2026年8月28日金曜日

4363「青空ひろば」2026.8.28

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


イノチの学校より46 2026.08.03

講演資料より

しあわせとは?という項目を読んでみて下さい。

しあわせは

1.豊か 2.にぎやか 3.やりがい

と書いてありますね。

しあわせにはこの3つが揃っていますね。

豊かというのは一体感、にぎやかというのは連帯感、やりがいというのは貢献感。

この3つが揃っていたら、幸せといえると思います。

それでは不幸せとは?

1.( )2.( )3.( )

1.貧しい 2.寂しい 3.虚しい

これが揃っているのが不幸せといえると思いますね。

なぜ不幸せなのか?

原因は?

自他を隔てる囲いがあるから、自他を隔てる壁があるから。

本当はその囲い、壁は自分で勝手に作っている、幻想で作っているんです。

本当に壁があったら生きられませんね?

イノチの交流ができなかったら、すぐ死んでしまいますよ。

そうでないということは、かよい合っているから生きてるんですよ、イノチは。

全てにおいてね。

常にイノチはかよい合い通じあっているし、物質面でも、精神面でもそうですね、お互いにかよい合って生きているんです。

それを知ることは大切ですね。

なぜしあわせ?→自他を隔てる囲いが外れて、イノチが互いに「  」から。

イノチが互いに「かよい合う」からですね。


イノチの学校より44 2026.08.01

禅の公案解答集より抜粋

公案の解答いきますね。

クエスチョン、何故孤独で貧しいのでしょう?

アンサー、「    」があるから。

さあ、これ何を入れますか?

これが先ほどお話しましたが、

「自他を隔てる囲い」があるから孤独で貧しいのですね。

「自他を隔てる囲い」があるから

他者との精神面、物質面の「   」がない。

だから孤独で貧しい。

これは

他者との精神面、物質面の「かよいあい」がない。

イノチは本来生き通しなので、囲いがなくれば自然と行き通しになり、行き交いし、通い合います。

それを鈴木正三さんは「相身互い」と表現しました。

囲いがなくなればお互いにイノチのやり取りを出来る、そういう豊かさを持てるということですね。(続く)


イノチの学校より45 2026.08.02 (前日の続き)

今回取り上げた公案では、 

師匠が弟子に呼びかけて、弟子がハイ!

と返事をしていますね。

師と弟子の「呼応(言葉のやりとり)」→その瞬間、自他を隔てる囲いはどこにもない。

その時、両者のイノチが通い合ってピッタリ「ひとつ」になっている。

これが真の豊かさ、一体観、連帯感。

呼びかけられて返事をする、挨拶をして返す、例えばそれだけで、その瞬間にイノチは、かよい合っています。

それに気づくこと。

決して孤独じゃないし、貧しくないのです。

師匠と言葉を交わし合えている豊かさ。

子どもと一緒に遊べる豊かさ、囲いが取れた所の豊かさ。

そういうことに気づく公案なのですね。(完)


イノチの学校より43 2026.07.31

大敬が角倉老師のもとで禅の修行をしている時、公案という禅宗の修行課題に取り組んでいました。

老師はイメージ法で解くんだよと指導しておられて、取り組んでいる課題を克明にイメージしていくことで答えが出るんだと言っておられました。

これはとても集中力を使うやり方で、老師のように東大を首席で卒業した人には出来ても、大敬には出来ないなと思いました。

そこで私は、取り組んでいる課題を何回も何回も呪文のように、お経のように唱えていくという方法を考えます。

答えが出るまで繰り返し繰り返し言葉にしていくやり方で課題を解いていました。

心に握りしめて、手放した時に答えが出るという把住・放行については別の機会にお話しましたが、この握りしめる段階を老師はイメージ法で、大敬は念仏法とでもいう様なお経の様に唱えるやり方で行なっていました。

それでね、実際にはお念仏って、元々はイメージ法だったらしいですね。

仏さまの眉間の白毫(びゃくごう)をイメージして、とか順番に克明にイメージして唱えていく。

そんなことでは、とてもみんなが出来ないので、例えば法然さんは

「南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいんですよ」と大衆が出来るように勧めた。

そういう歩みがありますね。

それで、大敬は法然さんのようなやり方だったんですね。


イノチの学校より41 2026.07.29 

心の中に握りしめたものを、手放した時に心が解放される。

あるいは取組んでいた課題や問題の答えが湧いてきたり、目標を達成するのに必要な、適切なものがわかったりする。

そうした心の働きを活用する方法を、

把住(はじゅう)・放行(ほうぎょう)としてお話しました。

把住は心の中に握りしめること、放行はそれを手放すことですね。

禅の方で伝わっているお話では、そうして握りしめていたものを手放した時、

気持ちがフッと逸れた時にハッと悟りを得たというエピソードも多く伝わっています。

さらに、

魂が進化してくると次第に把住(心に握りしめる)の期間は短くなって、放行のみで生きられるようになります。

そんな極地が観音さまなのです。(続く)


イノチの学校より42 2026.07.30 (前日の続き)

般若心経に

〈無智亦無得 以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこ)〉と書いてあります。

これは観音さまの言葉だと空海さんは仰っています。

無智亦無得 以無所得故ってどういう意味かというと

自分の智慧なんてありません。自分の能力なんてどこにもありません。自分の持ち物なんて全くないんですから。

という意味です。

自分の智慧なんてない、自分の得たものなんてない、自分の持ち物さえ何もない。

そういう風な境地になった時には、もう放行だけで、必要な時に必要な言葉とか動作行動ができるようになります。

それが出来るよう(自在)になったのが観音さま。

最終的には把住(握る過程)はいらなくなる、けどまぁ大敬くらいの年になればそれでいいけど、若いうちは把住も体験していいですよね。

心に握りしめる体験もしておいて、把住してしっかり握りしめて手放したら答えが出るんだな、という体験。(完)