2019年10月8日火曜日

1819「福島巨石探訪6」2019.10.8

 次の目的地は同じ猪苗代町の玄翁石です。以下の様に紹介されています。

「玄翁石          猪苗代町土田 
 手前は墓所である。7号線から此処まで直線で見れば約100m程だが墓所は7号線からなだらかな斜面で続いている。
 万一7号線から入り口を探していて墓所を見つけたら玄翁石はこの上50m地点の左側にあるので回り道をすればよい。地元の方に「玄翁石」を聞いたら一発で分かったが少し込入った場所にあるのでくどく書いた。
 この脇の左手奥50m程入った所に玄翁石がある。山形県の南陽の象石を一瞬連想したが、よく見ればそれはないな。
 那須の殺生石に掛かる玄翁和尚の一喝で此処に飛んで来たという伝説があり(地元での名付けもあり)、意外なほどに巨石であり、こんな所に!という驚きもあり前頭に番付けした。まさか那須山の噴火による飛来に伴う伝説では無いと思うが、もしかすると磐梯山の噴火で飛んで来た石に掛かる伝説が化けたか!と思うが要確認。
裏から見ると階段状になっている。」

 狭い道路脇に車を止めて巨石に向かいます。丁度、草刈をしてくださった様で見通しが良く、なだらかな下りの道の先に玄翁石が見えます。


 上記記載の「那須の殺生石に掛かる玄翁和尚の一喝で此処に飛んで来たという伝説があり」から玄翁和尚を調べてみると以下の様な有名なお坊様です。
 しかし、この巨石との関係は分かりませんが、会津の地にも逗留していた事を見ると何らかの所縁はありそうです。

「本名は心昭、字を源翁 (玄翁・玄妙とも)、通称は源翁和尚・源翁禅師、諱を能照法王禅師・法王大寂禅師、号を空外と称する。
 曹洞宗本山であった總持寺で峨山禅師に師事すること10年、門下二十五哲の1人に数えられた南北朝時代の曹洞宗の高僧。
 印可証明を与えられてからは衆生済度・布教のために雲水となり衆生済度に努め、諸国行脚の末に会津の地/慶徳寺と示現寺を布教の拠点そして終焉の地として思い定めた。
 その後も行脚は続け、北は秋田から南は鹿児島までの広範囲な諸国に30ほどの寺院を開創して、曹洞宗の勢力を大きく拡大させた。
 諸国行脚の途中で殺生石を退治する逸話は、余りにも有名である。
 一般的な伝説とは異なり、
 ◇ 後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度を行ったとの記載が存在
 ◇ 供養後に後小松天皇から授与された勅額「大寂院」が現存
 ◇ 玄翁への号「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」が授与
 ◇ 記念に建立された勅使門が泉渓寺境内に現存
しており、内容はともかく史実なのである。
 殺生石を打ち割った杖から、「金槌 (物をたたく工具)」を「げんのう」と呼ぶ由来ともなった。この他にも、開創した各寺院には、数々の伝説が残っている。」

 玄翁石は巨大でした。何故ここにあるのか不思議ですが、木内さんによると人工的な石の様で南北ラインに沿って配置されています。かつては原っぱの中で民がこの場所に集いその役割を果たしていたのでしょう。暫し石の周りを徘徊して巨石のエネルギーを頂きました。