2021年8月28日土曜日

2438「はなればなれの君へ。(中編)」2021.8.28

今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年08月21日「はなればなれの君へ。(中編)」を紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12693429218.html


「はなればなれの君へ。(中編)」

澤野大樹氏ブログインタビュー「はなればなれの君へ。(前編)」からの続きです。

 

――さて。澤野さん、私たちは彼らのことを一言で「弥生」って記号化して呼んでしまっていますけど、かなり深く学んで理解し会得していかないと日本のカバールDSの正体というものは付け焼刃のニワカでは掴めないと思いました。

 

確かにそうだと思います。私は以前から「縄文神アラハバキと核エネルギー」という

テーマでお話ししたこともあるように、「縄文スピリット」というものはきわめてシビアで、

それは放射性物質を素手で触るようなものであり、それこそ薄氷を踏む思いで臨まなきゃならないものだと申し上げています。

しかしその「逆位相」の世界がわかれば、それはたとえば一度自転車に乗ることを覚えたら、

あとはもう無意識に運転することが出来るかのごとく、「縄文スピリット」というものは、

まるで空気のように私たちの肺を満たして機能を始めます。弥生化した意識のまま縄文意識領域に入ることはきわめて困難を要するのだということです。

 

――平和の意味を知らなかった縄文人というのは未熟だったわけでもなく野蛮だったわけでもなかった。

 

地球最先端の先進的な「人」だった。何もかもが美しくスタイリッシュで成熟して完成されていた。

 

――そんな縄文をなぜ弥生は侵略したのでしょうか?

 

嫉妬と羨望です。悔しかった。自分たちが持っていないものを縄文人たちはすべて持っているように思えた。

 

――「美しくスタイリッシュだった」ということはどういうことでしょうか?

 

それは見かけの服装のことではありません。生き方、考え方から立ち居振る舞いということです。つまり彼らはヤハウェと「ひとつ」だったということ。この「ひとつ」だったということが、他の何にも代え難いスタイリッシュさを醸し出していたのだということ。

 

――弥生の人たちはどうだったのでしょうか?

 

彼らはヤハウェを裏切り、洗礼者ヨハネを貶め、ヤハウェのオイシイ表層だけを盗みましたよね。この瞬間に「二元論」の世界が生じたのです。

つまりこの瞬間に「敵」が現れたのです。弥生の最大の特徴は「敵」の存在を生み出したということ。するとこの瞬間に「悪」も突然現れたのだということね。

彼らはつまり、上辺の見せ掛けは煌びやかな姿なのですが、「ひとつ」と訣別したいびつな姿をしているのです。だから表向きを装うのです。これは服装に始まり、「名目」を装い、「建前」を装い、詭弁を弄し詐術でしか人々からの支持を得られなかった。

 

――せっかく「ひとつ」からの独立を果たしたものの、そうそう上手くはいかなかったということなのですね。その「ひとつ」からの独立という行為は、数千年経った今でも彼らの中に深く根ざしてしまっているのですね。

 

彼らは「ひとつ」であるヤハウェに対して挑んだということね。自分たちならもっと上手くやれるはずだと、増長して全知全能感を得てしまった。姿も形もないつまらない概念としてのヤハウェなんか無能であると。そんなものよりも私たちはもっと魅力的な「神」を提供できると。

 

――「全知の無知」の状態ですね。

 

そういうことになりますね。「全知の無知」という状態、「私は何でもすべて知っているのだという無知」のことです。一方で「無知の知」は、「私はまだ何も知らないのだということを知っている」ということですよね。「全知の無知」は「無知の知」とは相容れない真逆の姿勢ということになりますよね。

このことを彼ら自身が一番よく知っていたわけです。だからずっと劣等感に苛まれることになりました。

ヤハウェから独立し「新しい神」を創出し、我が世の春を謳歌するはずでした。しかし彼らは自ら「ひとつ」から離れたことによって、寄り添いあって群れて泣きながら慰め合わなきゃいられないという猛烈な寂しさの中を行き続けなくてはならなくなった。

 

――そんな「全知の無知」の弥生たちが、天真爛漫で純粋で朴訥な縄文に対して嫉妬と羨望の念を抱いたということなのですね。

 

はい。これは旧約聖書『創世記』にあるカインとアベルの寓話に似ています。

カインは農業を営む弥生です。アベルは羊飼いの縄文です。カインは一生懸命に育てた農産物を神に捧げます。アベルはただの子羊を捧げただけでした。神はカインの農作物には目もくれず、アベルが捧げたただの子羊を受け容れたのです。

 

――現在の私たちの感覚ですと、一生懸命に野菜を育てて捧げたカインこそが神から賞賛されてしかるべきだと思われますよね。どうして神はカインを無視したのでしょうか?

 

「私たちが野菜を作り上げたのだ」という驕りと傲慢さ、そして、「これだけ頑張ったのだから神は喜ぶに違いない」という打算と野心という山っ気があり、それが神に見透かされていたからです。

 

――では子羊を捧げたアベルはどうだったのですか?

 

「私は神の前では完全に無力である。ならば、私が自らの力を誇り、それを神に捧げものをするなどなんともおこがましいこと。ならばすでにそこに完成形として在る子羊をもって

捧げものにする以外にさて私に何ができようか、いやできるわけがない」という姿勢だった。

 

――アベルは「無知の知」だったわけですね。

 

そう。だからカインはアベルを殺したのよ。これが嫉妬と羨望に憎しみが加算された人類初の殺人事件となったわけだよね。これと同じことが、かつて縄文と弥生の間に起こっていたということ。これが「偽者は本物を抹殺しようとする」ということの根源なのだということ。

この「カイン」という存在は、じつはカバールを暗示しているわけね。

バビロンで魔術や呪詛を身に纏い、低層四次元という「別の宇宙」から、「新しい神」を召還してしまったわけ。「ヤハウェに対抗できる、いやヤハウェ以上の神を私たちは生み出すことができるんだ」と。それはまるでカインが農作物を育てるのと同じように、ヤハウェに対して挑む形になってしまったんだね。これがじつはヴィーガニズムの淵源でもあるのね。

自ら「ヤハウェ」と訣別し、三次元顕在意識という肉の「アタマ」で己の「本能」を否定したり、肉のアタマで作り上げたイデオロギーで己を勝手に規定しちゃったらマズいよね。

ヤハウェとの回線を遮断したがゆえに、そういったカイン型の生き方を積極的に選択するようになってしまうのです。肉のアタマで規定できてしまうほど、「人」というものは浅くはない。

 

――現代は「カイン型社会」だということですね。

 

そういうことです。「古代ヘブライ王国」が北と南に分裂し、南ユダ王国2部族がバビロンに捕囚され、魔術を身に纏い、ヤハウェから分離独立し、カインはアベルを殺害し、弥生は縄文を蚕食(さんしょく)していった。

そして、18世紀半ばからのイギリス産業革命の勃興によって、脱穀の機械化と穀物の大量生産、そしてそれらのグローバル輸送が可能となり、世界は「弥生カバール世界」によって席巻されました。これが「カイン型カバール弥生世界」です。

 

――それが今ひっくり返ってきているということですね。

 

そう。つまり現代社会というもの、現代の世界というものは、嫉妬と羨望と憎しみによる世界初の殺人事件を起こしたメンタリティがベースになっているのだということね。

ほとんどすべての商品が、他者と比較させて劣等感や嫉妬を想起させ、購買行動に繋げていくというやり方なのです。そしてそれはカインが抱いた「全知の無知」という傲慢さと増長によるものだった。つまりそれは「ヤハウェへの反逆」が発端なのよ。つまり「ひとつ」が否定され拒絶されたということです。

 

――ひと言で「カバールDS掃討作戦」とか言いますけど、その元を辿っていくと本当に長い歴史があるということがわかってきました。

 

だから今、「潜在的なカバールは数億人いる」って言われていますけど、その理由はここまで遡らないと見えてこないということね。

 

――ということは自分がカバールだということに気付いていない人たちもたくさんいるということですか?

 

もちろんそういうことになります。また、気付いていないだけならまだしも、その無自覚カバールたちの多くは、「カバールDS掃討作戦」を応援しているのだということ。

だから私たちはこれから見たくないものを見なきゃいけなくなる。

 

――カバールたちは「偽装」と「捏造」の達人ですよね。ならば彼らは「敵」と「味方」もすり替えて偽装しますよね。また三次元世界内での「正義」と「悪」も入れ替えます。

それは私たちの心にも及んでいて、私たちの良心や正義感といったものの中で、基礎に立脚していない脆弱な部分、つまり「心の隙間」にうまく侵入して利用して来ますよね。

操られたその正義感は「本物」を「偽者」と断罪すると思います。

それはものすごいパワーを持って世に君臨すると思います。

 

そう。そして彼ら「ジャスティスくん」たちは、「本物」を「偽者」と断罪し、快哉を叫び、祝杯を上げることでしょう。

出典:アベルを殺すカイン(ピーテル・パウル・ルーベンス画)


――ところで澤野さん、アフガニスタンのタリバンの件が途中で脱線してしまっていますが?

 

あはい、すみません。(澤野大樹)


「はなればなれの君へ。(後編)」へ続きます。