったように私には見えました。彼女は自らに託された「任務」を完遂したのでしょう。

 

――人に歴史あり、といいますか、私たちの知らない壮大な計画があったのでしょうね。


想像を超える壮大なシナリオに忠実に動いていたと思います。

そして、彼女が逮捕された10か月後、何が起こりましたか?

 

――2001年9月11日ですね。


そう。彼女がすべてを授けた「教え子」たちが、忠実に「父」の悲願を継承するのだという

明確な意志を誇示するかのように、彼らはニューヨークの高層ビルに神風特攻を行ったのです。

 

――ああ、そういうことだったのですね。


その神風特攻は改めて「父」の思想や理念をこの世界に具現化させるのだという強烈な意志表示となりました。そしてそれは同時に、世界に対しての「宣戦布告」だったのです。

これはある意味「父」の怨念でもあった。彼がもっとも憎んでいたのはアメリカでしょ。

自らの聖なる理想をすべて破壊したアメリカを心の底から恨んでいたことでしょう。

しかしそんなアメリカに面従腹背を強いられた。だから彼の心の底には、「いつしか必ずこの仕返しをしてやる」という強烈な復讐心が消えることなく燻り続けていた。

それはつまり、いつか必ず、再びアメリカに宣戦布告し、そして勝利し、「YP体制」(ヤルタ・ポツダム体制)という憎むべき「戦後レジーム」を覆し、新しい世界秩序の地図を塗り替えてやるという強烈な怨念です。

 

――それでブッシュは相手を明言せずに、「テロとの戦い」と表現したのですね。


相手が恐ろしすぎる「妖怪」であり「化け物」だからですよ。そしてこの瞬間に世界は一変したのですよ。その瞬間に世界は震撼した。それまでの戦争と言ったら、国と国、民族と民族というように、誰の目にも明らかな図式であり構造だったでしょ。

しかしこの「テロとの戦い」というものは、相手は猛烈なグローバリスト集団であり、つまり「トランス・ナショナリズム」(脱国家・超国家)だった。

しかも表の世界ではなく水面下で動く。そして彼らは「狂信的な信仰」によって、自らの命を懸けて突っ込んでくる。しかも姿が見えない。首謀者の正体が見えない。国境が意味を持たない。まさに「国際根拠地論」そのものなのですよ。これが「ディープ・ステート」なのですよ。

 

――2016年にトランプ大統領が登場して、彼らの計画が狂ってしまったのですよね?


オバマ、ヒラリーという米国の猛烈なグローバリストと共に、日本では「父」の外孫がそれを率い、世界のDSが結束して最終局面に突入し、世界同時多発共産主義革命を起こす計画だったと思います。そしてそのグランドフィナーレを飾る盛大な祝賀会が「TOKYO2020」だった。しかしその「TOKYO2020」の水面下での実質的な目的がすべて失敗し、本当に普通の純粋な単なる国際スポーツフェアになってしまったわけね。

せっかくそれに合わせて「淡路島」を設えてきたのよ。かつて満州でやろうとしていた理想郷がすべて潰され、しかし諦めることができず、じゃあもう一度それを日本に作りましょうと、それは「新生フグ計画」として、日本に「新しいエルサレム」を作ろうとしてきた。

「淡路島」の「あ」は「アルファ」、「わ」は「オメガ」ね。

 

――『新約聖書』にある記述ですね。


新約聖書『ヨハネの黙示録』の第21章6節にある「わたしはアルファでありオメガである。

初めであり終わりである」を表す、バビロン系南ユダ「ナザレ派」の聖地。そこに集うのはパリサイ人。これは「私たちが完成させたオメガはかつて潰されたが、今こうしてアルファに立ち返ることができたのだ」という日本のカバールDSたちの復活記念に相応しい地でもあるわけ。日本に侵入してきた彼らが本州侵略の拠点とし、だからゆえ「国産みの島」と名付けた地。そこは縄文じゃない弥生の本拠地として選ばれた。

 

――彼らは縁起と意味付けに固執しますよね。


「新しいエルサレム」とは方便で、本当は「新しいバビロン」のこと。大いなる「ひとつ」だったヤハウェから「ひとり」を抽出し分離独立した勢力。「ひとつ」を失った寂しき「ひとり」のために、たったひとりの偶像を拝ませた勢力。今度は誰を「皇帝」として拝ませようとしたか。

 

――「A」ですね。


そう。そしてその計画はまだ終わっていない。ガースーが意図的に失策を重ねるのも、

すべては「やっぱりAさんじゃなきゃダメだ」という世論醸成のための意識操作なのだということに気が付かなきゃならない。ガースーはそれをやり遂げることによって引退後の「安寧な老後」を期待しているわけ。

 

――その意識操作にスピの一部もそれに加担していますよね。


はい。日本の政権中枢はスピ系ですからね。この期に及んで尚、再び言い始めている人たちがいます。「カバールDSをやっつけよう」と言っている人たちがじつはカバールDSそのものだという悲劇がこの日本では特に顕著であると思います。

 

――水面下ではみな繋がっているように思えます。


想像を超えるネットワークで繋がっていますよ。先日の五輪の開会式のパフォーマンスの背後には、その人選の大部分に「富ヶ谷の妻」が関わっていると聞きます。

あれはまさに幕末の「ええじゃないか」狂騒の現代版だったと思います。「ええじゃないか」は幕末に行われた「明治維新とは神の思し召しである」という日本初ともいえる大規模な

プロパガンダ人心操作だったわけですからね。

 

――幕末からすでに日本にはオカルト分野が権力層に浸透していたのですよね。


ソロモン王がモレクの偶像崇拝を始め、古代イスラエル王国は北と南に分裂させられ、

南ユダ王国はバビロンに捕囚され、バビロンであらゆる魔術と呪詛を身につけ、ユダヤ教を生み出し、バビロニア・タルムードを手にした。

そのバビロンから伝わった西洋神秘主義オカルト思想とキリスト教、さらにユダヤ陰謀論とユダヤ同祖論、平田篤胤の「平田神道」からの「復古神道」、いわゆる「古神道」という新興宗教に吉田松陰のグローバル侵略テロ思想とがミックスされたものが明治新政府ですよね。つまりベースはオカルトなのです。

そしてそれでもって世界支配を企てた思想が「国家神道」という化け物だったわけね。だから今でも日本政府の中枢はオカルトなのね。

その明治新政府を構成する中枢は、1592年から1593年の「文禄・慶長の役」で秀吉が朝鮮半島から捕虜として連れ帰り、薩摩と長州に居留させていた中国遼東の東北部の山岳地帯にいた女真族のひとつ「建州女直(真)」らで占められていたわけですよ。

この建州女直らがかつて建てていた王朝が「金王朝」ですよ。建州女直らの聖地が「白頭山」です。この「女真族」が民族の名称を変更して「満州族」になったわけですよ。

その金王朝の地、建州女直の地がのちに満州国となり現在の北朝鮮北部の一部となっているわけ。そして1932年に大日本帝国の傀儡国家として建国されたその「満州国」の生みの親であり、「満州国」を「私の作品だ」と言ったのが岸信介だということよ。

 

――名前出しちゃってますよ!それが先ほど何度も出てきた「父」なのですね。すべて繋がっているということですね。しかしこれは複雑怪奇ですね。現在の北朝鮮問題を考えようとしてもただでさえ難しい話題なのにさらにこのことを無視してはじつは何も見えてこないですよね。


そう、まさに複雑屈折していますでしょ。明治維新以降77年間に日本が行った戦争はすべて朝鮮半島の利権を争ったものです。なぜあの地にそこまで固執していたのか、それはウラン採掘やレアメタルのためだけじゃない。彼らにとっては郷愁に駆られる忘れ得ぬ地なのね。

 

――この部分を理解するとこれまで見聞きしてきた様々な報道などがまったく違った解釈になってきますね。


あとからジワジワ効いてきますよ。つまりですよ。私たちがこれまでずっと信じ込まされてきた明治以降の「近代日本」というものと、本当の「近代日本」の姿というものの間に途轍もない乖離があるのだということ。私たちはそんな本当の「日本」の正体について、これまで1ミクロンも知らされていなかったのね。

なぜ知らされていなかったのかというと、これがじつは日本最大級のタブーのひとつであるからなんだよね。だってそんな彼らが「大和魂」とか「大和撫子」とか喧伝して外来侵略者による虚構の民族主義を広めちゃっているわけだから。

 

――本気で国の安寧を願う真面目な人や本気でこの国の未来を憂う人ほど騙されてきたということですね。


たとえば「大和」(やまと)っていうのはグローバル思想でありカバール思想ですよね。

だから私は「大和」という言葉は使ってないでしょ。「大和」っていう言葉は、満州国の石原莞爾らが主張した「五族協和」や「王道楽土」と同様に、日本国民の良心を利用する形で拡散された概念です。それは明治維新の時の「攘夷の流れ」とは真逆でしょ。

彼ら満州グローバリストたちは、最初は「攘夷」と言って外国を撃ち払い追い出そうとしましたけど、自分たちが権力を握った途端に、今度は「世界全体を大日本帝国にしてしまえ」とそれこそ「八紘一宇」、つまり「地球大日本帝国化計画」をやっちゃったわけだよね。

つまりその「攘夷」はグローバリストたちの方便だったということ。

 

――「ヤマト」はヘブライ語で「ヤ・ウマト」(神の民)だという説がありますが?


パリサイ派靖国右翼がそう言っていますよね。彼らは「ヤハウェ」を裏切り訣別したんですよ。ですので彼らがそこで言っている「神」というのはモレクのことです。

 

――巧妙に幾重にも細工がしてあるのですね。


はい。また大和朝廷が奈良に入った呼称が「ヤマト王権」ですから、ということは「ヤマト」というのは縄文、そして日高見国を侵略し虐殺した側が使っているものです。

「大和心」などじつに不気味な言葉です。国あるいは民族全体に均質化された心情などというものは存在しないのですよ。人の心というのは1億人いたら1億あるわけですよね。

それを為政者の都合によって包括的に統合していこうという思想は、グローバル思想なのだということです。といいますか「大和魂」を広めたのは本居宣長でしょ。国学の流れの中で肥大化させられていったのだと考えます。

 

――「大和」という言葉は政治的に用いられたもの。澤野さんはそんな「大和」とは真逆とも思われる「縄文スピリット」という表現されますよね。


「大和魂」の「魂」とは精妙なスピリットのことを指すものではなく、強制的なイデオロギーに阿諛追従(あゆついしょう)し、「ひとつ」から分離した「ひとり」がネジのひとつとして己を放棄し差し出し、「ひとり」の集合体としての「絆」でもって「ひとつ」を擬態形成する心構えのことを意味します。

ここで表現される「魂」の意味というのは、一方で「縄文スピリット」というものは、ただ素朴に「ひとつ」というものでしかないわけです。ただしその「ひとつ」には無限に解釈される世界が広がっているということ。

つまり「大和魂」と「縄文スピリット」は真逆というより、「逆位相」にあるものなのだと考えています。(澤野大樹)

 

「はなればなれの君へ。(中編)」へ続きます。

今回の澤野大樹氏ブログインタビューは、前編・中編・後編と三部作でお届けいたします。

 


2021年8月26日木曜日

2436「はなればなれの君へ。(前編)1」2021.8.26

 今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年08月21日「はなればなれの君へ。(前編)」を2回に分けて紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12693428821.html


「はなればなれの君へ。(前編)」

こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

 

非常事態の中、沈静化するどころか、ますます勢いを増し、色んな騒ぎが露わになってきている昨今。そんな中、先日行われた第10回青森講演会2Days、お陰様で、盛況の内に終えることができました。青森で解き放たれた澤野氏の言説はまさに世界を震撼させるもの。

一生かけても見聞きできないような精妙で幽玄な世界へと誘われました。将来への影響の大きさは計り知れません。ご参加くださったみなさまには、改めまして心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。 さて、 


――澤野さん、こんにちは。先日は青森講演会(弘前・八戸)10回目、お疲れさまでした。

「活字版⑩番原稿」がリリースされるというタイミングでまた久しぶりのブログインタビューとなりますがよろしくお願いいたします。


本当にお疲れ様でした。今回の活字版もかなり加筆して調整が完了しました。良いものができたと思います。インタビューの内容は、活字版とは全然違うことをお話ししたいですね。

 

――では早速始めさせていただきたいと思います。ところでアフガニスタンで再びタリバンが首都カブールを掌握しましたが。


はい。このことは多くの人を混乱させたと思います。今回のこのタリバンの件はまさに巨大な出来事でした。これまで私が語ったり書いてきたことを振り返ればその解答を得ることができるかと思います。アフガニスタンが再びタリバンの支配下になったということは

これはめちゃくちゃ巨大な意味を孕んでいます。アメリカがアフガニスタンと戦争を始めたきっかけを覚えていますか?

 

――「9・11」でしたよね。


そうです。2001年9月11日の「米国同時多発テロ」がそのきっかけでしたね。

当時のブッシュ政権はこの「9・11テロ」の首謀者が、イスラム原理組織アルカイダを率いるウサマ・ビンラディンであると断定し、彼を匿っていたアフガニスタンのタリバン政権へウサマ・ビンラディンらの引渡しを要求しましたがタリバン政権に拒否されたため、米国を中心とした有志連合軍は軍事侵攻を始めました。これが2001年10月7日ですね。

つまり、2001年9月11日に、イスラム原理主義アルカイダから宣戦布告の奇襲攻撃「9・11テロ」を受けて、2001年10月7日に本格的に「開戦」したのです。

この瞬間に世界は「テロとの戦い」と称する対戦相手不明の「世界大戦」に突入したのです。

 

――「対戦相手不明」?ですか?


ブッシュは「テロとの戦い」と言いましたよね。相手がハッキリとした国や個人ならばそう言えばいいわけですが、なぜか「テロとの戦い」というように、漠然とした概念を「敵」と称しました。

 

――なぜそんなややこしい表現をしたのでしょうか?


ブッシュ自身も相当の悪党であったわけでしょうけど、「9・11テロ」を主導したその相手はそんなレベルじゃなかった。全世界に「国際根拠地」を張り巡らせ、しかも膨大な資金力を持っていながらも、彼らは常に「地下の奥深く」で活動しその姿を現すことはない「得体の知れない相手」だったからです。

この「地下の奥深くで活動する得体の知れない相手」のことを「ディープ・ステート」と呼びます。「ステート」というくらいですのでそれはさながら「国」をも凌駕する世界規模のスケールで存在しています。

 

――澤野さんが講演会でホワイトボードに書く「日本のDS」、「アメリカのDS」、そして「中国のDS」の相関関係図がありますよね。あの図と関係がありますよね?


まさにあの図です。彼らは猛烈なグローバリストですから、「国境」を持たないのですよ。

ということはつまり、本当ならば、「日本のDS」とか「中国のDS」とか分けて考えちゃダメで、彼らは水面下の領域においては完全に繋がっているのだということです。

 

――彼らは地球規模で存在しているということですね。


そういうことになります。彼らの基本理念は「包括的な信仰」であり、「万教帰一」であり「五教合一」であり、世界の宗教すべてを「統一」することができるのであれば、当然ながら「五族協和」も可能と考え、そうなれば国境も必要なくなるものだと考えましたね。

「満州国」が人も宗教も合一した先に彼らは「トランス・ナショナリズム」(脱国家・超国家)を夢想しました。

 

――彼らのその猛烈な超国家思想というものの源泉はどこにあるのですか?


やはりかつてヤハウェを裏切ってしまったという強烈な「後ろめたさ」がそこにあるはずです。圧倒的な「ひとつ」から「ひとり」を分離し、この世に「二元論」という「もうひとつの宇宙」を創造してしまった。

ヤハウェの管轄、つまり「ひとつ」を自らの意思で拒絶し、己の力を誇示し、顕在意識によって考え抜かれた「新しい神」を生み出してしまったわけですよ。

そのことによって彼らは祖国というものを取り上げられた。だから彼らの心の底には、複雑な思いが常に去来しているわけ。ならば、世界のすべてを物理的に「ひとつ」にしてしまえ、と。これが「新世界秩序」思想の嚆矢だといえます。ヤハウェに代わって自分たちの力によって、この世界を物理的に「ひとつ」に導くことによって、ヤハウェに対して誇りたいという気持ちが非常に強いということ。

 

――そもそもの発端での裏切りを糊塗するために、彼らはあらゆる頭脳を使っていったのでしょうけど、長い年月の間にかなり屈折してしまったようにも思えます。


屈折なんてもんじゃないくらいに複雑屈折しています。彼らは心の底ではいつもビクビクしてきたと思います。だから彼らは基本的には誰よりも臆病なのです。その思いが彼らを「地下」へと導いていった。

ヤハウェを裏切った後の彼らは、どれほどの正論を持とうが、もはや「王道」を歩むことは許されなかった。それは彼ら自身が一番わかっていたこと。

だから彼らはバビロン以来ずっと、詐術、詭弁、催眠といった「技術」に磨きをかけて、この地球上のあらゆる場所に君臨してきたわけですよね。

 

――でも彼らも祖国を持ちたかった?


そうです。ですから彼らの末裔たちは、満州国を理想郷として夢想しました。その夢想はやがて「河豚(フグ)計画」として実行に移されました。その理想の国はまさに「ひとつ」を具現化させるものでした。世界初のカバールDSの夢の実現だった。

 

――その彼らの末裔たちとはどういう人たちなのですか?


パリサイ派の末裔だと思いますよ。面従腹背で、上辺だけは善い行いをして、しかしそれは決して本心ではない。人々の前では善い行いをアピールするけれども、それは表面上のことに過ぎず、よく観察してみるとヤハウェの意思に適うことは決してなく、本心では舌を出して笑っているようなタイプです。

 

――今の日本の政治家みたいですね。


まさにそのとおりです。現在の日本の政治家の多くはパリサイ派の流れだと思います。

 

――その満州国は敗戦で頓挫しましたよね。


そう。だから彼らの計画は一度はすべて白紙になった。満州国で「紅卍字会」と「大本教」は「合一」し、まさに「五教合一」の雛形を作ったのに、その計画がすべてオジャンになりました。

 

――それでどうなったのですか?


すべて「日本」に持ち帰って来た。すべての計画が狂ってしまった。だから日本に全部テイクアウトしてきた。満州国で新たに生まれた「五教合一」思想、そして「万教帰一」といった「包括的信仰」は、満州国の生みの親である「父」によって日本に持ち帰られた。

 

――それでどうなったのですか?


その「父」の自宅の敷地内に、日本で最初の「本部」が置かれたわけです。

 

――そういうことだったのですね。


世界一のグローバル共産思想だったその満州国に立ち上げようとした宗教が敗戦によって頓挫し、しかも、GHQの命令によって、あろうことか「反共の防波堤」のための急先鋒として、思っていることと真逆の活動を強いられたのです。

それまで自分たちが推進してきたことを今度は糾弾する側でしか生き長らえられないようにさせられてしまったわけです。

 

――それは屈折してしまっていますよね。


複雑屈折ね。つまり彼らは「反共」なのに「統一」したいという二律背反という精神衛生上じつによくない状態になった。本音と建前、実質と名目を完全に分けられた状態。

思っていることとやっていることの一致が認められない状態。満州国で心行くまで花開く予定だったものが、想定外のこの日本で、しかも真逆の思想を推進する最前線に送られた。

 

――なぜGHQは日本国内にそんな最前線を作ったのですか?


満州国の残党が日本に帰国しましたが、米国に寝返ったその「父」を彼らは「米帝に魂を売った裏切り者」として復讐しようと決起し暴れまわろうとしたからでしょう。

かつては同じ釜の飯を食った同志だったわけです。だからこそ近親憎悪もより強いものとなった。そんな彼らを鎮圧し押さえ込まなきゃならなくなった。

戦後の未解決事件の多くはその流れです。彼らの「残党」と日本政府との戦争、つまり内戦です。帝銀事件、下山事件、グリコ森永事件、日航123便墜落事件、あとオウム事件もそうです。他にもありますが少年事件も含まれるのでやめておいた方が賢明かと思います。

 

――表向きの報道ではまったくわかりませんね。


世界で一番「ヤバいもの」が残っていて燻り続けているのがこの日本です。そんなものが戦後76年経った今でも日本の水面下にそっくりそのまま残っていて政府を脅し続けているだなんて国民に知らせるわけにはいかないのですよ。

一応、名目上は戦後の焼け野原から復活し、高度経済成長を成し遂げた豊かで幸せな国なのですから。日本国民はすべて電通のご指導の下、かりそめのハッピーライフをエンジョイしていただくというのが規定路線としてあるわけ。

 

――つまりGHQアメリカとしては、思想としての共産主義を弾圧するという名目の下に、じつは「旧満州国」の残党たち同士の内ゲバを鎮圧したいという思惑があったということですか?


まさにそのとおりです。よく「陸軍が暴走した」って言いますけどもっと細かく言えば、

関東軍の上層部が狂信的カルトの信者で、大本営を無視し、つまり天皇陛下を無視し、日本から独立し、大陸で独自の「帝国」を勝手に作り出した。それをすべてぶっ潰し、さらにその上澄みを掻っ攫ったのがアメリカの中にいたDSグローバリストたちだったということね。

 

――大本営、つまり天皇を無視して暴走して作り上げたその満州国では誰が「天皇」になる予定だったのですか?


「○○○○○(自粛)」ですよ。

 

――そ、それは刺激が強すぎますね。


そう。良い子は絶対に真似しちゃいけないこと。さらにそこから独立したTは後に「万教帰一」という統一思想を掲げ、1974年に「日本を守る会」を創設し、1981年に「日本を守る国民会議」を経て、現在は「日本会議」という名前になっているわけでしょ。

戦後、日米安保闘争で学生運動が激化したとき、その鎮圧のために全学連と衝突したのが、

T傘下の全国学生自治体連絡協議会(全国学協)だった。つまりあの学生運動の根幹というものは、じつは「満州国時代の因縁の対決」だったのだということです。

さらにそのTと共に「大正維新」を訴えながらも独立した浅野和三郎氏は1923年に「心霊科学研究会」を創設し、それが後に「日本心霊科学協会」になった。

もちろん幕末から平田篤胤とかがすでに研究していたわけですが、いわゆる「日本スピリチュアリズム」(心霊主義)という言葉はここから始まっているわけね。 

だから私はいつも、「日本のスピリチュアルのほとんどは元を辿ればひとつ。しかしほとんどの人はそれを自覚していない」と申し上げているわけです。

だから私はよく「ネトウヨ・スピリチュアル」と表現するのです。これは思いつきで言っているのではないのです。「満州国のグローバル思想」と「スピリチュアル」は完全にセットなのですよ。つまり、戦前戦中の「国家神道」というものも、その基盤にはオカルト・スピリチュアル思想があり、それが猛烈な侵略思想を持ったグローバリストたちに共有されていたのです。

 

――戦前戦中をオカルトの視点から読み解くという手法はなかなかないですから本当に驚きですね。もしかしたらこのオカルト視点というものを抜きに戦前戦中、いえ明治維新以降の近現代史は紐解くこととができないのかもしれないと思いました。


そうなのですよ。でも今のメディアは日本のこの「満州国」はもちろん、さらにそれが「オカルト」によって動いていたということに触れてはいけないような不文律があるように思えます。

 

――ということは澤野さん、今ふと思ったのですが、太平洋戦争ってじつは日本とアメリカが戦争をしたのではないということですよね!?


鋭い!そういうことです。しかし話しの脱線が過ぎましたね。アフガニスタンの話しをしていたはずだったのです。

 

――そうですね(笑)話しを元に戻しましょう。


続きは明日のブログへ


2021年8月25日水曜日

2435「愛された証」2021.8.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月21日の記事を紹介します。


「愛された証」


今日は鈴木秀子さんのお話をご紹介します。 

鈴木さんは、聖心女子大学の教授をやっていらっしゃった方です。 


<引用開始> 引用元 


もう随分前のことなので記憶が曖昧ですが、私がアメリカのスタンフォード大学で教鞭を執っていたとき、同僚の友人から聞いたお話があります。

スラム街で育った少年とその担任の先生のお話です。


その女性の先生は、少年が4年生のときの担任でした。

クラスの中でその少年だけどうしても好きになれませんでした。

なぜならいつも汚い格好をしていて、授業中はいつも居眠りをしていたからです。

何を言っても反応がないし、疲れ果てたような顔をしていたのです。

ある日、「この子さえクラスからいなくなれば」と思いながら過去の学籍簿をめくってみました。

1年生のときの学籍簿には「優秀で素直ないい子。この学校の誇りです」と書いてありました。

先生は驚いて、今度は2年生のときの学籍簿を見てみました。

そしたら「お母さんが病気になり毎日が大変らしい。それでもめげず、よく勉強しています」とありました。

しかし、3年生の学籍簿には「母親死亡。父親がアルコール中毒になった」と書いてあったんですね。

それを見て先生は、10歳の男の子がどんな毎日を過ごしているか、

その背景など想像もしなかった自分の感受性の足りなさを思い知らされました。

その日は、翌日から長期休暇に入るという日でした。

先生は少年に言いました。

「先生は休みの間、学校に来る日が多いから、もし家にいるのが大変だったらここに来て勉強する?」と。

そしたら彼の目がぱっと輝いたというんです。

少年は休みの間中、学校に出てきて、先生の机の横で勉強をしました。

分からないところは先生から教えてもらいました。

あるとき、少年がふと「今日は僕のお誕生日なんだ」と言ったんです。

その子にとって心を開く最初の扉だったと思います。

病気になったお母さんの面倒を一生懸命みていたのに、お母さんは死んでしまい、お父さんはアルコールに溺れている。

「いじめられるよりも、無視されるほうがつらい」といいますけど、そんな中で先生が声を掛けてくれて、少年は自分が先生に受け入れられたと思ったので、そんなことを言ったのでしょうね。


夕方、先生は小さい花束とケーキを持って少年の家を訪ねました。

汚れた暗い部屋に一人ぽつんと座っていた少年は、先生の姿を見て子どもらしい笑顔を見せました。

しばらくして先生が帰ろうとしたら、少年は部屋の奥から小さいビンを持ってきました。

「これ、先生にあげる」と言って差し出したビンは、ふちが蝋(ろう)で閉めてありました。


先生はそれをもらって帰り、蓋を開けてみました。

中は香水でした。お母さんが使っていた香水だったのです。

きっと彼にとって唯一の宝物だったのだと思います。 

先生は香水が逃げないようにまた蝋を垂らし、きちんと蓋をしました。


学校が始まってからも、少年は勉強を続け、成績がどんどん伸びていきました。

そしてその子が6年生になるとき、先生の転勤が決まりました。

しばらくして、先生はその少年に手紙を書きました。

しかし、なかなか返事が来ませんでした。何となく気にはなりながら、

もうその少年とは縁が切れたような気持ちでいました。

そんなとき、一通の手紙が来ました。そこにはこう書かれてありました。

「先生のおかげで高校に入学できました。奨学金をもらえたから、とてもいい高校に行くことができました」


3年後、今度はカードが届きました。

「父はまだ大変な状態ですが、父から離れて寄宿舎に入って高校を無事に卒業することができました。卒業後は○○大学の医学部に進みます」と書いてありました。

先生は「もうこの子は大丈夫だ」と思いました。

そして、10年近く月日が流れ、少年のことを忘れかけていた頃、一通のきれいな封書が届きました。それは結婚式の招待状でした。

「先生のおかげで僕は医師になり、すてきな人と結婚することになりました。ぜひ結婚式に来てください」 

先生は感動して、しばらく手紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くしました。

結婚式の日、先生は大事にしまっていたあのビンを出してきて、蝋を切って蓋を開け、底のほうに少しだけ残っていた香水をつけました。

式場へ行くと、立派な医師に成長したあの少年がハグをしてくれました。

かつての少年の姿が先生の脳裏によみがえり、 

「よくぞここまで頑張ったね」と心の底から祝福の言葉を贈りました。

彼は先生を抱きしめて、嬉しそうにこう言いました。

「あぁ、お母さんのにおいだ」そして、「お母さんが生きてたら、お母さんに座ってもらう席でした」と言って、自分の隣の席に先生を座らせたそうです。


私は、本当につらい人とは、 「自分は愛情をもらえなかった」という思い込みのある人だと思っています。「人生は5歳までで決まる」という言葉もあります。

どんなに家庭環境が貧しくても、生まれてから5年の間に十分に愛情をもらうと、

「生きるっていいことだな」という感覚を持てるのです。

でも、子どものときにつらい生活やつらい体験をしていると、

「生きることは苦しくてつらいんだな」と思い込んでしまうのです。

それを取り去ることは難しいです。

でも小さいときに愛情をもらわなかった人は一生そうかと言うと、絶対そんなことはないんですね。自分が小さいときに思い込んだことを引きずっているだけなのです。

あなたが大人になったという事実は、十分愛情をもらっていた証なのです。

それがたとえ母親でなくても、どこかで誰かが愛情を与えてくれたから、大人になることができたのです。 

<引用終了>


その人の今の見た目。何故、そうなったのか背景を感じることのできない感受性の無さ。 

私たちは、みんながそうかもしれません。 

目の前の状況だけを見て、決してその背景にまで考えをめぐらすことはありません。 

ですから、すぐさま、好き嫌いでジャッジし、レッテルを張ってしまいます。 

ですが、その態度は、もしかしたら、生まれて来た目的遂行のために無意識のうちに敢えて、憎まれても、その役を演じているからかもしれません。 

また、その時、たまたま体調が悪くそのようなぶっきらぼうな態度をとってしまったのかもしれません。

鈴木さんは仰います。

あなたが大人になったという事実は、十分愛情をもらっていた証なのです。

私たちは、とかく、「無いもの」ばかりに目が行き、「今あるもの」は目に入らないようです。

私たちは、九つまで満ち足りていて、 十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、 

まずその不満を真っ先に口からだし、 文句をいいつづけるものなのかもしれません。

人も、人と関わる動物も、植物も、愛情なしでは長く生きられません。 

今迄、一度も優しくしてもらったことなどなかったそう思える人生でも、 

振り返ってみれば、どこかで、誰かに必ず、気にされ、優しくしてもらったことがあるはずです。 覚えていないだけかもしれません。

もしかしたら、それは見えない存在かもしれません。

そして何より、どんなに絶望的に見える人生であっても必ず、神様は常にともにいらっしゃり、見守ってくださっています。

 また神様は、どこかに必ず優しく見守る存在を準備してくださっています。

どんな人にでも、神様は希望の灯を用意してくださっています。

感謝の心さえ失わなければ、必ず神々の恩寵が現れることでしょう。


2021年8月24日火曜日

2434「涙、心の浄化」2021.8.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月20日「愛語」と2021年08月22日「涙、心の浄化」の2つの記事を紹介します。


「愛語」


見える世界、見えない世界を含めその世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。

今日は、その心を美しくするために簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。 

きっと、この愛語の精神でいる限り宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、

私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、

ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。 

<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より

 

「愛語(あいご)」という言葉は、良寛和尚が好んで使っていたと言われています。 

良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。 

「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。 

だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。 

それならいくらでもあげることができるから」 

良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉

にしたいと思っていたようです。 

日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。 

「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、

私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、

相手に大きな影響を与える力(神)が宿っていることを、

忘れていたのかもしれません。 

京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。 

木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。  

説明によると、

「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、

すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。

私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、

「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、 

一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、 

・あたたかいもの

・勇気づけるもの

・安らげるもの

・幸せを感じさせるもの

・喜びを与えるもの

にできたらと思います。 

そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。

「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか…

芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。

「言葉には『神』が宿っている」という考えは、 

「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。

だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。

人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。 

<転載終了>

  

自分の口から出る言葉に少し気をつけて、良寛さんのように、 

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉

を口にしたいものですね。 

そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、 

必ず相手のハートの中の神さまも共鳴します。

その結果、お互いの間に目に見えない良き共鳴現象が起き、 

美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。

私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。 

また、自分の心の中のものが、口から出ます。 

ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も

・美しい心の表現

・信じる心の表現

・優しい心の表現

・思いやり、助けいあいの心の表現

を見て、そして聞きたいものですね。

そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。

逆に、興味本位で(面白いからと) 

・人をけなすもの、おとしいれるもの

・人を疑う、疑心暗鬼のもの

・人を差別するもの、排除するもの

・怒りと憎しみに満ちたもの

からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。 

それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。 

そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか? 

そうすれば私たちの心のバケツは美しいもので満たされることでしょう。 

美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、周りを幸せにすることでしょう。 

そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。  

空海の言った「生きながら天国に住む」とはこのことです。

幸せは、神様がくれるものでも、何処かの誰かがくれるものでもありません。 

自分の心が決めるものです。

 


「涙、心の浄化」


この地球、物質世界に住む人々の営みの中に

・優しい心

・美しい心

・思いやりの心

を見た時、自然と涙が流れ、手を合わせてしまうことがあります。

それは、その人々の言葉や、行為の中に神々の姿を見たからです。

 

1508年、友情と感謝の心がこもった「祈りの手」 アルブレヒト・デューラー

 

神々の起こす奇跡はサーカスのように派手で、人目を惹くことではありません。 

一瞬のうちに、物事を変えてしまうことでもありません。 

神々のなさる奇跡は、隠れて見えません。

かえって神仕組みは、私たちの気づかぬうちに私達や、取り巻く人々の、心にちょっとした変化(方向付けのきっかけ)を起こすことで、それがスイッチとなり起こされます。

それはあたかも私たち自身が、自分で考え、行動したように見えて、実は神様の介入により、

様々な有機的つながりの出来事をドミノのように起こしていきます。

まさに神仕組みです。 

その積み重ね

私たちがその流れに乗ることで、いつの間にか気づかぬうちに、

私たちが生まれる前に計画してきた方向へ進んでいきます。 

身近な周りの方々の心の中に

・温かな優しさ

・思いやり 

そんな神様の心を見つけた時、自然と涙が流れた時、私たちの心に浄化が起こります。 

今まで硬く閉ざされていた、心の扉が開かれた時です。


人々の中に神々を感じ取った自分、それは同時に自分の中の神様に気づき、繋がった瞬間でもあります。相手の中の神々と同調、共鳴し真の自分と繋がった時です。 

その時、神々は、私たちの心に奇跡が起きた・・そうお思いになることでしょう。

  

人々の耳目を集める 

・どんな凄いことをしようと

・どんな技や知識を身に着けようと

・どんなに地位や名声を手に入れようと

・どんなに経済的に成功しようとも

人々の心、そして自分の心の中に 神々を見つける奇跡にはかないません。

神様は、私たちの魂を輝かせるために「そこで自分なりの花を咲かせるのですよ」 

そう言って、今の状況に私たちを置いてくださいました。

  

今どんなに辛く、苦しい状況に置かれていようとも、私たちの内なる神々は常に私たちと一緒です。苦しい環境こそがかえって私たちの魂を削り、磨き輝きを取り戻してくれます。

苦しい環境であるからこそ心を振り返るきっかけともなります。

  

飢餓の中、空腹の中一個のおにぎりが、どんなに美味しいことか。

渇きの中でコップ一杯の水が、どんなに美味しいことか。

苦しみの中に在って、ちょっとして 人々の笑顔、優しさ、声掛けがどんなに、心を励ましてくれることか。

身近な周りの方々の心の中に

・温かな優しさ

・思いやり 

そんな神様の心を見つけた時、自然と涙が流れた時、私たちの心に浄化が起こります。 

今まで硬く閉ざされていた心の扉が開かれた時です。 自分の中の神々と繋がった時です。 

それは、内なる神々が、ずっと待ち望んでいた瞬間でもあります。



2021年8月23日月曜日

2433「否定の言葉」2021.8.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月17日「否定の言葉」と2021年08月13日「負けるが勝ち」の2つの記事を紹介します。


「否定の言葉」


今日は、斎藤一人さんのお話です。 

斎藤一人さんは、もう何度も納税日本一になった人で、現実のビジネスシーンでも成功しているひとです。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

一人さんは、小さなころから、この神さまに教えられてきたそうです。 

そんなビジネスの第一線に在りながらブッダや神さまのお話を分かりやすい言葉で、

丁寧に教えてくださっています。 

今日のお話も

「否定することで、あなたは何か、良いことがあるんですか?」 

というお話ですが、簡単なようで、できていない人が沢山いらっしゃるように思います。

ですが、一人さんが仰るように、態度をちょっと変えてみるだけで幸せな人生に変えることができます。

それでは、ご紹介します。

<引用開始> 引用元

 

誰かと話しているとね、必ず否定論を入れたがる人がいるの。

“妄想してもいいことが起きません” 

“妄想すると、人から変な人だとか言われますよね?”とか。

あのね、どうして物事を否定的に言うの?って。

物事は、どこからでも否定することができるんだよね。

だけど、否定することで、あなたは、何か良いことが あるんですか?って話なの。

否定的な角度から話をされると、その場にいるみんなが面白くなくなるんだよね。

で、俺にやるくらいだから、よそでもやってるよねって。

だから、人生うまくいかないんだよ。

人生うまくいかない人って、楽しいシャボン玉みたいなのが飛んでくると、パッと針を刺して壊しちゃうんだよ。しかも、そうやって場のムードを壊してるってことに気づいてない。

みんな幸せになろうって、ピラミッドを一段ずつ積み上げているの。

楽しいことを積み重ねているんだよね。それなのに、脇からそれを壊したらダメだよね。

あなたはまともなことを言っているように思うかもしれないけど、ムードを壊しちゃってるんだよ。

そういう人に、魅力がありますかってことなの。

俺たちのグループは妄想を楽しむ会であって、妄想を否定する会ではないの(笑)。

だから、質問するんだったら “こういうときはどういう妄想をしたらいいですか?”とか、 

妄想する気があることを前提とした内容にしたほうがいいよね。

うまくいかないときは、うまくいくまでやればいいんだよ。

逆上がりでもなんでも同じ。そういうことがわかる人が、魅力のある人なんだよ。

 

<引用終了>

人と話す時、必ず、否定語から入る人がいます。 

・だって・・・

・いや・・・

・でも・・・ 

人が、前向きに、希望をもって・・・

目をキラキラさせて 夢や、希望、未来を話して 喜びを共有し・・ 

共に幸せになろうとしているのに・・・ 

このような否定から入られるともう、そこで話は終わってしまいますし、せっかく、共に喜びあおうとしていた人の心まで暗く、重苦しいものにしてしまいます。 

そんな経験をした人は、もうその人の前では夢も希望も語らないことでしょう。 

喜びを分かち合おうとは、しないでしょう。

ますます、その人の周りには眉間にしわを寄せた、重苦しい雰囲気の人しか集まらなくなることでしょう。

ですが、もし、否定ではなく 受容、つまり、肯定して認め一緒に希望や夢を、笑顔で語り合ってくれたなら、 話した人も、百倍も元気になって、本当に夢も叶ってしまうかもしれません

神さまは、笑顔や希望、明るさ助け合い、受容、許しそのような雰囲気が大好きですから

神さまからも強力なバックアップがあることでしょう。

そして、共に喜びあった二人にはお互いの心の中に大切な大切な何かが生まれることでしょう。

その何かは私たちが死んだ後も、天国に持って帰ることができる 

そして、地球に生まれたがっている全ての生命体が欲しいと願っている物・・

を手に入れることができるでしょう。 

一人さんが仰っているようにちょっと、方向性を変えるだけ

否定から 

同意、肯定、受容や許し、共感、笑顔に変えてみるだけで、

一気に幸せになることができます。



「負けるが勝ち」


さて今日は、萩本欽一さんのお話をご紹介します。

「負けるが勝ち」というテーマです。 

欽ちゃんは、いつも易しい言葉で、大切なことを、分かりやすく伝えてくれます。 

私たちが幸せになるための方法です。

<引用開始> 引用元

 

「負けるが勝ち」よくこう言いますよね。僕もそう信じています。

でも、なんで負けるほうが勝ちなんだと思いますか?

僕なりの理由はこう。“負けたほうが運がたまるから”。

誰も必ず人と意見が衝突することがあるけれど、そういうとき「自分のほうが正しい」とか

「議論に勝ちたい」って、つい思っちゃいますよね。

でも、そう思ったら負け。勝とうとすると自分の運が減っていくんです。

カッとなって「てめえ、ばか野郎!」なんて相手に言うと、それだけで運が10ポイントも減点されちゃう。  

「てめえ」でマイナス2ポイント、「ばか野郎」で8ポイントの減点。

売り言葉に買い言葉で1時間も相手を罵っていると、それだけで2000~3000ポイントも運が減ります。このマイナス分は、なかなか取り戻せないですよ。

だから言い合いになったときは、自分が正しくないかということより、運を減らさないことを大事に考えたほうがいいの。

相手が「てめえ、ばか野郎!」と言ってきたら、「あ~あ、あの人、自分の運を減らしちゃったよ、その分をこっちがもらっちゃおうかな」と心の中で考えるの。

具体的な方法はどうすればいいかというと、謝っちゃうんです。

「そうか、悪かったね」とか、「ごめん、君の言う通りだよ」って言えばいい。

えっ、そんなの悔しい?

そう、悔しいよね。

自分が謝る場面じゃないのに「悪かったね」なんて言うと、損したような気がする。

でも、そのときあなたには、相手が失った10ポイントの運がたまっています。

気持ちで損をするのと、運が10ポイントたまるのと、どっちをとるかっていったら、運がたまるほうがいいでしょ?

こうやって少しずつ運のポイントをためていれば、宝くじだって当たるかもしれないしね。

もう一つ大事なのは、自分が一歩引くことによって、相手に嫌われるのを避けられるっていうこと。

人に嫌われないっていうことは、すごく運になるの。それでまた10ポイントついてくる。

人生って結局、運をどれだけためられるかっていう勝負なんです。

だから、そのほかの勝負で勝とうなんて思わなくていいの。

だからバ~ンと言われても、ぐっとこらえて言い返さない。

負けるが勝ち。いや、我慢していい言葉を返していくとポイントが次々に加算されるから「負けるが勝ち、勝ち、勝ち」だね。

勝ち、勝ち、勝ちって、火打石がカチッ、カチッ、カチッと鳴って火がポッポッポッとつくようで景気もいいでしょ。

今の日本では、運をなくしている人が多いですよね。

これもみんなが怒りっぽくなってることと関係あるんじゃないかな。

これからは相手に一歩譲る人になって、小さな運を少しずつためていきましょう。 

<引用終了>

 

さすが欽ちゃん、良いお話ですね。 

・イライラしたり

・モヤモヤしたり

・怒ったり 

そうすることで確実に、自分の運気を減らしているのだそうです。

もちろん、私たちは、人の中で暮らしていますから、時には、イライラしたりするかもしれません。それは、当たり前のことです。 

ですが、そこにいつまでもしがみつかず、直ぐに、別の楽しいことに 頭を切り替えて、 

その原因となったものにエネルギーを与えない事。 

ずっと、考え続けなければ、その出来事、人に、エネルギーを与えることはありません。 

その結果、いつの間にか、記憶のかなたに消え去っていくことでしょう。 

心を汚すことを避けることができるでしょう。

また

・楽しいこと

・美しいこと

・優しいこと 

そんなもので心を満つことができるでしょう。

心の状態こそが、全ての現実を作り出します。

負けるが勝ち、、、

幸せな人生のための 王道かもしれませんね。


2021年8月22日日曜日

2432「陰徳と悪徳」2021.8.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月18日「陰徳と悪徳」と2021年08月19日「うつと霊」の2つの記事を紹介します。


「陰徳と悪徳」


今日は、春日大社宮司であった葉室頼昭さんの「神道 いきいきと生きる」より

「陰徳を積む」というお話をご紹介します。

 <引用開始> 引用元


生物のいのちが続くというのは、

・伝え、

・順応し、

・待つ。

この三つで生物は進化を続け、いのちを伝えています。

この伝統を伝えるということ、そしていろいろな厳しい環境に順応し、

去っていくのを耐えて待つことが必要なのです。 

しかし人間はそれだけではありません。

人間が何のためにこの地球上に生まれたのかということが重要なのです。

人間は他の生物とはまったく違った目的で誕生したのだと思います。

つまりそれは神の世界を見て、こんなに素晴らしい美の世界だということを表現するために、神様は人間というものを産み出されたのだと私は考えています。

それは人間だけが優れ、他の動物が下等というのではありません。

ただ人間は、この目的のために進化を続けているということです。

そして人間の場合、ただ進化しただけでは、いのちは伝わっていかないのです。

そこに「徳」というものが必要だと私は思っています。

とくに日本人はこの徳を積まないと、いのちが子孫に伝わっていかない民族だと思うのです。しかも陰徳という徳です。

この陰徳を積んできた家が今続いているのであって、陰徳を積んでいない家は、

いのちというものが続いていないように見受けられるのです。

私は小さい頃よりおふくろから、「陰徳、陰徳」と耳にたこが出来るくらい聞かされて育ちました。

友だちのために一生懸命にやって、友だちが何も感謝してくれないこともありました。

その話をすると、「それでいい。それが陰徳です。それが子供に伝わっていくから、

それはそれでいい。むしろ感謝されないほうがいい」と言われ、

わけもわからず、そんなものなのかなと聞いてきました。

その意味がいまこの年になってようやく分かってきたのです。

普通、人はこれだけ尽くし世話をしたのだから、感謝してほしいと思うことがよくあります。

しかしそうすると、もうそれは陰徳ではなくなってしまうのです。

感謝や見返りをいっさい求めない。人の喜ぶことをしていれば、それが一番いいのです。

そういうことの積み重ねが陰徳になり、やがて子々孫々にまでその余徳が及んでいくのです。

この陰徳と関連して、大きな努力と小さな結果ということも大切なことです。

大きな努力をして小さな結果を望みなさい。この逆をやって小さな努力で大きな結果ばかりをもらっていると、いずれ滅びてしまいます。

例えば、百万円を儲けるために、Aという努力をして百万円儲かるんだったら、

その何十倍も大きなBという努力をして、そして百万円を得るようにしなさい。

そうしたら陰徳で栄える。こういうことなんですね。それは努力のわりに儲けが少ない。

しかし、そうしたらその分、徳を積んで、続いていくのです。

この世の中というのは、栄えるというのではなく、続くということが一番大切なことなのです。会社がどんなに儲かっていても、潰れてしまっては元も子もありません。

何ごとも、いかにしたら続くか、ということを第一に考えるべきなのです。

<引用終了>

 

自分で積んだ徳は、何倍にもなって自分だけではなく、子供や、孫などの子孫、

そして時間をさかのぼって、先祖までにも良い影響を及ぼすといわれています。 

人の心は、

・時間

・空間(距離)

・次元

 を全て包括するだけでなく 

・見えている世界

・見えない世界 

までをも内包する偉大な世界だからです。

これとは逆の悪徳 

これは自分さえよければ、他人はどうなろうと構わない

そういった 

・今だけ

・金だけ

・自分だけ 

の心であり、 

俺が俺が・・・

私が私が・・・ 

と感謝や見返りを求め、自分だけが特別扱いされたい意識です。 

これは陰徳とは全く逆の方向性を持っていますから、 

自分や子供、孫、子孫

先祖に跳ね返ってくるものも

逆の効果を生み出します。

明治までの日本人は自然体として、この陰徳の心が根付いていたそうです。

ですが、文明開化と称し西洋の物質文明、白か黒か? 

大きいことは良いことだ自然を征服して幸せを手に入れる・・ 

このような思想が入ってきました。

この時代、江戸末期から明治にかけて古くからの日本の神々は、日本人の精神に危機感を抱きました。ですので、この時期に沢山の国津神系の神々の動きがありました。

天理教、金光教、黒住教、大本教、生長の家など、 明治になって150年日本は令和の時代を迎えました。 

陰徳の心を自然の心として持っていた日本人の精神はもしかしたら、時代の潮流を変えられるかもしれません。

今は隠れていても私たちの身体には祖先のDNAが、しっかり組み込まれています。

心を祓い清め神々に連なる精神を復興していきたいものですね。

そして生きとし生けるもの皆が笑顔で幸せになりたいものですね。



「うつと霊」


今日はうつ病や、その他の病気について書きたいと思います。

記事の中に霊体のお話も出てきますのでご興味のない方は遠慮なくスルーされてくださいませ。小林正観さんの うつからの脱出の方法についてご紹介します。

<引用開始> 


『それはうつ病の特徴でもありますが、私自身も若い頃に二度、そういう経験があったのでよくわかりますし、ひとごとではありません。』


小林正観さん自身のウツ症状について書いてある一文です。

ウツ病というのは、それを持ち込んでくる霊体があり、それが憑くと発病、離れれば治る。

笑顔や明るい言葉が、ウツの霊体は嫌い。

楽しくなくても【祝福神】(以下の7つの言葉を正観さんはそう名付けた)

・うれしい

・たのしい 

・幸せ

・愛してる

・大好き 

・ありがとう 

・ついてる

を言う。笑顔を作る。

一週間に3000回以上も言い続け、ウツ病が治ったという報告があった。

『宇宙を解説百言葉』より

<引用終了>


この病気には、ずいぶん多くの方が悩まされています。

それだけ世の中がすさんできている証拠だと思います。

ご本人はもちろん、ご家族の方も、本当にお辛いですね・・

小林正観さんは、人生好転の方法として、よく言霊を教えていらっしゃいます。

斎藤ひとりさんもそうですね。

それはきっと、「南無阿弥陀仏」 のように 

一般の私達にとって、簡単でとっつきやすく、そして継続がしやすいからだと思います。

そしてそれらの言葉の秘められた力ももちろんあります。

幸せになる方法を理屈でどうこう説明されても、

なかなかそれを正しく理解して実践する事は難しいですので、 

この言霊の方法は、本当に素晴らしいと思います。

正観さんも若い頃、うつ病だったのだそうです。

そう言えば「置かれた場所で咲きなさい」の渡辺和子さんも、50代でうつ病を発症しました。

ですから、今、この病気にかかって苦しんでいる沢山の皆さん。

決してあきらめる必要はありません。勇気を持って下さい。 

絶対に治りますから。大丈夫です。

正観さんの教えてくれた方法は単純です。

・うれしい

・たのしい 

・幸せ

・愛してる

・大好き 

・ありがとう 

・ついてる

を何度も何度も、繰り返し言うことだけです。

(声に出さなくても結構です。気持ちがこもっていなくても結構です)

宇宙の法則に、似合わないことは起こらないと言うものがあります。

似合わないことは起きない!

だから「うつ」や「パニック障害」が似合わない人になることが、

この病気から脱出する近道なのです。 

斎藤ひとりさんはこんなことを言っています。(姿かたちから入るやり方です)

要するに、不幸や苦労が似合わない格好すると、そういうこと(不幸や苦労)は起こらない。

「もっと、しあわせ」になれるよ、ということです。

不幸や苦労が似合わない格好とは何かというと、まず明るい色の洋服を着ること。

キラキラ光るアクセサリーを身につけること。

髪にもつやを出し、靴はきちんと磨いたピカピカのものを履くこと。

こういうふうに明るくて華やかで輝きのある恰好をして、

顔がつやつやの人は、どう見ても「しあわせそうだなぁ」としか思えません。

苦労や不幸はまったく似合わないのです。

似合わないことは起きないのですから、幸せな人に変わってきます。

また失恋して落ち込み、死にたいと相談に来た人がいるとします。

そう言う時は、まずは「腹ごしらえをしよう」と餃子の王将に連れて行きます。

そこで、どんどん餃子を頼み、食べさせます。

すると、死にそうな人が、油ギトギトな餃子をほおばる姿は似合いませんから、

その人から「死にたい」という意識は消えていきます。

正観さんの教えてくれた方法

・うれしい

・たのしい 

・幸せ

・愛してる

・大好き 

・ありがとう 

・ついてる

を最初言うのは辛いかもしれません。 

ですが、頑張って続けていけばクセになります。

そうするといつの間にか病気から脱出している。。 ということです。

病気で苦しんでいる皆さんが、どうか、お幸せになりますように・・・





2021年8月21日土曜日

2431「アメノミナカヌシからの言葉」 2021.8.21

 今回は木の花ファミリーのいさどんのジジイからのメッセージ「ジジイのブログ」の2021年8月15日「アメノミナカヌシからの言葉」と2020年8月12日「「修行」とは、本来必要のないもの」の2つの記事を紹介します。


「アメノミナカヌシからの言葉」


意識を中空上に向け、日頃のあなたの思考の位置から離れることをまず勧めます。

そのように意識を頭上に持ち上げることが出来れば、自らの日頃の生き方、姿勢を俯瞰してみることが出来るのです。

さらに意識を上空に持ち上げることが出来るなら、あなたは、この生命の星である地球を俯瞰してみることが出来るのです。


その誘導についてこられるなら、さらに天空に向かい意識を上げ、そして自らの存在を天空に向かい発信する、つまり、自らの存在を認識していただくことをお願いすれば、宇宙の根本、我々の銀河生命としての大本に、あなたの意志が届くことになります。

それは、自らの中から湧き出す自我や欲望から生まれる低くて狭いものであっては出来ないことであります。日頃の思考の回路に気づき、目覚め、コントロールすることにより、それを繰り返し、繰り返し、反復し、身に付けたとき、この手法はあなたの中に確信となり、手ごたえのあるものとして芽生えてくるものです。


そのような精神状態になれば、内からの閃きと天より降りる直感により、あなたは常に人間としての意識を超えた宇宙意識となることが可能となります。この人間の可能性はどの人の肉体にも精神にも種となり有するものであり、このことが人々に理解されたとき、時代は次の時代の幕開けを宣言し、人間社会の矛盾はたちどころに消えてゆくことになります。

今のような物理的解決をもって矛盾の解消に奔走すればするほど、それは報いとしての現象に翻弄され、益々ことはむずかしくなるばかりになります。そのことよくよく自らに戒め、根本的な解決、つまり意識の大転換をしなければならない事を、戒め、戒め、戒めて下さることを願うものであります。


これは、時代の扉が開く証として、人間の作る社会の改革と、今まで人間がもたらしてきた矛盾、汚染、そういった汚れを物理的に解消するための最も大事な第一歩である事を、くれぐれも肝に銘じてことを進めるべきであるという事であります。心構えの心の位置が下にあるのではなく、横にあるのではなく、真実の真心になければならないということであります。

くれぐれもよろしくお願いします。そもそも、このような悟りは誰かが語らなくとも、人が真実に目覚めるための目が開きだしさえすれば、一人ひとりの中にそのメが出るのであります。そのメ、全ての始まりのメをアメと言います。そのメの中心に、柱としてしっかりと不動のものが下りたときに、それは全ての命の原点、ミコトの柱となり、そのものも正しく祭りを地上で行うものとなるのです。


この柱のことをアメノミナカヌシと申します。それが地上に降り、そのメがこの無限の大循環の中で自らの役割に目覚め大いなる役割を果たすとともに、その生命の尊さを自由自在に表現したとき、命が地上に無限に生まれ、大循環の仕組みが地上に流れ、螺旋となり、無限に連鎖します。それをクニノトコタチノミコトと申します。

わたしたちは、宇宙の大いなる柱であるアメノミナカヌシノオオカミのもとに、クニノトコタチノミコトの分身分霊として存在するという事であります。さすれば、一人ひとり自らの価値がいかに尊い者であるかという事が自覚され、自ずとこの宇宙大循環の法則から外れるような行いはしなくなるものです。


つまり、この世を良くし、理想郷を築こうとする者は、形を先に考えるのではなく、この宇宙創造の仕組みに則った相応しい精神を体得するだけで、自ずとそれに相応しいものとして目覚め、それがこの世界に桃源郷を現す事につながるのであります。

これは個々の自我が行うものではないのです。私たち一つひとつの生命が、その大いなる物理性、霊性により成り立っている事の真実につながる分析であり、ただただその目覚めの位置に、自らの悟りの位置を求めるのが大切であるという話なのであります。全てはその法則のもとにあり、我々は学びを深め、そして大いなる法則がわたしたちを良き方向に導いてくれている事を悟る事なのです。

 

「「修行」とは、本来必要のないもの」


健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。


しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。

「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。


2021年8月20日金曜日

2430「冥界との絆」2021.8.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月16日の記事を紹介します。


「冥界との絆」


今日は遅ればせながら、お盆のお墓参地に行ってきました。 お供え物持っていきました。 

先祖の皆さんは冥界(神々の世界)にいらっしゃいますので意識したことが、現実になる世界です。私たちがお供え物をすることで、その意識は冥界で現実化して、先祖の皆さんに届けられます。

・お酒好きだった方

・甘いもの好きだった方

が喜んでくださるように買ってきました。


日本古来の古神道では

・神々との繋がり

・祖先との繋がり 

これらを

・横のつながり

・縦のつながり 

として、大切なこととしています。 

以前、宝徳様の神職の女性が「先祖供養」について話してくださったことがあります。

それは、

私達生きている者と、神さまの間に、ずらっとご先祖がいらっしゃる。 

つまり、神さまと生きている私たちを繋いでくださっているのが、ご先祖 

先祖供養をすることで、私たちまで命を繋いでくださったことに対する感謝を伝え

(どんなにか、苦労を重ね、喜び悲しみを経験し、生き抜いてくださったことでしょう) 

そして、神様と私たちの、その道の間にいらっしゃるご先祖

どなたも、神の光の道からそれないように、

 真っすぐに神様の方向へ進めるように足元を照らすようにお祈りするのが、先祖供養です。

 そう教えていただいたことがあります。 

さて、斎藤一人さんも、先祖供養について、いろいろ教えてくださっていますのでご紹介します。 

<引用開始> 引用元

 

先祖供養の本当の意味は、子孫であるその人のことを、「いてくれてよかった」って言う人が何人いるかなんだよ。

大きな仏壇を買うことが先祖供養じゃないの。それは仏壇屋さんや宗教をやってる人が言うこと。

さらにいえば、それって商売なの。仏壇に入っているのは仏様なんです。

それで30分も1時間も先祖供養のために

念仏を唱えるっていうんだけど、お経って仏様の教えなの。 

仏様が教えたことを仏様に向かって30分も1時間も話すって変だよね。 

きっと仏様も、「それ、俺が言ったんだよ。

だからわかってるから、外に行って実践しな」って言うと思うよ。

お経をあげるのがいけないって言ってるんじゃないの。

あげてるあいだは無心になれるし、そのあいだ、人の悪口とか言わないからそういう意味ではいいの。 

でも、どうせだったら、意味も知ってたほうがいいよね。

さらに言えば、それを実践できるようにしたほうがいいよねってことなの。

だから先祖供養でいちばんいいのは、

「あなたがいてよかった」(あなたが生まれてきてくれて良かった)って言ってもらうことなの。

あなたが生まれてきたのはご両親がいて、そのまたご両親がいたからなの。

先祖が誰一人として欠けても、あなたはこの世に生まれてこなかったんだよね。

子供をほめられたら親ってうれしいの。

だから、あなたがほめられることが、最高の先祖供養になるんだよ。 

<引用終了>

   

確かにそうかもしれませんね。 

私たちも、子供たちが、世間の皆さんに喜ばれる存在であれば

自分が褒められる以上に、とっても嬉しいと思います。 

私たちが、周りの方々に示す

・優しさ

・思いやり

・助け合い

・お互い様、おかげ様 

の心は、自分たちだけでなく、ご先祖様を含めて幸せにしてくれるようです。  

また私たちが、ご先祖や大切な方々を思い浮かべ、感謝の気持ちを持つことは、 

その瞬間、時空を超えて、冥界で神様に向かって歩いている方々の 

足元を神さまの光で照らすことになるようです。

ご先祖だけでなく、大切な方も同じことです。

これこそ人に依存しない、理想的な形の先祖供養かもしれません。 

また、「親孝行」について、小林正観さんが以下のように仰っています。

 

<引用開始> 引用元

 

親孝行とは、親が生きている間にしてあげるものではありません。

本当の親孝行とは、親が亡くなったときから始まります。

親が亡くなり、あちらの世界に行って、こちらを見ているときに

ほら見てください。あれが私の子供です。 

あんなに人に喜ばれながら楽しそうに生きているのが、私の子供です。

と自慢できるような生き方をすることが、最大の親孝行ですよ。

親や祖父母、近親者が亡くなって

何もしてあげれなかったと思っている人も多いようですが、

本当の孝行って今これからなんですね。

・人に喜ばれていますか?

・今を楽しんでいますか?

ご先祖様が、私たち子孫の自慢話を話題にできるような、生き方ができているか?

見つめ直してみましょう。

  


<引用終了>

 

ご先祖も、両親も、そして今の家族もみんなを幸せにするのは、 みんなに幸せを感じていただくためには、 全て、今の私たちの生き方、心ひとつにかかっているのですね。 

みんなが幸せに、笑顔で生きていけるよう、命を繋いでくださった先祖も、

神さまのもとに、真っすぐに歩みを進めて行けるように、心を整えていきたいものです。 

私たちの心は、本当は

・見えている世界

・見えない世界

さえも包括する、偉大で尊く、巨大なものです。

  

みんな、心の鎧を脱ぎ捨ててしまえば、純粋で、優しく、愛に溢れた光り輝く魂を持っています。まずは、自分の半径3m身近な人たちに笑顔と優しさを分けて差し上げることからスタート。 

昨日、今年初めての滝行をしてきました。

お盆でしたので、先祖の皆さんと一緒に禊をしたことになるのだそうです。

水流も凄かったのですが、心の包身(ツミ)、氣枯れ(ケガレ)を強力に祓っていただきました。

神道では、祓われたツミ、ケガレは黄泉の国に流れ

浄化され、再び美しい神々のエネルギーに戻ると言われています。

皆様が内なる神さまに気づき、お幸せになられますように。



2021年8月19日木曜日

2429 「一人じゃないよ 私のいのち」2021.8.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年08月14日の記事を紹介します。


「一人じゃないよ 私のいのち」


今日は「命の大切さ」についてのお話です。 

私たちの周りには、一つとして、 

・いらない命

・無駄な命

・軽蔑してもよい命

・尊厳を踏みにじってもよい命

などありません。

私たちは、周りの全ての命と繋がり、生かされ、そして育まれて来ました。 

沖縄の音楽の先生、下地なを美さんが、いじめによる苦しみから自殺する子供達を愁い、

子どもたちに歌を通して命の大切さを伝えようと、オリジナルソング「つながるいのち」を作詞作曲されました。

ご紹介します。 

尊い子供達の命の灯が、一¬つでも消えませぬように・・


「つながる いのち  下地なを美」

なぜ生まれたの だれもが思うの

ひとり寂しい時 そっと涙ぐむ

あの星の光が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ 私のいのち 

今は寂しくても 泣かないで歩こう

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ポツンと座わってる 蛍のような

私のこの灯り だれも消さないで

生まれたその訳を 星は知ってる

この世で光りなさい  

授けられたの

授けられたの 私の光

今はちっぽけだけど 輝いているんだ

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

 
私のこの腕が 私の足が

共に今生きている 支えてくれる

この胸の鼓動が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ つながるいのち  

億千万の星 巡って生まれた

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ひとりじゃないよ 私のいのち 

つながっているんだ 私の明日へ 

<転載終了>


いじめが原因で自ら命を断つ子供たちがいます。

いじめは、本人だけでなく、様々な影響を周囲に及ぼします。

そしてその影響力は、長期間にわたります。

大切に大切に育ててきた我が子が、苦しんでいる姿を見る親も、心に深い深い傷を負います。

いじめは、子供たちだけの問題ではなく、大人の間でも発生しています。

いじめや、心ない言葉、悪意、嫉妬、疑心暗鬼、誹謗中傷

そのようなもので、傷つく人が沢山います。

そして何より、いじめた本人もいつか、同じ苦しみを味わう時が来るでしょう。 

与えたものが、受け取るもの私たちの住む宇宙には、その法則があるからです。

つながる いのち・・・

 

目の前の命を、しっかりと見つめること 

・家族、友人、同僚

・好きな人

・嫌いな人

・目の前に立ちはだかる人

・邪魔をする人

・足を引っ張る人

・悪口、陰口を言う人

・意地悪をする人

・疑う人

・私たちを、無条件に信じ、愛してくれる動物たち 

・季節ごとに、美しい顔を見せてくれる植物

・春夏秋冬、優しさ、厳しさを見せてくれる自然 

・私たちを慈しみ育んでくれる 地球

  

私たちは、沢山のかけがえのない命に囲まれています。

どれ一つが欠けても、今の私たちには なれませんでした。

みんな尊い、尊い存在です。大切な命です。

生きている、 みんなが  幸せでありますように。

笑顔でありますように。 

助け合って生きて行くことができますように。 

お互いさまの気持ちで生きて行くことができますように。 

随神の道(かんながらの道)を歩むことができますように。 

誰一人として、孤独で寂しい瞳をしている人が居ませんように。

皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、お幸せでありますように。 

輝く笑顔でありますように。