2019年10月12日土曜日

1823「福島巨石探訪10」2019.10.12

 美しき自然の造形を堪能し、次は今日最後の目的地、郡山市の浄土松公園にある、きのこ岩です。猪苗代湖の南岸を車は進みます。道路が海抜1mほどの所もあり穏やかな湖面、対岸に聳える磐梯山の山容は自然の豊かなエネルギーを沢山いただけて、身心が爽快な気持ちになります。

 程なくして浄土松公園に着きましたが、ほとんど人が居ない静かな夕刻の公園です。ハイキングコースを10分弱程歩くと、きのこ岩につきます。


以下の様に紹介されています。

「きのこ岩         郡山市逢瀬町多田野 浄土松公園
 浄土松は古くから知られた名所で、松の緑が点在するありさまは日本三景の松島に似ていることから「陸の松島」と呼ばれています。
 特に「きのこ岩」と呼ばれる奇岩は断層によって分断された地層が、それぞれ風化に対する抵抗度が違うため、風浸の度合いが異なり、長い年月を経てキノコ状になりました。」
 なんでもここ一帯は白色の凝灰岩、砂岩、頁岩などから形成され、断層になっている頂上付近は部分的に傾斜になっているそうです。そこから分断された地層が風化によって長い年月を経て、きのこ状になったのが「きのこ岩」です。今では、県の名勝天然記念物にも指定されています。

 ここは福島のカッパドキアと言われています。カッパドキアとトルコにある世界遺産です。
「トルコにある世界遺産カッパドキアは奇岩地帯と呼ばれ、柔らかい地層と硬い地層が重なり合い侵食しあった結果できたキノコのような形をした不思議な巨岩が乱立する地域です。 その不思議な地形から世界遺産に認定されています。 また、キリスト教発生初期の頃キリスト教徒の隠れ家として岩を削って内部に住むようになったのを発端に、削りやすい岩質を利用して岩石をくりぬいて部屋を作るという独自の住居がとても興味深い文化を作っています。」如何がカッパドキアの写真です。


 今回、初めて訪れた多くの方はきのこ岩に感動の声を発していました。メインのきのこ岩の周囲は綺麗に整備されています。しかし先の2011年の311東日本大震災によって一部が崩落してしまいました。
 崩落時の写真と以前と比べるときのこ感が少し無くなってしまいました。さらに危険の無いようにと、一部地域やきのこ岩周辺には柵が設けられています。
  

 暫し異次元、異質世界を堪能しました。自然の造形美、不思議な世界です。


 今日の宿は三春町の馬場の湯温泉若松旅館です。天然ラドン温泉で素晴らしい温泉で身体に程よく刺激があり癒されます。美味しい地元の料理を頂き食事会も和気藹々、2次会も遅くまで楽しめました。




2019年10月11日金曜日

1822「福島巨石探訪9」2019.10.11

 次の目的地は猪苗代湖に戻り、少し東よりにある郡山市湖南町舟津浜にある鬼沼です。猪苗代湖はほぼ楕円形であまり複雑な湖岸線ではありませんが、舟津浜に1ヶ所だけ沼のような入り江があります。その入り江を鬼沼と呼びます。
 鬼沼は私のお気に入りの所で、天気が良いと鬼沼と猪苗代湖、その奥に磐梯山が綺麗に見える、最高の景色を堪能できるのです。今日は天気が良く、最高の条件に恵まれました。
 以下の様に紹介されています。

「舟津浜・鬼沼       郡山市湖南町舟津浜
 郡山市湖南町舟津付近にある、砂嘴により猪苗代湖から分断された沼。ただし、砂州は対岸まで完全には繋がっていないため、100m程度の幅の入口で猪苗代湖と繋がる湾とみることもできる。なお、鬼沼内は水深1m程度と浅いため、大型の船舶等は入れない。
 酸性で魚が少ない猪苗代湖に対して、水質が中性に近いため、ウナギ、ナマズやウグイなどの魚が生息している他、絶滅が危惧されるアサザやイチョウウキゴケなども自生する。

 弘法大師がこの地を通りかかったところ、付近の村々では大蛇などの魔物がはびこり、疫病が流行していた。
 そこで弘法大師はこれらの魔物退治の準備のため、鬼沼の入り口に一晩で橋をつくろうとした。しかし、夜通し工事をして、あともう一息で完成という時、天邪鬼が鶏の声を真似て「コケコッコー」と鳴いたため、弘法大師は夜明けと勘違いし工事をやめてしまった。
 その後、未完成の砂の橋(砂州)は「弘法橋」と呼ばれるようになった。」

 鬼沼の周りは木々が生い茂り、道路からは見通しが悪く、沼の最深部からも眺望が開けません。沼に沿った道を進み登り切ると展望が開ける場所があります。ここが最高のビュースポットです。路上駐車をして皆さんとその最高の景観を堪能しました。


 3年程前にこの鬼沼の最深部にある福良八幡神社を中山博さんとのあわ歌の巡りで訪れた事がありました。道路からうらぶれた鳥居が見えて草に覆われた参道を登ると小さな社があります。社からも鬼沼は標ぼう出来ず、しかしここに鎮座してこの地を鎮め、お守り頂いていたお役目だったのでしょうが、いささか荒れ果てた感は否めませんでした。そこであわ歌を皆さんと響かせて、ゼロ磁場の探訪の巡りを終えた所でした。興味のある方は以下をご覧ください。 675「ゼロ磁場14」2016,8,24
http://tenmei999.blogspot.com/2016/08/6752016824.html

 さて、ゼロ磁場の猪苗代に関する表記を紹介します。
「田沢湖と猪苗代湖は、ほぼ、同年代に東北地方の造山運動で形成されました。造山運動の主要な地形変化は、大地の隆起と沈降です。二つの湖が調和に満ちた電磁波を発信しているのは、湖と山々が均衡のとれたエネルギー出力でつくられ、調和状態にあることを意味しています。二つの湖が形成される初期に於いて、面対称の地形は双方が隆起し、中央部は隆起するエネルギー圧に等しい沈下圧が働き、大きな窪みがつくられました。造山運動は48000年前から始まり、44000年にほぼ、現在の地形が出来上がり42000年前に湖水が出現しました
 水は高いところから、低いところへ流れ、河川は海に流入します。海洋は地球の形態を形成する波動集合の様な働きで、水のネルギー体が集合し水惑星と呼ばれる美しい地球の姿を造っています。水は波動の原初形態である、6のインパルスに同調し、安定した形態の形成原理に同調して広大な地球の海洋をかたちづくり、液体運動は6のインパルスに基づく形態運動を行っています。面対称の造山運動で中央の窪地が、地形上の安定したまとまりに至らないと水はそれを修正するため凹地に溜まり続け、やがて湖に発展していきます。この様な原理作用を持つ経過をたどり、自然の営みが造りだした風光明媚な景色を私達は楽しんでいます。
 湖水の水という情報媒体は、二つの湖の場合、調和という意志の情報発信に相当するので、相対する極性が時空間のエネルギー循環から意識として出現し調和に満ちた地形が誕生してきます。
 田沢湖は田代平という高層湿原が意識の表れとしてつくられ、猪苗代湖は磐梯山が火山活動で形成されています。」

2019年10月10日木曜日

1821「福島巨石探訪8」2019.10.10

 次の目的地は郡山市湖南町にある隠津島神社です。猪苗代湖の南岸の山の中にあるその神社の社殿裏にある磐座がお目当てです。以下の様に紹介されています。

「隠津島神社 社殿裏 磐座       郡山市湖南町福良字福良山7414
 隠津島神社は郡山市湖南町福良に鎮座している神社です。隠津島神社の創建は不詳ですが伝承によると貞観8年(866)に宗像大社の分霊が勧請されたのが始まりとされます。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された論社として古くから信仰されていました。旧安積郡で記載されていた式内社は宇奈己呂和気神社(名神大)と飯豊和気神社、隠津島神社の3社しかなく当時から格式の高い神社として知られていました。現在式内社隠津島神社の論社は当社の他、福島県郡山市喜久田町に鎮座する隠津島神社と福島県二本松市木幡に鎮座する隠津島神社の3社があり何れも自称しています。 
 隠津島神社は歴代領主からも崇敬庇護され寛永年間(1624~1645年)には会津藩初代藩主保科正之が社領2万5千㎡を寄進し正徳元年(1711)に「菅明神」から旧社号に復した際、3代藩主松平正容により社殿が造営されています。宗像大社は浜辺に鎮座した辺津宮と海上の島々に鎮座した中津宮、沖津宮の3社で一体とされそれぞれ市杵嶋比賣命、多岐理比賣命、多岐都比賣命が祀られていた事から隠津島神社も宗像大社の境内配置を模し、布引山南麓の滝の傍にあった峡岩の頂と、三代にあった沼地の畔に祠を設けました。享保16年(1731)に火災により社殿が焼失し、翌年である享保17年(1732)に再建され明治22年(1889)に改築され郷社に列しています。
 隠津島神社境内は菅谷地や風穴、菅滝、烏帽子岩などが点在する聖地として保護され原生林が残され多種多様な植物(約200種)や巨木も多く学術上も貴重な事から社叢約15ヘクタールが「隠津島神社本社叢」として昭和39年(1964)に福島県指定天然記念物に指定されています。又、昭和60年(1985)には「隠津島境内の原生林」として福島県緑の百景にも選定されています。祭神:市杵嶋比賣命、多岐理比賣命、多岐都比賣命。

延喜式内隠津嶋神社参拝のしおり
1、隠津嶋神社-福島県郡山市湖南町福良鎮座
1、御祭神-隠津嶋神社の御祭神は、市杵島比売命、多岐理毘売命、多岐都比売命の三女神を御祀りし、武勇武神、交通安全、商売繁昌の主護神として広く崇敬されております。
1、御由緒-隠津嶋神社は郡山市湖南町福良の南約6キロメ-トル、布引山の東麓、加護山(福良山)に在り、式内社旧安積郡三座の一座であります。
 境内は杉や雑木の原生林におおわれ県の天然記念物、緑地環境保全地区、国の保健保安林に指定されて居ります。寛永年間、正之中将入部ありて後2万5千平方米余の土地寄付され、正徳元年、神職桑名尚永氏、吉田家に講じて、延喜式内社隠津嶋神社の号を復した。尚隠津嶋神社は、社前に菅の多く生する為、菅明神とも称へられ、又、同年間藩候肥後の守(正容)又家臣に命じて、神殿を新たに造営されました。
 隠津嶋神社は総て福岡県の宗像三社に擬して、本社より南方約5キロメ-トル余り布引山の南麓、黒沢と伝処に瀑布の磅、峡岩の頂に小祠を営み、宗像の奥津宮に準へ早魃に雨を祈る所とした。又、本社より東4キロメ-トル余り高井原山の東麓、三代の地内字栃窪、東西約72メ-トル、南北約36メ-トル余りの処に菅の生たる沼があり、周囲に古木欝蒼として列れり栃の老樹1株、周囲約4メ-トル余りあり、ここの御社を辺津宮に準じたと伝えられております。
 何時の頃よりか、布引山の祠殿は廃絶し、現在は三代に鎮座する御社と、この隠津嶋神社の御社とがあるのみでございます。
 御境内-当神社の境内は数多くの原生林でおおわれ日光をさえぎり泉石幽邃にして神秘の地であります。
 菅谷地-社の前に多く菅の生する所があり、往古早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採れば雨が必ず降ると伝えられております。
 風穴-社の後なる山に風穴多くあり、夏は冷風、冬は暖風吹上ぐるにより神風岩として知られ商売繁昌のヘビ神様として信仰されております。
 菅滝-(御手洗川)即菅川の源なり、高さ7メ-トル余りあり、往古より禊の場としており、又同じく雨を祈る所であります。
 烏帽子岩-御本殿真後にあり当隠津嶋神社の御神岩とされてある。
 天然記念物-隠津嶋神社社叢
御祭礼-隠津嶋神社の御祭礼はつぎのとおりであります。
例大祭礼-7月23日、7月24日(23日の夜は夜ごもり参拝)月次祭-毎月24日」


川沿いの道路脇に神社は鬱蒼と生い茂る原生林中にありました。光を遮るほどの伸び拡がった木々は神秘的な気配を漂うわせる幽玄な世界です。参道を進むと階段上に社殿があり、手入れが行き届いて静謐な佇まいであります。拝殿後ろには烏帽子岩が鎮座しています。

 社殿左側に別宮風穴堂があります。口を開けた岩の上に社が祀られています。風穴からは心なしか冷たい風が感じられます。



 お菅様と仏法僧のモニュメント?があります。少し場違いな感じのする、微笑まし像です。父を思う息子の悲しいエピソードと仏法僧の鳴き声、お菅様の物語と綴られています。

2019年10月9日水曜日

1820「福島巨石探訪7」2019.10.9

 次の目的地は同じ猪苗代町の天鏡閣の敷地内のある三方石です。猪苗代湖は夏真っ盛りで多くの海水浴の方、ボート遊び、観光船の方々で賑わっています。湖の西側の湖畔沿いの道を南下して直ぐに右手に登るとそこは大正天皇所縁の地、天鏡閣です。裏の駐車場に車を止めて、散策路を進みます。三方石と天鏡閣については以下の様に紹介されています。

「三方石          猪苗代町大字翁沢字御殿山1048番地14 天鏡閣内
 国指定重要文化財の天鏡閣を拠点に広がる猪苗代湖畔の森自然散策路。通称「ロイヤルコース」とも呼ばれるその散策路では、皇族方もつかの間の休息を楽しまれたのかもしれない。
 天鏡閣から目指すは三方石。「おもいでの小径(こみち)」と名付けられるコースにたたずむ自然石には、天鏡閣の由来が記されている。近くには大正天皇お手植えのヒノキもあり、ロマンあふれる時代を感じさせる「ロイヤルコース」のシンボルの一つだ。
 小鳥のさえずりに耳をすませながら、散策路を歩くと、松ぼっくりの芯が目立つ。「リスの食べ跡ですよ」と案内役の田島裕子さんが教えてくれた。ムササビのすむ穴やクマのつめ跡も。生物と共生する姿をそのまま映し出している。
 紅葉山展望台に到着すると、高い山ではないだけに、眼下に広がる猪苗代湖には磐梯山頂からの眺めとは違った奥行きを感じさせる。
 森と湖、そして天鏡閣。猪苗代の魅力を独り占めにした気分だ。
 小高い丘に、至る。三方石と、現地板が見えてくる。
現地板より  .
 「「三方石」と呼ばれるこの大きな自然石には、国指定重要文化財「天鏡閣」の建設と命名の由来が書かれた「天鏡閣記」全文が刻まれています。
 「天鏡閣」は、明治四十一年、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王殿下の翁島別邸として建設されました。
 明治四十年八月、同殿下が東北地方を御旅行中、時の福島県知事平岡定太郎の勧めで猪苗代湖畔を巡遊の折、この地の風光の美しさに深く感動され、猪苗代町大字翁沢地内に別邸を建設することになったものです。
 別邸建設工事は、明治四十一年春に起工し、同年八月に竣工しました。
 明治四十一年九月、皇太子嘉仁(よしひと)親王殿下 (大正天皇) が翁島別邸に行啓の折、周辺の景色、朝夕の光が猪苗代湖に輝きわたる、あたかも天鏡を見るような眺望を賞せられ、李白の句「明湖落天鏡」に因んで、翁島別邸を「天鏡閣」と命名されました。
 有栖川宮威仁親王殿下は、この閣名の由来を後世に伝えるため、東宮侍講三島毅 (中州) に命じて造らせたのが「天鏡閣記」です。
 同殿下の没後大正九年に至り、威仁親王妃慰子(やすこ)殿下の御遺志に基づき、天鏡閣 北側の小高い山の上にある「三方石」とよばれるこの自然石に、内大臣 秘書官日高秩父の書による「天鏡閣記」を刻ませられました。」

「天鏡閣は福島県耶麻郡(やまぐん)猪苗代町大字翁沢字御殿山にあります。
 天鏡閣は明治40年(1907)、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王が明治天皇の代巡として会津に来られ、ここが気に入って翌年の明治41年(1908)に建てられた洋館です。天鏡閣という名は李白の句「明湖落天鏡」に由来し、大正天皇によって命名されたそうです。 
 建物は一部3階建てのルネサンス様式を巧みに取り入れた和洋折衷の建築様式で、本館、別館、表門は昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定されています。昭和27年(1952)に高松宮宣仁親王から福島県へ寄贈されたものでした。 
 会議場、講習会場、職員研修所などに利用されてきましたが、老朽化のため、昭和46年(1971)に利用を停止しています。昭和57年(1982)に修復工事が行われ、家具調度品を復元しました。高松宮殿下から寄付された有栖川宮殿下ゆかりの品々を館内に展示して、天鏡閣を一般に開放しました。 
 本館は木造2階建て、スレート屋根葺きで、八角形の塔屋付きで、外壁は下見板貼りです。玄関を入ると中央廊下で仕切られ、南側には主要室、北側には小室を配しています。建築面積は492平方m、延面積927平方mで、高さは18mもある大きな建物です。 
 表門は、煉瓦造りの柱門で、両開きの鉄柵扉を吊っていて、門灯のガラスグローブと煉瓦が印象的です。別館は、管理用事務所かその宿直室として使用したらしく、簡素な造りになっています。」

 散策路は快適です。緩やかな登りですが10分ほどで大正天皇が明治41年にお手植えのヒノキがあります。巨石が道端にありそこからほどなくして三方石に到着です。柵で囲われています。木々を抜けた光が輝いています。ベンチなども苔むして自然の時の流れを感じます。暫しこの空間を楽しみました。苔を採取して苔玉を作り持ち帰った方がいましたが自然の生命力は素晴らしいです。


  帰りは軽やかな下りです。森を抜けると天鏡閣が見えます。見学をするのかな、という期待とは裏腹に車で次の目的地に出発です。

2019年10月8日火曜日

1819「福島巨石探訪6」2019.10.8

 次の目的地は同じ猪苗代町の玄翁石です。以下の様に紹介されています。

「玄翁石          猪苗代町土田 
 手前は墓所である。7号線から此処まで直線で見れば約100m程だが墓所は7号線からなだらかな斜面で続いている。
 万一7号線から入り口を探していて墓所を見つけたら玄翁石はこの上50m地点の左側にあるので回り道をすればよい。地元の方に「玄翁石」を聞いたら一発で分かったが少し込入った場所にあるのでくどく書いた。
 この脇の左手奥50m程入った所に玄翁石がある。山形県の南陽の象石を一瞬連想したが、よく見ればそれはないな。
 那須の殺生石に掛かる玄翁和尚の一喝で此処に飛んで来たという伝説があり(地元での名付けもあり)、意外なほどに巨石であり、こんな所に!という驚きもあり前頭に番付けした。まさか那須山の噴火による飛来に伴う伝説では無いと思うが、もしかすると磐梯山の噴火で飛んで来た石に掛かる伝説が化けたか!と思うが要確認。
裏から見ると階段状になっている。」

 狭い道路脇に車を止めて巨石に向かいます。丁度、草刈をしてくださった様で見通しが良く、なだらかな下りの道の先に玄翁石が見えます。


 上記記載の「那須の殺生石に掛かる玄翁和尚の一喝で此処に飛んで来たという伝説があり」から玄翁和尚を調べてみると以下の様な有名なお坊様です。
 しかし、この巨石との関係は分かりませんが、会津の地にも逗留していた事を見ると何らかの所縁はありそうです。

「本名は心昭、字を源翁 (玄翁・玄妙とも)、通称は源翁和尚・源翁禅師、諱を能照法王禅師・法王大寂禅師、号を空外と称する。
 曹洞宗本山であった總持寺で峨山禅師に師事すること10年、門下二十五哲の1人に数えられた南北朝時代の曹洞宗の高僧。
 印可証明を与えられてからは衆生済度・布教のために雲水となり衆生済度に努め、諸国行脚の末に会津の地/慶徳寺と示現寺を布教の拠点そして終焉の地として思い定めた。
 その後も行脚は続け、北は秋田から南は鹿児島までの広範囲な諸国に30ほどの寺院を開創して、曹洞宗の勢力を大きく拡大させた。
 諸国行脚の途中で殺生石を退治する逸話は、余りにも有名である。
 一般的な伝説とは異なり、
 ◇ 後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度を行ったとの記載が存在
 ◇ 供養後に後小松天皇から授与された勅額「大寂院」が現存
 ◇ 玄翁への号「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」が授与
 ◇ 記念に建立された勅使門が泉渓寺境内に現存
しており、内容はともかく史実なのである。
 殺生石を打ち割った杖から、「金槌 (物をたたく工具)」を「げんのう」と呼ぶ由来ともなった。この他にも、開創した各寺院には、数々の伝説が残っている。」

 玄翁石は巨大でした。何故ここにあるのか不思議ですが、木内さんによると人工的な石の様で南北ラインに沿って配置されています。かつては原っぱの中で民がこの場所に集いその役割を果たしていたのでしょう。暫し石の周りを徘徊して巨石のエネルギーを頂きました。






2019年10月7日月曜日

1818「福島巨石探訪5」2019.10.7

 次の目的地は同じ猪苗代町の土津神社(はにつ)です。見祢の大石から10分弱です。途中の道路で猿の親子らしいグループが道路沿いに歩いていて林の方に消えて行きました。野猿が徘徊するともう畑の農作物は大変です。先ほどの見祢の結乃村農楽団でも獣対策で電気柵を回したが草刈を少し遅れたらハウス迄被害に遇ったと書いてありました。


立派な神社に到着です。土津とかいて「はにつ」とは中々読めません。会津藩祖の保科正之を祀った神社です以下の様に紹介されています。

「土津神社         猪苗代町字見袮山1
 土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山麓見祢山の地に葬られた保科正之の墓所に造営された。「土津」(はにつ)という名称は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来している。
 翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓・磐椅神社の西方に葬られた。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいたという。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっている。創建当初の神社は戊辰戦争の時に焼失しましたが、現在境内には、明治13年(1880年)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ土津霊神之碑があり、亀石に載った石碑は日本最大のもので高さ7.3m、重量30tもあります。さらに奥の院として正之の墓所がある。」


 保科正之は名君の誉高く、将軍家光の異母兄弟で将軍の信任厚く以下の様にあります。
「保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上、屈指の名君との呼び声も高い。将軍の「ご落胤」でもある。」

 車を降りて、「本当は近くの磐椅(いわはし)神社の方が雰囲気が良いですよ。」と、話したら木内さんが即、そっちに行こうといいます。道が狭いのでハイエースは少し不安があるので10分ほど歩くと話したのですが、それでも良いという事で、鳥居前の駐車場から歩き出しました。
 先の土津神社の紹介にあった様に保科正之は磐椅神社を殊の外、気に入っていて、その末社として祀って欲しいと遺言したほどです。
 綺麗な水が勢い良く流れる堰に沿っての道は中々風情があります。食後には丁度良い加減の散策です。



 磐椅神社は以下の様にあります。

「磐椅神社         猪苗代町字西峰6199
 式内社として格式が高い神社で、郡内一の大社であったと伝わる。神社の名は、磐梯山の古名「磐椅山(いわはしやま)」に由来し、神体山崇拝の歴史を現在に伝えている。境内には、村上天皇の時代、勅旨が参拝の折に京都から移植したと伝わる大鹿桜(会津五桜の一つ)がある。土津神社は末社とされる。
 最も古い記録によると、今から1200年ほど前に「陸奥国磐椅神に従四位下を贈る」とあるので、この地方にあって最も古い時代に建立された神社とされています。
 その後、幾たびか盛衰があって、万治2(1659)年会津藩初代藩主保科正之が参詣した際、自分の死後末社となることを告げて神事が行われました。その遺言により末社として土津神社に正之を祀りました。
 磐椅神社の南側には縄文時代の遺跡である「西峯遺跡」が広がっています。」

「「いわきさま」と慕われる神社
 そのむかし、磐梯山に足長手長という魔物がいました。足長手長は、のちに磐梯明神になり、これを祀っているのが磐椅神社です。歴史は古く、応神天皇のころ(270年頃)にはじまり、天平元年(729年)には、見祢山(みねやま)南麓の現在地に遷座します。
大同元年(808年)には、磐梯山の噴火で社殿が壊れますが、弘仁4年(813年)に新しい社殿が造営されています。
 天暦元年(947年)に、村上天皇より勅使の派遣があり、その時に宸翰物(天皇自筆の書)と、桜樹を奉献して社殿を修復しました。この時の桜樹が大鹿桜です。
大鹿桜は、サトザクラの一種の子孫で、会津五桜のひとつに数えられています。
 元久2年(1205年)に、猪苗代城主の三浦経連(猪苗代経連)から、社領8000余町の寄進があり、承元元年(1207年)に、現在の場所に旧社殿のまま遷座しました。
 このとき杉を植えて、これを鳥居杉と命名しました。
 保科正之は、社殿の造営を行い、社領も寄進し、自ら神事を行うほどでした 。
 土津神社からの、土田堰沿いの道を歩いて、磐椅神社へ向かうと、古代から続く磐椅神社の歴史を思い起こすことができるでしょう。」

 神社の鳥居前の大鹿桜は見事な老木です。鳥居杉もその大きさは驚きです。杉の木に桜の木が接ぎ木されたように伸びていて、えんむすび桜と言われて縁起物として、縁結びの御利益を願う方が多いようです。
 他の参拝に方が居られずにゆったりと自然の霊気溢れる神域を味わえました。