2024年4月28日日曜日

3411「同じ時を生きる全ての魂へ」2024.4.28

 今回は「木の花ファミリー ブログ」の2024年2月12日の記事を紹介します。


「同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー 2024年1月4日」

同じ時を生きる全ての魂へ〜散骨式~自然へ還るセレモニー【前編】 | 木の花ファミリー ブログ (blog-konohanafamily.org)


骨を残すということは、形に執着する原因にもなります。形に執着せず、地球生命生態系の大循環の中に還すことで、物理性もまた大いなる流れの中へと還っていくのです。私たちはこの大循環の中で命を頂き、日々循環を繰り返すことで命をつないでいます。そして、最終的にその命を返上しリセットする段階において、肉体という魂の器を自然に還すことで、一切の形への執着を解きます。それは即ち、魂が宇宙の大循環へ還るという、人が存在することの最終目的に到達するルートを創るということです。遺骨を粉骨して撒くということは、その悟りへの第一段階であり、最も身近にできることです。

旅立つ魂がどこに還っていくのかは、それぞれの魂の修行の結果である精神の位置によって決まります。その一方で、形の世界を生きた証として、私たちはこれまで、形の世界にその痕跡を残してきました。しかし、お釈迦様の旅立ちには、墓もなく、戒名もありませんでした。

人間以外の生き物は、そもそも執着を持たないため、どのような死に方をしても美しいものです。しかし、人間の魂は複雑にできており、執着が多いため、器と魂の存在した痕跡をきれいにしていく必要があります。その後押しを、生き残ったものたちがするのです。その仕組みを知ったものたちが送ることによって、未熟であったものたちにも昇天する機会を与えるのです。

今年は、ご縁のあった六柱のご遺骨が集まりました。その中には、生前の姿を見たことはなく、接したことのない方々もいます。しかし、同じ時を生きたものとしてのご縁によって、そのご遺骨を粉骨、散骨させて頂くことになりました。

そして、視野を広げれば、同じ時を生きて、この物理的世界を卒業した魂は世界中にたくさんいます。そこには、直接出会ったことはなくとも、同じ時に旅立つというご縁があります。世の中がこのように混沌とした時代には、良い旅立ちをするものばかりではなく、不遇な旅立ち方をした魂もたくさんいるのです。

その魂の旅立ちの役割の意味を深く受け止め、現世を生きるものたちがより良い歩みに繋げていくことができたなら、その魂の旅立ちもまた、より善きことへ向かうための意味を表すものに変換されるのです。この物理的現象世界には様々な次元の旅立ちがありますが、その一つひとつを、より善きことへ向かう学びとして受け取っていくこと。現世を生きるものたちの心次第で、旅立ったものの歩みを無駄にしない。そのような自覚のもとに、この散骨式を執り行っています。

こういったことを宗教と見る人々がいますが、これは宗教ではありません。これは、粛々とした時空との付き合いである現象界の、最終段階でのお手伝いです。それを美しくしていくことは、原因と結果により成り立っているこの現象世界において、現在の結果をより良い原因として、次の結果をより良きものへとしていくための当然の行いであり、賢明な者にとっては当たり前のことなのです。そして、なぜそれが要るのかと言うと、人々が未だ悟れていないからです。

これから、まったく新しい人の意識の在り方を開拓していかなければなりません。そういった想いが、考えて出てくるのではなく、自らの中から湧き出してくる。その時に、「本当にそうだ」と思えることが湧き出してくる。これまで一般社会では受け入れられなかったことを理解できる人々が、たくさん現れてきます。なぜなら、私たちは今、そのような時代を迎えたからです。

今回ここでお送りするのは六柱ですが、その方々を代表として、同じ時を生き、旅立ったすべての魂に思いを馳せて送る。そのような自覚をもって、この散骨式に臨みましょう。

 

「新しい時代への出発(たびだち)」

今、皆さんに挨拶をしようとしましたら、急に風が強く吹いてきました。

今日は、空の青がとてもきれいですね。この散骨式に臨みながら、時代は変わった、ということを思っていました。時代の動きというのは、人間の歴史だけではなく、地球ができてから、もっとさかのぼれば、宇宙の始まりまで想いが飛んでいきます。そして、そこからずっと繋がって、今この場所があります。私たちが日々ものごとを考え、こういった世界を創って生きていることの結果として、この場所があるのです。

現代には、豊かそうに見えて、実際は幸せでない人がたくさんいます。お金がないとか、日常の中で悩み、生きることに行き詰まっている人々が多いのです。2024年の今年は、年が明けたら大地震があり、翌日には飛行機事故があり、昨日は九州の小倉で大きな火事がありました。それだけではなく、ウクライナやガザでは、今も毎日多くの人々が殺されています。人類が誕生してからこれまでの結果を見てみると、なぜ人間は、地球上の生命として生まれてきながら、こんなに悩まなければならないような世界を創ったのか、なぜそんな生き物になってしまったのだろうかと、私は疑問に思うことがあります。

どうですか?もしもこの世界から、パッと人間を取り除いたら、他に生活に困る生き物はいるでしょうか?鳥や猿や植物が、明日の暮らしのことで悩んではいないでしょう?みんな自然の仕組みの中に組み込まれ、その仕組みの中で植物は植物のように、動物は動物のように自らの位置を生きている結果、誰も明日の心配をしていません。未来の心配もしなければ、過去のことに悩むこともない。しかし、どうして人間は、こんなにも高度な世界を創り、まるで地球が人間のものであるかのように振舞いながら、実際の一人ひとりは毎日生きることに悩み、明日どころか今日食べるもののことすら心配するような世界を創っているのでしょう。

過ぎたるは及ばざるが如しと言いますが、何かが足りなさ過ぎる。そしてもう一つ。何かが多すぎる。何かをたくさん求めすぎている。自らが頂いていることへの感謝が足りなさ過ぎるのです。

それで、ふと思いました。この高度な生き物が、本当の意味でそれに相応しい高度な世界を達成するとしたら、どうしたら良いのか。たぶん、一人ひとりが与えられている「自分」という個性を、自分のものだけにするのではなく、みんなのために使うようになったら、きっと高度な完成された世界ができるのではないでしょうか。

人間以外の生命は、この大いなる自然の循環の中で、みんなそのように生きています。この芝生も、そこに生えている木も、落ち葉も、みんなそうです。この銀杏の落ち葉は、ついこの間までは見事な黄色で、銀杏の木を黄金色に彩っていました。それが落ちて、このように茶色くなって姿が変わっても、そのことに悩んでいないでしょう?「ああ、落ちちゃった」とは言わないでしょう?髪の毛も、「ああ、抜けちゃった」とは言わないでしょう?(みんな:笑)

葉が落ちた銀杏の木には、このままずっとそうなのかと言ったら、春になるとまた新しい葉が芽吹いてきます。それは、銀杏が自分の力で一生懸命やるのではありません。自然に委ね、その循環の中に、自らの立ち位置や、変化の姿も頂いているのです。そのような意識になって、人間がこの高度な能力を全体のために使い、それぞれの役割を果たす助け合いの世界ができたら、誰も、明日のことにも明後日のことにも、未来のことに悩む必要はなくなり、過去のことにくよくよすることもなくなるのです。

こういった心境で生きることは、とても難しいことのように思えます。実際、現代の人々には本当に難しいでしょう。テレビを見ると、いかにもこんな風になったらいいというように、いろいろな世界がこれでもかとばかりに迫ってきますが、その番組に出ている人が自分の普段の生活に戻ったら、テレビで見せていたのとは違う心をしているのです。テレビ番組は、そこで意図的に特定の世界を表現し、実際にある日常のいろいろなことを隠して放送されています。そしてそれを見る側は、ものを観る目がないと、世の中がみんなそういう風であると受け取るのです。だから、ぼーっと見ていると、騙されていることに気付かない。しかし実際には、テレビの向こうの人々にも、テレビのこちら側で見ている自分と同じように、毎日の暮らしがあるのです。

今日は1月の4日です。なかなか世の中に、縁ある人々がこのように賑やかに、亡くなった人を見送る場所はないでしょう。今日は風まで手伝ってくれて、ご遺骨を土の上にまくつもりだったのに、風が運んでくれて、空高く飛んでいったご遺骨もありました。(みんな:笑)

生きるということは、生き物にとって絶対のことです。そして約束通り、死ぬことになっています。ところが、人間だけが死ぬことを暗いことと捉え、それを避けたい、そこから逃げたいと思うのです。ですから、お葬式もお墓も暗いイメージです。しかし、この散骨式は明るくて、空は真っ青です。そして風が吹いて、もう未練も何も吹き飛ばしてくれたようです。とても良い日です。そんなふうに、人を見送ることができる。骨を自然に還すということは、最後の物理的要素を還すということです。最後のものをとうとう手放し、新たなスタートを切る出発(たびだち)です。

そういった軽い心になったら、自分に近いものだけに囚われなくても、みんなと本当に助け合って生きる、自然の大循環の仕組みのような世界が創れます。今、テレビの向こうにはテレビの向こうの世界があり、道沿いの家々の窓明かりの向こうにも、それぞれの家庭生活があります。それは1軒1軒の家の話ですが、そのたくさんの家が集まって創られている国では、良い国を創ろうと言っていろいろと策を練り、他の国と争ったり、争うための兵器をどのように作ろうかと画策しています。それは、平和で豊かな世界では不要なことです。

これは、とても素朴な話です。だから、それが最終的に人間が求めるべき世界であり、そのような時代が始まったということを今年に入って実感しています。それは、より高度に、より便利にということばかりを求め続けてきた人間にとっては、なかなか気付けないことですが、実は、自然と共に素朴に生きてきた生命としての延長に、そのような世界ができそうな気がしています。それを今僕は語っていますが、みんなはそれをイメージとしてわかるかな?これからの時代は、それをわかる人にならなければいけません。

おそらく、これは現代の人々にはわからないでしょう。しかし実際に、この自然の世界では、悩んでいるものはいないのです。

(ここで、さらに風が強く吹いてきて)風が、そうだと言っています。生命として生きる上で、余計な争いをして悩みを作って生きていくことは、もうやめましょう。それが可能だという見本を創らなければいけないと思っています。それには、みんなの協力が必要です。みんな、協力してくれますか?(拍手)

それが達成されたなら、人が生きる上でそんな素晴らしい場所を創れたなら、それが生きることの一番の目的であります。

現代では、このような散骨式は普通ではやりません。やらないからこそ、そのようなことをやれている価値観の下で生きていることを、誇りにしていきましょう。今までになかったことをやり、今までにいなかった人になり、これまでになかった生活をしていく。それが、新しい時代への出発(旅立ち)をする人々の姿勢だと思います。漠然としていますが、何かが観えてきました。誰もやらなかったことを、これからやっていく。そのためには、気持ちに縛りがあってはいけません。これから始まる新しい時代を楽しみに、軽い気持ちで、今はまだ気付かないたくさんの人々へのヒントとなる暮らしをしていきましょう。

みんな、よろしく!