今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。
769 2022.09.04 ~778 2022.09.13
<『老子』解説>
老子に『無為にして化す』という、老子全体のエッセンスのような一文があります。
『無為』とは、<為すことが無い>ということですね。
そして、『化す』とは、<変化させる>ということです。
現象世界では、何の手出しもしないのに、いつの間にか、環境や運命をどんどん好転させてしまうという人物を老子は理想とします。
というのは、手出しすれば目立つのです。目立てば敵も現われるのです。ですから、周りの環境に融けこんで目立たず、人にも気づかれず、知られず、思うとおりに人や環境を変化させてしまっていた、というのが、最高の想いの実現法なのです。
なぜ、そんなことが可能なのでしょうか。
自分の心に有るものが、自分の世界や運命に現われてくるのでしたね。
つまり、<心が先で、形は後>なのです。
心に描かれた想いは、早晩、形の世界に現われてきます。自動的にそうなるのです。
ですから、自分の想いは当然のこと実現するのだと信じて、何の疑いの念も心に兆すことがない人は、何もしなくても、必ず想いを実現させてしまいます。
疑いの念も、心に描かれる想い(反対想念)なのですから、自分が不可能と思えば、実現しないし、実現は困難だとおもえば、実現が困難になったり、実現までずいぶん時間がかかったりするわけです。
現象世界のアレコレを気にして、それを変えようと手出し、足だしして悪あがきするということがあります。困った現象に気を取られてしまって、心にその困った現象を描き出し、心を、困った現象に占領されてしまったのです。
そうすると、心に描かれたものが、形の世界に現われるのですから、その人は、その困った現象の再生産を繰り返し、困難をますます拡大させてしまうことになってしまうのです。
キツネさんの話を覚えていますか。
昔、弟子の指導に誤りがあったお坊さんが、キツネに生まれ変わってしまったのです。それが、辛くて辛くて、キツネから脱出したいと思い、そのための努力をするのですが、どうしても脱出できず、ついに五百回、キツネに転生を続けているというのです。
それで、百丈という禅僧のもとに救いを求めてやってきたのです。
それに対して、百丈さんは、「因果歴然だ。お前はキツネから脱出できん」と、断言します。 それで、キツネさんは覚悟を決めます。『もうキツネから抜け出そうなどと思うまい。精一杯キツネを生きてみよう』 そう心が定まった途端に、このキツネはキツネの境遇から抜け出すことが出来たのだそうです。
つまり、キツネがいやだ、キツネから抜け出したいと、思い続けるということは、その嫌なキツネを心に描き続けることなのです。そして、心に描いたものが形の世界に現われるのですから、ずっと、キツネの境遇とキツネが体験する世界の拡大再生産を、五百生の間、続けることになったのです。
しかし、キツネから脱出することを諦めた瞬間に、もはや、キツネを心に描かなくなったので、キツネの思いが無い心は、たちまちのうちに、キツネでない身と世界を、現象させたのです。
では、『老子』の冒頭の一節の読解から始めましょう。
ここは、様々の訓読みがされ、それによって解釈も色々です。
私には伊福部隆彦先生の訓読みが一番ピッタリくるので、それを採用させて頂きます(『無と人間』近畿大学出版局)。
『道の道たるべきは、常(かわら)ざるの道にあらず。名の名たるべきは常(かわら)ざるの名にあらず』
『道』とは、<いのちが人生でたどる道>のことです。つまり、運命のことですね。
それは、『常(かわら)ざるの道にあらず』、つまり、<変更できないということはない>というのです。つまり、運命は確定しているのではなく、いくらでも自由に変更可能なんだというのです。
次ぎの『名』とは、名前のあるもの、つまり、<現象世界のアレコレのモノゴト>のことです。
これも、変化させることが可能なんです。たとえば、「不幸」という名のモノゴトを「幸せ」に変更したり、身に付いた「失敗者」のラベルを「成功者」のラベルに張り替えたりすることも出来るのですよというのです。
『「無」は天地の始めに名づけ、「有」は万物の母に名づく』
そのように、人生の軌道を修正したり、現象世界に書き込まれたモノゴトの名前を変更したりするのは、どうすれば出来るのでしょうか。
それには、まずこれまでの人生の軌道をアリと見、その延長上の軌道の未来しかありえないと思う、そんな思い込みをリセットしなければなりません。
この世のアレコレは、本当はアルのではなくて、黒板に描かれた絵や文字(名前)なのです。それが、私たちには、いかにもがっしりした、固くて変形できない現実のように感じられているのです。
しかし、その現実は、本当は黒板上の文字や絵にすぎなくて、いざとなれば、黒板消しでサッと消し去ることができるものなのです。
では、人生の軌道を変えたり、我が人生の名前を書き換えたりするにはどうすればいいのでしょうか。
それには、まず黒板に、これまでに描かれた文字や絵を黒板消しで消して、スッキリした無地の黒板を復活させることが必要です。
『無』、つまり無地の黒板にこそ、あなたの新しい人生と、新しい名前が書き込まれるのです。これまでの人生の軌道、名前を残したまま、その上に新生のあなたを描くことはできません。
つまり、無地こそが、あなたの新しい天地の始めなのです。これが、『「無」は天地の始めに名づけ』です。
また、この黒板上には、あなたがこれから歩むの人生のすべてを、克明に綴る必要はありません。たとえば簡単に「私はしあわせ」と書き込んでおけば、その言葉の実現をゴールとするような時空のドラマが自動的に展開しはじめて、形の世界に実現するのです。
それが、『「有」は万物の母に名づく』です。私の想いの実現法の理論で説明すると、心という黒板に描かれたイメージなり、言葉なりを、心が時空のスクリーン上のドラマに仕立てて実現させるわけです。
この心の黒板に文字やイメージが書き込まれた状態が『有』で、それが種子となって、形が育つのです。
『故に常に「無」は以って其の妙を観んと欲し、常に「有」はそのおわりを観んと欲す』
この文章は、なかなか大したものですね。
まず、イノチというものを「無」と「有」の二つの状態から成り立っていると捉えます。
そして、「無」の状態は自動的に「有」の状態を生み出そうとし、「有」の状態は自動的に「無」に復帰しょうとするのだとします。
この「有」と「無」の相互作用こそがイノチの働きの本質なんだというのです。
『故に常に「無」は以って其の妙を観んと欲し』の『妙』とは、<形の世界の絶妙の創造物>です。形の世界での表現(身体表現や芸術表現、仕事での見事な捌きなど)は、その人の「無(心)状態」が、深ければ深いほど絶妙のものとなります。
たとえば、野球選手は決勝のタイムリーを打ったり、逆転サヨナラホームランを打ったとき、「無心でバットを振りました」などとよくコメントしますね。
そして、『これまでは、打とう、打とうという気持ち(有心)が強すぎて打てませんでした』などと言います。
つまり、心の「無」状態が深ければ深いほど、最高の「有」の状態が創造できるのです。
道元さんは『前後際断』という言葉で、この「無」の状態を説明しています。
『前』とは未来です。『打とう、打とう』という気持ちが強すぎるのは、未来にイノチの重心が傾いてしまって、行動の自由を失っている状態です。
『後』とは、過去の栄光や、逆に打てなかった記憶にイノチの重心が傾いて行動の自由が奪われている状態です。
『際断』とは、<切断>のことで、未来と過去を断ち切ったら、後は今・ココしか残りませんね。その今・ココにイノチの重心がしっかり落ち着くと、初めて行動の自由が得られるのです。そこで、初めて、その人に可能な最高の身体表現が可能になるのです。
形の世界に表現されたモノゴトが「有」です。
そして、すでに形(有)となったモノは、実はもう無いのです。形の世界に表現された途端に、そのモノゴトは「無」の状態に復帰しているのです。(完)