2023年2月27日月曜日

2985「青空ひろば」2023.2.27

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最近の記事を紹介します。


872 2023.01.26 ~883 2023.02.07 


(以下、70歳の頃の文章です)

お元気ですか。

私は、あいかわらず忙しく走り回っています。歳をとったら悠々自適(ゆうゆうじてき)の人生が待っていると思っていたのですが、どうやら私の場合はそうではないようです。若い頃、あまり仕事もせずに、好き勝手やっていた報いなんでしょうか。

トータルヘルスデザインさん主催の全国行脚も継続されていて、昨年度は30箇所ほどでお話ししたり、坐禅の指導をさせて頂きましたし、月2回の禅の会もあります。それらでどんなお話しをすればいいのか、案を練ってレジメを作成するという作業もなかなか大変です。

 それに、もちろんのこと、しあわせ通信の原稿書きの仕事もあります。毎月400字詰め原稿用紙に20枚ほどの作文をするというのも、それが毎月となるとハードになります。それで、最近は遅れがちになっていて、申し訳なく思っています。

あっ、そうそう!それにカドカワさんから出版された本(『劇的に運が良くなるお経』)の原稿書きも、昨年度はありました。

ただ今は、第二弾の編集作業をカドカワ編集部でやって頂いているところです。次の本は『大祓詞』の解釈と、神道的実践についての本となる予定です(『まいにち神様』)。

そして、今年も学校から依頼があって、さらに非常勤講師として授業を続けることになりました(週に3日です)。


今年は、高校2年の理系物理を教えて欲しいということで、責任が重くて、少々緊張しています。

高校2年は、大学入試に向けて、一番力を着けねばならない学年です。私の勤める学校の場合は、高校2年で高校物理の理論的内容の学習をすべて修了します。そして、高校3年は、受験のための問題演習をひたすらやってゆくということになります。

高校2年でしっかりと力学や電磁気学の構造的理解をさせておかないと、高3になって問題演習に入っても、さっぱり解けないということになってしまうのです。

問題のパターンを多数覚えて解くという、詰め込みのやり方では、難関大学にはとても合格出来ません。構造的理解が出来ると、問題を大量に演習しなくても、いくらでも応用が効くようになるのです。

これは、人生問題の解決法と同じですね。生きるということの構造的理解が出来ていると、どんな問題が生じて来ても、なんとか対処出来るのですが、対処法のパターンだけ覚える「ハウ トゥー法」では、パターンから外れた問題に直面すると、途端にダメになってしまうのです。 

そのために、生徒達に高校物理の理論構造を手に取るように具体的に感覚してもらえるように、目の前に物理の理論構造が立体イメージでクッキリ現れて、生徒になるほどとうなづいてもらえるように、私も一生懸命努力しなければならないのです。


最近の学校の先生は大変忙しくて、過労死レベルの労働時間の人が60パーセントもいると報道されていました。

しかしそれは、教育委員会から下りて来るアンケートに答えたり、報告書作成したりの事務的な作業や、生徒の問題行動の指導や、クラブ活動などに時間をとられて忙しいのであって、肝心の「いい授業をする」というところに割く時間は、以前の先生に比べればずいぶん減少しているようで心配です。

最近の先生は、すぐパワーポイントを使って授業したり、授業プリントをパソコンで作っておいて、何年も同じプリントで授業していたり、あるいは、業者のテキストを使ったりするのですが、そうすると、教師としては、楽は楽なのですが、それでは肝心の「何か」が欠けてしまって、生徒たちの成績は思ったほど上がらないのです。

その「何か」とは、「もっと分かりやすく授業出来るはずだ。きっともっといい授業が展開できるはずだ」という、教師の向上心や熱意の部分です。だから授業に「いのち」がこもらないのです。

私がいつも言うことなのですが、手数をかけた、念を入れたコトやモノやヒトには必ず「いのち」がこもるのです。

何年も同じプリントを使って授業するなんて、それでは授業に「いのち」がこもるはずがありません。


私は原則、プリントや、授業ノートはその年限りですべて廃棄して残しません。そして毎年新たに作り変えます。

ベテラン先生になんてなってはいけません。それは、マンネリ先生、既成概念先生になったということで、先生はいつも、何の思い込みや既成概念を持たないで、授業や生徒に向ってゆくフレッシュ先生でなくてはなりません。

まず、生徒の立場になって、教科書を徹底的に読み返します。全体の理論構造がハッキリ見えてくるまで幾度も読み返します。

これでいいと納得できると、今度はそれをどう生徒に伝えるか、その説明法を工夫し(従来よりもっと素晴らしい、生徒の好奇心を満たす説明があるはずなんです!)、さらに生徒には分かりやすい図解(去年のものより一層分かりやすい図がきっと描けるはずなんです!)を考えます。


今年(5年ほど前の文章です)に入ってからでも、私はもう十箇所ほど、これまで気がつかなかった新しい説明法、図解法を発見できてゾクゾクしています。そんなゾクゾク感で授業するから、物理の面白さが生徒にも伝わるのです。

若い先生に「この法則のこんな証明法を発見したよ」というと驚いていますが、私は、若いのに何で問題意識を持たないの、なぜ疑問を見出せないの、生徒に一層分かってもらえる、もっといい説明法がないのかなあと、なぜ苦しまないの…、その方がとても不思議です。

若いのに「こういうものなんだ」という既成概念にとらわれて、自分で工夫、努力しない先生が多くなっているように思います。


授業の図は簡単に描けるものでなければなりません。なぜなら、黒板に、短時間でサラサラっと描けねばならないからです。

授業では、「間」というものが大切です。黒板に式や図をかく時間が掛かりすぎると、「間」が悪くなります。

私は面倒な図や式になりそうだと、授業の前日に、何度も実験室の黒板で描いてみて、数十秒以内に描き終われるよう練習します。

また、パワーポイントなどを使うと、生徒が自ら考える「間」が取れません。黒板にチョークを使う授業だと、生徒が考えて、ノートに書き写す「間」が、うまくとれるのです。

そして、よしこれでいい!という確信が湧いてきたら、はじめて授業案(プリント)作成に向かいます。


私の授業は、基本的には対話法です。細かな質問を次々生徒に与えて、答えてもらいます。その質問項目のなかに、すでに履修し終わった分野の質問も多く加えているので、そういう形で既習した内容を何度も復習し、定着させることが出来ますし、その既習内容が、今習っている分野とどう関わっているのか気づかせることが出来て、生徒の物理の理論構造理解が一層深まります。

生徒から質問が出たら、いい質問だとほめます。生徒との間の心の壁をほどいておかないと、教師の声が生徒の心まで届かないのです。


私は、あまり精密な頭を持っていないので、時々、計算式を間違ったりします。そのことを生徒が指摘すると、なるほど、そうだったね、ゴメン、ゴメンとあやまって、その生徒と相談しながら訂正してゆきます。 

教師が間違った時、失敗した時こそが、最大の教育チャンスなのです。生徒が活躍できる場がそこに出来るので、生徒との一体感が生み出されるのです。共に授業を作り上げていっているんだという連帯感が生まれてくるのです。

そんなミスッてしまった時に、私が生徒によく話すジョークが二つあります。

一つ目は、私が発見した(?)、「間違いの法則」です。計算式の間違いが偶数回重なると、正解に戻ってしまうことがあるという法則です。奇数回の間違いでは、正解に到ることは決してありませんが、偶数回の間違いだと、ミスのミスで正解になってしまうことがあるのです。


もう一つは、先生が坂書(ばんしょ:黒板にチョークで式や文字を書くこと)で間違った時、学校によって生徒の反応が違う、その反応で、その学校のレベルが分かるという話です。

先生が間違ったとします。生徒はそれに気づいても、自ら訂正してノートします。

次のレベルの学校は、生徒が間違いを指摘して先生が訂正し、それで安心して生徒はノートします。

次の学校は、先生が間違っても、生徒はそのままノートします。

次の学校は、授業そっちのけでワイワイガヤガヤ、ノートはとりません。

そして、最後の学校では、先生が坂書を終えて、生徒の方に振り向くと、教室には生徒が一人もいませんでした。

私は教育界の苦労人で、以上のすべてのレベルの学校で教えたことがあります。


私は、こういうジョークのレパートリーが多くて得をしています。それから、大阪弁の「間」が絶妙で、これにもずいぶんたすけられています。

昨日の授業(5年前です)では、内藤君が欠席で、「内藤君、イナイトー」と、博多弁ジョークに挑戦しましたが、数名がクスッと失笑しただけで、見事に不発に終わりました。

それでも、めげることなく、新作ジョーク作成に挑戦している大敬です。(完)