今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年01月18日の記事を紹介します。
「慈悲の心」
既に世界は戦争状態に入り、見えない世界においては、大和心、漢意(からごころ)の戦い
目に見えない心を大切にする霊主体従と、
目に見えるお金や地位、権力、物質を大切にする体主霊従の対立
自分さえ良ければの冷たい心と、見えない物の中に大切なものを見出してきた優しい心
まさに日本人の心が試される最終的な局面にあります。
私たち個々人は弱く、真の情報も遮断され、悪徳の世の中に生かされていますが、
私達一人一人の心の持ち方で、この世界、地球を本来の美しい星に戻すことができます。
大切なのは、地位や物や力ではなく、私たち一人一人の心の在り方です。
そのことはどんな時代であろうと変わることがありません。
何処かの誰かが何かしてくれるから、美しい地球に戻るわけではありません。
では、今日もその美しい心を取り戻すために
物質的に、霊的に真の幸せになるために
宇宙創造神の神々と、真っすぐに繋がるために
心のお話です。
私たち人間は弱いものです。
・正しくありたい
・優しくしたい
・笑顔でいたい
・人の役に立ちたい
そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。
何が正しいか、分ってはいても、なかなか一歩踏み出せないでいます。
生きている間は、ずっとその繰り返しかもしれません。
でも諦めないでください。
みんながそうなんです。
そこが出発点なんです。
ブッダが生前こんなことを言いました。
嘘をつけないような人になっては いけない
優しさは真実に勝る
ブッダの仰りたかったことは相手を思いやる優しさや、
調和の為の嘘は、真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。
また、こうも仰りました。
捨戒の法
ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、
いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。
そして、酒を飲んだり、戒律を破る。
その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。
ブッダは人間の弱さを知っていました。
そして温かい目で人間を見ていました。
過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。
人を追い詰めることはなさいませんでした。
ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。
また同じく人間の弱さ、哀しさ、
神仏への憧れの気持ちを正しく理解していた空海も、このような言葉を残しています。
<転載開始> 転載元
人は、着の身 着のまま
ありのままの自分でいても
愛と慈悲を差し出すことで 即 仏になることができる
仏性は つねに 人の中にあるからこそ
探し回る必要もなく
遠くに求めに行くこともない
ただ、あなたが 優しさがなんなのかを知っており
それを 目の前の人に そっと差し出すならば
あなたが人の痛みを知っており
それを目の前の人を癒すものとして あたたかい言葉をかけるなら
それこそが、仏の姿の現れだからです
愛と慈悲 すなわち 仏性は
頭で 理屈として 理解するときではなく
わが身をもって 実践するとき 花ひらく
<転載終了>
空海は、
・人の痛みを知っていること
・優しさがなんなのかを知っていること
が大切であると仰いました。
すなわち、私たち自身が、その痛み、苦しみ、辛さの中に
一回身をおいて経験してみなければ、本当に理解できない心です。
今まさに、悩んだり道をはずしたりしながら、
頭をあちこちにぶつけて暮らす 私たちのことです。
この悩み、苦しみの中に在るからこそ、人の優しさや、ありがたさが分かり、
「お陰さまの心」が湧き、人を癒していくことができる。
仏性を発揮していくことができるようになります。
さてもうひとつ、空海の優しさがにじみ出ている
「祈り」について、現代語で意訳してくださっているものをご紹介します。
<転載開始> 転載元
手と手を合わせて、目を閉じ、頭を下げてみてください。
心が穏やかになるのを感じませんか?
祈りは心に平和をもたらします。
やさしさは祈りから生まれてきます。
祈りとは仏像に向かって拝むことではなく、自分の中に湧き起こったことに対して
行うもの。
祈りは愛をもたらします。
<転載終了>
人は弱いものです。
いくら正しい道を示されても、「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、
なかなかそう簡単に行きません。
でも本当はそうしたいのです。
心で分かっていますから。
そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、結局あきらめてしまい、
また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。
正しい道を示されても何の役にも立ちません。
せっかく芽生えた神仏を敬う信仰の心を閉ざしてしまうかもしれません。
仏教の教えは、対機説法(相手の状況に合わせて説く教え)と言われています。
ですので、ブッダも空海も様々な方法で真理を説き、
様々な方法論を用意してくださいました。
神社やお寺さんに行き、手を合わせ、家族のために
家内安全; 身体健全; 延命長寿; 中気除; 無病息災; 交通安全; 学業増進; 入試合格;
試験合格; 就職成就; 良縁拝受; 安産息災; 開運福寿; 心願成就; 厄災難除; 方災消除; 病気平癒 などの身内の幸せを願う気持ちは自然なことです。
神社は「願い事ではなく、お礼を言いに行くところ」と教えてくださる方も沢山いらっしゃいます。
確かにその通りです。
ですが、私達庶民の願いは、もっと身近で切実な、
今の今、苦しみながらも精一杯生きで行こうとしている。
そんな生活の中から生まれた願いです。
絞り出すような心の思いです。
私は思います。
神さまは、そんな私達でもきっと許し、素直に頭を下げ、真剣に神様に祈る人間を、愛でて下さるのではないかと。
そして、神さまの元に来た私達を、祓い、清めて下さるのではないかと。。
人に迷惑を決してかけず、自分の力で生きて行くんだ・・
そう思いを定めて生きるのも良いでしょう。
ですが、私たち誰一人、他の方のお陰なくして生きられるものはおりません。
全てが「お陰さま」で成り立っています。
自分の力だけで生きていくとは、宇宙的視点から見れば少し傲慢な心かもしれません。
心弱かった私たちに、信仰の心が芽生え、自分の非力さを認識し、素直に頭を垂れる。
その最初の動機は、自分や家族のためなので、まさしく利己的かもしれません。
ですが、それこそが、本当のスタート地点ではないかと思うのです。
小林正観さんはプレアデスのアトラス星から地球に来られました。
その後、ブッダの弟子、空海の弟子の時代を過ごします。
今世においてもブッダの教えを中心に講演していましたので、比喩や対機説法を多用していました。
正観さんも、人間の弱さを熟知したうえで、まずはスタート地点に立って頂こうと、
「ありがとうや感謝の心を持つことは、幸せになる第一歩ですよ」と、はたから見れば非常に利己的な言い方をなさいました。
ですがそれも、そこをスタートとして、神さまの心に近付いて頂くための方便でした。
それを彼は「究極の損得勘定」と呼んだのです。
私もこのブログで書くことは、
・読んでくださる方が幸せに思えること、
・心がほっこりするようなこと
・心が洗われるようなこと
を書くように心がけています。
難しい言葉を使わず、方便も交えた上で読んでくださる方に心の大切さ、
心の中の神さまに気付いて頂きたいからです。
それは、何か凄いパワーを他人や神さまから頂いて、他力的に幸せを掴むのではなく、
ご自分の力で、ご自分の心を開き、本当の幸せ、永続する幸せを、自ら手に入れて頂きたいからです。
ご自分が幸せになれば、きっと周りのご家族もお幸せになれることでしょう。
職場でもそうです。